ウォ-ク 熊野街道 紀伊路
2009年06月15日
私の足跡 36 熊野街道 布施屋駅~田辺
今回は Ⅱ JR布施屋駅から田辺駅周辺までの約105Kmを記します. 延べ 5日間 要した。 。
JR布施屋駅を出発する。途中、国指定の重要文化財の「旧中筋家住宅」をゆっくり見学するつもりだったが修理中で見学できなかった。残念。
弓の名人「和佐大八郎」の墓にお参り。大八郎は1686年 24才の時、京都・三十三間堂の「通し矢」に挑戦し、一昼夜に八千百三十三本という大記録を達成し、この記録は 今も残っているらしい。
矢田峠を フウフウ言いながら登ると後ろには紀ノ川 前方には海南に家並みを見ながら進む。
貴志川線を横切ると六地蔵がある。左折して 木の神様「伊太祁曽神社」に参り、昼食をとる。12:00に出発し、40分で武内宿禰の生誕地といわれる所を過ぎ、松阪王子から汐見峠を越える。古道で有数の名所だけあってさすがに海を見下ろす素晴らしい景色だった。
祓戸王子を過ぎると日本全国で一番多い「鈴木姓の総本家」といわれる屋敷がある。
次は 他の王子とは格式の違う五体王子である「藤代王子」(藤白神社)に入る。
傍には 歴史上悲劇のプリンス有馬皇子の墓碑がある。
そこから 標高約200mの藤代峠を越える。ミカンの花の咲く頃で、香ばしい匂いを味わいながら登る。
王子社の中に土俵がある一壷王子(山路王子神社)がある。
峠をおり、集落の途中に橘本神社がある。橘(たちばな)は今のミカンの原種で紀州ミカンの発祥とされている。
醤油の生産地として有名な湯浅の古い家並みの残る町を過ぎると、中将姫で有名な得生寺がある。
その南には この街道でも有数な険しい峠・鹿ヶ瀬峠の大峠(標高差約300m)を越えると、安珍・清姫で有名な道成寺がある。
そこに寄り、お参りする。
日高川を渡り、紀伊水道に沿って南下する。
最初の王子は二つ目の五体王子「塩屋王子」に寄る。やはり、立派な社である。
ここで U氏と会い、今後の行動をともにする。長い間、一人旅だったがこれからは喋りながらの楽しい旅となる。
この頃、早朝地震があり、阪和線も和歌山線もダイヤが乱れ、待ち合わせの時間がくるい、時間のロスがあったりした。
また、お喋りに夢中になり、道標を見落とし道を間違えたりもした。
「岩代王子」付近より、海に近づき「千里王子」付近では砂浜を通る。
この付近には この上の写真のように 海岸の傍に王子社がいくつかあった。
田辺の手前で 古道とは直接関係はないが、日本ナショナルトラスト運動の先駆けとして知られる「天神崎」を訪れるため、熊野古道を離れ、約4Kmの岬を回った。
きっかけを作った外山八郎さんをはじめ長瀬洋平さん達の苦労が実って今も海洋生物の宝庫となっている。
私も 以前この運動に関心を持ち、協力したのを思い出す。
潮垢離をしたという潮垢離浜を過ぎると弁慶の生誕地ともいわれ、「闘鶏神社」でも有名な田辺に着く。
この間 約105Kmの間に五体神社の二社と40の王子社や王子社跡を過ぎる。
2009年06月01日
私の足跡 35 熊野街道 大阪天満橋~布施屋
今回は (本来は 京都から書くのが通常と思いますが 以前私のブログに記しているので省略)大阪の天満橋より岸和田・和歌山・海南・田辺を通り、本宮までの熊野古道を延べ日数10日以上(家の近く・又は職場の近くの場合は半日を使ってでも歩いた)かけて歩いた。
この間を1 大阪市よりJR和歌山線の布施屋駅 総延長 約78Km
Ⅱ 布施屋駅より田辺まで 総延長 約105Km
Ⅲ 田辺より滝尻まで 総延長 約24Km
Ⅳ 滝尻より本宮まで 総延長 約39Km
の4回に分けて書くことにする。
今回は 1 大阪市の天満橋より堺・岸和田を通り和歌山県境を越え 吐前王子(JR和歌山線の布施屋駅近く)までを記す。
当時の天満橋
現在の天満橋付近
平安時代 京の都から船で熊野御幸に出た上皇らは大川の渡辺の津(窪津)で船を降りた。現代の天満橋付近がそこに当たり、近世には八軒家浜と呼ばれ、三十石船の発着所として栄えた。
