登山 日本アルプス
2008年11月01日
私の足跡 20 奈良の灯火会と焼岳
2007年8月24・25日
ツア-の夜行バスでK氏とM氏で焼岳へ
このツア-は昨年も行ったが私の体調管理の不行き届きの為断念し、M氏にも迷惑をかけたリベンジの山行です。
一日目
日程を有効に使えないかと考え、近くで行われている行事を探した。
(昨年は奈良の灯火会の写真撮影をして登山に向かった) その結果、京都の念仏寺の写真撮影に行くことにした。
家を早く出、難波15時、念仏寺の写真撮影に行ったが、境内は狭いため三脚は使用禁止。そのため、夜間の撮影は出来なかったので昨年の奈良の灯火会の写真を使用した。
京都の竹田駅で一時間待って、バスに乗る。今回の参加者は23名でゆったりしていた。
車内は前回に比べよく眠れた。
二日目
3時、平湯着。到着後なかなか眠れない。4時から出発の準備。
5時にバスは出発し、登山口へ。5時半、登山開始。天気はよいが涼しくまた森林の中なのでピッチが上がる。
森林限界が過ぎると急に目指す焼岳が目前に姿を現した。皆も歓声をあげる。
でも、森林限界を越え、日ざしの強い時間になってきたので辛くなる。また、急登が始まる。 途中、めずらしく娘から携帯に電話。感度良好。焼岳登山中と話すと娘もビックリ。
やっと頂上直下になり、振り向くと笠ヶ岳(2897m)が眼前にくっきり姿を見せた。 50年前とは山容は変わっていないが初めて泊まった山小屋はすっかり変わっているでしよう。
硫黄臭が鼻につく噴煙も眼前の噴気孔から音をたて噴出していた。
焼岳北峰頂上(2393m)着、9時半。残念ながら三角点のある南峰(2455m)へは立ち入り禁止。
天気は良く、180度視界抜群。先ほどの笠ヶ岳をはじめ西穂・前穂・奥穂・北穂の穂高岳連峰から槍ヶ岳までの素晴らしい姿が眼前にある。50年程前に槍・穂高を縦走した時の苦しさを思い出し感慨にふける。
写真にたくさんおさめた後、下山開始、10:00。コ-スは上高地への下山道をとる。
途中、中尾峠までは急な下り坂の連続で、それに火山独特の火山礫や火山砂でマイッタ。 振り返れば焼岳の頂上が見下ろしていた。
静かな佇まいの焼岳小屋で昼食。ホット一息。下山開始、11:00.しばらくしてまた急な坂道。 それに梯子や鎖の連続。
梓川の近くの焼岳登山口までくると道も緩やかになる。1時間足らずで人の賑わう上高地へ、13時過ぎ。
平湯へ15時過ぎ。温泉で汗を流し、水分補給を。
帰宅、20時半頃。
ツア-の夜行バスでK氏とM氏で焼岳へ
このツア-は昨年も行ったが私の体調管理の不行き届きの為断念し、M氏にも迷惑をかけたリベンジの山行です。
一日目
日程を有効に使えないかと考え、近くで行われている行事を探した。
(昨年は奈良の灯火会の写真撮影をして登山に向かった) その結果、京都の念仏寺の写真撮影に行くことにした。
家を早く出、難波15時、念仏寺の写真撮影に行ったが、境内は狭いため三脚は使用禁止。そのため、夜間の撮影は出来なかったので昨年の奈良の灯火会の写真を使用した。
京都の竹田駅で一時間待って、バスに乗る。今回の参加者は23名でゆったりしていた。
車内は前回に比べよく眠れた。
二日目
3時、平湯着。到着後なかなか眠れない。4時から出発の準備。
5時にバスは出発し、登山口へ。5時半、登山開始。天気はよいが涼しくまた森林の中なのでピッチが上がる。
森林限界が過ぎると急に目指す焼岳が目前に姿を現した。皆も歓声をあげる。
でも、森林限界を越え、日ざしの強い時間になってきたので辛くなる。また、急登が始まる。 途中、めずらしく娘から携帯に電話。感度良好。焼岳登山中と話すと娘もビックリ。
やっと頂上直下になり、振り向くと笠ヶ岳(2897m)が眼前にくっきり姿を見せた。 50年前とは山容は変わっていないが初めて泊まった山小屋はすっかり変わっているでしよう。
硫黄臭が鼻につく噴煙も眼前の噴気孔から音をたて噴出していた。
焼岳北峰頂上(2393m)着、9時半。残念ながら三角点のある南峰(2455m)へは立ち入り禁止。
天気は良く、180度視界抜群。先ほどの笠ヶ岳をはじめ西穂・前穂・奥穂・北穂の穂高岳連峰から槍ヶ岳までの素晴らしい姿が眼前にある。50年程前に槍・穂高を縦走した時の苦しさを思い出し感慨にふける。
写真にたくさんおさめた後、下山開始、10:00。コ-スは上高地への下山道をとる。
途中、中尾峠までは急な下り坂の連続で、それに火山独特の火山礫や火山砂でマイッタ。 振り返れば焼岳の頂上が見下ろしていた。
静かな佇まいの焼岳小屋で昼食。ホット一息。下山開始、11:00.しばらくしてまた急な坂道。 それに梯子や鎖の連続。
梓川の近くの焼岳登山口までくると道も緩やかになる。1時間足らずで人の賑わう上高地へ、13時過ぎ。
平湯へ15時過ぎ。温泉で汗を流し、水分補給を。
帰宅、20時半頃。
2008年08月15日
私の足跡 15 乗鞍と八方 山上・普賢岳・行者還岳
2004年 8月5~8日
兄夫婦と私達で、乗鞍と八方尾根へ
一日目
列車の乗り継ぎも予定通りに行き、乗鞍岳の畳平の山小屋に着く。 小屋に荷物を置き、軽装で頂へ。 畳平へ下山後、お花畑を散策していると雷鳥の親が子どもを連れて散歩しているのに遭遇。木道に立っている私達の傍を急ぎもせず、怖がりもせずゆっくりと歩いていた。子どもの雷鳥も立ち止まったりはあまりせず黙々と親の後を追いかけていた。多分、食べ物もしっかり食べねぐらに帰ろうとしているらしい。
宿舎へ帰る途中、ウスユキそうが咲き、見事だった。
夜、大学生のグル-プは星の観察をしていた。
小屋の主人は、若い頃から山が好きで、人生の大半は山暮らしで、いくつかの山小屋の管理をしているらしい。
壁にたくさん貼ってある著名人の色紙の内の一枚です。
二日目
朝、曇っていて、ご来光は駄目なので7:00発のバスで下山。列車等を乗り継ぎ予定通り、八方尾根に着く。13:00に登りはじめたが、晴れたり、ガスったりで景色は今一つだったが八方池あたりまでくると、天気は良くなり、目の前に岩だらけの唐松岳が迫ってきてきている。40数年前 白馬岳から縦走し、鎖場と梯子の連続だった不帰ミネを思い出した。そして、それが八方池に映り最高だった。
その夜の宿舎をペンションにしたので女性たちに喜ばれた。
三日目
早朝 、朝食前に素晴らしい朝焼けの山々を見に出かけた。
美術館・長野オリンピックのスキ-のジャンプ台等の見学をした後、予定通り14:40分の列車に乗るが、途中、突然の雷雨の影響で1時間ほど遅れて帰宅、22:20分。
2004年9月19~20日
K氏M氏と世界遺産の奥駆けの一部へ
一日目
8時前に家の近くでk氏の車に乗せてもらい、登山基地の洞川へ。
10:00 登山開始。女人結界の碑を通り、2時間ほどすると夫婦連れが降りてくるではないか。一瞬、目を疑い、通り過ぎてから友人に確認すると確かに女性とのこと。しばらく、女性に会えないと思っていたので意外に思った。
途中、鎖を使い岩山をよじ登る鐘掛岩等で修行をしながら、宿坊着、15:00.
半時間後、荷物を部屋に入れた後、宿坊の人に頼み、普段は表行場(西の覗き等)での修行が多いので裏(東)行場へ連れて行ってもらった。そこでは 細い岩の隙間を通る胎内めぐりをして生まれ変わったり、蟻の戸渡りと平等岩まわりをして、一歩間違えば奈落の底へという岩場を通り修行をしたりした。
終了後、頂上の本堂で、世界遺産に登録できたということを記念して今だけという秘仏をみせてもらった。
外に出ると雨が降っていたので傘を借りて宿坊へ。 夜、大相撲の土俵に女性が上っても良いという意見もある時代なので、宿坊の人と昼間会った女性のことを話し、女人禁制の山について話し合った。大峰山も宿坊の中や寺の中(私有地)へ入ることには強く拒むが 公道ては協力をして下さいとしか言わないと言っていた。彼の話では、日本に女性しかお参り出来ない神を祀った島があり、女性以外は島にも入らないでいるということもあるのだからわかって欲しいと話していた。私達も賛成した。
夜、寝ようとしたが雨が降っていた。
二日目
深夜より天気が気になり絶えず窓から空をみていた。星も見えていたので、出発決定。4時半起床。出発 5時半。昨日 借りた傘を返し歩いていると、ガスが出てきて、景色が見えにくくなった。でも、雨もないので、ビッチをあげる。山伏さん達の修験場の「宿」をいくつか通過。 小普賢岳が近づいた頃よりアップダウンが厳しくなり、岩場も出始める。
大普賢岳の頂上で初めて登山者に会う。 女性の登山者も3人いたので、女人禁制の山について話を聞くと我々の意見と同じで、無理にその山に登らなくても他にたくさん山があるのだからそこに登ればよいとの意見だった。
大普賢岳の前後からしばらく鎖や梯子の連続だったので、肉体的にも 精神的にも疲れ、思ったより時間を費やした。
国見岳付近よりアップダウンの厳しさがなくなり、岩場も減ってきて喜んでいた。
行者還岳付近の遭難碑を過ぎたあたりのアップダウンにはマイッタ。行者還のトンネルの上まではアップダウンが少なかったがそこからの下りの厳しさにはほんとうにマイッタ。
車で洞川温泉へ。そして、公衆浴場で入浴。帰宅 18:00。
兄夫婦と私達で、乗鞍と八方尾根へ
一日目
列車の乗り継ぎも予定通りに行き、乗鞍岳の畳平の山小屋に着く。 小屋に荷物を置き、軽装で頂へ。 畳平へ下山後、お花畑を散策していると雷鳥の親が子どもを連れて散歩しているのに遭遇。木道に立っている私達の傍を急ぎもせず、怖がりもせずゆっくりと歩いていた。子どもの雷鳥も立ち止まったりはあまりせず黙々と親の後を追いかけていた。多分、食べ物もしっかり食べねぐらに帰ろうとしているらしい。
宿舎へ帰る途中、ウスユキそうが咲き、見事だった。
夜、大学生のグル-プは星の観察をしていた。
小屋の主人は、若い頃から山が好きで、人生の大半は山暮らしで、いくつかの山小屋の管理をしているらしい。
壁にたくさん貼ってある著名人の色紙の内の一枚です。
二日目
朝、曇っていて、ご来光は駄目なので7:00発のバスで下山。列車等を乗り継ぎ予定通り、八方尾根に着く。13:00に登りはじめたが、晴れたり、ガスったりで景色は今一つだったが八方池あたりまでくると、天気は良くなり、目の前に岩だらけの唐松岳が迫ってきてきている。40数年前 白馬岳から縦走し、鎖場と梯子の連続だった不帰ミネを思い出した。そして、それが八方池に映り最高だった。
その夜の宿舎をペンションにしたので女性たちに喜ばれた。
三日目
早朝 、朝食前に素晴らしい朝焼けの山々を見に出かけた。
美術館・長野オリンピックのスキ-のジャンプ台等の見学をした後、予定通り14:40分の列車に乗るが、途中、突然の雷雨の影響で1時間ほど遅れて帰宅、22:20分。
2004年9月19~20日
K氏M氏と世界遺産の奥駆けの一部へ
一日目
8時前に家の近くでk氏の車に乗せてもらい、登山基地の洞川へ。
10:00 登山開始。女人結界の碑を通り、2時間ほどすると夫婦連れが降りてくるではないか。一瞬、目を疑い、通り過ぎてから友人に確認すると確かに女性とのこと。しばらく、女性に会えないと思っていたので意外に思った。
途中、鎖を使い岩山をよじ登る鐘掛岩等で修行をしながら、宿坊着、15:00.
