ウォ-ク 中山道をゆく
2010年09月01日
私の足跡 63 中山道をゆく 10 深谷宿~日本橋
私の足跡 63
中山道をゆく 10 深谷宿~日本橋 約45km
青色の線は前回までの部分 赤色の線は今回の部分
いよいよ埼玉県に入る。この付近より、都心が近付き開発が進み、中山道の昔の面影を残している所がめっきり減り、遺跡を町の人に聞いても知らないと答える人が多くなった。
前回の最後の宿「深谷宿」を出て、「熊谷宿」へ。
熊谷宿は、熊谷次郎直実の出生地で、ここにある高城神社が熊谷氏の氏神。熊谷寺には直実の墓と伝えられる宝筺印塔がある。熊谷次郎直実と言えば、源平合戦の時の平敦盛との悲話を思い出す。直実のような優しい心を全ての人々が持てたらといつも思っている。
二人(直実と敦盛)の霊は 真言宗の聖地・弘法大師が入定されている高野山の奥の院で二人が並んで供養塔として祀られている。今までに、二人はどんな話をしているのかとお参りするたびに思っている。
熊谷はかつて忍藩(現行田市)領で、忍陣屋があった。今でも陣屋通りがあり、陣屋跡がある。
次は、鴻巣宿へ。ここは、江戸時代に京都の伏見人形師が移り住み、作ったのが始まりで、その後 豪華な衣装をつけた人形が作られるようになり、今でも人形店が軒を並べている。
次は、桶川宿である。「桶川臙脂」の産地で、その紅花の大半は中山道を通って京都に運ばれた。
街道沿いには、古い家もかなりある。紅花を大規模に扱っていた商家。
この上の写真は 桶川本陣跡で大きな門がある。何度か火災に遭ったそうだが、当時の本陣遺構の一部が現存している。下の写真を参照。
この本陣は、代々府川家が勤め、加賀・前田家をはじめとする参勤交代の大名たちを迎え、1861年の皇女和宮の江戸下向の時にもここに宿泊されたとある。
次の「上尾宿」は都市化が進み、昔の面影を残す建物が少なかった。
次の宿は「大宮宿」。江戸時代は、脇本陣の数が9で数では中山道では一番多い。
今は、人と車でごった返す街道沿いには、ビルの谷間に、瓦屋根の履物屋や八百屋等も見える。
今の浦和は大都市だが、浦和宿の江戸期の人口は現在の埼玉県下9宿中の7番目であった。
浦和宿では、二と七の日に市が立ち賑わっていた。市場通りに野菜を売る女性のブロンズ像があり、当時の風情を味わうのに役立った。
次の「蕨宿」は 近代化された町の中にも風情のある家もチラホラとある。
蕨市立歴史民俗資料館と蕨本陣がある。この本陣跡は、一の本陣とよばれた岡田加兵衛の本陣で、昭和48年に建てられた。内部には宿泊した諸大名の一覧表があるらしい。
そして、県境の荒川を越えると東京に入る。昔は、江戸を護るために橋をかけずに、戸田の渡しを渡った。
そして、しばらく歩くと有名な「縁切り榎」がある。
小さな祠も見られ、奉納された幟がたくさん風にはためいている。江戸時代、この辺りには樹齢数百年の立派な榎が生い茂り、枝が道を覆うように張っていた。いつの頃からか嫁入りや婿入りの行列がこの下を通ると、不縁になると恐れられ、この木を誰言うことなく「縁切り榎」と呼んだ。
幕末に和宮が徳川家茂に降嫁の時は榎にコモを捲かれたという。
板橋にある橋は江戸時代のは、長さ9間・幅3間の緩やかな太鼓橋だった。その後、何度か建て替えたが広重の浮世絵のような形の橋であったが、昭和47年にはコンクリート橋になった。でも、欄干に木目模様を施し、宿場の雰囲気に合わせている。
中山道に旅立つ人は、わざわざ日本橋に行く人もなく、板橋から出発し、見送る人も迎える人もここまでが普通であった。したがって、酒楼や茶店も多くあり、遊女もいて賑わいは中山道第一であったらしい。
板橋宿は中山道最初の宿である。江戸四宿の一つで、東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、奥州街道の千住とともに有名である。でも、都市化が進むにつれて、当時の面影がなく、この本陣跡もマップにあるのて゛地元の人らしい人達に尋ねたがわからず、5人目位でやっとわかった。無理もなく、入り組んだ玄関脇にあった。
、
平尾の一里塚跡の近くに幕末に活躍し有名な新撰組の隊長「近藤 勇」の墓所があり、お花が供えてあった。
江戸六地蔵は昔から有名だが、最近賑やかになった巣鴨地蔵通りの商店街を歩いていると「おばあちゃんの原宿」と言われる商店街を歩いて日本橋へ。
、高岳寺の「とげ抜き地蔵」があった。
この寺は、1891年に下谷から移って来たので古くはないが線香の煙が絶えないほど信者が多い。巣鴨地蔵通りの名も、この地蔵さんからきているらしい。本尊の御影の護符を身体の痛む部分に貼るか、水に溶かして飲むと、痛みがトゲを抜くように引くと言われている。丁度熱心な信者さんが痛みを直していただいたお礼にお参りし、地蔵さんの身を清めていた。
暑い日差しの中を歩いて日本橋へ向かう。
さらに進むと、加賀前田家の上屋敷の跡に建てた東京大学の敷地にきた。有名な東大の赤門は、前田家の御守殿門である。
休憩を兼ねて、見学に入る。この時期は夏休みで学生はまばらである。
しばらく歩くと、間もなく、神田明神と湯島聖堂がある。
