ウォ-ク 高野街道
2017年06月05日
私の足跡 203 中・下高野街道を歩く 7
中・下高野街道を歩く 7
今回で 「中・下高野街道を歩く」 の最終回。 今迄 木曜日 に歩いていたが 今回は6月7日にゴールの「四天王寺」に到着するためです。その理由は、四天王寺の近くに、昨年の大河ドラマ「真田丸」の主人公「真田信繁」が最期を迎えたといわれる6月7日に「安居神社」に立ち寄ることにしたからです。
本日のスタートは 前回の終了地点「北野田駅」とする。
しばらく歩くと、街道跡の名残の残る建物が多く 連なっている。 私たちは当時の面影を思い浮かべながら楽しく歩くことができた。
また、町筋に上記のようなお地蔵さんも祀られている。きっと、旅人もここで旅の安全を祈りながら歩いたことでしょう。
また、道標もあちこちにあり、旅人もこの道しるべを頼りにして歩いたことでしょう。
上のお地蔵さんは 旅の安全を祈るお地蔵さんが道しるべも表しているものです。
堺市の美原区を過ぎ、松原市に入ると「布忍神社」ある。
この神社は、明治以前は牛頭天王を祭神とし、薬師如来も祀り神仏混合でした。
麻美許曽神社 大同年間(806年~809年)の創建といわれる
「山坂神社」 大小いくつかの力石があった。
大阪府下では住吉大社の楠の次に古い、樹齢800年の木であると言われている。
桃ケ池公園 古くから脛ケ池・百ケ池・股ケ池と呼ばれ、廃川となった猫間川につながっていたといわれている。
近鉄「阿倍野橋駅」に到着。これを横切るために駅舎を横切り、北上する。
今度は、JR天王寺駅を横切るためには 地下に潜り込み北上する。
庚申堂 「42代文武天皇のとき疫病が大流行した。この時四天王寺の僧豪範が庵を結び一心に仏の加護を祈ったところ、大宝元年(701)正月7日庚申の日に青面金剛童子の像を授かり、これを安置してお祀りしたところ疫病が治まったといわれ、以後60日ごとの庚申の日は参詣の人でにぎわう。特に正月の庚申さんは有名。 この庚申堂東側の道(四天王寺南門~西田辺あたりまで)を庚申街道といい、摂津名所図会にも記述されている谷の清水がある。」(天王寺区ホームぺジから引用)
四天王寺 聖徳太子が推古天皇元年(593)に建立
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(四天王寺のHPより)
大坂夏の陣で真田幸村が戦死したのが安居神社境内といわれています。いわゆる終焉の地です。
慶長二十年(1615)五月七日、天王寺口の茶臼山に布陣した真田幸村は、毛利勝永らとともに徳川幕府軍と大激戦を繰り広げます。一時は幸村や勝永らの獅子奮迅の戦いぶりに幕府軍が大混乱になり徳川家康を窮地に追い込むものの、大兵力の幕府軍相手に戦の流れが変わり、退却の途中、真田幸村も力尽き、安居神社境内の一本松(さだめ松)の下で休息しているところを松平忠直隊の武将(西尾仁右衛門)に討ち取られて首は徳川方に差し出されています。 享年49。
この「街道歩き」シリーズのの目的は 1つは 「 中・下高野街道を歩く」 と 2つ目は 「昨年の大河ドラマ「真田丸」で九度山に蟄居されていた「信繁一行」が和泉山脈を越え、大阪城まで歩いたと思われる道を歩いてみる」 ことでしたが やつと到着した。
2017年05月23日
私の足跡 202 中・下高野街道を歩く 6
私の足跡 202
中・下高野街道を歩く 6
今回は、天野山 金剛寺をスタートすることにする。
今、金剛寺は、話題になっている。それは、元禄時代の修理から300年間、大規模な修理は行われていませんでしたが、平成21年度より約9年間、総額約16億5千万円の費用で解体修理をしています。。また、金堂に安置されていますご本尊の大日如来坐像、脇侍の降三世明王坐像(ごうざんぜみょうおうざぞう)不動明王坐像、の三躯(さんたい)の仏像も修理することになりました。(私達がお参りしていた頃に 国宝に指定されました)
桜で有名なこともあり、4月7日にスタート。(下見に行った時に 係りの人に そのころは 桜も見ごろだし、工事も終わりかけているとの話があった。)
桜は見頃で 参加者に喜んでもらったがまだ工事中で その音がひどくて困った。
この金剛寺は 平安時代より女人高野であること や 南北朝時代のある時期に南朝の後村上天皇の行宮であったりとかで有名な寺である。
桜と寺院建築の風景を楽しん後、出発。
今度は この天野山 金剛寺への参詣道として、賑わった道・天野街道を歩くことにする。
楼門を出ると 小川と白壁に挟まれて小道を進む。
のんびりとした集落の中を進む。
集落を過ぎると 周りが田畑が広がり、遠くの山がくっきりと見える。
南には 1回目に越えた岩湧山と5回目に越えた蔵王峠が見え、その時のことが話題となる。
東には 水越峠を挟んで金剛山と葛城山。そして更に北を見ると双耳峰の二上山がくっきりと。
1時間少しで 穴地蔵に到着。子宝に恵まれるというお地蔵さん。
地元の人達や遠方の方々に大切にされているようでお花やお供え物が沢山ある。
この付近 堺・河内長野・大阪狭山市の市境である。
ここからは 河内長野市とも別れ、堺市と大阪狭山市の市境(河内と和泉の国境)に設けられて天野道を更に北上をする。
道は 上記のように尾根に沿って造られ、今熊から大野西までの区間は遊歩道「あまの街道」として整備されており、散歩やジョギング・ハイキングにも人気のコース。
国交省の「手づくりの郷土賞」・「大阪の道99選」にも選ばれている。
サイクリングコースにもなり、時々自転車も通る。
ベンチは所々にあり、また東屋が2か所あり、整備も行き届いて歩く人には最高である。
道の両側には コナラの木がびっしり植栽 されている。
最後は 西高野街道に合流し しばらく西高野街道を歩く。
西高野街道を分かれてしばらく歩くと狭山池に到着。この狭山池は、人造湖としては日本最古といわれ、古事記や日本書紀にも記載され、昨年築後1400年祭りが行われた。
狭山池公園に到着すると小彼岸桜が満開で私たちも楽しむことができた。
そして、池の堰堤にある「狭山池博物館」に到着。
平成13年(2001)、大阪狭山市にオープンした狭山池博物館です。
斬新な建物のデザインは、日本の代表的建築家・安藤忠雄氏の設計によるものです。
そんな狭山池の改修工法や堤の実物などを時代ごとに7つの展示ゾーンへ分けて保存・展示しながら、日本の土木と治水の歴史の紹介を行っている。
見学後、次回の出発地「北野田駅」へ。
2017年04月19日
私の足跡 201 中・下高野街道を歩く 5
中・下高野街道を歩く 5
前回と同じく和泉山脈を越えるが、今回は高野口から槙尾道を通り、蔵王峠を越え、滝畑へ。そして天野道を通り、狭山から下高野街道に入り、ゴールの四天王寺までを3回に分けて歩きます。
(この道は 昨年の大河ドラマ「真田丸」の後半、信繫一行が大阪城に入る時、見つからないようにいくつかに分散してして、越えたといわれている一つと言われている。この道は 他の道より通りやすく、距離も短いから女性や子どもたちが通ったのではないかと思われます。)
高野口から滝畑へ。 3月 9日
8時0分に 高野口駅に集合。
初めは、平坦だが だんだんと傾斜が険しくなる。しかし車の通る道だからたいしたことはない。今回の道は ほとんど舗装されている。
1時間少し歩くと、石仏群がある。