半時間後、荷物を部屋に入れた後、宿坊の人に頼み、普段は表行場(西の覗き等)での修行が多いので裏(東)行場へ連れて行ってもらった。そこでは 細い岩の隙間を通る胎内めぐりをして生まれ変わったり、蟻の戸渡りと平等岩まわりをして、一歩間違えば奈落の底へという岩場を通り修行をしたりした。
終了後、頂上の本堂で、世界遺産に登録できたということを記念して今だけという秘仏をみせてもらった。
外に出ると雨が降っていたので傘を借りて宿坊へ。 夜、大相撲の土俵に女性が上っても良いという意見もある時代なので、宿坊の人と昼間会った女性のことを話し、女人禁制の山について話し合った。大峰山も宿坊の中や寺の中(私有地)へ入ることには強く拒むが 公道ては協力をして下さいとしか言わないと言っていた。彼の話では、日本に女性しかお参り出来ない神を祀った島があり、女性以外は島にも入らないでいるということもあるのだからわかって欲しいと話していた。私達も賛成した。
夜、寝ようとしたが雨が降っていた。
二日目
深夜より天気が気になり絶えず窓から空をみていた。星も見えていたので、出発決定。4時半起床。出発 5時半。昨日 借りた傘を返し歩いていると、ガスが出てきて、景色が見えにくくなった。でも、雨もないので、ビッチをあげる。山伏さん達の修験場の「宿」をいくつか通過。 小普賢岳が近づいた頃よりアップダウンが厳しくなり、岩場も出始める。
大普賢岳の頂上で初めて登山者に会う。 女性の登山者も3人いたので、女人禁制の山について話を聞くと我々の意見と同じで、無理にその山に登らなくても他にたくさん山があるのだからそこに登ればよいとの意見だった。
大普賢岳の前後からしばらく鎖や梯子の連続だったので、肉体的にも 精神的にも疲れ、思ったより時間を費やした。
国見岳付近よりアップダウンの厳しさがなくなり、岩場も減ってきて喜んでいた。
行者還岳付近の遭難碑を過ぎたあたりのアップダウンにはマイッタ。行者還のトンネルの上まではアップダウンが少なかったがそこからの下りの厳しさにはほんとうにマイッタ。
車で洞川温泉へ。そして、公衆浴場で入浴。帰宅 18:00。
2008年07月15日
私の足跡 13 北アルプス 蝶・常念・大天井・燕岳
2003年8月13~17日
久方ぶりのアルプス縦走。そして、メンバ-も久方ぶりのフルメンバ-5名で蝶・常念・燕岳へ。「槍ヶ岳」・「穂高岳」をゆっくり眺めるのが目的。
二日目
前日の夜行バスで上高地へ。
早朝、上高地に着くと雨。待合室の軒下で朝食。雨具をつけ、明神までの散歩道のようなフラットな道を行く。
そして、約2時間で、井上靖の小説で有名な氷壁の宿・徳沢園に着き、小休止。
ここで、槍・穂高の道と分れ、右の坂道に入り、長塀屋根に取りかかる。
雨の中、急登の樹林帯を登りつづける。
途中、何人かに、この雨は止みそうにないよと言われたが、皆の意志は頂上という事で歩き続け、予定通り14:00過ぎに前蝶ケ岳の近くにたっている山小屋に到着。
小屋はシ-ズンと雨のため混み合っていた。
着て来た服などを乾かすため干そうとするが、他の客のもあり、うまくいかない。
本日も予定通り過ごせたことを祝し、S氏の持って上がってきたパック酒で乾杯。 夕食後、8時過ぎに床につく。
外は相変わらず雨が降っている。
時間が早いためかなかなか眠れないので睡眠薬を飲み眠る。
三日目
早く目が覚める。外は雨。
雨のため、常念岳をあきらめ、下山するグル-プがいくつもある。
我々は相談の結果、初志貫徹、予定通り常念岳を目指すことにする。
6時出発。
蝶ケ岳の頂上(2664m)を極め、蝶槍も過ぎ、アップダウンを繰り返し2時間ほど進む。
突然、ニッコウキスゲ等の高山植物の咲き乱れる所に突入し、しばしの間、癒しの空間に浸ることができた。
その後は小ピ-クのいくつかを両手・両足を使って進む。
この頃より雨も上がり、視界も良くなりつつある。
雨具も少しずつ脱ぎ始める。
ぼんやりピ-クが見えると「あれが常念の頂上か」と思ったが、その先にはまたピ-クが現れ何度だまされガッカリしたことか。
皆も雨の中の歩行なので相当疲れている。
13:00過ぎ、やっと常念岳頂上に到着。視界も少しずつ良くなり、遥か足元に常念小屋が見える。
小休止後、小屋に向け、下り始める。この坂は急な坂で、小屋は見えていてもなかなか到着しなかった。やっと、14:30過ぎ、到着。
小屋の前のベンチで多くの人がくつろいでいた。我々も宿泊の手続きを済ませ、荷物の整理をし、カメラを持って外に飛び出る。そして、下りてきた常念岳や明日登る横道岳などをカメラにおさめた。
夕食前に、M氏の持って上がってくれた焼酎・洋酒で乾杯。
夕食をしていると外から「槍が見えた」との声。夕食を急いで済ませ、外へ
飛び出る。確かに「槍ヶ岳」だ。皆の歓声がすごい。我々も歓喜に浸る。
明日を楽しみに床に就く。
四日目
早く目覚めたが5時前起き、カメラを持ち外へ飛び出る。外はまだ暗いが空は
晴れている。明るくなるのをじっと待っていた。東の空には雲があり、日の出は良くない。しかし、西の空に目をやると、雲も無く期待は持てそうだ。
寒さを忘れて待っていると西の空がどんどん赤くなり始め、真っ赤になった
「朝焼けの槍ケ岳」が ばっちり見えた。何度も何度もシャッターを押した。
また、「槍ケ岳」の左には「穂高」も見え、心が高ぶり通しだった。ラッキ-なことにこの時の「朝焼けの槍ヶ岳」の写真が我々の機関紙「年輪」に掲載してもらった。(1年ほど前に掲載してもらつたのに続き2度目)
朝食後、出発。左手に「槍」「穂高」を見ながら前進。昼過ぎの大天井岳付近まで、ずっと、姿を見せて我々を 見送ってくれていた。
表銀座コ-スに入り、コマクサ等の高山植物に癒されながら燕山荘へ。
途中、大天井岳(2921m)をめざして歩く。(麓に山小屋「大天荘」が見える。)
荷物を置き、往復1時間ほどの燕岳の頂上へ。ザラザラした白砂の中に突き出た奇怪な花崗岩帯をくぐるように進んで頂上へ。途中、コマクサが綺麗だった。ブロッケン現象がくっきり見えた。小屋の傍のコマクサ園で、珍しく白い花のコマクサを見た。小屋の人の話では 突然変異で起こるそうです。
夜、燕山荘の人がホルンを吹いて聞かせてくれた。
>五日目
朝、起きると雨。6:15頃発。雨の中、急坂で有名な道をスリップに気をつけ、下り始める。中房着、9:45頃。久方ぶりの風呂に入り、5日分の汗を流し、穂高駅へ。近くの食堂で 蕎麦定食を。勿論、ビ-ルをしっかり飲み、縦走を祝す。
列車出発までの時間を利用して道祖神の写真撮影を。
帰宅、21:00。
今回の登山は、「槍ヶ岳」・「穂高岳」をゆっくり眺めるという目的だったが前半・後半は雨だったが肝心の「常念岳」付近だけ天気は良く、上記の目的達成で感謝・感謝。
久方ぶりのアルプス縦走。そして、メンバ-も久方ぶりのフルメンバ-5名で蝶・常念・燕岳へ。「槍ヶ岳」・「穂高岳」をゆっくり眺めるのが目的。
二日目
前日の夜行バスで上高地へ。
早朝、上高地に着くと雨。待合室の軒下で朝食。雨具をつけ、明神までの散歩道のようなフラットな道を行く。
そして、約2時間で、井上靖の小説で有名な氷壁の宿・徳沢園に着き、小休止。
ここで、槍・穂高の道と分れ、右の坂道に入り、長塀屋根に取りかかる。
雨の中、急登の樹林帯を登りつづける。
途中、何人かに、この雨は止みそうにないよと言われたが、皆の意志は頂上という事で歩き続け、予定通り14:00過ぎに前蝶ケ岳の近くにたっている山小屋に到着。
小屋はシ-ズンと雨のため混み合っていた。
着て来た服などを乾かすため干そうとするが、他の客のもあり、うまくいかない。
本日も予定通り過ごせたことを祝し、S氏の持って上がってきたパック酒で乾杯。 夕食後、8時過ぎに床につく。
外は相変わらず雨が降っている。
時間が早いためかなかなか眠れないので睡眠薬を飲み眠る。
三日目
早く目が覚める。外は雨。
雨のため、常念岳をあきらめ、下山するグル-プがいくつもある。
我々は相談の結果、初志貫徹、予定通り常念岳を目指すことにする。
6時出発。
蝶ケ岳の頂上(2664m)を極め、蝶槍も過ぎ、アップダウンを繰り返し2時間ほど進む。
突然、ニッコウキスゲ等の高山植物の咲き乱れる所に突入し、しばしの間、癒しの空間に浸ることができた。
その後は小ピ-クのいくつかを両手・両足を使って進む。
この頃より雨も上がり、視界も良くなりつつある。
雨具も少しずつ脱ぎ始める。
ぼんやりピ-クが見えると「あれが常念の頂上か」と思ったが、その先にはまたピ-クが現れ何度だまされガッカリしたことか。
皆も雨の中の歩行なので相当疲れている。
13:00過ぎ、やっと常念岳頂上に到着。視界も少しずつ良くなり、遥か足元に常念小屋が見える。
小休止後、小屋に向け、下り始める。この坂は急な坂で、小屋は見えていてもなかなか到着しなかった。やっと、14:30過ぎ、到着。
小屋の前のベンチで多くの人がくつろいでいた。我々も宿泊の手続きを済ませ、荷物の整理をし、カメラを持って外に飛び出る。そして、下りてきた常念岳や明日登る横道岳などをカメラにおさめた。
夕食前に、M氏の持って上がってくれた焼酎・洋酒で乾杯。
夕食をしていると外から「槍が見えた」との声。夕食を急いで済ませ、外へ
飛び出る。確かに「槍ヶ岳」だ。皆の歓声がすごい。我々も歓喜に浸る。
明日を楽しみに床に就く。
四日目
早く目覚めたが5時前起き、カメラを持ち外へ飛び出る。外はまだ暗いが空は
晴れている。明るくなるのをじっと待っていた。東の空には雲があり、日の出は良くない。しかし、西の空に目をやると、雲も無く期待は持てそうだ。
寒さを忘れて待っていると西の空がどんどん赤くなり始め、真っ赤になった
「朝焼けの槍ケ岳」が ばっちり見えた。何度も何度もシャッターを押した。