神田明神の境内は広くて立派だった。ここまでの無事にこられたことのお礼をいう。
秋葉原の電気街を抜けると日本橋が目の前である。
江戸時代は この辺りには伊勢・近江・京都に本店を置く上方商人の「江戸店(えどだな)」が並んでいたらしい。その代表的な呉服屋の大店が「三井越後屋」、現在の「三越」である。
これ以外にも、幕府は この付近に京都方面から商人を呼んで商いの中心地として賑わしたとある。
やっと日本橋に到着。この橋(上の高架橋ではない)は、今日でも国道の基点となっている。
木造だった日本橋は 1657年の大火から1858年の約200年の間に数十回も炎上している。橋は何度も架け替えられ、現在の橋は1911年に完成した。
そして、この橋の中央部の道路に埋め込まれている「日本道路元標」を見るために、車の通行の隙間を通って行き、写真撮影。
日本道路元標を基準にした日本各地への里程標である。(大阪市までの距離は中山道ではない)
この中山道は 温暖な太平洋側を行く東海道に対して、中央山岳地帯を進むのでそれだけ難所も多く、冬は雪に見舞われる過酷な道だったが、川止めがないのが利点とされ、特に女性は中山道を利用する事が多かったと言います。
山城の国の三条大橋から近江・美濃・木曽・信濃・上野(こうずけ)を経て武蔵の国の日本橋まで、百三十五里三十二丁(約533.9km)、中山道69宿。東海道よりも約40km長い道程を夜行列車・バスで行った日等も入れ、約30日の日数をかけてやっと辿り着いた。
その間、仲間の励ましや 地元の人達の暖かい励ましを頂き、無事歩き終える事ができました。感謝・感謝。
仲間とは、来年は東海道の踏破をするんだと約束して、2007年を終えた。
2010年08月20日
私の足跡 62 中山道をゆく 9 軽井沢宿~深谷宿
中山道をゆく 9 軽井沢宿~深谷宿 約70km
青線は是までに公開した所、赤線は今回公開した所
大阪から軽井沢宿迄夜行バスで行く。
早朝、バスを降り、ひっそりとした昔の面影のない軽井沢宿を歩く。
教会の前に軽井沢開発の恩人、英国人宣教師アレキサンダー・ショーの記念碑がある。
中山道隋一の難所といわれた上信越国境の碓氷峠を越える。これで信濃路を終わったことになる。
峠には、熊野神社があり、傍に力餅屋がある。早速注文をしてご馳走になる。気さくなご夫婦が経営をしていて、ポラロイド写真を撮ってその写真を頂く。そして、新年には年賀状まで送ってくれた。
峠を過ぎれば下り坂 「座頭ころがし」 赤土で小石がゴロゴロ。
「覗」という坂本宿を見下ろせ、よく見える所。「坂本や袂の下の夕ひばり」と一茶が詠んだ。
この付近に「横川」という地名がある。横川といえば、駅前に昔の鉄道ファンには懐かしい「峠の釜飯」の店がある。また、鉄道博物館もある。
現在、新幹線が走り、廃線になっている「めがね橋」も見に行く。明治25年に完成し、芸術と技術が融合した美しいレンガ造りのアーチ式で川底から31mの高さがある。このような橋梁は、第2橋梁から第6まての5基が残っており、国の重要文化財となって観光スポットとして最近人気が上がっている。
坂本宿は本陣2 脇本陣2 旅籠40軒と宿泊施設が多いが、これは この宿の前後に峠や関所を控え、旅装を解く人達が多かったから。
昔のままの門構えの本陣・永井家や連子・格子の家が残っているが昔の賑わいがない。
碓氷関所跡(横川関所跡)。東海道の箱根の関所とともに、「入り鉄砲に出女」を取り締まった重要な関所であった。設置は平安時代といわれる。ここに設けられたのは1622年である。今は関所資料館になっている。その資料館の前に、旅人が手形の改めを受けると、お辞儀をして手をついた「お辞儀石」も残っている。
五料村茶屋本陣の名主屋敷・中島家がある。茶屋本陣は、参勤交代の大名や公家の休憩所で、宿泊施設ではないので、必要な時には名主の居宅等が選ばれた。
五料の夜泣き地蔵がある。昔、馬方が荷物のバランスをとるため落ちていた地蔵の首を馬の背に付けて深谷まで行き、用済みとなった地蔵の首を道端においてきたところその首が夜な夜な「五料恋しや」と鳴き声を発したので深谷の人が届けて胴の上に戻したと言う話がある。
松井田宿は あまり遺構はないが本陣跡や脇本陣跡がある。
江戸初期の寺や神社が多く残っている。上の寺は見事な不動寺の仁王門。
特異な山容の妙義山が近づいてきた。
安中宿
安中宿本陣跡の碑
旧安中藩 郡奉行役宅
復元された旧安中藩の屋敷跡
板鼻宿の本陣跡の碑
「かねつ橋供養塔」がある。旅人のために寒念仏でお金を集めて石橋を改修し、後年、木島某が亡父の遺志でまた改修したという曰くつきの塔である。
高崎は井伊氏の城下町として栄えた。
高崎宿は 城下町だったので本陣・脇本陣は置かれなかった。ただし旅籠は15軒あった。
倉賀野宿の本陣跡の碑
倉賀野宿の脇本陣跡
倉賀野追分は 日光例弊使道と中山道の分岐点。「従是右江戸道、左日光道」の道標と常夜灯がある。常夜灯には寄進者の名前が約300名。
新町宿の本陣跡の碑と芭蕉の句碑がある。
本庄宿の本陣跡の門。
深谷宿の本陣跡の碑
2010年08月10日