この石仏群の中に 六面石幢と言われる石幢である。この六面石幢は六角柱の幢身に笠を載せた砂岩の単制のものである。
幢身の各方面には高さ52.5cmの光背を彫り窪め、なかに像高38cmの地蔵菩薩立像を彫り残して浮き彫りにしています。光背の最深の部分で5.3cmを測り、洗練された精緻な作風は地方の石仏とは考えられず、専門の知識と技術をもった石工の作とみられます。
幢身正面の左右両側には刻銘が残され、南北朝時代の北朝年号の貞和5年(1349)の年紀が読み取れ、六面石幢として比較的初期の作品として貴重です。また、六面石幢に六地蔵を刻したもので本例より古い資料は見当たらず、六地蔵六面石幢としては国内最古の例とみられ、非常に貴重な資料と言えます。
平成24年に橋本市の有形文化材に指定された。
更に、一時間足らずで ふるさと体験村(山村体験交流促進センター)に到着。ここは、標高390mの山間にあります。
和歌山県の朝日・夕陽100選に選ばれています。近くには県の指定文化財「神踊り」で知られる若宮八幡があります。(下の写真)
その後 アップダウンはすくないが 約一時間で蔵王権現に到着。昼食。
かつらぎ町と大阪府河内長野市との境界、蔵王峠に鎮座している。
7世紀末、役小角が修験道の行場を開いたころといわれている。
主祭神は蔵王権現。昭和61年に村人の手によって境内の拡張整備、社務所の改築などが行なわれ、よそおいを一新した。4月18日には例大祭が行われる。
長い長い下り坂を下ると光滝寺に到着。
光滝寺(こうたきじ)光瀧寺とも書く。この寺の近くに滝畑四十八滝のひとつである光滝という名前の滝があり、名前の由来となっている。
飛鳥時代に欽明天皇の勅願によって行満が開いた寺とされる。江戸時代には葛城修験二十八宿の第十四宿(現在は、南葛城山の山頂近くの「鏡の宿」を第十四宿とするのが普通)であり、槙尾山施福寺(天台宗)の奥院でもあった。
本尊は寄木造りの不動明王立像で平安末期のものである。また炭焼不動堂があり、この堂の不動明王像は空海の作と伝えられている。境内は河内長野市の名勝に指定されている。
昭和48年着工し、昭和57年に完成したコンクリートダムみどり豊かな自然に囲まれ、年中通じて楽しめる。
ダムに埋没の前に移築した古民家を利用して、博物館としている。
帰りはバスで約1時間で河内長野に到着。
2017年03月14日
私の足跡 200 中・下高野街道を歩く 4
中・下高野街道を歩く 4
私のブログも200回を迎えることができました。これは、皆様のアクセスとコメントの励ましのお陰です。今後とも、よろしくお願いいたします。(途中、パソコンの調子が悪くなり、しばらく 休憩していたことをお詫び致します。)
街道歩きを始めた当初は、街道(古道)歩きの目標を3000kmとしていたが、これをを越えたので 次の目標を街道(古道)歩き3500kmとしたが 先日これも越えたので 現在 街道(古道)歩き、4000kmを目標にして歩いています。
私の街道ウォーク(3500km)の足跡
橋本市周辺の道路で太線の部分は 複数回以上歩いた道路。中には10回以上もある。
四国遍路は同行二人(一人遍路)(10回に分け) 私の足跡 43~53迄
小豆島遍路は半分は同行二人 往は夜行を3回使い7日間
東海道 と 中山道は仲間三人と (大河ドラマの放送の頃) 各 1年間
私の足跡66~84 私の足跡54~63
3000キロメートルとは どれだけの距離か
直線距離では 日本列島の北端「宗谷岬」から鹿児島の佐多岬まで 1,888km
車での距離では 日本列島の北端「宗谷岬」から鹿児島の佐多岬まで 2、960km
鉄道での距離は日本列島の北端「稚内駅」から鹿児島の西大山益まで 3,124km
3500㎞ を一日に歩く距離を20㎞とすると175日歩いたことになる。一年間の半分を歩いたことになる。(自分では 何という人生を過ごしたのかな 思います)
今回は 中高野街道の最終回。
12月15日 前回のゴール・JR平野駅を9時にスタートし、杭全神社から守口駅迄歩く。(この平野と守口間の街道は「放出街道とも言われている。)
先ず、杭全神社に参拝し、本日のウォークの無事を祈る。
杭全神社
平安時代初期坂上田村麻呂の孫当道(とうどう)が素戔嗚尊を勧請して第一殿に平野郷の氏神として祀り、創建したと伝えられている古社です。
鎌倉時代初めの建久元年(1190)には、熊野権現を勧請して第三殿に祀り、さらに後醍醐天皇の勅命で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を第二殿に祀った。3社殿とも、国の重要文化財です。
巽神社
「社伝によれば、巽神社は応神天皇を奉り旧河内国渋川郡大地(おおぢ)村にあり、八幡(はちまん)神社といわれていました。創建年代は明らかではありません。
巽町役場跡の碑があった。
明治22(1889)年に町村制が施行されたとき、矢柄村・伊賀ヶ村・西足代村・四条村・大地村の5つの村が合併し、大阪城から見て、巽(東南)の方角に当たるところから「巽村」となった。昭和三十年四月大阪市に合併されるまで役場があった
境内に「雁塚」と呼ばれる二基の石塔がある。
諏訪神社
正因寺(鶴見区放出東1)前に建つ中高野街道の石柱と案内板
式内「高瀬神社」
「この神社は、延喜五年(905)から延長五年(927)にかけ作成された延喜式神名帳に記載されている由緒ある古社であります。祭神は天御中主命で、旧の世木・馬場村の氏神であります。天正年間(1573~92)に織田・三好の兵火で焼かれたものの、その後再建され」、江戸中期頃に建てられたのが現在の社殿であります。江戸時代には、神殿その他すべて備わった大社で八幡宮とも呼ばれていました。
本日のゴール 京街道の「文禄堤」に到着。以前 京街道を歩いた時を思い出す。
2017年02月01日
私の足跡 199 中・下高野街道を歩く 3
中・下高野街道を歩く 3
狭山駅からJR平野駅まで
狭山駅に8時半に集合。
街道筋に 菅生神社へ参拝する鳥居があり、近くに街道の道路標識がある。
「正面「當社菅生天満宮」
右面「すぐ平野総本山大阪天王寺、右藤井寺誉田八幡宮道明寺」
左面「すぐ三日市高野山」
(慶応二年)
私たちは 菅生神社へ参拝することにした。 まず、記念の集合写真を撮る。
菅生神社の祭神 創建は奈良初期 延喜式神名帳に載る。歴史がある。
主神は菅原道真公 明治四十年に合祀
松原東小学校そばにある中高野街道の道標。「右平の大坂 左さやま 三日市 高野」寛政九年」とある。 隣に 天保五年の道標もある。
松原駅を過ぎ、松原市役所の東隣の公園を借り、昼食。
阿保(あお)神社
平安初期 平城天皇の皇子 阿保親王が親王池をつくったり、善政をしたので地元の人達が創建したとある。
本殿 菅原道真公 右に阿保親王 左に弁天さん。
屯倉(みゆけ) 神社
平安時代 942年 道真公祭神 。それ以前は 先祖の土師氏の祭神。
本殿 菅原道真公。南北朝の争乱や戦国期の畠山抗争のあおりで喪失、衰微していった。長い参道が往年の勢いを偲ばせる。
歩いていると 突然前方に堤防が現れ、道がなくなったようだ。
堤防に上り、見てみるとここに橋があったのがわかる。
今は、左の川下に立派な橋を造り、その橋を使っている。(以前 ここを通った時 川床に橋杭の一部が残っていたのを思い出す.)