また、「槍ケ岳」の左には「穂高」も見え、心が高ぶり通しだった。ラッキ-なことにこの時の「朝焼けの槍ヶ岳」の写真が我々の機関紙「年輪」に掲載してもらった。(1年ほど前に掲載してもらつたのに続き2度目)
朝食後、出発。左手に「槍」「穂高」を見ながら前進。昼過ぎの大天井岳付近まで、ずっと、姿を見せて我々を 見送ってくれていた。
表銀座コ-スに入り、コマクサ等の高山植物に癒されながら燕山荘へ。
途中、大天井岳(2921m)をめざして歩く。(麓に山小屋「大天荘」が見える。)
荷物を置き、往復1時間ほどの燕岳の頂上へ。ザラザラした白砂の中に突き出た奇怪な花崗岩帯をくぐるように進んで頂上へ。途中、コマクサが綺麗だった。ブロッケン現象がくっきり見えた。小屋の傍のコマクサ園で、珍しく白い花のコマクサを見た。小屋の人の話では 突然変異で起こるそうです。
夜、燕山荘の人がホルンを吹いて聞かせてくれた。
>五日目
朝、起きると雨。6:15頃発。雨の中、急坂で有名な道をスリップに気をつけ、下り始める。中房着、9:45頃。久方ぶりの風呂に入り、5日分の汗を流し、穂高駅へ。近くの食堂で 蕎麦定食を。勿論、ビ-ルをしっかり飲み、縦走を祝す。
列車出発までの時間を利用して道祖神の写真撮影を。
帰宅、21:00。
今回の登山は、「槍ヶ岳」・「穂高岳」をゆっくり眺めるという目的だったが前半・後半は雨だったが肝心の「常念岳」付近だけ天気は良く、上記の目的達成で感謝・感謝。
2008年04月11日
私の足跡 6 北岳・間の岳・悪沢岳・赤石岳
1997年7月30~8月1日
K氏D氏M氏と夜行で、北岳・間ノ岳へ
二日目
大阪を前夜発、塩尻に明け方に着き、2時間後中央本線で甲府へ。
駅前の「吉野家」で朝食をとり、昼食用の弁当を購入。バスで広河原へ。
登山開始。野呂川に架かるつり橋を渡り、広河原山荘のそばを通り、しばらくは、渓流に沿って歩く、何ケ所か川を横切ったりしていると3時間ほどで二股に到着。ここで、白根御池小屋へ行くか、小太郎尾根経由で肩の小屋へ行くか各自の体調を見て、相談した結果、肩の小屋行きに決定。小太郎尾根への右俣コースは急登の連続で体力が消耗。それに、ガスがかかり、遠くの景色も見えず、相当疲れる。やっと、標高3000mに建つ肩ノ小屋に着く。シーズンと重なり小屋は超満員だった。
三日目
早朝、小雨の中、頂上へ出発。ずっと岩場の道が続き、本来なら南アルプスの大展望を楽しみながらの登りとなるはずだが、ガスがかかり、サッパリテで残念だった。
でも、高山植物が咲き乱れ、私達を迎えてくれ、癒してくれたのがせめてもの幸せだった。わが国第二位の高峰・北岳(3192.4m)に到着。この頃よりガスも取れ始め、富士山などは見えなかったが、近くの仙丈岳や甲斐駒ケ岳がチラチラと姿を見せてくれた。
北岳を後にして,北岳山荘に向かう。急坂の岩場を下り、つり尾根分岐を直進し、いくつかの岩の山を登ったり、巻いたりして2時間足らずで北岳山荘に着く。今日、ここに宿泊するので、荷物を預け、軽ザックで間ノ岳へ。
高山植物の多い岩屑の道を登ると1時間足らずで中白峰(3055m)。そこから3000mの稜線を登り下りを繰り返し、約1時間で第4位の間ノ岳(3189m)へ。
頂上は広々としていて、標識で頂上とわかる。
北岳山荘に戻り、宿泊の用意。皇太子さんも泊まったそうでテレビもある立派な山小屋。意外に空いていた。夕方から晴れ出す。
見えなかった北岳もよく見えるようになった。夜空の星はスゴクよかったらしい。
四日目
朝、暗いうちに(午前4時) ご来光を見るため小屋を飛び出す。富士山の後方からの日の出は最高だった。富士山の写真撮影のビュ-ポイントの5指に入る1つらしい。
北岳も朝日を浴びて素晴らしい姿を誇示している。
山荘を6時半に出発し、八本歯のコルへのトラバ-ス道は高山植物に覆われ素晴らしかった。また、振り返ると間ノ岳もよく見え、我々を見送ってくれているようだった。梯子が何箇所もあったが、素晴らしい所なので、難なく通過。1時間少しで八本歯のコル着。
コルから狭い沢の急坂を木につかまりながら降りていく。左側は豪快な北のバットレスの断崖が我々を覆いかぶさるような感じでせまってくる。落石に気をつけ、通過。沢が少し開けてくると雪渓に出る。谷川は崩落があるので、気をつけて歩く。膝がガクガクしてくると二股に着く。ここからは、二日目に通った道だ。雪渓の溶けた水の流れる川に沿って歩いたり、渡ったりしてやっと広河原に着く。バスの便が悪かったので、タクシ-に交渉して、甲府へ。途中、甲府駅近くの銭湯の近くに降ろしてもらい、入浴して帰った。
1998年8月13~16日
S氏と悪沢岳・赤石岳
一日目
家を5時半に出、新大阪 7:33発。京都でS氏と合流。静岡を9:50のバスで畑薙へ、そして、3;20の小型バスで登山基地「椹島」へ。15:30着。家を出て、10時間かけやっと宿舎着。そこは、何年か前のダム工事の作業員宿舎跡らしく、部屋数も多く、思いもかけず風呂もあり、快適だった。
二日目
宿泊予定地の千枚小屋までは7時間のコ-ス。ゆったりと、6時過ぎに出発。
二人とも体調がよく、先発の多くの登山者を追い越し、小屋に11時に着いてしまった。二人で相談し、あと6時間を要する荒川小屋まで行くことにする。
昼食後、12時前に出発。千枚岳・悪沢岳(3141m)・中岳と次々頂上を踏破し、広大なお花畑の真ん中を下り、荒川小屋へ無事到着。時刻は16:45分。常識的には遅すぎたが、無事に到着。夕ご飯はカレ-ライスだったが、お腹もすいていたのか ずごく美味しかった。宿泊は、遅く到着したためか屋根裏でその上満員で一度寝返りを打つと元にもどりにくかつた。また、隣の男性のいびきにまいつた。(勿論 私のいびきで彼を相当苦しめたことでしょう。)/大>
三日目
4:30、小屋の外に飛び出す。薄暗かったが富士山が、綺麗に見えた。朝食後、6時に出発。この頃より天気はすっきりしない。
小赤石岳を経由して、8時過ぎ赤石岳(3120m)の頂上へ。富士見平への2時間のお花畑の急坂を調子よく下りすぎたためか膝の古傷が痛みだしたが、30分ほどで赤石小屋着 11時過ぎ。当初の予定では、ここで宿泊する予定だったが、小屋の親父さんの話では、明日の天気は良くないとのことなので、コ-ヒ-を作って飲むのを楽しみにしていたが昼食後、下山することにした。膝の痛みがひどくなつたが、S氏の助けで何とか下山。椹島着 16時。椹島の標高は約1000m。悪沢岳・赤石岳の標高は約3000m。標高差2000mを昨日駆け上り、今日駆け下りたのが原因と思う。
2日前に宿泊したところなので様子もわかり、すぐに風呂に入り、ビ-ルを。
S氏の登山でのたくましい馬力と豪快なビ-ルの飲みっぷりに改めてビックリ。
その夜、同部屋の一人が自分のいびきの大きさを気にして、布団を廊下に出し、そこで寝るとのこと。私達はホットする。さすがにすごいいびきで部屋の中まで響き渡る。夜中に廊下にある火災報知機がなり、各部屋から廊下に全員飛び出す。しばらくして、誤作動との連絡があり、ホットする。ところが、廊下に全員出て騒いでいるのに廊下で寝ている人は豪快ないびきで寝続けている。それを見てある女性は「警報機をならしたのは この人のいびきだ」と笑いながら言い、自分の部屋へ。皆も、ごもっともと言う感じで、各部屋へ。その後、その人のいびきで眠れなかったのは 私一人ではなかったでしょう。
四日目
椹島発7時40分。畑薙に8時30分着き、9時40発で静岡に13時10分着。無事に、それも一日早く下山したのを祝し、私達には珍しく豪華な昼食をとり、新幹線で帰り 家に18時半。
K氏D氏M氏と夜行で、北岳・間ノ岳へ
二日目
大阪を前夜発、塩尻に明け方に着き、2時間後中央本線で甲府へ。
駅前の「吉野家」で朝食をとり、昼食用の弁当を購入。バスで広河原へ。
登山開始。野呂川に架かるつり橋を渡り、広河原山荘のそばを通り、しばらくは、渓流に沿って歩く、何ケ所か川を横切ったりしていると3時間ほどで二股に到着。ここで、白根御池小屋へ行くか、小太郎尾根経由で肩の小屋へ行くか各自の体調を見て、相談した結果、肩の小屋行きに決定。小太郎尾根への右俣コースは急登の連続で体力が消耗。それに、ガスがかかり、遠くの景色も見えず、相当疲れる。やっと、標高3000mに建つ肩ノ小屋に着く。シーズンと重なり小屋は超満員だった。
三日目
早朝、小雨の中、頂上へ出発。ずっと岩場の道が続き、本来なら南アルプスの大展望を楽しみながらの登りとなるはずだが、ガスがかかり、サッパリテで残念だった。
でも、高山植物が咲き乱れ、私達を迎えてくれ、癒してくれたのがせめてもの幸せだった。わが国第二位の高峰・北岳(3192.4m)に到着。この頃よりガスも取れ始め、富士山などは見えなかったが、近くの仙丈岳や甲斐駒ケ岳がチラチラと姿を見せてくれた。
北岳を後にして,北岳山荘に向かう。急坂の岩場を下り、つり尾根分岐を直進し、いくつかの岩の山を登ったり、巻いたりして2時間足らずで北岳山荘に着く。今日、ここに宿泊するので、荷物を預け、軽ザックで間ノ岳へ。
高山植物の多い岩屑の道を登ると1時間足らずで中白峰(3055m)。そこから3000mの稜線を登り下りを繰り返し、約1時間で第4位の間ノ岳(3189m)へ。
頂上は広々としていて、標識で頂上とわかる。
北岳山荘に戻り、宿泊の用意。皇太子さんも泊まったそうでテレビもある立派な山小屋。意外に空いていた。夕方から晴れ出す。
見えなかった北岳もよく見えるようになった。夜空の星はスゴクよかったらしい。
四日目
朝、暗いうちに(午前4時) ご来光を見るため小屋を飛び出す。富士山の後方からの日の出は最高だった。富士山の写真撮影のビュ-ポイントの5指に入る1つらしい。
北岳も朝日を浴びて素晴らしい姿を誇示している。