私の足跡 61 中山道をゆく 8 和田宿~軽井沢宿
中山道をゆく 8 和田宿~軽井沢宿 48km
青線は既に公開した所 赤線は今回公開する所
和田宿は1861年3月、大火で大半を焼失した。しかし、皇女和宮の将軍家への降嫁が同年11月と決まり、そしてその東下の際の宿泊地として和田宿がきまっていたので、幕府は全力を挙げて宿場復興につとめた。現在残っているかつての建物はその折建築されたものである。
河内屋。 出桁造り出格子の二階建てで、間口は八間半(約15m) 奥行十一間半(約20m)の堅牢な造りで、上客向けの旅籠であったらしい。現在「歴史の道資料館」として公開されている。
和田宿は交通の便の悪いところであったが故に貴重な歴史遺産を多く残している。そして、地元の人もそれを保存することに努力をしていただいているので、うれしいことです。
長井氏の和田宿本陣の御入門 中の居住棟は復元されて公開されている。
脇本陣の翠川家
道中、道祖神に見守れながら長久保宿に向かう。
この地方独特の出桁造りの「一福処濱屋」の大きな建物がある。詳細は下の説明板を。
一階の土間から二階の全ての部屋まで当時の貴重な物を見学できた。
屋根門を持った本陣跡の石合家。この家の家屋は中山道中の最古のものだといわれている。現在居住していて中を見学できなかった。 詳細は下記の標識を。
長久保宿を出て、芦田宿に向かう。
芦屋宿までの間に笠取峠がある。
笠取峠では、松並木があり、石畳の遊歩道も整備されていた。幕府は中山道整備のため小諸藩に命じて芦田宿から笠取峠まで 松の植樹に協力させ、管理も命じた。その並木道も今は約800mしか残っていないが、路傍には石仏もたたずみ、、かつての街道をしのばせる格好のコースとなっている。
芦田宿に到着。
問屋兼本陣であった建物が残っている。贅をつくした建物で見事というばかりであった。
望月宿との間に茂田井間の宿があるが道があまりにも狭かったので、主要道は避けて迂回したため、集落内の家屋がそのまま残され、見事である。
望月宿には 立派な歴史民俗資料館があった。
八幡宿には 立派な本陣跡
八幡宿には 立派な本陣跡や脇本陣跡がある。大きな地名にもなっている八幡神社がある。
細かい彫刻を施した随身門は素晴らしかった。
御馬寄の大日像の前を通り、塩名田宿へ
古い屋並みも残っていた。本陣は2軒。
千曲川につきあたり、これを渡らなければならない。今は橋があるが、昔は徒歩渡し、舟渡し等があったという。船を繋いでおく岩があるというが定かでなかった。
岩村田宿は内藤氏一万五千石の城下町でもあった。旅人は城下町の堅苦しさを嫌ったので旅籠は少なかった。本陣・脇本陣もなかったとある。珍しい。
今は佐久市の中心町として賑わっていた。
重要文化財になっている駒形神社
次の小田井宿へ向けて出発。
小田井宿は、時の流れから取り残されたような町です。出梁造り縦格子の家が多く残っていて、風情のある。
本陣 詳細は下記の標識を。
脇本陣 他に上の問屋・下の問屋などたくさん残っていた。
小田井宿から、しばらく進むと枝垂れ桜の植わった御代田の一里塚がある。
前方に 浅間山を眺めながら追分宿へ。
追分宿の地名ともなった北国街道と中山道の分去れ。
復元された高札場と右端は本陣のあった場所。
堀辰雄や立原道造らの息吹が感受できる抒情の地である。
また、松尾芭蕉の句碑「吹き飛ばす石も浅間の野分けかな」や貝原益軒もこのあたりのことを書いている。
追分宿を出ると、立派な一里塚があったがこれは復元されたものらしい。
沓掛宿は 本陣もなく、本陣跡の碑のみである。宿場町としてかつての賑わった面影がなかった。
沓掛の地名もなく、駅名も「沓掛駅」から「中軽井沢駅」になっていた。
長谷川 伸 作の「沓掛時次郎」の碑が長倉神社に残っている。
千両万両枉げない意地も、人情搦めば 弱くなる 浅間三筋の煙りの下で 男 沓掛 時次郎
ご存知 「剣をとってはめっぽう強いが 義理と人情にはからっきし弱い」 架空の人物・沓掛時次郎の活躍した土地だがこれを知っている人は殆どいないのではないかと思っている。
軽井沢宿は昔の面影は殆ど残っていない。
今は、別荘地として有名になり、我が国の最高の高級避暑地となった。
2010年08月01日
私の足跡 60 中山道をゆく 7 薮原宿~和田宿
中山道をゆく 7 薮原宿~和田宿 62km
青線の部分は既に公開した所 赤線の部分は今回公開した所
薮原宿を出発し、今回は和田宿までを書きます。
駅前に鳥居峠への案内の標識が立っている。
車道はトンネルを通るが、我々は江戸時代の峠越えをする。すぐに登り坂になり鳥居峠まで約1kmの坂を上ると鳥居峠に着く。ここは日本海と太平洋の分水嶺である。この近くに御嶽遥拝所がある。峠からは木曽谷の集落を望むことができた。
峠から約1kmで奈良井宿に着く。この宿は、天保年間には旅籠・茶屋等を合わせて39軒にも及び、その数は木曽十一宿中最大であった。
今も、狭い道の両側には、長い軒先を突き出した出桁造りで、くぐり戸などのある家が残り、馬籠宿にかわらぬ風情の残る宿なので我々も宿泊する計画をたてていた。上の写真は我々が宿泊した伊勢屋だが、越後屋等の旅館とともに江戸時代そのままの景観をつくりだしている。