街道歩きをしていて、一番うれしいのは 上の写真のような古道の雰囲気を醸し出している所を歩くことです。
平野豪の中に入れる出入り口・13口の一つ樋口地蔵。この平野豪の中に悪魔や病気が入らないようにお地蔵さんに見張ってもらっていた。
話が変わるが、大阪冬の陣で真田信繁が徳川軍に向けて地雷を使ったがここの地蔵さんの首が吹っ飛んで行って失敗したらしい。
上記の地蔵の首が飛んできたのはここ「全興寺」だと言われている。
この寺には 弘法大師を祀っていたり・地獄の声が聴けたりとかいろんなものがあった。
今回の最終見学地は、融通念仏宗の総本山「大念仏寺」。
本尊 画像十一尊天得如来(国宝) 勿論 実物は見られない。
現存の本堂は 1938年に建てる。 府内で最大の木造建造物。
JR 平野駅を4時に解散。
2017年01月30日
私の足跡 198 中・下高野街道を歩く 2
私の足跡 198 中・下高野街道を歩く
第2回 美加の台駅から狭山駅迄
美加の台駅を8時半に出発。ここから 高野街道を通る。
江戸時代から栄えた「三日市宿跡」に入る。当時の面影が残る建物などが残る。
烏帽子形八幡神社の建立は、室町時代の文明12年(1480)で、重要文化財の指定を受け ている。なお、烏帽子形山頂には、楠木七城のひとつと伝えられる烏帽子形城跡があり、土塁や空濠が残されている。
河内長野に入り 駅前を通り、しばらくすると「九里石」がある。高野山迄あと「九里」の標識である。この付近で東高野街道と西高野街道の分岐点だったらしい。今回 西高野街道を往く。
晴明塚がある。平安時代の陰陽師・安倍晴明の塚。天文学の書を埋めてあるという。
西高野街道と中高野街道との分岐点。ここに地蔵菩薩がまつられ、天保7年の標識もある。今回は右側の中高野街道を往く。
大阪狭山市に入ると 風輪寺(融通念仏宗)がある.第八河泉地蔵の標識あり。本尊地蔵菩薩。
最近 「絹本著色釈迦如来及び四菩薩」という掛軸が見つかり それが国の重要文化財(平安時代作)であると知り、お寺にお邪魔して住職さんに写真を見せてもらい、お話も聞かせてもらった。(実物は 博物館に管理されている)
狭山藩陣屋跡の標識がある。小田原 北條氏の末裔の陣屋跡。陣屋内には 藩主の御殿などが あった。
狭山藩陣屋は元和2年(1616年)第2代藩主、北条氏信の時に陣屋を狭山池の北東に構築したのが始まりとされています。三代目北条氏宗の時に陣屋上屋敷が完成し、明治2年(1869年)第12代藩主の北条氏恭まで、狭山藩は約1万石の大名として約250年続きました。
表門は 堺市の西本願寺別院に移築されている。
本日のゴール・狭山駅に到着。3時半ごろ到着。
2017年01月17日
私の足跡 197 中・下高野街道を歩く
私の足跡 197
中・下高野街道を歩く
この「街道歩き」の目的は 1つは 「 中・下高野街道を歩く」 と 2つ目は 「昨年の大河ドラマ「真田丸」で九度山に蟄居されていた「信繁一行」が大阪城まで歩いたと思われる道を歩いてみる」 ことです。
でも 「信繁一行」が 和泉山脈を越えて 大阪城に参戦したのは この二つの道だけではないのはわかっている。一行には 女 子供を連れた一行 また 武装した集団や山伏の姿での集団などいくつにも分かれての移動だったと思われる。
紀見の集落から紀見峠ではなく、和泉山脈に登り、河内長野市の神納に降りる計画で 岩湧山のススキの穂が満開の時期とした。
紀見峠駅を8時に出発。
最初は 根古川に沿った道で傾斜も大したことがなかった。
途中より 急に高度を上げる坂道となり、約400mを登り、三合目に到着。
三合目からは 尾根伝いの道で先ほどの険しい道は少なくなる。
途中、ダイトレと加太までの修験道との分岐がある。岩湧山は右に行く。
岩湧寺へ下る道との分岐点の近くに到着。
何度かアップダウンを繰り返すとトイレがある。
最後の登り坂を登ると頂上(897.7m)だ。
各自 素晴らしい展望を眺め、ススキに囲まれ、昼食。
帰りは、先ほどの五つ辻迄戻り 下山。
古刹の岩湧寺。大阪府の文化財。
伝 大江時親邸跡
南北朝時代の名将「楠 正成」が 兵法の指南役として この大江時親の家へ毎日のように通ったと伝わる大江時親邸跡。「真田信繁」もここを通ったかもしれない。
「神納」から バスで三日市駅へ。4時過ぎ 解散。
2015年04月30日
高野山開創1200年祭に参加
高野山開創1200年祭に参加
弘法大師空海が816年に高野山に真言密教の道場を開いて 今年で1200年。4月2日から5月21日まで高野山内で盛大に催しが行われている。
今回 地元の私は 初日の六日に 参加した。
初日の注目は 再建なった中門前で 横綱の土俵入りが行われる。大勢のファンか詰めかけると思って 駐車場がなくなると思い 車で行くのを止めて早朝に 電車に出かけた。
しかし、現場に到着すると大勢のファンで一杯。
しかし、現場に到着すると大勢のファンで一杯。上のような写真を撮りたかったが報道関係者がほとんど。
何とかしなければと思い 以前から 何箇所かの撮影場所を考えて 下調べをしていたのでその場所へ行き、撮影した。
道路側から 北の中門を見る。朝6時頃から待っている観客が中門の向こうに見える。
高野山座主が到着。
横綱 白鵬が 露払いと太刀持ちを従え 到着。
横綱 白鵬の土俵入り。
続いて 横綱 白馬富士の土俵入り。
土俵入り終了後 バスに向かう途中 ファンに取り囲まれる。
今 人気者の関脇・照の富士も見られた。
バスの窓から ファンに手をふる白馬富士
江戸時代の天保14年(1843年)に焼失していた中門の再建が行われた。そして 四天王像もこの日 お披露目された。
両眼をカット見開き、奮怒の表情ながらも 慈悲深さを漂わせている。「強さを表す四天王の顔は怒るばかりでは駄目。見つめられたら うそをつけない。そう思わせる顔に。」にとの思いで造ったと仏師の弁。
四体の四天王像を見て頂きたい。
今回 中門焼失時に焼失していた広目天と増長天は 今回 仏師 松本明慶により新しく造られた。
持国天と多聞天は 中門焼失時に救い出されていたものを修復した。
広目天の役目は 広く見渡すのが役目 胸にセミがとまっている。
増長天が槍を持っているのは 悪なものから守るため。 その象徴として 胸の甲冑にトンボを表した。「トンボは前にしか飛ばない。決して退却しないという強い意志を表したかった」とある。
修復された「持国天」
修復された「多聞天」
講堂(金堂)での 長い法会が終わり 管長さんが出てこられた。
法会を終えた高僧たちの列
つかの間のくつろぎ
今度は 奥の院での法会に出発
人々に見送られ 御廟に向かう。
この日は 高僧たちにとっては 長い一日だった事でしょう。
お疲れさまでした。
2014年11月15日
私の足跡 167 高野街道を歩く Ⅲ
私の足跡 167 高野街道を歩く Ⅲ
3回 カメラのブログを続けましたが、今回より 本来の「街道歩き」に戻ります。
今回は「高野街道街道てくてく十三里」の一部( 前回の 高野街道を歩く Ⅱの続き)を出席者約200名の参加者を6つの班に編成し 私もその一班をガイドした記録です。学文路から京・大坂道を通り、不動坂の手前 極楽橋までの街道です。2014年11月8日実施
この街道は 江戸時代になって 特に参詣道として賑わった「京 大坂道」です。
中世より 表参詣道として栄えた町石道に変わり 庶民の旅が盛んになった江戸時代より多く利用されるようになった。理由は 道は険しいが距離が2里短い。(約8Km短い)
それに 旅人の心も 信仰 修行の道として栄えた町石道より 茶店や旅籠等の整った街道を楽しく通れるこの道を使ったらしい。
この道の出発点は 堺市から河内長野市を経て高野街道を通り河内長野市を通り 橋本市を経て学文路に至る道です。