山荘を6時半に出発し、八本歯のコルへのトラバ-ス道は高山植物に覆われ素晴らしかった。また、振り返ると間ノ岳もよく見え、我々を見送ってくれているようだった。梯子が何箇所もあったが、素晴らしい所なので、難なく通過。1時間少しで八本歯のコル着。
コルから狭い沢の急坂を木につかまりながら降りていく。左側は豪快な北のバットレスの断崖が我々を覆いかぶさるような感じでせまってくる。落石に気をつけ、通過。沢が少し開けてくると雪渓に出る。谷川は崩落があるので、気をつけて歩く。膝がガクガクしてくると二股に着く。ここからは、二日目に通った道だ。雪渓の溶けた水の流れる川に沿って歩いたり、渡ったりしてやっと広河原に着く。バスの便が悪かったので、タクシ-に交渉して、甲府へ。途中、甲府駅近くの銭湯の近くに降ろしてもらい、入浴して帰った。
1998年8月13~16日
S氏と悪沢岳・赤石岳
一日目
家を5時半に出、新大阪 7:33発。京都でS氏と合流。静岡を9:50のバスで畑薙へ、そして、3;20の小型バスで登山基地「椹島」へ。15:30着。家を出て、10時間かけやっと宿舎着。そこは、何年か前のダム工事の作業員宿舎跡らしく、部屋数も多く、思いもかけず風呂もあり、快適だった。
二日目
宿泊予定地の千枚小屋までは7時間のコ-ス。ゆったりと、6時過ぎに出発。
二人とも体調がよく、先発の多くの登山者を追い越し、小屋に11時に着いてしまった。二人で相談し、あと6時間を要する荒川小屋まで行くことにする。
昼食後、12時前に出発。千枚岳・悪沢岳(3141m)・中岳と次々頂上を踏破し、広大なお花畑の真ん中を下り、荒川小屋へ無事到着。時刻は16:45分。常識的には遅すぎたが、無事に到着。夕ご飯はカレ-ライスだったが、お腹もすいていたのか ずごく美味しかった。宿泊は、遅く到着したためか屋根裏でその上満員で一度寝返りを打つと元にもどりにくかつた。また、隣の男性のいびきにまいつた。(勿論 私のいびきで彼を相当苦しめたことでしょう。)/大>
三日目
4:30、小屋の外に飛び出す。薄暗かったが富士山が、綺麗に見えた。朝食後、6時に出発。この頃より天気はすっきりしない。
小赤石岳を経由して、8時過ぎ赤石岳(3120m)の頂上へ。富士見平への2時間のお花畑の急坂を調子よく下りすぎたためか膝の古傷が痛みだしたが、30分ほどで赤石小屋着 11時過ぎ。当初の予定では、ここで宿泊する予定だったが、小屋の親父さんの話では、明日の天気は良くないとのことなので、コ-ヒ-を作って飲むのを楽しみにしていたが昼食後、下山することにした。膝の痛みがひどくなつたが、S氏の助けで何とか下山。椹島着 16時。椹島の標高は約1000m。悪沢岳・赤石岳の標高は約3000m。標高差2000mを昨日駆け上り、今日駆け下りたのが原因と思う。
2日前に宿泊したところなので様子もわかり、すぐに風呂に入り、ビ-ルを。
S氏の登山でのたくましい馬力と豪快なビ-ルの飲みっぷりに改めてビックリ。
その夜、同部屋の一人が自分のいびきの大きさを気にして、布団を廊下に出し、そこで寝るとのこと。私達はホットする。さすがにすごいいびきで部屋の中まで響き渡る。夜中に廊下にある火災報知機がなり、各部屋から廊下に全員飛び出す。しばらくして、誤作動との連絡があり、ホットする。ところが、廊下に全員出て騒いでいるのに廊下で寝ている人は豪快ないびきで寝続けている。それを見てある女性は「警報機をならしたのは この人のいびきだ」と笑いながら言い、自分の部屋へ。皆も、ごもっともと言う感じで、各部屋へ。その後、その人のいびきで眠れなかったのは 私一人ではなかったでしょう。
四日目
椹島発7時40分。畑薙に8時30分着き、9時40発で静岡に13時10分着。無事に、それも一日早く下山したのを祝し、私達には珍しく豪華な昼食をとり、新幹線で帰り 家に18時半。
2008年03月20日
私の足跡 5 北八ヶ岳・南八ヶ岳・西穂高・白馬岳
1994年10月2~3日
Wと北八ケ岳の横岳と蓼科山
一日目
早朝 家を出,茅野駅下車、バス等を乗り継いで坪庭へ。そして、横岳へ。
途中、1時間足らずの急登があったが難なく通過。今回の登山の目的は、もう一つある。それは、私の大好きなナナカマドの紅葉を撮影するためです。それを、求めて、七ツ池へも行ったが駄目だった。頂上への途中、道を修理してくれている人と言葉を交わし、頂上へ。明日,登る予定の蓼科山等を見て、小屋に行くと先ほど会った人が北横岳ヒユッテの主人だった。
シ-ズンが過ぎていたので、客は少なく、東京の夫婦、名古屋の夫婦と私たち夫婦の六人だけ。夜の食事はすき焼きだった。味付けは、関東風・名古屋風・関西風のお客さんでといわれたので、真ん中の名古屋の方にお願いした。
主人はお酒が好きなのか、シ-ズンオフの普段は一人の生活でさびしいのか、私達を酒好きと見抜いたのか一升瓶を開けてくれたので、しばらくの間、お付き合いをしたが、明日のことを考え、寝た。
二日目
早朝、下山し、蓼科山へ。樹林帯を登って行くと、将軍平に着く。そこには、蓼科山荘がある。ここからは、道も一変し、山頂までは標高差170m。直線的につけられた岩塊の急登で、ペンキ印をたよりに両手・両足をフルに使い、這うようにして頂上へ。
岩塊を敷き詰めた蓼科山の頂上は平らで広く、そこに神社の祠と三角点があるのみで展望は抜群な所。蓼科山頂ヒュッテで買った冷えたジュ-スを片手にアルプスの槍ヶ岳や浅間山を眺めた。
下山開始、途中までは両手・両足を使い下山。そして、宿舎へ。
今回の登山の目的は、大好きな紅葉したナナカマドの撮影だったが、予想以下の出来で残念だった。
三日目
バスを使って、紅葉の始まった白樺湖・車山高原を通り、草紅葉の道を通り塩尻へ。そして、帰宅。
1995年7月30~31日
A氏とK氏と西穂高へ
一日目
新穂高温泉より、ロ-プウェイを使い、途中より徒歩で、西穂山荘へ。
手近で、綺麗な山荘なので、客も多く、満員だつた。
夜、満天の星空を眺めて、楽しんだ。
二日目
翌朝、天気もよく、高山植物を眺めながら、風が吹いていたが、元気よく、登山を開始。
尾根歩きで、前半は道も険しくなく、左側に笠ケ岳を、右下に上高地を、後方には噴煙をあげている焼岳をそして前方には穂高連峰を見ながら快調にとばして行く。独標が見える頃には、少しぺースがダウンしたが、予定より早く独標へ。この頃より、風が強くなる。
そこから、急にやせ尾根になったが、がんばり、ビラミットピ-クの頂上まできたが、そこまでで断念したのが残念だ。
新穂高温泉で、バス待ちの間を利用して、市営の温泉風呂にはいり、夜行で帰宅。
1996年7月28~29日
K氏D氏S氏M氏A氏と南八ケ岳
一日目
茅野駅からタクシーを利用しょうとしたが、途中で降ろされ予定より長い道のりを徒歩で行くことになった。初めてのメンバ-もいて、ゆったりとした計画だった。オーレン小屋を過ぎ、やっと夏沢峠へ。我々は、こまくさ荘で宿泊。客は我々6名とあと1名。収容300名で7名の客。ゆったりとした宿泊で食事も楽しく揃って「イタダキマ-ース」と戯れた。 水分補給(アルコールを飲む)をたっぷりと。そして消灯まで 談笑。
二日目
早朝、荷物を宿に預け、ヘットランプを頼りに出発する。でも、S氏だけ、荷物が大きい。当人は秘密と言って子細は言わない。頂上近くで、夜明け。うわさに聞いていた硫黄岳のすごい爆裂火口にびっくり。頂上では、ガスもなくなり、周辺の山も見え始め、めざす横岳・赤岳もバッチリ。
しばらく歩くと、硫黄岳山荘に。小屋近くには、小屋の親父さんの世話で高山植物の女王・コマクサの群生があった。黒い砂礫に咲いているのが、印象的だ。いつまでも、残しておいて欲しいと願っている。
しばらくすると、鎖・梯子のついたやせ尾根を何箇所を通過し、大同心あたりで、ラッキーにもブロッケン現象が見えたという幸運もあった。横岳頂上で、S氏が持って上がってきた秘密のメロンをいただく。山の頂上での味は最高。これで、S氏の荷物の大きかった訳が分かった。感謝・感謝。
帰路、宿泊地のこまくさ荘で昼食。途中、夏沢鉱泉で入浴した。汗もとれ、最高の気分だった。そして、すっきりした気持ちで、夜行バスに乗り込み、帰阪。
1996年8月20日
兄夫婦と私達4人で、稲村岳へ。
好天に恵まれ、ゆったりと登れた。石楠花も咲いていた。
帰路、梯子を使って大日岳へも登ってきた。
この山へは、山仲間とも登り、3度目である。
1997年7月18~20日
兄夫婦と私達で白馬岳から白馬大池へ。
一日目
JRで、白馬へ。バスで猿倉までと予定していたが、昨日の梅雨末期の豪雨でバスが途中より通行止めになっているという。(勿論、タクシーも駄目。) バスで行けるところまで行き、後は徒歩としたが、予定より3時間のロス。白馬尻小屋で宿泊することにした。 周辺には、キヌガサソウやシラネアオイなどの花が我々を迎えてくれていた。/大>
二日目
朝早く、小屋を発ち、大雪渓の末端に。アイゼンをつけ、登り始める。
昨日までの天気とは考えられない好天気。空は真っ青。周辺の山もくっきり。曜日などの関係か客が意外に少なく(37年前にくらべ)、周辺の景色を眺めながら楽しく歩けた。(前回は、視界がきかなかったので、紅ガラに沿って、 もくもくと歩いたのを思い出す。)
頭上を見れば真っ青の空、足元は延々と続く雪渓の雪、そして左右を見れば杓子岳からの杓子尾根等が迫ってきている最高の花道を通って白馬岳の頂上へ。
(但し、左右の尾根からの落石があり、事故にあうこともあるので紅ガラに沿って歩いた。)
葱平に着き、小休止。小雪渓をトラバ-スするとお花畑だ。高山植物は最高の見ごろで、シナノキンバイ・ミヤマキンポウゲなどにいろぞられたお花畑をゆっくり歩き、カメラにたくさん収めた。特に女性達は、動かない。