部屋の中も 一部を除いて昔の建具そのままだった。階段や廊下が黒光りがしていた。
途中、平沢には漆器の町として有名です。 奈良井宿から次の贄川宿までは約7kmです。
贄川の地名の由来は 昔は温泉があり 熱川(にえかわ)と言ったからと木曽名所図会にある。
今は、幾度かの火災のため、かつての町をしのばせる建物はほとんど残っていない。
復元された贄川番所跡。江戸時代、番所は「木曽路北門の関」として、婦女の通行と檜の白木の搬出を取り締まった。
今見ることができるのは復元された番所の建物に過ぎないが、野太い柱、低い石垣屋根はかつての番所の厳しさを充分実感させてくれる。
ここより、約8km先の本山宿の間に「是より南 木曽路」の石碑があり、木曽路も終わったことになる。
本山宿は 静かな宿だ。かつての宿場の建物は道の左側に残り、かつての川口屋・博多屋・池田屋・村田屋等と屋号を大書した看板を出している。宿場の雰囲気を残そうと、町民の協力が素晴らしい。
次の洗馬宿は のどかな田園風景が続く道を約2kmで到着。
洗馬宿の本陣も脇本陣の跡かたもなく標識が立っているのみである。
洗馬宿から塩尻宿までの約7kmの道中で見た主なものは下記の物である。
平出の一里塚。これは、左右一対が完全な形で残っている貴重な一里塚である。
みずみずしいブドウ畑の傍を通る。辺りは一面ブドウ畑。
平出遺跡があり立ち寄り見学。復元された縄文時代の住居群があった。
重要文化財の堀内家住宅。詳細は下記の説明を。
塩尻宿は本陣や脇本陣はなく残念だが見事な鬼瓦を屋根にのせた旅籠風の家等はある。
塩尻宿から下諏訪宿に向かう途中に足腰にご利益があると旅人の信仰を集めた石船にある馬頭観音に、私にもご利益を頂けるようお願いをする。
そして塩尻峠をめざす。峠には、富士浅間神社の石祠があり、御嶽遥拝所もある。
展望台からの眺めが素晴らしかった。
北アルプスの槍ケ岳や穂高。
諏訪市と諏訪湖を俯瞰する。(天気が良ければ富士山も)
塩尻峠を後にして、茶屋本陣跡や一里塚跡を見ながら下諏訪宿に到着。
下諏訪は 温泉街でありながら宿場町の特徴も濃く残す町である。
古来から湯の町と言われていたが今もお湯は豊富である。諏訪神社にお参り前に手を洗おうと思うと水ではなく、お湯(御神水でなく、御神湯と書いていた)でびっくりした。
また、以前下諏訪駅の構内で足湯を使ったこともある。
中山道で随一と称される庭園を持った本陣の岩波家がある。皇女「和の宮」も泊ったとある。
諏訪といえば 諏訪大社に関わる場所が多い。2003年の御柱祭の木落としの撮影に来たのを思いだす。
その時は見物客が多くて、一般席はまさに立錐の余地がない状態で騒然としていたが今は誰もいないので別世界のようだった。
夜行列車で K氏と二人で撮影に来た時のものを載せます。
樹齢200年程の樅の木を 山奥から切り出し、ロープをつけて多数の人達で引っ張り、傾斜地は「引き落とし」をしながら神社まで運ぶのである。堤防から川に引き落としそれを引き揚げるのはまさに爽快・痛快であった。(怪我人は勿論、時には死者も出ることもあるらしい。)
御柱は 坂を引くだけでなく、地道を引い(里引き)たり、川を渡ったり(川越え)しながら、目的の神社に地区民総出で約一が月かけて運ぶ行事である。
目的の神社に到着すると、各神社の四隅に立てる。上の写真の右端に立っている木が前回建てた御柱である。
これは、見学用に置いてある樅の木で、大きさは長さ約17m、太さ約1m。重さは10トンあるらしい。
諏訪大社と言えば、上社と下社があり、祭神が異なる。下諏訪宿には 諏訪大社下社春宮と諏訪大社下社秋宮がある。下社の祭神は2~7月迄は春宮に鎮座し、8月1日に秋宮に遷座し翌2月1日に春宮に帰座するとある。
万冶の石仏 下の説明が読みづらいのて、補足します。
石工さんが、諏訪神社の鳥居を造ろうと思ってノミを打ち込むと岩から血が出てきた。石工さんはびっくりしてを手を止め、代わりの石で鳥居を造ったらしい。そして、この石を阿弥陀如来にしたとある。
1660年11月1日
ここ下諏訪宿での見学を終えて、22km先の和田宿へ向かう。西餅屋跡までは古道は定かでなかったので、ここより本格的な古道で中山道有数の難所へ向かう。
急坂を登って和田峠(古峠)に到着。ここには御嶽遥拝所が復元されている。その他石仏もある。天気が良ければ駒ケ岳・御嶽山・浅間山等が見えるらしいが残念だった。旅人は暖かい季節の時は良いが寒い時には気温も低く、雪もあり苦労したことでょう。
峠からは急な下り坂になる。くねくね曲がって下っている霧ケ峰に通じるビーナスラインを1回はトンネルをくぐり、3回は横断して東餅屋跡(今はドライブインになっている)に着く。早速餅をいただく。
体力を消耗する峠越えには 当時最高の栄養食として餅を食することだった。当時峠の東側には5軒・西側には4軒あったらしい。今は9軒の餅屋はなく、前記の東餅屋跡だけである。