この道のガイドは 何度もしているので 以前も記しています。
出発点には 1758年建立の上の石柱がある。右 慈尊院みち是より 一里 左 高野みち女人堂迄三里 とある。
紀伊名所図絵にもある玉屋旅館の跡がある。「この村 旅舎多し 玉屋与次兵衛といふ臥房繁昌す 刈萱道心の因縁ある家なりとぞ・・・・」と記してある。
杖の梅天神を過ぎると 刈萱堂がある。ここは 有名な「石童丸物語」と関わった寺です。
また、有形民俗文化財の人魚のミイラもある。
この付近 柿の産地で全国的に有名です。秋に通るとたわわに実った柿で食欲をそそります。
高度があがって息が途切れる頃に 六地蔵の一つ三番目の地蔵が祀っている。ここ繁野集落は歴史が古く 平家全盛の時代よりあるという。
弘法大師が村人のために掘ると清水が湧きでたという所。硯の水がほしいと言うとここは峠で水がありませんと言い 遠い谷まで汲みに行ってくれたので村人のために清水が湧き出るようにしたという。硯り水ともいう。
河根峠にある第四の地蔵さん。子安地蔵さん。地蔵さんの優しい心のお話も残っています。
この付近から しばらく激しい下り坂にかかり 今まで稼いだ高度(約250m)を一気に丹生川(約120m)下ることになる。
坂の途中に丹生神社がある。和歌山県下で一番歴史のある室町時代の石造の狛犬さんがある。また、次の面もあり、創建は不明だが由緒ある神社である。2012年に遷宮で賑わって祝った。
ここは 本陣跡でなかや旅館です。瓦・門等に見るべきものが残っている。和歌山県の史跡。
河根宿の外れの丹生川にかかる千石橋。 昔からの橋が大水で流されていて渡れず困った明石城主 松平孫四郎はその後幕府に願い出て 1635年に 長さ18間 巾2間半 欄干有り 柱無しの橋を造った。当時としては 貴重な橋で有名であった。この橋を7年に一度建て替えるための費用として千石を給した。ここから「千石橋」の由来である。右端の石柱は「女人堂迄二里」と書いた石柱です。
この橋を越えると高野町である。先ほど河根峠付近より100m強下ったので今度は激しい登り坂の「作水坂」にとりかかる。
あまりにもきつい登り坂なので、お客の荷物を持って坂をのぼったり、「腰押し」といいお客の腰を押すという商売をする人たちもいたという。 また、子どもたちは青竹を切っただけの杖を作ってお客に売っていたらしい。良寛さんは「黄金もて いざ買わん さみつ坂(作水坂のこと)」という歌をつくっている。
やっと きつい坂の作水坂を登り 河根峠付近の高さにある第五の地蔵に到着。ここより車の往来が激しくなる。
振り返ると 河根の集落を随分下方に見るようになった。
そして 桜茶屋 六地蔵の最後 六番目の地蔵に到着。標高444m>
ここは 桜茶屋とも言い、昔は桜の大木が多かったとある。
日本最後の仇討場所に到着。明治4年(1871年)2月30日(旧暦) 赤穂藩の後継者問題から事件が起こり、悲しい結末となった。 政府は明治6年に復讐禁止令を出したので これが 最後の復讐となった。
手前の大岩(当時はもっと大きかったが道路拡張のため 小さくなった)に隠れ待ち 相手をうちころした。
当時の敗者の人達の墓が少し離れた所にある。
ここは 神谷宿。今は家屋も少なくなり 人影も滅多に見ない。上の家は脇本陣をしていた。
昭和4年に南海高野線が極楽橋迄延び 翌年ケーブルも出来 お客はそちらへ行ってしまい 客は激減してしまった。
わずか80年前の当時は 宿泊施設は16件で750人の人が泊まれ、ほかに芝居小屋 茶店 食堂 土産店等もあり、昼から三味線の音が聞こえたという。そして「日が昇れば 銭が湧く」といわれたが 今はその当時の面影は全然ない。学校も休校になって年月もたっている。
しばらく歩くと 電車が見えだした。
そして 極楽橋の駅も見える。
朱塗りの極楽橋を渡り、不動坂へと入っていく。
さて、次回からは 京都の平安京跡から開創1200年の高野山への街道歩きを書きます。
2014年09月15日
私の足跡 163 高野街道を歩く Ⅱ
私の足跡 163 高野街道を歩く Ⅱ
今回(9月13日)は 前回の続き 御幸辻から学文路まで歩く。 今回は 200余名の参加があり、7班のグループで御幸辻駅を10分間隔に出発。
高野街道から御幸駅への分岐点に 道標がある。
易産山 地蔵寺(日本最初帯解寺 子安地蔵寺)へのであるが、左端に「高野道 かぶろ村へ出る近道あり」と書かれている。この道は平安時代から室町時代の末までの高野山への往来道であると『紀伊続風土記』 や 『紀伊名所図絵』 に書かれている。上皇や貴族達が通った道だから『御幸道(ごこうみち)』といわれている。
はっきり 日記などとして記録に残っているのは 覚法法親王 藤原頼長 後宇多上皇達だけだが 『紀伊続風土記』に 「神野々に『御幸道』と言えるもあれり 宇多上皇も此の道より御幸ありし・・・・」と 書かれていたりしている。
高野街道に沿って南下するとすぐに牛頭天王社に到着する。
牛頭天王は インドの祇園精舎の守り神だったが日本でも疫病から守ってくれると信仰され 日本各地に祀られている。京都の八坂神社の祭神でもある。
明治24年に購入した 木製のポンプ小屋がある。当時は めずらしくて(県下で2番目に購入)大活躍をしたので、県知事よりの感謝状や菊花御紋章入りの褒章ももらっている。
ここ小原田地区の宝として保存されている。
大和街道と高野街道が交わっている所に大きな道標がある。
東面 「右 京大阪道」
西面 「右 こうや 左 京 大阪道」
南面 「南無大師遍照金剛 阿州 一楽村・・・
北面 右 わかやま こかわ 左 い勢 なら はせ よしの 追分
橋本川が紀の川への合流地点に常夜燈が一基たっている。(一基は 流失)
昔の「渡し場」で 高野参詣者で賑わった所です。高さ4.8m。京・大坂の人や遠くは徳島の人たちの寄進で 文化8(1814)年建立とある。
常夜燈の反対側に 今シリーズの「里石を辿って西高野街道」の四里石がある。
安政4年建立の道標です。
「応其寺」に到着。天誅組との戦いで弾痕の残る山門。
昼食場所に借りる。
昼食後 本堂に参拝。本尊 救世観世音菩薩 脇仏に弘法大師と応其上人
応其上人は 秀吉の高野攻めの時 高野代表の一人として秀吉と会い、焼き討ちを免れた。
橋本の紀の川に 125mの橋をつくり、[橋本]の地名を残した。また、多くの池を作ったり、改修したりして、農民に喜ばれた。これ等はほんの一部で 高野山・橋本に多大な業績を残した。
昼食後、紀の川を橋本橋で渡る。この紀の川で泳ぎ、練習をしてオリンピックで金メダルをとった水泳平泳ぎの選手が二人います。
一人は 11回ベルリン大会。 ラジオ放送で 河西アナの「前畑ガンバレ」を何度も絶叫したのは有名です。
もう一人は 16回メルボルン大会。 今の平泳ぎは 水中で水をかくのは限られているが この頃は自由で殆ど潜って泳げた潜水泳法が主流。その後 すぐにこの泳法が禁止となる。
天気は朝から良かったので 関西のマッターホルンと言われる「高見山」が小さいがくっきり。
(普段は 見る事が少ないのでラッキーだった)
宝暦2(1752)年作 (先ほどの川北の常夜燈より、634年古い)の常夜燈のある「三軒茶家」に到着。 今は小さい集落をなしているが、最初 三軒の茶店だけがあったから「三軒茶家」といわれた。
ここには二基の常夜燈が並んでいる。どちらの常夜燈にも興山寺領の名があるので 高野参詣の旅人もやっと高野の弘法大師の膝元に到着した。 念願の高野参りであったが 途中の苦労もあつたので涙を流した人もあったらしい。
最近 再建された西行堂に到着。普段は戸が閉められていて中を見せていただくのは初めてである。感謝。感謝。 意外にも 多くの仏さんでビックリした。(写真は普段の西行堂)