本日の行程は、ゆっくりしたものなので、女性たちを置いて、兄と先に村営小屋に着き、ビ-ルを飲みながら待つ。そして、4人揃ったので遅い昼食。
食後、頂上小屋の白馬山荘へ。予想より空いていて、よかった。荷物を置き、頂上へ。天気がよかったので、360度の展望をゆっくり楽しんだ。
新田次郎の作品「強力伝」に出てくる標示板があった。尿に血が混じる苦労をして、一人で担ぎ上げた物と思えば、何ともいえぬ思いがして、じっくりと撫ぜてみた。
その後、小屋に戻り、夕食。食後、外に出て、素晴らしい「日の入り」を楽しんだ。しばらくして、外に出て、星空の素晴らしさに感激。
三日目
早朝、朝食を済ませ、荷物を持ち、小屋を出、頂上でご来光をと思い、頂上へ。そこには、すでに十数人がいた。東の空が明るくなり、ご来光。頂上にいた者はあまりの素晴らしさに歓声と万歳の声が上がった。
余韻を残し、下山開始。三国境周辺には、コマクサが群生。
祠のある小蓮華山からもう一度白馬岳を眺めて下る。 しばらくすると、ブルーの白馬大池の傍に真っ赤な屋根の白馬大池山荘が見えて来た。池からは、大きな岩を乗り越え乗鞍岳へ登り返す。駄々広い頂上。栂池自然園も少し見ただけで栂池自然園駅にやっと到着。ロ-プウェイ・バスを小走りで乗り継ぎ白馬駅へ。そこから、予定の列車に乗り、帰宅。
今回の山行きは、最初大雨の影響でどうなるか心配したが、天気がよくなり、特に、白馬山頂からの展望は最高で思い出に残る登山となった。
Wと北八ケ岳の横岳と蓼科山
一日目
早朝 家を出,茅野駅下車、バス等を乗り継いで坪庭へ。そして、横岳へ。
途中、1時間足らずの急登があったが難なく通過。今回の登山の目的は、もう一つある。それは、私の大好きなナナカマドの紅葉を撮影するためです。それを、求めて、七ツ池へも行ったが駄目だった。頂上への途中、道を修理してくれている人と言葉を交わし、頂上へ。明日,登る予定の蓼科山等を見て、小屋に行くと先ほど会った人が北横岳ヒユッテの主人だった。
シ-ズンが過ぎていたので、客は少なく、東京の夫婦、名古屋の夫婦と私たち夫婦の六人だけ。夜の食事はすき焼きだった。味付けは、関東風・名古屋風・関西風のお客さんでといわれたので、真ん中の名古屋の方にお願いした。
主人はお酒が好きなのか、シ-ズンオフの普段は一人の生活でさびしいのか、私達を酒好きと見抜いたのか一升瓶を開けてくれたので、しばらくの間、お付き合いをしたが、明日のことを考え、寝た。
二日目
早朝、下山し、蓼科山へ。樹林帯を登って行くと、将軍平に着く。そこには、蓼科山荘がある。ここからは、道も一変し、山頂までは標高差170m。直線的につけられた岩塊の急登で、ペンキ印をたよりに両手・両足をフルに使い、這うようにして頂上へ。
岩塊を敷き詰めた蓼科山の頂上は平らで広く、そこに神社の祠と三角点があるのみで展望は抜群な所。蓼科山頂ヒュッテで買った冷えたジュ-スを片手にアルプスの槍ヶ岳や浅間山を眺めた。
下山開始、途中までは両手・両足を使い下山。そして、宿舎へ。
今回の登山の目的は、大好きな紅葉したナナカマドの撮影だったが、予想以下の出来で残念だった。
三日目
バスを使って、紅葉の始まった白樺湖・車山高原を通り、草紅葉の道を通り塩尻へ。そして、帰宅。
1995年7月30~31日
A氏とK氏と西穂高へ
一日目
新穂高温泉より、ロ-プウェイを使い、途中より徒歩で、西穂山荘へ。
手近で、綺麗な山荘なので、客も多く、満員だつた。
夜、満天の星空を眺めて、楽しんだ。
二日目
翌朝、天気もよく、高山植物を眺めながら、風が吹いていたが、元気よく、登山を開始。
尾根歩きで、前半は道も険しくなく、左側に笠ケ岳を、右下に上高地を、後方には噴煙をあげている焼岳をそして前方には穂高連峰を見ながら快調にとばして行く。独標が見える頃には、少しぺースがダウンしたが、予定より早く独標へ。この頃より、風が強くなる。
そこから、急にやせ尾根になったが、がんばり、ビラミットピ-クの頂上まできたが、そこまでで断念したのが残念だ。
新穂高温泉で、バス待ちの間を利用して、市営の温泉風呂にはいり、夜行で帰宅。
1996年7月28~29日
K氏D氏S氏M氏A氏と南八ケ岳
一日目
茅野駅からタクシーを利用しょうとしたが、途中で降ろされ予定より長い道のりを徒歩で行くことになった。初めてのメンバ-もいて、ゆったりとした計画だった。オーレン小屋を過ぎ、やっと夏沢峠へ。我々は、こまくさ荘で宿泊。客は我々6名とあと1名。収容300名で7名の客。ゆったりとした宿泊で食事も楽しく揃って「イタダキマ-ース」と戯れた。 水分補給(アルコールを飲む)をたっぷりと。そして消灯まで 談笑。
二日目
早朝、荷物を宿に預け、ヘットランプを頼りに出発する。でも、S氏だけ、荷物が大きい。当人は秘密と言って子細は言わない。頂上近くで、夜明け。うわさに聞いていた硫黄岳のすごい爆裂火口にびっくり。頂上では、ガスもなくなり、周辺の山も見え始め、めざす横岳・赤岳もバッチリ。
しばらく歩くと、硫黄岳山荘に。小屋近くには、小屋の親父さんの世話で高山植物の女王・コマクサの群生があった。黒い砂礫に咲いているのが、印象的だ。いつまでも、残しておいて欲しいと願っている。
しばらくすると、鎖・梯子のついたやせ尾根を何箇所を通過し、大同心あたりで、ラッキーにもブロッケン現象が見えたという幸運もあった。横岳頂上で、S氏が持って上がってきた秘密のメロンをいただく。山の頂上での味は最高。これで、S氏の荷物の大きかった訳が分かった。感謝・感謝。
帰路、宿泊地のこまくさ荘で昼食。途中、夏沢鉱泉で入浴した。汗もとれ、最高の気分だった。そして、すっきりした気持ちで、夜行バスに乗り込み、帰阪。
1996年8月20日
兄夫婦と私達4人で、稲村岳へ。
好天に恵まれ、ゆったりと登れた。石楠花も咲いていた。
帰路、梯子を使って大日岳へも登ってきた。
この山へは、山仲間とも登り、3度目である。
1997年7月18~20日
兄夫婦と私達で白馬岳から白馬大池へ。
一日目
JRで、白馬へ。バスで猿倉までと予定していたが、昨日の梅雨末期の豪雨でバスが途中より通行止めになっているという。(勿論、タクシーも駄目。) バスで行けるところまで行き、後は徒歩としたが、予定より3時間のロス。白馬尻小屋で宿泊することにした。 周辺には、キヌガサソウやシラネアオイなどの花が我々を迎えてくれていた。/大>
二日目
朝早く、小屋を発ち、大雪渓の末端に。アイゼンをつけ、登り始める。
昨日までの天気とは考えられない好天気。空は真っ青。周辺の山もくっきり。曜日などの関係か客が意外に少なく(37年前にくらべ)、周辺の景色を眺めながら楽しく歩けた。(前回は、視界がきかなかったので、紅ガラに沿って、 もくもくと歩いたのを思い出す。)
頭上を見れば真っ青の空、足元は延々と続く雪渓の雪、そして左右を見れば杓子岳からの杓子尾根等が迫ってきている最高の花道を通って白馬岳の頂上へ。
(但し、左右の尾根からの落石があり、事故にあうこともあるので紅ガラに沿って歩いた。)
葱平に着き、小休止。小雪渓をトラバ-スするとお花畑だ。高山植物は最高の見ごろで、シナノキンバイ・ミヤマキンポウゲなどにいろぞられたお花畑をゆっくり歩き、カメラにたくさん収めた。特に女性達は、動かない。
本日の行程は、ゆっくりしたものなので、女性たちを置いて、兄と先に村営小屋に着き、ビ-ルを飲みながら待つ。そして、4人揃ったので遅い昼食。
食後、頂上小屋の白馬山荘へ。予想より空いていて、よかった。荷物を置き、頂上へ。天気がよかったので、360度の展望をゆっくり楽しんだ。
新田次郎の作品「強力伝」に出てくる標示板があった。尿に血が混じる苦労をして、一人で担ぎ上げた物と思えば、何ともいえぬ思いがして、じっくりと撫ぜてみた。
その後、小屋に戻り、夕食。食後、外に出て、素晴らしい「日の入り」を楽しんだ。しばらくして、外に出て、星空の素晴らしさに感激。
三日目
早朝、朝食を済ませ、荷物を持ち、小屋を出、頂上でご来光をと思い、頂上へ。そこには、すでに十数人がいた。東の空が明るくなり、ご来光。頂上にいた者はあまりの素晴らしさに歓声と万歳の声が上がった。
余韻を残し、下山開始。三国境周辺には、コマクサが群生。
祠のある小蓮華山からもう一度白馬岳を眺めて下る。 しばらくすると、ブルーの白馬大池の傍に真っ赤な屋根の白馬大池山荘が見えて来た。池からは、大きな岩を乗り越え乗鞍岳へ登り返す。駄々広い頂上。栂池自然園も少し見ただけで栂池自然園駅にやっと到着。ロ-プウェイ・バスを小走りで乗り継ぎ白馬駅へ。そこから、予定の列車に乗り、帰宅。
今回の山行きは、最初大雨の影響でどうなるか心配したが、天気がよくなり、特に、白馬山頂からの展望は最高で思い出に残る登山となった。
2008年03月10日
私の足跡 4 大杉谷 御嶽山 富士山 乗鞍岳 雪の立山 木曽駒ヶ岳
198?年8月?日
大台ケ原・大杉谷
一日目
職場の同僚F氏等6人と夏休みを利用して、大台ケ原から大杉谷へ。
一番の列車に乗り、日出ケ岳に登り、昼前に出発。最初は石楠花の多い道だった。最初の滝、堂倉の滝で休憩。その後の道は、下りが殆んどで、つり橋が多くなった。 殆んどのつり橋は人数制限をしていた。
私たちは、少人数だったし、平日だったので、自分達のグル-プ意外の待ち時間はなく、時間の浪費が少なかった。
しかし、その年の秋の祝日に多数の人が登山をし、つり橋で待ちきれずに人数制限を守らず橋を渡った。そのため、ロ-プが切れ、川に墜落という悲しい事故があった。 (規則通りに渡れば、時間を要し、後の人は明るい時間に目的地に到着できない。)
当時、マスコミは、管理している所が悪い、いや、規則を守らなかった者が悪いとの意見があった。わたしはどちらかと言えば登山者の方が悪いと思う。