文政11年(1828年)、江戸の豪商かせや与兵衛は中山道の旅人の難儀を救おうと金千両を幕府に献上した。その金を貸付に回してもらい、年に一割の百両を碓氷峠の坂本宿とこの和田峠の2ケ所に用いた。11月から3月まで峠を越える旅人にかゆと焚火を、牛馬には年中桶一杯の煮麦を施行したとある。
今も永代人馬施行所の茅葺きの家が復元されている。
残る10km程は遺跡も少なく、国道を通って和田宿に入る。
2010年07月20日
私の足跡 59 中山道を行く 6 十二兼駅~薮原宿
中山道を行く 6 十二兼駅 ~ 薮原宿 49km
青線は 今までに記した部分 赤線は 今回記す部分
JR十二兼駅を出て、左手に木曽川を見ながら、野尻宿まで約7kmを進む。
途中 前方に雪を被った中央アルプスの山々が見えてきた。
野尻宿は、本陣跡とか脇本陣跡の碑があるが、昔の風情があまり残っていない。
野尻宿から2時間足らずで大桑集落に入る。
この辺り、道の片隅、山の裾、大木の下等に石仏・道祖神や康申塔がひっそりとたたずんでいる。信仰心をもった人々が 何代にも渡って静かに暮らしてきたのが良くわかる。
天長院の庭にあるたくさんの石仏の中に、マリヤ地蔵といわれる子育て地蔵があり、興味をひいた。
地蔵が抱いた子供の着物の紐が十文字になっているから この名がついたらしい。
山裾の崖の上に 木曽の清水寺いわれる岩出観音堂が美しくそびえていた。
観音堂から約1時間で須原宿に入る。
須原の町は 今も宿場の情緒を色濃く漂わせる街並みを保っている。
宿の中央に用水路を通し、裏山から引いた豊富な湧水を檜の大木を刳り抜いた長い水槽にあふれさせ共同井戸として利用している。「水舟」と呼ばれ、飲料水として飲めるという。
ここには、子規の句碑や露伴の文学碑があった。
また、一里塚跡の標識が出ていた。(左右両方に榎の木が植えられていたとある。)
約10km少し歩くと、木曽八景の一つ「小野の滝」がある。今はJR中央線が滝の上を通り,イメージを壊している。
まもなく、有名な「寝ざめの床」が見えてきたので、休憩を兼ねて川へ降りることにした。
古くから奇勝として知られた寝ざめの床をゆっくり見学する。
そして、上松宿に入る。ここは度々の大火にも焼け残り、宿場の面影を今に残している。
上松宿より、5kmで昔の旅人を悩ました「木曽の桟」がある。今はその跡にコンクリートを使った道を造り、安心して通れるようになっている。
今夜の宿は 福島駅前の「むらちや」です。 昔の面影を残す宿だった。料理も良かった。
小さなくぐり戸をあけて入るのが良かった。
翌早朝、今回の目的地「薮原宿」へ向け、出発。
巨大の冠木門が道を跨いで立っている。
右手山腹の細い道を歩いていくと関所跡が復元されて見学ができた。
時の権力者 山村代官下屋敷の見学 詳細は次の看板を
翌日 約5km歩くと やっと上の標識があり,うれしいやらまだ半分かという複雑な気持ちになる。
右手には 中央アルプスが見え、木曽駒ケ岳が見え、F氏と登った山での2日間を思い出す。
ここから 宮ノ越宿までは悲運の武将 木曽義仲氏の故事にまつわる地名や建物が多かった。
義仲館の入り口に 義仲・巴御前の像があり、建物の中には展示品も多く、参考になった。
徳音寺は義仲の菩提寺といわれ、義仲・母の小枝・巴御前の墓があった。ご冥福を祈った。
薮原宿に入ると、本陣跡は何も残っていない。脇本陣跡も役場になっている。ただ、お六櫛を製造・販売する店が古色蒼然として数件残っている。
「お六櫛」について 次の話がある。
江戸時代 この宿はお六櫛の生産で栄えた。お六櫛はもともと妻籠宿のお六という娘が考案したとかで、かの地の名産品であった。材料はミネバリという粘りのある堅い木である。ところが妻籠周辺では、そのミネバリが不足しはじめ、薮原からも購入していた。それを見ていた薮原宿のある人が不甲斐なしとして、虚無僧姿の産業スパイとなって妻籠宿に潜入、苦心の末にその技術を盗み出してきたという。その後、みんなで技術を磨き、改良を加え、やがて旅人が土産に買うので京・大坂・江戸にまでも、その名が知られるようになった。江戸時代も中頃の話である。
2010年07月15日
私の足跡 58 中山道をゆく 5 中津川宿~野尻宿
中山道を行く 5
中津川宿 ~ 野尻宿
今回は中山道ベストの街道を歩くことにする。「木曽路はすべて山の中である。」との中山道のハイライトを行くのである。
したがって吾々のテンションを高めるためにも宿泊所も最高の所(一番宿泊したかった所)にした。(実は この区間を 一番最初に歩いてテンションを高めた)
中津川に 列車が到着後、落合宿に向かう。
早速、眼前に高札場跡があらわれる。
岐阜県史跡の「落合の石畳」 何百年も前からの道を歴史の重みを感じながら歩を進める。
すぐに「山路来て何やらゆかしすみれ草」の芭蕉の句碑がある。
右手には恵那山が見え始めた。(妻籠宿を越える頃までまるで見守り励ましてくれているようだった。)
上り下りの道を行くと落合宿である。
落合宿は 常夜燈や本陣跡が目をひく静かな街並みである。
とりわけ加賀の前田家から贈られたという門を伝える本陣跡は、今も住みながら保存されている貴重な遺構である。