八軒家船着場跡の碑が天満橋駅前の「永田屋」の昆布店の前にある。
当時 京から大阪までは船を使い、半日で大阪に着いたらしい。
船は 三十石船を使い 写真のように「くらわんか船」から食べ物を買い大阪に着いた。
上の写真は 阿部王子神社周辺の古い町並み。
御幸一行は 沿道に点在する九十九王子と呼ばれる熊野権現の御子神を祀った王子社に礼拝しながら熊野へ向かった。
左の写真は 阿部晴明に関わる阿部神社
阿部神社の近くに 阿部王子神社が大阪府で唯一現存する王子社だ。
四天王寺や住吉大社へも参りながら南へ向かった。堺を通り、岸和田を通り、山中渓へ。
JR阪和線の山中渓駅の近くには 山中宿本陣跡や旧庄屋屋敷等の古い家並みが今に古道の面影を残しています。ここより県境の「雄の山峠」までは歩道のない車の通行量の多い所も通り、目指します。中山王子の手前に「日本で最後の仇討ち場」という碑がある。1836年とある。これと同じ事例が「日本で最後の仇討ち場」として高野山への京・大阪道の途中にある。1871年とある。
ここから「雄の山峠」までは登り坂が続き、「峠の不動明王」を過ぎると下り坂となり、標高差100m程くだる。この間、紀ノ川平野・紀伊山地の長峰等を眺めながら和歌山の道を進む。そして和歌山では 最初の「山口王子」を通り、道標をたよりに歩を進めると紀ノ川に架かる約700mの長い橋を渡ると「吐前王子」に着く。ここからJR「布施屋駅」までは少しだ。
布施屋(ほしや)の地名は、かつてこのあたりの人々が熊野詣の旅人を接待(お布施)をしたことに由来する街道上の要所だった。
ここ「吐前王子」までの約78kmの間に、27の王子社又は王子社跡を通り越した。
この間を1 大阪市よりJR和歌山線の布施屋駅 総延長 約78Km
Ⅱ 布施屋駅より田辺まで 総延長 約105Km
Ⅲ 田辺より滝尻まで 総延長 約24Km
Ⅳ 滝尻より本宮まで 総延長 約39Km
の4回に分けて書くことにする。
今回は 1 大阪市の天満橋より堺・岸和田を通り和歌山県境を越え 吐前王子(JR和歌山線の布施屋駅近く)までを記す。
当時の天満橋
現在の天満橋付近
平安時代 京の都から船で熊野御幸に出た上皇らは大川の渡辺の津(窪津)で船を降りた。現代の天満橋付近がそこに当たり、近世には八軒家浜と呼ばれ、三十石船の発着所として栄えた。
八軒家船着場跡の碑が天満橋駅前の「永田屋」の昆布店の前にある。
当時 京から大阪までは船を使い、半日で大阪に着いたらしい。
船は 三十石船を使い 写真のように「くらわんか船」から食べ物を買い大阪に着いた。
上の写真は 阿部王子神社周辺の古い町並み。
御幸一行は 沿道に点在する九十九王子と呼ばれる熊野権現の御子神を祀った王子社に礼拝しながら熊野へ向かった。
左の写真は 阿部晴明に関わる阿部神社
阿部神社の近くに 阿部王子神社が大阪府で唯一現存する王子社だ。
四天王寺や住吉大社へも参りながら南へ向かった。堺を通り、岸和田を通り、山中渓へ。
JR阪和線の山中渓駅の近くには 山中宿本陣跡や旧庄屋屋敷等の古い家並みが今に古道の面影を残しています。ここより県境の「雄の山峠」までは歩道のない車の通行量の多い所も通り、目指します。中山王子の手前に「日本で最後の仇討ち場」という碑がある。1836年とある。これと同じ事例が「日本で最後の仇討ち場」として高野山への京・大阪道の途中にある。1871年とある。
ここから「雄の山峠」までは登り坂が続き、「峠の不動明王」を過ぎると下り坂となり、標高差100m程くだる。この間、紀ノ川平野・紀伊山地の長峰等を眺めながら和歌山の道を進む。そして和歌山では 最初の「山口王子」を通り、道標をたよりに歩を進めると紀ノ川に架かる約700mの長い橋を渡ると「吐前王子」に着く。ここからJR「布施屋駅」までは少しだ。
布施屋(ほしや)の地名は、かつてこのあたりの人々が熊野詣の旅人を接待(お布施)をしたことに由来する街道上の要所だった。
ここ「吐前王子」までの約78kmの間に、27の王子社又は王子社跡を通り越した。