ただし、規則を守らず、事故にあった登山者だけではありませんと付け加えておきます。
事故の事は、これくらいで、私達のその後は、長時間の下りで膝がガクガク。それに、谷間ばかりなので湿度が高く、疲労も多かった。
やっと、宿泊地の「桃の木小屋」に到着。
二日目
翌日、疲労もとれ、元気に出発。しかし、またもや下りの連続。
みんなの疲労度もたかまる。特に仲間の一人の悲痛な叫び声が今も思い出されます。
予定の時刻に歩き終え、乗り物に乗った時の仲間の表情もおだやかになっていた。
198?年8月?日
御嶽山
一日目
旅行の帰り、他の仲間に無理を言い、別行動をとり、F氏等4人で御嶽山に登った。木曽福島からバスに乗り、宿泊地に到着。
二日目
翌日、一番のバスで登山基地「田の原」へ。そして登山開始。途中、御嶽講の人たちの「・・・六根清浄、懺悔 懺悔・・・」の声に励まされ、快調にとばす。途中 雪渓もあり、楽しませてくれた。やっと頂上と思いきやそこは王滝頂上。それから、30分後、目的の御嶽頂上・剣ケ峰 3067m。
天気もよく、周辺のアルプスの山々もスッキリ。特に乗鞍岳の大きさに感激。さすが、3000mの山に酔いしれる。頂上直下の池へも行った。
帰りに、思い出に4人のケルンを作った。そして、近々結婚する二人の女性の幸せを祈った。
そして、素晴らしい景色に未練を残して、山を後にした。
翌年、御嶽山が火山爆発を起こした。私たちの作った思い出のケルンはどうなっているのか心配だ。
さて、ここで、あくまで偶然と思うが、不思議な話をしておきます。
それは、私がF氏と出かけた後に何かが起こるということです。上記の御嶽山の爆発の件、大杉谷のつり橋の件、それに登山ではなかったので、記していないが197?,年に二人で北海道旅行をした時、有珠山・昭和新山に登ったが、翌年爆発を起こした。
この時期に 同じような事が三度も起こったのは、偶然とはいえ、不思議だ。
198?年8月?日
富士山
一日目
神奈川での研修会の帰り、S氏等4人で富士山に登った。新5合目に車を置き、登山開始。翌日、楽に頂上にいけるよう8合目まで登り、宿泊。夜、沼津の町の灯がとても綺麗だった。一人が高山病にかかり、体調をくずした。
二日目
昨日、高山病で体調をくずしたのは、急に高度を上げたからだと反省。出発を遅らせ、ゆっくり登ったので、頂上でのご来光には、間に合わなかったが4人揃って頂上に立てた。その後、めでたいことに、登山した仲間で一組のカップルができた。私も仲人の第一号をさせてもらった。
私は富士山に二度登ることになったので、世間では馬鹿だといっているが・・・。
(富士山は二度も登る山ではない。富士山は眺める山だと言っている一部の人たちがいる。)
199?年8月?日
乗鞍岳
職員旅行の二日目。予定では、頂上直下 畳平で一時間半の予定をとっていた。以前、来たときは天気が悪く視界がきかなかった。今回は快晴。ガイドさんの話ではこんなに良い天気は一年に何回もないとの話。それで、幹事さんから時間を延長するとの事。それではということで一部の人と頂上へ。
頂上では、視界をさえぎるものは無く、アルプスの山々はくっきり。特に御嶽山が綺麗だった。
1993年5月3~5日
雪の立山・上高地
二日目
5月の連休を利用して、F氏と前日の夜行列車に乗り、早朝富山着。
美女平で時間を費やし、一番のバスで室堂へ。途中よりガスが出たり、消えたりしていた。途中、大谷で雪のトンネルを通って、室堂に着く。
空も晴れ、全身に雪を被った真っ白な立山(雄山)は素晴らしかった。
アイゼンを持って行かなかったので滑りながらも、みくりが池ま行ってきた。
後はバス・ロ-プウェイを乗り継ぎ、列車で安曇野へ。レンタサイクルで、わさび園・道祖神を見て回った。松本の宿舎に着いたら7時を過ぎていた。
三日目
翌早朝、一番の電車・バスで上高地へ。道路には雪がなかったが、河童橋からの山全体が真っ白になった穂高の山々に感動した。
明神池までの木道を歩いていると、猿の群れが餌を探しに出てきていた。
焼岳も頂上付近は雪に覆われていたが、噴煙ははっきり見えた。
春の立山・上高地は素晴らしかった。帰りに、松本駅で平成5年5月5日の5・5・5を記した入場券を買って記念にしている。
1994年7月31~8月1日
木曽駒ケ岳
一日目
F氏と木曽駒ケ岳へ 以前、バス・ロ-プウェイを乗り継ぎ、千畳敷まで来たことがあるが、今回は、千畳敷カ-ルを歩き、浄土乗り越えの小屋・宝剣山荘へ。
荷物を置いて、宝剣岳の頂上へ。 私は ○○ だから高い所が好きなので、後ろの岩の上に立とうとしたが、そこに祠があるのでやめた。
登りも下りも瓦礫の多い岩場を慎重に進む。
足場は確保されているが、ふと足元を見ると宝剣沢がスット落ちており注意が必要。
スリルのある岩場の多い男性的な山だった。
二日目
翌早朝、30分ほどの小高いピ-クに登り、ご来光。少し雲があったが、富士山を初め、乗鞍岳・北・中央・南アルプスが見え、最高だった。
朝食後、荷物を背負い中岳を越え、駒ケ岳の頂上へ。二つの社があった。
宝剣岳とは違い、女性的な山だった。
馬の背を通って,将棋頭山へ。
途中、新田次郎の作品「聖職の碑」で有名な遭難碑があった。
以前、彼のこの作品を読んでいたので、当時遭難した教師・生徒の苦しさ、また、それに関わった人達の悲しみが大変であっただろうと思い、遭難者のご冥福を祈った。しばらくすると、先生に引率された中学生の団体が登ってきた。
過ぎ去った列の後方より、全員無事に下山できるよう祈って見送った。
新田次郎の作品は 山を舞台にしたものが多いので、殆んどの作品を読んでいる。繰り返し読んだ本もたくさんある。今印象に残っている作品は、「強力伝」「富士山頂」「チンネの裁き」「芙蓉の人」「縦走路」「槍ヶ岳開山」「風雪の北鎌尾根」等々たくさんあるが、何といっても「孤高の人」は私にとっては、最高の作品である。ヒマラヤ征服の夢を秘め、日本アルプスの山々を疾風のごとく踏破した[単独行の加藤文太郎]の生涯を記した傑作小説。また、「聖職の碑」も同じ立場の者として、印象深い作品であり、事件であった。
彼の意思で作っているお墓がスイスアルプスのアイガー・メンヒ・ユングフラフの三山が真正面に見える所にあると聞いていたので、スイスに行った時、それを捜し求めて、食事時間を短縮して 走って行って 私も同じ位置に立ち、三山を眺めてきた。さすがに、絶景の所にあった。
大台ケ原・大杉谷
一日目
職場の同僚F氏等6人と夏休みを利用して、大台ケ原から大杉谷へ。
一番の列車に乗り、日出ケ岳に登り、昼前に出発。最初は石楠花の多い道だった。最初の滝、堂倉の滝で休憩。その後の道は、下りが殆んどで、つり橋が多くなった。 殆んどのつり橋は人数制限をしていた。
私たちは、少人数だったし、平日だったので、自分達のグル-プ意外の待ち時間はなく、時間の浪費が少なかった。
しかし、その年の秋の祝日に多数の人が登山をし、つり橋で待ちきれずに人数制限を守らず橋を渡った。そのため、ロ-プが切れ、川に墜落という悲しい事故があった。 (規則通りに渡れば、時間を要し、後の人は明るい時間に目的地に到着できない。)
当時、マスコミは、管理している所が悪い、いや、規則を守らなかった者が悪いとの意見があった。わたしはどちらかと言えば登山者の方が悪いと思う。
ただし、規則を守らず、事故にあった登山者だけではありませんと付け加えておきます。
事故の事は、これくらいで、私達のその後は、長時間の下りで膝がガクガク。それに、谷間ばかりなので湿度が高く、疲労も多かった。
やっと、宿泊地の「桃の木小屋」に到着。
二日目
翌日、疲労もとれ、元気に出発。しかし、またもや下りの連続。
みんなの疲労度もたかまる。特に仲間の一人の悲痛な叫び声が今も思い出されます。
予定の時刻に歩き終え、乗り物に乗った時の仲間の表情もおだやかになっていた。
198?年8月?日
御嶽山
一日目
旅行の帰り、他の仲間に無理を言い、別行動をとり、F氏等4人で御嶽山に登った。木曽福島からバスに乗り、宿泊地に到着。
二日目
翌日、一番のバスで登山基地「田の原」へ。そして登山開始。途中、御嶽講の人たちの「・・・六根清浄、懺悔 懺悔・・・」の声に励まされ、快調にとばす。途中 雪渓もあり、楽しませてくれた。やっと頂上と思いきやそこは王滝頂上。それから、30分後、目的の御嶽頂上・剣ケ峰 3067m。
天気もよく、周辺のアルプスの山々もスッキリ。特に乗鞍岳の大きさに感激。さすが、3000mの山に酔いしれる。頂上直下の池へも行った。
帰りに、思い出に4人のケルンを作った。そして、近々結婚する二人の女性の幸せを祈った。
そして、素晴らしい景色に未練を残して、山を後にした。
翌年、御嶽山が火山爆発を起こした。私たちの作った思い出のケルンはどうなっているのか心配だ。
さて、ここで、あくまで偶然と思うが、不思議な話をしておきます。
それは、私がF氏と出かけた後に何かが起こるということです。上記の御嶽山の爆発の件、大杉谷のつり橋の件、それに登山ではなかったので、記していないが197?,年に二人で北海道旅行をした時、有珠山・昭和新山に登ったが、翌年爆発を起こした。
この時期に 同じような事が三度も起こったのは、偶然とはいえ、不思議だ。
198?年8月?日
富士山
一日目
神奈川での研修会の帰り、S氏等4人で富士山に登った。新5合目に車を置き、登山開始。翌日、楽に頂上にいけるよう8合目まで登り、宿泊。夜、沼津の町の灯がとても綺麗だった。一人が高山病にかかり、体調をくずした。
二日目
昨日、高山病で体調をくずしたのは、急に高度を上げたからだと反省。出発を遅らせ、ゆっくり登ったので、頂上でのご来光には、間に合わなかったが4人揃って頂上に立てた。その後、めでたいことに、登山した仲間で一組のカップルができた。私も仲人の第一号をさせてもらった。