西行さんは 平安末期の歌人。若かりし頃 佐藤義清といい北面の武士であったが、23歳の時 仏の世界へ入いられ 31才の時高野山に入る。
諸国を行脚し、自然を素朴に詠い生涯を旅に終わった。この人生に憧れ 後世には芭蕉等のように旅に出た歌人が多い。
「ねがわくは 花の下にて春しなん そのきさらぎの 望月のころ」山家集
鎌不動 弘法大師が農家で借りた鎌で彫った不動明王が祀られている。
福成就寺に到着。高野山真言宗のお寺。本堂の露盤宝珠は近在の柏原の鋳物師の作品。
本尊は厄除け観音で1642年ごろの再建。現存の建物は平成9年に改築されたものである。
境内には 戸谷新右衛門を祀った新右衛門堂がある。 その横に船越喜右衛門の顕彰碑が建っている。
高野街道六地蔵の一つ 第二番目の地蔵堂に到着。
堂内には 真ん中は地蔵菩薩 右は観音菩薩 左は不動明王の石体三尊が祀られている。
三里石 この里石は 他の里石とは異なり、両親の菩提のために建てた里石
三方には 伊勢 大阪 堺等迄の各距離が書かれ 旅人への配慮もしている。
文政4(1821)年 建之
三里石 安政時代の里程石 元は 現在地より東方にあった。
境界石 高野山領と紀州藩領との境界 元は東方にあった。
紀の川より南側は高野山領が多いが 学文路は紀州藩の領地。
是ヨリ 北興山寺領
是ヨリ 南御国領
三差路の道標
宝暦8(1758)年 堺材木町 青木氏の銘あり 安政の里程石より100年古い
右 慈尊院みち 是より 一里
左 高野道 女人堂迄三里
次回はここから高野まで 坂道の続くことになる。
2014年09月01日
私の足跡 162 高野街道を歩く
私の足跡 162 高野街道を歩く
「高野街道を歩く」は 何度も書いているが 今回は『黄金の町堺から聖山高野山へ』のテーマをもとに企画した9回シリーズです。
橋本市の観光地は 橋本観光ガイドが案内するということで その一部(6・7・8回)を書きます。
この日 (6月14日)は 天見駅を出発地とする。受付には 電車の到着とともに お客さんが到着する。
この日も 約150人程の参加者で 6つのグループに別れて出発する。
私達は 5班で出発する。天候が良く、気温も上がる。
出合いの辻で 国道371号線に出る。 出合いの辻は 元弘3年(1333年) 河内の楠方と紀州の北條方が当地で「出合い」 戦ったとの意でこう呼ばれている古戦場である。
先ほどの交差点より南に少し行き、国道と別れる。道は緩やかな登り道。
石垣の家や土塀を巡らせた家等 昔の風情や絵になる景観が漂っている。
かつて この付近には茶店があったことから「茶屋出」と呼ばれている。
途中国道を離れ、蟹井神社に寄る。創建は天喜2 (1054)年と伝わる。
参拝後 国道に戻り、ガードレールの内側の歩道を進む。
トンネルの手前で 右側の旧街道に入る。
トンネルが出来るまでは 交通量の多い道だったが 今はひっそりとした道です。
昔の街道跡(御坂・見坂)もうっすらあるが今は通れない。
舗装された道を登りつめると「紀見峠」に到着。ここは 県境で和歌山県に入る。
案内も ここから橋本市のガイドが担当する。
この街道は 8世紀末には 官道としての「南海道」となり そのあと高野参詣の参詣道となり、賑わった峠です。
江戸時代には 紀州藩が伝馬所を置いたり、番所を置いたりした。
高野山迄 6里の里程石がある。
また、世界的に有名な「岡 潔氏」が 祖父の家で 中学卒業まで過ごした所でもある。同氏は橋本市の名誉市民である。
峠の街道筋には 虎屋・丹波屋等6軒の旅籠があり、賑わった所だが今はひっそりとしている。
途中 馬も転がりそうな急坂だから「馬こかし坂」とか言われる急な坂を下ると「沓掛」の集落に入る。
そして、高野街道を少し離れる。
昼食後、「・・・・・この地を愛しここに居とす」と紀伊風土記に記されている「養叟庵」に寄る。当時はもっと山奥だったがここに移築したという。
「養叟」とは どんな人物かというと 「養叟」は「一休」と共に師「華叟」のもとて゛禅の修行をしていた。
「養叟」は 「華叟」の一番弟子 「一休」は 「華叟」の二番弟子。したがって、「養叟」は 「一休」の法兄になる。
「華叟」亡き後、「養叟」は大徳寺の第26代世に 「一休」は第27代世になった。
途中 戎神社にお参りし、城山城の説明を聞く。
国道筋にある「5里石」
交番前に「子安地蔵」への道標がある。
高野街道と別れ 本日のゴール「御幸辻駅」へ。
2013年04月01日
私の足跡 131 高野山への街道
高野山への街道
下高野街道 (12月23日)
下高野街道は 大坂狭山市から四天王寺までの街道です。
下高野街道の南のスタート(南限)は西高野街道につなぐか 中高野街道につなぐか二ヶ所あるという。
一つは大阪狭山市の西小学校の近くの「おわり坂」で西高野街道に接している。
もう一つは同市の東小学校の近くの郵便局の所で 中高野街道で接している。
この二か所の街道が狭山池の北西の地で合流し、北上している。
途中に 地蔵尊がある。 右 大さか 左 こうや 享保14年
「狭山駅」の前 大阪狭山市と別れ、ここから堺市に入る。
しばらくすると 牛頭神社がある。
道が細く、古い家並みも現われ 昔の面影がしのばれる。
ある家の塀の中に古くて大きな株があった。近くの人に何の木か聞くも「わからない」という。 見事な古木だ。
萩原神社分祀の前を通る。
八上小学校前の地蔵尊。左のお地蔵さんは 道標地蔵。
すぐ大坂 東ふじいでら 西いずみ 南こうや
古い家並みの町を過ぎだ所に「八坂神社」があり、参拝。
神社の境内で こま回しを楽しんでいた少女がいた。人懐っこい子で会話もはずんだのでコマを借りて回させてもらった。何十年ぶりだったが3回目に手のひらでコマ回しができた。まわした本人も 子どももビックリ 大喜び。楽しいひと時を過ごさせてもらったのでお礼を言い別れた。
新しい地蔵尊。 後方の日ノ丸は祝日だからか。
西方寺
門前に地蔵尊が祀られていた。
菅原神社。 各神社ては 年末なので正月の用意をしていて いつもとは違う風景が見られた。
浄土真宗 西教寺
境内に見事な木 堺市指定保存樹木 (かいづかいぶき)
樹高 9,0m 幹回り 2,1 m
道標が見える。
布忍神社に参拝。
布忍神社の由緒
布忍川の堰堤を利用している遊歩道を歩いて北上する。
大鳥居のある久多美神社に参拝。
この神社は 以前島根の出雲大社の分社とされていたと思うが、今は独立していると この社で働く人は言っていた。
正月前だったので 真新しい見事なしめ縄があった。
出雲独特の高床の建物があった。
無断立ち入り禁止の標識があったが、望遠レンズを使って撮影。
阿麻美許曾神社。
旧下高野橋 右側に新下高野橋を架設中。
新下高野橋一部(歩道)使用出来た。
下高野橋を渡ってしばらくすると たくさんの地蔵尊があった。
小学校の近くを通る。
山坂神社。大昔 この地にわが国に移住してきた田辺 史が住んでいたらしい。
そして、田辺東神・西神の二社があり、東神が中井神社で、西神が当社らしい。
山号を紫金山 院号を小松院と号す。真言宗泉湧寺派の大本山。
桃ヶ池公園の傍を通る。
近鉄阿倍野橋駅の近くの地下道を通る。
清水井戸(谷の清水)。戦後 使いすぎて止まったらしい。
日本最初の庚申尊出現の地とされている庚申堂。この前の道を庚申街道という。
四天王寺南門から熊野権現礼拝石の傍を通り、本堂へ。
聖徳太子ゆかりの広大な境内を持つ、四天王寺に到着。
年末で 年の瀬も迫っていたので(12月23日の祝日) 各神社では村の人達が正月の準備をしていたのでいろいろお話を聞くことができて良かったです。ご協力頂いた皆さんありがとうございました。
2013年03月15日
私の足跡 130 高野山への街道
高野山への街道
中高野街道 Ⅱ (松原から杭全神社まで) (12月7日)