落合川を越えると狐膏薬で名を馳せた医王寺に出る。
そして、深い木立の中、旧街道当時のままの姿を残す十曲峠の急坂を登る。
しばらく歩くと「是より北 木曽路」の碑がある。
いよいよ これで美濃の国とも別れ、木曽の国に入る。
ほどなく石畳の道となり「送られつ送りつ果は木曽の龝」の芭蕉の歌碑がある。
そして、木曽路の南端・馬篭宿に入る。
まるで、タイムスプりッドしたような感じの町に入る。道の両側には趣のある建物が当時の風情を残して建ててある。
馬篭宿と言えば、「夜明け前」の作者・島崎藤村の生まれた所です。
何度か来訪しているので、今まで行っていない所の見学をする。
まず、藤村の墓がある永昌寺に行き、お参りをする。
そして、資料館も2軒見学。
そして、念願の旅籠に泊り、町に灯りのついた夜の雰囲気を味わう。我々の宿泊した旅籠は左側の旅籠風の民宿だ。
食事は向かいの馬篭茶屋で頂く。疲れを癒すため般若湯をいただき、明日の好天を祈り、寝る。
翌朝、雨が少し残っていたが出発。
ここから、標高 801 mの馬篭峠までは、一部は石畳の坂道だが上りの連続です。
途中の集落にあった旅籠「つたむらや」さんです。
途中の一里塚に植えられている梅が満開で見事であった。
やっと妻籠宿に到着。
ここは、日本の街道の中で最も活性化に成功した地域であると思う。
少なくとも、外観は江戸時代の宿場の有様を保っている。
高札場、水車小屋、本陣など見事である。
また、脇本陣の奥谷郷土館等に入館しても勉強になるし、嵯峨屋さんの見学
も 楽 しかった。
南木曽駅に近づくとさすが木曽の駅で材木の集積場として見事である。
また、近くに桃介橋という橋があった。
大正11年に架けられたが今も現役として使われている。
今回は 三留野宿を過ぎ、木曽川を遡って十二兼駅まで歩いたことになる。
木曽川に架る橋を渡る。
その下を流れる木曽川。
今回の旅の後半約2時間行動を共にした犬。地元の人に聞くとこの犬は鹿
や猪を追い払う犬でいつも放し飼いにしているとのこと。何を思ってか駅まで
送ってくれた。
2010年07月12日
私の足跡 57 中山道をゆく 4 太田宿~中津川宿
お詫び
永らく記事を公開出来ずにいて、皆様にご心配とご迷惑をおかけしましたことをお詫び致します。
その理由は、ブログの会社がドリコムからライブドアーに変わった時に手違いが起こり、トラブルに巻き込まれ復旧までに時間がかかってしまったのです。
名誉挽回のために公開の回数を増やし、内容も充実しますのでよろしくお願いします。
私の足跡 57
中山道をゆく 4 51「太田宿 」 ~ 45「中津川宿」 約55km
青い線は既に公開している部分 赤い線は今回公開する部分
太田宿より、約8kmで伏見宿に着く。途中、季節はずれで見られなかったが
有名な「日本ライン下り」の川の堤防を通った。
その後は、交通量の多い国道を通って伏見宿へ。
伏見宿は、町の中を国道が通っているので昔の遺跡を残す面影は殆んどなかった。
目についたのは 公民館前の本陣跡だった。
伏見宿からしばらく国道を通り、4km先の「御嵩宿」に到着。
御嵩宿は願興寺を中心に栄えたとある。この寺は平安期の開創の古刹で
「蟹薬師」とも言われ、重文級の仏様が多いとある。
今後の旅の安全をお祈りをして出発する。
御嵩宿を出て、しばらくすると和泉式部の墓がある。
この付近より山間部に入り、坂道も多くなってきた。急坂なので牛の鼻が地面にこすり、鼻が欠けるから「牛の鼻かけ坂」とか 旅人が自らを元気付けるために歌を唄ったという「謡坂」とかがある。
その外に、「耳神社」とか「一呑の清水」等もある。
また、 約20年ほど前に見つかった「隠れキリシタンのマリア像」等もあり、
「細久手宿」までの約18km楽しく通れた。
細久手宿は 名前のように街道筋に沿った細長い宿である。
あまり古い建物が残っていない宿場での中で、目を引くのは今も旅館として営業を続けている旅籠の「大黒屋」である。当時旅籠でありながら尾張藩指定の本陣で,卯達のある外観から上段の間の残る内部まで当時の雰囲気が残している。女将さんも気さくな人で内部も見学させてくれた。このような旅館に泊まり、当時の雰囲気を味わってみたいものだ。
この宿より次の大くて宿までは、6kmだが、その少し前から有名な「琵琶峠」に入る。標高540mである。
この石畳は、日本一長いとも言われている。明治以降。埋もれていたが、昭和45年に発見され、現在の形になっている。石の大きいのが特徴で2m近くもあるのもある。
この峠には、和の宮の歌碑やいくつかの文学碑がある。後方のお椀のような小山は一里塚跡である。
大くて宿には、神社の樹齢1300年と推定される巨樹があり、見事なものだ。
それと石段から 門・建物に至るまで当時の面影を残している脇本陣が印象に残っている。
いよいよ「十三峠」という登りの始まりです。
大くて宿から次の大井宿までは14kmもあり、その上に「十三峠」というアップダウンの多い道である。
途中に三城峠・乱坂・平六坂・紅坂などの坂を登ったり、下ったりしていると西行塚が見えた。西行の墓といえば大阪の河内の弘川寺が有名だがここにもある。