私は富士山に二度登ることになったので、世間では馬鹿だといっているが・・・。
(富士山は二度も登る山ではない。富士山は眺める山だと言っている一部の人たちがいる。)
199?年8月?日
乗鞍岳
職員旅行の二日目。予定では、頂上直下 畳平で一時間半の予定をとっていた。以前、来たときは天気が悪く視界がきかなかった。今回は快晴。ガイドさんの話ではこんなに良い天気は一年に何回もないとの話。それで、幹事さんから時間を延長するとの事。それではということで一部の人と頂上へ。
頂上では、視界をさえぎるものは無く、アルプスの山々はくっきり。特に御嶽山が綺麗だった。
1993年5月3~5日
雪の立山・上高地
二日目
5月の連休を利用して、F氏と前日の夜行列車に乗り、早朝富山着。
美女平で時間を費やし、一番のバスで室堂へ。途中よりガスが出たり、消えたりしていた。途中、大谷で雪のトンネルを通って、室堂に着く。
空も晴れ、全身に雪を被った真っ白な立山(雄山)は素晴らしかった。
アイゼンを持って行かなかったので滑りながらも、みくりが池ま行ってきた。
後はバス・ロ-プウェイを乗り継ぎ、列車で安曇野へ。レンタサイクルで、わさび園・道祖神を見て回った。松本の宿舎に着いたら7時を過ぎていた。
三日目
翌早朝、一番の電車・バスで上高地へ。道路には雪がなかったが、河童橋からの山全体が真っ白になった穂高の山々に感動した。
明神池までの木道を歩いていると、猿の群れが餌を探しに出てきていた。
焼岳も頂上付近は雪に覆われていたが、噴煙ははっきり見えた。
春の立山・上高地は素晴らしかった。帰りに、松本駅で平成5年5月5日の5・5・5を記した入場券を買って記念にしている。
1994年7月31~8月1日
木曽駒ケ岳
一日目
F氏と木曽駒ケ岳へ 以前、バス・ロ-プウェイを乗り継ぎ、千畳敷まで来たことがあるが、今回は、千畳敷カ-ルを歩き、浄土乗り越えの小屋・宝剣山荘へ。
荷物を置いて、宝剣岳の頂上へ。 私は ○○ だから高い所が好きなので、後ろの岩の上に立とうとしたが、そこに祠があるのでやめた。
登りも下りも瓦礫の多い岩場を慎重に進む。
足場は確保されているが、ふと足元を見ると宝剣沢がスット落ちており注意が必要。
スリルのある岩場の多い男性的な山だった。
二日目
翌早朝、30分ほどの小高いピ-クに登り、ご来光。少し雲があったが、富士山を初め、乗鞍岳・北・中央・南アルプスが見え、最高だった。
朝食後、荷物を背負い中岳を越え、駒ケ岳の頂上へ。二つの社があった。
宝剣岳とは違い、女性的な山だった。
馬の背を通って,将棋頭山へ。
途中、新田次郎の作品「聖職の碑」で有名な遭難碑があった。
以前、彼のこの作品を読んでいたので、当時遭難した教師・生徒の苦しさ、また、それに関わった人達の悲しみが大変であっただろうと思い、遭難者のご冥福を祈った。しばらくすると、先生に引率された中学生の団体が登ってきた。
過ぎ去った列の後方より、全員無事に下山できるよう祈って見送った。
新田次郎の作品は 山を舞台にしたものが多いので、殆んどの作品を読んでいる。繰り返し読んだ本もたくさんある。今印象に残っている作品は、「強力伝」「富士山頂」「チンネの裁き」「芙蓉の人」「縦走路」「槍ヶ岳開山」「風雪の北鎌尾根」等々たくさんあるが、何といっても「孤高の人」は私にとっては、最高の作品である。ヒマラヤ征服の夢を秘め、日本アルプスの山々を疾風のごとく踏破した[単独行の加藤文太郎]の生涯を記した傑作小説。また、「聖職の碑」も同じ立場の者として、印象深い作品であり、事件であった。
彼の意思で作っているお墓がスイスアルプスのアイガー・メンヒ・ユングフラフの三山が真正面に見える所にあると聞いていたので、スイスに行った時、それを捜し求めて、食事時間を短縮して 走って行って 私も同じ位置に立ち、三山を眺めてきた。さすがに、絶景の所にあった。
2008年02月28日
私の足跡 3 白馬・唐松 立山・剣 鷲羽・双六・槍・穂高
1960年7月27~28日
Ma氏と白馬岳・唐松岳へ
一日目
職員旅行の帰路、松本で別行動をとらせてもらい、Ma氏と白馬岳をめざした。
猿倉までバス、70円. 猿倉を11時13分に出発. 白馬尻小屋着、12時。
昼食、カレ-ライス110円(休憩料込み)。出発、12時半。 10分ほどで雪渓、
アイゼンをつける。槍・穂高より客が多い。近くの山も見えない。大雪渓も
アイゼンをきかせば問題ない。抜け出たのは 14時。
葱平の避難小屋で小休止。 お花畑には、たくさんの高山植物が咲き乱れ、庭園のようである。
ガスも消え、村営小屋に1時間以上も早く到着。
夕食、17時半。 その後、グリセ-ド(ピッケルを使って雪の斜面を下る技術)の練習。
小屋は近代的だ。
宿泊料 750円
二日目
4時起床。外を見れば雨。残念。ついていない。4時半、アノラックをつけ、頂上へ。5時前に到着したが、雨のため、すぐ小屋へ。朝食(ご飯はうまく炊けている。味噌汁も美味い。)をとり、6時半出発。雨がふっている。
杓子岳近くで7時半.鑓ヶ岳8時過ぎ、鑓温泉分岐で8時半。
天狗小屋あたりに雪渓があり、それを横切りのに苦労する。小屋着9時。
小屋近くに池があり、その周辺でキャンプが多い。
付近の山が見え隠れする。
休憩時,きゅうりをかじる。美味い。
10時半ごろより天狗の大下りとなる。
さすが、名前の通り、道は悪くはないか゛、傾斜がきついので、相当 疲れる。
11時過ぎ、最低鞍部に着く。これより、10分ほどで、最大の難所・不帰嶮に入る。針金の場所、鎖場、はしご場などがあり、槍・穂高の縦走を思い出す
雨が降っているので、今回の方が疲れる。
第二峰で昼食。第三峰 12時15分。 この頃より難所は少なくなる。第五峰までは、越後側を巻いた道でたいしたことはない。
これより 大下りをした後、急登で相当疲れる。
唐松岳頂上に13時45分。小屋は足元に見えたので、元気を出して頑張る。
14時着。
来年は、鹿島槍まで縦走する予定なので今回は、黒部川に下りることにしている。
でも、天気は悪いので、ここに泊まることにした。
唐松岳小屋は近代的で、畳が敷いている。(今では、当たり前)
水1リットルが50円もするので、15分ほど下った所の雪渓の所まで、水を
汲みに行って来た。
17時 夕食。カレーライス。宿泊費、750円
三日目
5時に起床。5時半 朝食。味噌汁はあまり美味しくない。しかし、一つ一つの食器に名をいれ、綺麗だった。朝食は今回は白馬の方が美味かった。
6時半、出発。雨は相変わらず降っている。半時間ほどで、アノラックから雨水が入ってきた。7時半、銅山跡らしい平らな所に出て小休止。
宿泊用の米もなくなり、荷物も軽くなり、6時間ばかりの下りは、楽と思ったが、とんでもない急坂の道で膝がガクガク。山を巻いた道で、急な道になると膝の痛みがひどくなる。9時半、小休止。ジュースの粉末を水に溶かしてのジュースを飲む。美味い。
膝の痛みがますますひどくなる。11時半の小休止で、雨も上がりそうなので水分で重くなったアノラック・オーバーズボン・セーター等を脱ぐと身体がすっきりした。 ズボン・セーターは汗と雨でびっしより。
半時間後、祖母谷温泉にやっと到着。
おにぎり2個、梅干2個の弁当。それに持参した「ふりかけ」をかけて、食べる。美味い。
13時発。道も平坦になり、身体もすっきりしてきたので、当時、よく歌われた「北上夜曲」を口ずさみ始めると、名剣温泉。そこで、汗を流した後、
大きな雪渓を通ったり、見たりしながら、欅平へ。14時着。
観光客も大勢いたので、山の感じが半減した。
よく揺れるつり橋(現在は鉄筋の橋になってい.)を渡ると駅だった。14時半
トロッコ列車は、うわさの通り愉快な電車だ。屋根はあるが、窓はないので、風通しがよかつた。駅の停留所で写真を撮っていると発車をおくらせてくれたところもおもしろい。富山の人と同席。黒部の谷はすごく、ダム・発電所もあった。
宇奈月着、15時40分。料金、210円。 富山着、17時。180円。
夕食に定食を2人分を。140円。美味かった。
その夜、19時57分発の青森発 大阪行きのドンコ列車で帰る。
座席がなかったので、通路に新聞をしき寝て、朝まで熟睡。
目が覚めたのは 京都駅だった。
1960年8月10~13日
Mo氏と立山・剣岳・大日岳へ。
二日目
夜行列車を富山でおり、電車・ケーブル・バス等を乗り継ぎ、弥陀ヶ原へ。
(当時、ケーブルに乗るとき、荷物は重さにより異なる別料金。バスの終点も
今は室堂までだが、当時は弥陀ケ原まで。)
9時にバスを降り、重いリュックを背負い,今は賑やかだが、当時はさびしい室堂を通り,一の越で休憩し、雄山へ。
(室堂が 賑やかになったのは アルペンルートができてから)
12時に頂上着。昼食後、神社でお神酒を頂き、大汝山 そして真砂岳へ。
弥陀ケ原のバス停
頭上は雄山神社
この頃より、天気は悪化。視界が利かなくなり、二人で標識(矢印等)を目を皿のようにして探し始めて歩くこと約1時間。ガスの中にぼんやり小屋の青い屋根。そして、やっと人の話し声。助かった。ホットして、剣御前小屋の中へ。17時到着。
三日目
翌早朝 6時 剣御前小屋を出発。お陰で、太陽も姿を見せている。荷物を持って、剣御前の頂上(7時) 一服剣・前剣(8時) そして、剣の頂上に9時半到着。難所の岩場は槍ヶ岳の穂先よりスゴイため、順番まちで予定より、時間がかかる。昨日、曇っていて見えなかった立山連峰・剣沢の雪渓もくっきり見えた。
剣岳の標高は、2998mと言っていたので、何とか3000mの高さにと友達と肩車をして戯れた。途中、「カニの横ばい」・「カニの縦ばい」とかがあったが、難なく通過した。ただ、当時リュックと言えば、横長のキスリング型が主流でリュックの角が岩に当たりやすく、身体のバランスを崩し、ヒャットする人もいた。