前回の続きで 松原駅を12時に出発。
長尾街道との交差点を通り越し、北上する。
地蔵尊(延命地蔵・子安地蔵)を右に行く。
街道から少し右に行くと阿保神社がある。
阿保神社の由緒が書かれていた。
松原の三宅の交差点の右側の屯倉神社に到着。
屯倉神社に参拝。
屯倉神社の由来が書かれている。
しばらく歩くと大阪市の瓜破に入る。向こうで道が途切れているようです。
ガードレールの向こうは大和川です。左を見れば大きな橋が見える。
その橋に近づくと高野大橋と書かれていた。この橋は昭和29年に完成したものです。それまでは 先ほどのガードレールの所に明治時代に作られた木橋が直線に作られていた。
昔の航空写真で撮影した貴重な写真。写真の左側は高野大橋。やや右側に川の中に橋の跡が見える。
川の反対側に立って見れば その当時の橋杭の跡が残っているのが見えた。
木枠の中に「すく天王寺迄一里半・大念仏寺十八丁」の石柱道標があった。
式内神社楯原神社に参拝
楯原神社の由来
平野郷に入る。戦国時代の平野郷は、町の安全を図って市街のまわりを壕と土塁で囲み、その郷の間に各方面に通じる十三の木戸口もおかれ、門や地蔵堂があった。この地蔵堂もその一つである。
流れ口地蔵堂。この地蔵堂は上記の十三の木戸口の一つ流れ口の傍らにあった地蔵堂
平野郷が壕と土塁で囲まれ十三の木戸口をあらわして図。
町家風の建物が並んでいる。
そして建物に上の紙が張られ、町おこしに工夫をしている。
全興寺の境内に入る。
大きな石標があった。両側の面には 右 さ山・高野山・すぐ住吉 と 左天王寺・大坂・すく住吉・さかひとある。
少し歩くと、上の道標があった。
以上 4面には上記の文字が描かれている。
本日のゴール・杭全神社前に到着。15:40
杭全神社に参拝。
杭全神社の由緒。
中高野街道を踏破した後、年末の御堂筋のライトアップの撮影に行ってきた。
2013年03月01日
私の足跡 129 高野山への街道
高野山への街道
(以前にも書いておきましたが写真をクリックしますと写真を拡大して読みやすくなります。ご利用ください。)
高野山への登山口を続けて3例書いた後 「しまなみ海道」と「青春18切符を使って」を書き 少し話題を変えましたが、また 元に戻り その続きとして中高野街道と下高野街道を書きます。
平安末期までの天皇・公家達の熊野詣が盛んだったころは 京都から大阪まで船で下っていたが平安末期より熊野詣に変わり、高野参りが多くなってきた。
そのため ① 淀川の途中で船を下り、石清水八幡宮にお参りし、東高野街道を通る人 ②守口で船をおり、布施を通り、ここ杭全神社にお参りし中高野街道を通る人 ③大阪で船をおり四天王寺にお参りして下高野街道を通る人 それに ④黄金の町・堺を見学して西高野街道を通る人が多くなった。
東高野街道は「私の足跡 34」・西高野街道は「私の足跡 31」に記しています。
初めに 中高野街道を書き、次に下高野街道を書きます
中高野街道 Ⅰ (河内長野市から松原市まで) (11月21日)
出発した地点は 西高野街道との分岐点(高野線 千代田駅西北)とする。左に行けば堺市へ(西高野街道)。 今回は 右側(中高野街道の分岐点)の道を通り、大阪市の平野へ。 9:30 スタート。
西・下・中・東高野街道についての説明板がある。
昔の街道の面影の残る道を北上する。
春日神社の塀と松林寺の塀が見えて来た。
境内には この時期 葉も実もなくなつたムクロジの木があった。
ムクロの木の説明
河内長野市の市指定文化財の松林寺の山門。
真言宗のお寺。
浄土宗の安楽寺を過ぎる。
古い家並みが並び 江戸時代の旅人とも出会いそうな雰囲気の所を通る。
しばらくの間 大阪狭山市と富田林市の境界線を通る。
左 こうやみち 天下大平安永八年・・・等と書いた石柱があった。
融通念仏宗の風林寺の傍を通る。
この後、高野線の線路の東側に渡る。
道路の片隅に 地蔵尊が祀られていて、中高野街道の道標がある。
上の写真の右手前の単車の傍の石柱の古い標識です。右こうや 左よしの道
踏切を渡り、駅を過ぎると上の石碑が屋敷跡に残っていた。
その家の庭に植えられていたであろう柿が 家の主がいないのにたわわに実っていたのが私には心に残る風景だった。
次の四差路の右にある 浄土宗のお寺・報恩寺。
狭山北條氏の上屋敷や下屋敷のあった場所。
菅生神社の鳥居が 神社から離れた所にある。おおきな道標がある。
式内社 菅生神社に参拝。
舟渡池の近くを通ると鷺が羽根を休めていた。
警戒心が強いのか コンパクトカメラで近づくとすぐに飛び去ってしまう。
面白い風景なので 半月後 望遠レンズをつけて撮影に行った時には 鳥はいなかった。
丹比神社に参拝
由緒ありそうな井戸がある。 由緒は下の石標に書かれていた。
道標がある。 右 ひらの 大坂 道 左 さやま 三日市 かうや 道
松原の町に入ると 中高野街道の説明の標識がある。
中高野街道の道標
今日の出発は 遅くて(9時半) 松原着15時。これから目的地の杭全神社への到着は遅くなるので松原駅で終えることにする。
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2009年05月15日
私の足跡 34 東高野街道
今回は 「京・大阪道の八幡市より高野街道の河内長野市までの東高野街道」の3日間を記します。
高野山への「高野参拝道」の一つであるこの道は、河内長野 から、石川にそって下り、生駒山脈西麓から洞ヶ峠を越えて、石清水八幡宮までの大阪府内で最長(約 60Km)の縦貫街道です。
F氏と東高野街道の踏破を目指して計画を立て、実行をした。
一日目(7月17日)
今回は、河内長野から石清水八幡宮へ向けて歩くことにする。
夏の暑い季節なので、4:45分に家を出て、5:11分の電車に乗る。
歩き始めは薄暗かったがよく知った町なのですんなり過ぎた。
富田林に入ると丁度登校時間なのか子どもに話しかけながら歩を進める。
富田林の寺内町に入ると現在も創建当時の六筋七町の町割りや重要文化財の住宅があり、往時の繁栄を偲ぶことができる。
やがて 旧杉山家住宅に着く。ここは富田林の寺内町でも最古級の町屋敷です。
羽曳野市・藤井寺市では 面積では堺市の仁徳天皇についで第二位だが体積では第一位といわれる応神天皇陵等の古墳を見ながら、日本最古といわれる八幡宮の誉田八幡宮や道明寺天満宮に参りながら通る。
柏原市に入り、昼には少し早いが暑くなって来たので、昼食場所を探す。
市役所が目に入り、二人で市役所の食堂に入り、食し、暑くなった身体を冷やす。昼前になって、食堂も混みだしたので、食後(12時)スタ-ト、ぺ-スを落として日陰を選んで歩く。
本日のゴ-ル近鉄の恩智駅に13:00着。ス-パ-の中に入り、身体を冷やし、冷たい物を買う。
電車を乗り継ぎ、河内長野で寄り道をして帰る。
二日目(8月25日)
前回終了した恩智駅になんば経由で行くほうが速いと思って行ったがかえって時間がかかってしまった。
恩智駅をスタ-トし車の往来の激しい道を北へ北へと歩を進める。
この街道筋には、多くの神社があり、鳥居もたくさんあった。
途中、地元の人達から「石切さん」と親しまれている石切神社に寄る。
弘法大師がこの道を通った際、当地に10日間ほど滞在され、この橋の欄干を枕にして休息したことから、ネノコ橋と言われ、それがいつの頃からメノコ橋と呼ぶようになったと伝えられています。今は欄干石だけが残り、無造作に放置されている。
慈眼寺(野崎観音)
正式には曹洞宗の慈眼寺という。平安中期にある遊女が自分の病気平癒のため祈願したところ病気が治ったので、感謝の気持ちで再建したそうだ。
一時荒廃したが、近世の初頭頃より野崎参りが盛んになり「観音さん」で親しまれ、今も大勢の参拝者で賑わっている。