西行塚から2kmで大井宿に着く。ここは恵那市の中心地である。
大井宿には、六ヶ所の枡形があり、昔の面影が多く残り、上の写真は本陣跡で表門と庭園しか残っていないが、りっぱな門構えは充分な威容を誇っている。
また、疫病などが宿内に入ってこないようにということで石仏群があったり、また高札場もある。
大井宿から10kmで中津川宿に到着。
当時から経済の中心地で、今も当時の面影をたくさん残していた。楽しいひと時を過ごせた。
2010年04月20日
私の足跡 56 中山道をゆく 3 醒井宿 ~ 太田宿
青線は前回まで 赤線は今回のです
醒井宿の三湧水の一つ十王水を見て、この清涼な湧水が絶えないことを祈って、4km先の「柏原宿」に向かう。そこには本陣は残っていないが、数軒の古い家屋が残っている。その一つは今も「伊吹もぐさ」を商う「伊吹堂亀屋」で広重もここを描いている。
店内を覗くと、薄暗くて写真では鮮明ではないが、座った姿でも天井につかえるほどの巨大な福助人形にびっくり。聞くと広重の時の人形とはちがい、二代目らしい。
福助とは、もともとこの亀屋にいた番頭で、その働きぶりによって商売が繁盛したので、その人形が全国に広まったらしい。
醒井宿から「柏原宿」までは4kmでその宿の長さは1.4kmもある大きな宿場である。ここを出ると、珍しい楓並木があった。
途中、近江と美濃との国境がある「寝物語の里」である。国境である細い溝を挟んで、美濃側に「両国屋」、近江側に「かめや」という二つの旅館があり、寝ながらにして他国の人と話ができてことから、「寝物語の里」と呼ばれている。(昔は今の県境と違って、自由に行き来がむつかしかった。)義経を追った静御前が美濃側から聞こえてくる声に気づいて源氏の家来と再会できたと話も残る。
柏原宿から「今須宿」までは4kmで小学校の前庭に本陣跡があり、昔の面影が少なかった。
今須宿から「関が原宿」までは4kmで途中に不破関跡がある。越前の愛発、伊勢の鈴鹿と並ぶ古代の三関所の一つで不破関資料館があった。
関が原宿では、初めは資料館で学習した後、地図をたよりに小早川の陣地はどこかとか現地見学をした。
上の図は、当初の家康の陣と言われている所。今は松並木も残っている。
下の図は、西軍の武士の首を洗い、埋めたといわれる「東の首塚」である。
時間をとり、見学したが楽しい一時を過ごせた。
関が原宿から「垂井宿」までは6kmで、旅籠屋の亀丸屋が有名だ。一部に当時の姿を残しながら、今も営業をつづけている。
垂井宿から「赤坂宿」までは5kmで 本陣跡等随所に昔の面影を残している。
赤坂港跡には、当時の常夜灯が残っていた。
赤坂宿から5kmの所に 皇女和の宮記念公園の「小廉紅園」がある。
落ちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
和の宮が川を渡る時、この土地の紅葉の美しさを詠んだ歌が残っている。豪華な大行列の降嫁の一行は1861年10月20日に京都を出て、6日後の26日に加納に泊まっている。私の旅に比べてすごい速さである。
和の宮が「身は武蔵野の露と消ゆとも・・・」と悲壮な決意で向かった幕府は、その六年後に倒れた。
赤坂宿より9kmで「美江寺宿」に到着。もともと大きな宿ではなかったので見るべきものが少なかった。
美江寺宿より5kmで「河渡宿」に到着。ここは、小さな宿場で今も見るべきものが少ない。馬頭観音堂として親しまれている愛染堂がある。この堂は天保期に建てられて以来、四度の移転・再建を重ねているが、地元の人々の厚い信仰に寄って守られている。
この近くに長良川が流れており、大水のの時の川止めで旅人を苦しめていた。
今は、小紅の渡しが現在も運行されている。運休日をさけ、街道を離れ、鏡島弘法の裏手から川岸に出て、対岸の小屋に向かって手を触れとあったのでそのようにすると、向こうから船頭さんが迎えに来てくれた。
小船に揺られてのんびりと清流、長良川を渡る。私一人のためで気の毒だった。それも観光でなく、昔の「中山道をゆく」の一部である。なんと素晴らしい旅であると思った。
船頭さんの話では、日に10人程度だが、鏡島弘法の縁日には数百人の利用があるそうだ。公営の渡し場なので船賃は不要とのこと。街道歩きで初めて船を利用させてもらい、すごい体験をさせてもらいお礼を言い、別れる。
河渡宿より6kmで「加納宿」に到着。枡形がそのまま残っており、曲がりくねった町である。本陣の碑のみが残っている。
加納宿を、少し過ぎると天保期の道標と鏡岩濱之助という関取の碑がある。
加納宿より17kmで「鵜沼宿」に到着。本陣跡・坂井脇本陣跡付近に上の看板があり、芭蕉は鵜沼を訪れるたびに坂井家に滞在し、いくつもの句を残しているらしい。
大安寺橋は、欄干や常夜灯が江戸時代風に作られ、宿場町の雰囲気を出すのに一役買っている。
濃尾平野一帯の宿場町は、明治二十四年の大地震で壊滅的な打撃を受けており、江戸時代の建物がのこっていないのもいたしかたのないところである。
鵜沼宿より8kmで「うとう峠」を通り、今回の最終地「太田宿」に到着。この宿の本陣跡は門が残るのみだが