このように各市町村で街道の標識が工夫されているのが嬉しいことだ。
今日のゴ-ルは 交野市の星田駅だ。到着後、冷たい物を身体に入れ、帰宅の途につく。
三日目
本日のスタ-ト星田駅へ。
八幡市駅のゴ-ルを目指して、一路北へ・北へと歩を進める。
途中、洞ヶ辻の茶屋で昼食をとる。
次は 「松花堂の庭園」見学に。
石清水八幡宮の社僧で寛永の文化人といわれた松花堂昭乗ゆかりの庭園だ。
いくつもの茶室があり、庭の手入れも良かった。特に竹やぶが良かった。
エジソンが電球を発明した時、ここ八幡の竹をフィラメントにしたということで有名です。
美術館もあり、ゆっくり見学するには時間が必要。
やっと京・大阪道との合流点・八幡市に到着。
ケ-ブルに乗り、お参りした。
この石清水八幡宮は 九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡に挙げられる全国屈指の神社です。
これで、東高野街道約60Kmを延べ3日間を費やし、無事踏破した。
2009年04月01日
私の足跡 31 西高野街道 河内長野~大阪天満橋~
2 橋本→河内長野→堺→大阪(京橋) 距離 45km 日数 3日
橋本は縄文時代から人が住み、遺跡が残っている。
奈良時代は都人が和歌山の海や温泉等に行くときに使った南海道があり、橋本を詠んだ万葉集が10首残っている。
平安時代は空海が高野山に真言密教を開くのに通った町です。
江戸時代の初めからは応其上人が新しく造った町が栄え、この地域の中心都市として栄えた。高野街道だけでなく、大和街道にも遺跡は随所に残っている。
大和街道は和歌山から奈良を通り伊勢までの道で、ある時期紀州の殿様が行列をつくり通った道でもある。橋本には十一里塚・十二里塚それに本陣等の遺跡もある。
大和街道は 後ほど紹介するにして、高野街道を歩きます。
高野街道には十一里塚等の塚はないがそれに変わるものとして堺から高野山まで一里ごとに十五の里石がある。この里石は現大阪狭山市の姓もない百姓二人が旅人の旅を考え発起人となり造ったものです。(十一里塚等の塚は幕府・藩が造った)
御幸辻(旧高野街道と新しくできた橋本の町を通る新高野街道の追分)にも街道を思わせる建物がある。
そこを出てしばらくすると六里の里石がある。
橋本から二里で大阪との県境・紀見峠に着く。ここは大阪から来ると紀州が見える峠ということで紀見峠という。ここにも街道の面影が残っている。
ここからは 車のよく通る道を通ることとなるので七里石を見ると電車の廃線や里道を通って三日市町へ。ここも、昔の面影を残している所だ。八里石も見て、河内長野へ。古い酒造りの家の前を通る。大きな樟ノ木があった。
河内長野は東高野街道と西高野街道との追分で当時は大いに賑わったことでしょう。東高野街道については後日に記すことにして今回は堺を通り天満橋へ行くことにする。
途中、中高野街道との分岐もあった。
道中に里石や地蔵尊等があるが説明のないものもあるので時間がかかる。
途中、上の写真のように道標が多くあったのでスム-スに進めることができ有難かった。
しばらく道標を頼りに進み仁徳陵の古墳を過ぎて、堺市の市役所横に到着。
それから大小路橋をめざして進んだが見つからない。何人かに尋ねてやっと見つかる。今は高架橋の下の植樹帯の中に欄干の一部が頭を出していた。
昔は賑わったであろう大小路橋も今ではこの姿なので時代の流れを感じるねと仲間と話し合う。
今回の最終地点の高麗橋から出発している紀州街道(熊野街道)が南の熊野方面に通っている。この街道も熊野詣で賑わった道なので後日に記す事にする。今、記している西高野街道はこの熊野街道から分岐して高野山に至る街道です。
これから天満橋の淀川まであと少しだ。
途中、住吉大社や四天王寺にお参りしながら目的地の高麗橋の里程元標に到着。日本の里程元標は東京の日本橋にあるが西日本の道路の起点だ。
2009年03月15日
私の足跡 30 高野山~日本海へ。高野~橋本
総延長 200Km 総日数 9日
N01 高野山から大阪(京橋)まで 総延長 60Km 総日数 3日
これから、高野山から太平洋の小浜まで歩きますが、いろんな道があるので整理してみたい。
先ず高野山から北の紀ノ川へ下り、京都・大阪へ続く道は高野七口の内三口がある。(後四口は南の方へいく)
一つは空海以来の歴史があり、有名(世界遺産)な町石道です。これについては簡単だが前述しているので省略します。
二つ目は高野山へは道は険しいが最短距離の黒河道です。
橋本から二つの峠を越え、最後に約1000mの峠を越え、奥の院の裏手に着きます。その間、時々小さな集落を通るが後は殆んど山中です。最後の峠の手前の集落は昭和の初めからは集落跡になり、今は家の石垣跡や田んぼの跡が残っているのみである。
この道を有名にしているのは、1594年(文禄3年)豊臣秀吉は母の霊を弔うため、高野山に青巌寺を建て三回忌の供養を行った際、高野山で弘法太子以来禁じられている大能楽を笛等の鳴り物を使って催したため、雷鳴が鳴り響き、豪雨となった。これはきっとと思った。それで、秀吉は馬に乗り弘法太子の怒りにふれたものと思い、この黒河道を使い急ぎ馬に乗り駆け下り、紀ノ川の近くの利生護国寺に逃げたという話の道です。利生護国寺にはその馬を繋いだという「駒繋ぎの松」の何代目かがある。
もう一つの三つめは、江戸時代から明治時代までよく利用された学文路から不動坂を通り女人堂までの道です。
この道は黒河道より長いが、町石道(5里)に比べ3里と短く、黒河道のようには険しくないということでよく利用された。
この二つの道は応其上人が橋を作ったりして、橋本の町を開いてからよく利用されるようになった。
これ以外に 7口ではないが名手から花坂まで来て後は町石道を通る。または粉河寺の粉河から花坂に来て後は町石道を通る、という道もある。(でも、この道は矢立で町石道に合流しているから町石道と同じ)
今回は、三つ目の不動坂を通り、学文路・橋本・河内長野・堺・大阪・京都までの道をたどることにする。
、
1 高野山から橋本まで 距離 16km
先ず、高野山に七つあった女人堂で唯一現存している不動坂口の女人堂から出発。
(明治の初めまでは 女性はこの女人堂より中には入れなかった所です。)
この不動坂から学文路までのことで顕著なことを三つ書きます。
一つ目は貝原益軒の紀行文です。この道を歩いて記事を書き、現在残っている物の中に江戸時代前期に活躍した貝原益軒(1630~1714)の「己巳紀行」の中に この道の事を次のように書いている。(高野山大学の村上・山陰先生共著の「高野への道」より抜粋)[それより山を下る。不動坂にかうのたき(稚児の滝の誤り)有り。佳き景也。不動堂有。小也。神屋(神谷)は高野の坂半ばに在。大塔より五十町有。民屋有。此間、道嶮難也。馬にのる事あたはず。藍輿にものられざる所あり。此下に所々、山の側に桃花多し。鐘鋳(河根)、神屋より五十町有。かぶろ(学文路)の宿高野より三里有、俗にいふ、かるかや道心の妻の墓有。其前に小寺あり。常念仏也。清水・三軒屋など皆高野往来の道にて茶屋有。旅人宿す。・・・・・]とある。
貝原益軒の時代の神谷は上記のようであるが江戸時代中期の「南歩の紀行」によると神谷について「紙屋宿駅繁多なり」とある。
明治時代には街道沿いに十件ぐらいの旅館があり、その内容は 普通の旅館と遊興のための料理旅館と行商人等の木賃宿に大別されていたともいわれている。とにかく、「日が昇ると銭が涌く」と言われたぐらい繁盛したらしい。
ところが、昭和の初めに電車が極楽橋まで延びたのでお客はサッパリになり、人口も減り、今では面影を残す家もあるが民家もわずかになり、児童数100名を越えた学校も今は廃校となっている。
二つ目は、この地で起きた事件を記しておきます。
それは、明治六年に太政官布告で 仇討ち禁止令が出される前の明治2年にこの坂で仇討ちが行われた。
これがわが国最後の仇討ちの地といわれている。
1479年に書かれた「親長卿記」に河根で休憩したとあるので室町中期より宿場があったことがわかるが最も栄えたのは江戸時代以後から明治時代までであつた。
左の写真は 当時賑わったころ繁盛した宿で 前記の仇討ちの人もこの宿を使用したことでしょう。
三つ目は、登山口の学文路は石童丸物語にゆかりの地で、刈萱堂がある。
そして、石童丸・父の刈萱道心・母の千里等の木造坐像等がある。
坂道も終わり、平らな道になり、橋本方面へ。
ここの三叉路に慈尊院へ一里、女人堂へ三里の標柱がある。
途中、学問の神様といわれる学文路太師がある。
また、六地蔵一つや古い屋敷があったりして昔の街道の面影がよく残った所です。
(この六地蔵は第一の地蔵で旅人の安全を記念してつくられている。ここは西行庵ともいわれ高野山に隠棲していた西行が冬の寒さを避けて庵を結んだ所といわれ 堂内に西行法師の月見像といわれる木像があんちされている)
江戸時代は街道筋に200軒余りの民家が密集し、伝馬所には馬が60頭もいて繁栄していたらしい。今も重厚な瓦屋根の下に格子戸や蓮子窓を残す家も多い。
三軒茶屋に着く。応其上人が開いた橋本と渡し船で結んでいた所だ。
現在も川の両側に約250年前に建てられた高さ3.5mの大常夜灯が今も
ある。この渡し船は高野山の援助もあり、無賃で24時間営業だった。
(左側は清水側の常夜灯 右側は橋本側の常夜灯)
(以前、ここに応其上人はこの川に木造の約200mの橋を1587年に作ったが3年後に流されたので渡し舟をつくった。)
次は橋本だが、縄文時代からの住居跡も見つかり古くから栄えていたが、秀吉の時代に応其上人が塩市等を開き、爆発的に発展した町です。
木食応其上人は古佐田村に1585年に町をつくり、定期市を開き、塩の販売の独占権を与え豊臣秀吉から永代諸役免除の特権を得て、橋本の町の発展の基礎を作った。2008年は応其上人没後400年祭で地元橋本は多くの催しがあった。
応其上人を祀った応其寺
高野街道と大和街道の追分の道標
この橋本は高野街道と大和街道が交差して賑やかな町に成長した。
2009年01月15日
私の足跡 25 橋本~高野山~熊野本宮~那智
今年も 私のブログを愛読していただくことをお願い申し上げます
昨年1年間は、「私の足跡」のうち、登山の部を記しましたが、今年は街道
歩き 等の「ウオーキングの部」を記します。
私のウーキングの主なものは下記の通りです。
1 日本海から鯖街道・京 大阪道・熊野街道を通り太平洋へ。
2 中山道の全宿場に足跡を残す。
3 東海道492km完全走破。
4 伊勢街道を歩く。
5 葛城修験道を歩く。
6 四国遍路を歩く。
7 その他
上記のウオ-キングの全ては 、一度に歩き終えたのではなく、何度も出かけ
到達したものばかしです。
日本海から鯖街道・京 大阪道・熊野街道を通り太平洋へ
17年7月に 日本で12番目に世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と
参詣道」の近くに住んでいる。この「紀伊山地の霊場と参詣道」を最初に記し
ていきます。
近くに住んでいたというのが第一だが,登山などにも興味があったので、
上記の世界遺産の一部・「高野山の町石道」の語り部の講習会を受け、そ
この語り部を現在も続けている。
このスバラシイ「高野山の町石道」を、後々の世代の人達にも愛し続けて
欲しいという願いから世界遺産マスタ-になり、美化に勤めたり、簡単な補
修を自分達の手で行い、手におえない事は連絡をして修理してもらい保全に
勤めています。
また、「町石道」の周辺の杉林の間伐をするときは手伝いにも行きます。
ここで、町石道について簡単に記してきます。機会があれば是非歩いてく
ださい。
弘法大師は、816年に嵯峨天皇の許しを得て、高野山を真言密教の道場
として開いた寺です。御年42才の時です。
生活の拠点・京都から高野山へは、和歌山の慈尊院をへて、高野山へ登る
道を作った。これが町石道です。
「高野山の町石道」は九度山から高野山の壇上伽藍までの距離約20km 標高差約800mをお客さんの脚力にもよるが約7時間かけて登る道です。
当初、弘法大師が開いたといわれる道で、初めは 木の卒塔婆だったが、
鎌倉時代に一町(約109m)ごとに花崗岩の町石卒塔婆を180基を揃えた参
詣道です。(参詣道では、世界遺産の二例目)
出発地の慈尊院は、当初 高野山の政所であった。
弘法大師の母親が息子の修行している様子を知りたく、晩年ここで過ごし、
終焉している。(国宝 弥勒菩薩がある。) 世界遺産になっている。
この町石道を長い間 上皇・貴族・武士・庶民が極楽浄土に導かれますよ
うにと祈りながら登った道です。苔むした180基の町石道のそれぞれに歴
史の重みが感じられ、約700年以上もの間に、幾多の人々を見送ったこと
と思うといろんな思いがします。町石ばかりでなく、道端の木々・草木にも
同じ思いがします。
この道は 本来、祈りの道だと思いますが、登る人によって思索の道かも
知れないし、ただ単に語らいの道などいろいろあると思います。
そして、江戸時代までも続き、南海電車が高野山まで通じるまでおおいに
賑わった道です。その道が現在も残り、当時の町石卒塔婆も殆んど残り(な
くなっていた石は大正時代に殆んど補充)、世界遺産にされている。
途中の天野に、高野山と深い関わりのある丹生都比姫神社(建物の一部
重文)があり、ここも世界遺産になっている。
ここ天野の里は、西行の奥さん・娘が尼さんになりここに住み、墓もある。
また、横笛が恋人の滝口入道に会いたくて京から天野にきて待ち続け、18
才であの世へいった等話題も豊富な所です。
60町石より上には「鞍架け石」「押し上げ石」等弘法大師に関わった石が
残っている。
今までに、北は北海道の夫婦が四国遍路を終え、高野山に参る時に案内を
した。
また、南は、沖縄の教員が休みを利用して、近畿地方の世界遺産をめぐる時
に案内した。
新潟や大分県の「山好きの会」の団体も案内した。
このように、日本各地のいろんなお客さんを弘法大師の霊場へ案内している。
その中には、小学生の団体がいたり、大学生のグル-プもいました。
町石道には四季の顔がある。
初夏には、花々に囲まれ 新緑の木々に覆われた町石道。
秋には、紅葉の葉に覆われ紅葉の葉を踏みしめて登る町石道。
冬には真っ白な雪の道を踏みしめて登る町石道。
どの季節もスバラシイです。
ささ百合
白糸草の群落
カラスウリの花
はないかだ
特に 初夏には花々が満面に笑みをたたえ、私たちを迎えてくれる。
上記のように、「高野山の町石道」に関わったことから、白河上皇や鳥羽上
皇等の皇族や藤原道長等の貴族たち それにたくさんの庶民が 何度もお参り
に使った道を歩いてみたくなった。
先ず、高野山から熊野神宮を経て 那智大社へ。
次は、京都から日本海の小浜までの鯖街道
最後に京都から大阪を経由して高野山への道。 を記していきます。
地図は不鮮明なので補足します。
日本海の小浜から京都までの鯖街道。京都から大阪までの京・大阪道。
その途中の八幡から河内長野までの東高野街道。
大阪から堺・和歌山・田辺を通り、本宮までの熊野街道。
この途中の堺から河内長野までの西高野街道を通り、橋本から学文路を
経由して、して不動坂を通り、高野の女人堂へ。
この道の学文路から九度山経由で高野山町石道を通り高野山の大門へ。
高野山から小辺路を通り、本宮へ。
そして、小雲取越・大雲取越を通り、太平洋の那智に至る。
また、田辺から串本を経由しての大辺路と伊勢と那智とを結ぶ伊勢街道
がある。