2010年04月10日
私の足跡 55 中山道をゆく 2 守山宿 ~ 醒井宿
地図の青色の線は前回歩いた所 赤色の線は今回歩いた所
守山宿から武佐宿までの約7kmの所に「平宗盛終焉の地」がある。平清盛の子であり、平家最後の総大将であった平宗盛は、息子・清宗とともに壇ノ浦で敗れて、義経に捕らえられ、京都に近いこの地で首をはねられ、首だけが京都に運ばれ、胴体はここに埋められた。平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲町であるという説明板が立っている。 少し行くと、義経が鞍馬山を出て、奥州に向かう途中、ここで前髪を落として元服した所とある。
守山宿から約14kmで「武佐宿」に到着。ここは400年以上前の商家である大橋家。唯一今も営業を続けている旅籠(料理旅館)の中村屋等の建物があり、当時の雰囲気は充分ある。
武佐宿から約7kmの所に近江商人発祥の地といわれる五個荘の町並みがある。 近江商人博物館などいくつかの施設や旧邸があり商人文化を知ることができた。
武佐宿から約10kmで「愛知川宿」に到着。この宿の街道筋は現在商店街になっているが昔を偲ぶ建物もある。ポストは現役である。
愛知川から約2kmの所に丸紅・伊藤忠商事の創設者である伊藤忠兵衛の生家がある。伊藤家は代々呉服の行商をしていたが、伊藤忠兵衛が大阪で近江麻を扱ったことから成功し、発展をとげたらしい。
昔ながら提灯屋など古い町並みが続き、左手に当時の表門を残す本陣跡が見える。
愛知川から約8kmで「高宮宿」に着く。ここは、多賀神社の入り口で、1633年に建立された高さ8mの大鳥居がある。
小野小町と言えば全国的だが、ここに小野小町の出生地だと言われるところがある。
高宮宿から約6kmで「鳥居本宿」である。ここは、静かで落ち着いた雰囲気の中に情緒の残る町です。 この建物は200年前の物で格子窓のついた二階部分は当時の姿を残している。300年前の十辺舎一九も記した健胃薬を今も販売している。
鳥居本宿から約2kmで中山道第一と言われる琵琶湖の見える展望の良い所でその名前は「摺針峠」という。「針になるまで」と言って石で斧を研いでいた老人を見て、青年僧が自らの意志の弱さを恥じ、以後修行に励んだという故事に由来しており、この僧が弘法大師であるという。
摺針峠から約4kmで「番場宿」に着く。ここに蓮華寺があるので寄ってみた。1333年京都合戦に敗れた六波羅探題・北条仲時一行がここでの戦闘にも敗れ、430余名がことごとく自刃するに至った。境内の大小の五輪塔の群は、当時の住職が彼等を弔ったとある。冥福を祈って立ち去った。
久禮の一里塚である。
今回最後の宿「醒井宿」までは、約6kmです。
2010年04月06日
私の足跡 54 中山道を歩く 1
2008年3月よりその年の年末までに延べ約30日をかけて京都の三条大橋から江戸の日本橋までの534km・69宿を歩いた。皇女・「和の宮」と同じように「東くだり」で行ったが季節や行事により順には行かなかった。3年前の記事なので、記憶も薄れて資料も乏しいので内容が希薄にならないように努めます。
中山道を歩く 1 三条大橋 ~ 67宿「守山宿」 約31km
鯖街道と同じように「高山彦九郎」氏に見送りをしてもらい長い旅の出発をする。
しばらく歩くと、亀水不動があり、亀の口から井戸水が落ちていた。
峠上には「逢坂の関跡」の碑があり、これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関 と蝉丸が詠んだ逢坂の関である。古来より多くの旅人がここで出会い、すれ違い、そして別れていったのだろう。
蝉丸神社上社と下社があった。祭神の蝉丸は謎の多い人物だが、盲目の琵琶の名手であったと言われ、百人一首にも歌を残す歌人としても知られている。
京都から10km少しで大津に着く。大津には 大津事件の碑がある。1891年来日中のロシアの皇太子に警備の巡査が切りつけた事件。
少し行くと木曾義仲と松尾芭蕉が眠る義仲寺がある。平氏を破って入京しながら義経らに討たれた悲運の武将・義仲。彼の葬られたこの地に側室・巴御前が庵を結んだことから寺は巴寺ともよばれていたが、後に義仲寺となった。
芭蕉は、義仲を偲んで何度もここに宿泊し、大阪で没する時も「骨は木曾塚(義仲寺)に」との遺言を残し、この地に葬られたと言う。
大津から約15kmで草津宿です。東海道と中山道の分岐の追分である。二つの街道の合流する草津宿は、規模も大きく、本陣2 脇本陣2 旅籠70軒余を擁した。追分の近くには、その本陣の一つが当時の姿をほぼとどめたまま公開している。立派な構えの門もある。
現存する本陣としては、最大級といわれるだけあって内部も広く、上段の間や湯殿、広間など一通り見るだけでもかなりの時間を要した。でも、価値ある時間であった。
「守山宿」が近づくと、均整のとれた近江富士と呼ばれる三上山が見えてきた。宿場内には古い家並みが比較的残っている。ここは 健脚の人は「京発ち 守山泊まり」で宿泊地として賑わったらしい。