先日、剣岳登山のテレビを見ていると、殆んどの人は荷物を小屋に預けてか
軽ザックで、又は水筒だけの人もいた。縦走中の荷物を全部を持って歩いている人はこのテレビの中にはいなかった。
最近、登山用具も進歩し、雨具もゴアテックス等の軽くて、通気性の良い物が主流だが、この当時の物は分厚く、重く、通気性がなかった。リュックも横長から縦長に変わった。その他、いろいろ改良されて助かる。
帰路、地獄谷を見学し、地獄谷温泉の小屋に宿泊。
四日目
翌日、快晴に恵まれ、奥大日岳に登り帰宅。
1965 年7月27~8月1日
鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ヶ岳・奥穂高岳
二日目
夜行列車でMa氏と 当初は太郎平を経由して、薬師岳・黒部五郎・鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ヶ岳と縦走し、上高地に下り帰る予定だった。しかし、前半、天気が悪かったので、薬師・黒部五郎を省き、雲の平を経由して鷲羽岳に行くことにした。
太郎平までは、雨の中をもくもくと登り、薬師をあきらめ途中小屋へ。
三日目
ガスの中の雲の平を通り、三俣山荘へ。この頃より天気は回復し始める。
最後の急登を過ぎると三俣山荘。小屋に荷物を置いて,鷲羽岳の往復。
四日目
早朝、小屋を出て三俣蓮華岳に登り、双六岳を経由して槍ヶ岳へ。双六小屋からは二度目だが、今回は、天気もよく見晴らしも良いので疲れも少なく、槍の穂先を見ながら歩けて良かった。
当時は、大学の山岳部の活動も活発で、双六岳付近で、ある大学の20人ほどの山岳部を追い越した。20~30Kgの荷物を持った後輩に、先輩が後輩に罵声を浴びせながら登る光景を見た。私も一度は憧れた山岳部。後輩に「がんばれ」と声援を送って追い越した。もう、彼らも古希に近い年齢になり、孫のいる好好爺になっていることでしょう。そして、中高年齢の登山者となって山を楽しんでいることでしょう。
五日目
早朝、天気も良いので、二度目の槍の穂先へ挑戦。四方の景色にうっとり。この頃、ダ-クダックスの「雪山賛歌」に人気が出、我々も口ずさむ。
下山後、天気がよいので、もう一度穂高岳に登りたくなる。横尾でMa氏と別れる。途中、石川県の人と行動を共にする。せせらぎで昼食を食べるが、疲れていたのか食欲が無く、半分ほど残す。雪渓を通り,涸沢に到着。 12時半。 予定より早く到着したので、穂高小屋までと思いザイテングラ-トを登った。これが悪かった。予想以上の急登で、途中よりへばりがきて、歩いては休み、歩いては休みの連続でだんだん休む時間の方が多い状態になった。昼の食事を食べなかったのがこたえる。粉末のジュ-スを水に溶かし飲む。美味い。予備食料がほしい。雪を食ってしまう。無理な行動であったことが今わかり、これが遭難につながると思った。 5時半やっと穂高小屋にたどりついた。この時の心境が山日記にも克明に書いている。反省.反省。
六日目
奥穂高の頂上へ登った後、涸沢に下り上高地に下山し、帰る。
1966年8月7日
福井での研修会の帰り、Mi氏と白山に登山.市ノ瀬で宿泊。早朝5時出発。
別当出会を6時半出発した。
室堂付近では、黒百合の群生があり、当時はやりの歌を思い出した。 登りは砂防新道を、下りは観光新道を使った。
帰りは、夜行列車を使い、あくる日の会合に出席した。
室堂付近で
高山植物が咲き乱れていた
後方は 最高峰御前峰
Ma氏と白馬岳・唐松岳へ
一日目
職員旅行の帰路、松本で別行動をとらせてもらい、Ma氏と白馬岳をめざした。
猿倉までバス、70円. 猿倉を11時13分に出発. 白馬尻小屋着、12時。
昼食、カレ-ライス110円(休憩料込み)。出発、12時半。 10分ほどで雪渓、
アイゼンをつける。槍・穂高より客が多い。近くの山も見えない。大雪渓も
アイゼンをきかせば問題ない。抜け出たのは 14時。
葱平の避難小屋で小休止。 お花畑には、たくさんの高山植物が咲き乱れ、庭園のようである。
ガスも消え、村営小屋に1時間以上も早く到着。
夕食、17時半。 その後、グリセ-ド(ピッケルを使って雪の斜面を下る技術)の練習。
小屋は近代的だ。
宿泊料 750円
二日目
4時起床。外を見れば雨。残念。ついていない。4時半、アノラックをつけ、頂上へ。5時前に到着したが、雨のため、すぐ小屋へ。朝食(ご飯はうまく炊けている。味噌汁も美味い。)をとり、6時半出発。雨がふっている。
杓子岳近くで7時半.鑓ヶ岳8時過ぎ、鑓温泉分岐で8時半。
天狗小屋あたりに雪渓があり、それを横切りのに苦労する。小屋着9時。
小屋近くに池があり、その周辺でキャンプが多い。
付近の山が見え隠れする。
休憩時,きゅうりをかじる。美味い。
10時半ごろより天狗の大下りとなる。
さすが、名前の通り、道は悪くはないか゛、傾斜がきついので、相当 疲れる。
11時過ぎ、最低鞍部に着く。これより、10分ほどで、最大の難所・不帰嶮に入る。針金の場所、鎖場、はしご場などがあり、槍・穂高の縦走を思い出す
雨が降っているので、今回の方が疲れる。
第二峰で昼食。第三峰 12時15分。 この頃より難所は少なくなる。第五峰までは、越後側を巻いた道でたいしたことはない。
これより 大下りをした後、急登で相当疲れる。
唐松岳頂上に13時45分。小屋は足元に見えたので、元気を出して頑張る。
14時着。
来年は、鹿島槍まで縦走する予定なので今回は、黒部川に下りることにしている。
でも、天気は悪いので、ここに泊まることにした。
唐松岳小屋は近代的で、畳が敷いている。(今では、当たり前)
水1リットルが50円もするので、15分ほど下った所の雪渓の所まで、水を
汲みに行って来た。
17時 夕食。カレーライス。宿泊費、750円
三日目
5時に起床。5時半 朝食。味噌汁はあまり美味しくない。しかし、一つ一つの食器に名をいれ、綺麗だった。朝食は今回は白馬の方が美味かった。
6時半、出発。雨は相変わらず降っている。半時間ほどで、アノラックから雨水が入ってきた。7時半、銅山跡らしい平らな所に出て小休止。
宿泊用の米もなくなり、荷物も軽くなり、6時間ばかりの下りは、楽と思ったが、とんでもない急坂の道で膝がガクガク。山を巻いた道で、急な道になると膝の痛みがひどくなる。9時半、小休止。ジュースの粉末を水に溶かしてのジュースを飲む。美味い。
膝の痛みがますますひどくなる。11時半の小休止で、雨も上がりそうなので水分で重くなったアノラック・オーバーズボン・セーター等を脱ぐと身体がすっきりした。 ズボン・セーターは汗と雨でびっしより。
半時間後、祖母谷温泉にやっと到着。
おにぎり2個、梅干2個の弁当。それに持参した「ふりかけ」をかけて、食べる。美味い。
13時発。道も平坦になり、身体もすっきりしてきたので、当時、よく歌われた「北上夜曲」を口ずさみ始めると、名剣温泉。そこで、汗を流した後、
大きな雪渓を通ったり、見たりしながら、欅平へ。14時着。
観光客も大勢いたので、山の感じが半減した。
よく揺れるつり橋(現在は鉄筋の橋になってい.)を渡ると駅だった。14時半
トロッコ列車は、うわさの通り愉快な電車だ。屋根はあるが、窓はないので、風通しがよかつた。駅の停留所で写真を撮っていると発車をおくらせてくれたところもおもしろい。富山の人と同席。黒部の谷はすごく、ダム・発電所もあった。
宇奈月着、15時40分。料金、210円。 富山着、17時。180円。
夕食に定食を2人分を。140円。美味かった。
その夜、19時57分発の青森発 大阪行きのドンコ列車で帰る。
座席がなかったので、通路に新聞をしき寝て、朝まで熟睡。
目が覚めたのは 京都駅だった。
1960年8月10~13日
Mo氏と立山・剣岳・大日岳へ。
二日目
夜行列車を富山でおり、電車・ケーブル・バス等を乗り継ぎ、弥陀ヶ原へ。
(当時、ケーブルに乗るとき、荷物は重さにより異なる別料金。バスの終点も
今は室堂までだが、当時は弥陀ケ原まで。)
9時にバスを降り、重いリュックを背負い,今は賑やかだが、当時はさびしい室堂を通り,一の越で休憩し、雄山へ。
(室堂が 賑やかになったのは アルペンルートができてから)
12時に頂上着。昼食後、神社でお神酒を頂き、大汝山 そして真砂岳へ。
弥陀ケ原のバス停
頭上は雄山神社
この頃より、天気は悪化。視界が利かなくなり、二人で標識(矢印等)を目を皿のようにして探し始めて歩くこと約1時間。ガスの中にぼんやり小屋の青い屋根。そして、やっと人の話し声。助かった。ホットして、剣御前小屋の中へ。17時到着。
三日目
翌早朝 6時 剣御前小屋を出発。お陰で、太陽も姿を見せている。荷物を持って、剣御前の頂上(7時) 一服剣・前剣(8時) そして、剣の頂上に9時半到着。難所の岩場は槍ヶ岳の穂先よりスゴイため、順番まちで予定より、時間がかかる。昨日、曇っていて見えなかった立山連峰・剣沢の雪渓もくっきり見えた。
剣岳の標高は、2998mと言っていたので、何とか3000mの高さにと友達と肩車をして戯れた。途中、「カニの横ばい」・「カニの縦ばい」とかがあったが、難なく通過した。ただ、当時リュックと言えば、横長のキスリング型が主流でリュックの角が岩に当たりやすく、身体のバランスを崩し、ヒャットする人もいた。
先日、剣岳登山のテレビを見ていると、殆んどの人は荷物を小屋に預けてか
軽ザックで、又は水筒だけの人もいた。縦走中の荷物を全部を持って歩いている人はこのテレビの中にはいなかった。
最近、登山用具も進歩し、雨具もゴアテックス等の軽くて、通気性の良い物が主流だが、この当時の物は分厚く、重く、通気性がなかった。リュックも横長から縦長に変わった。その他、いろいろ改良されて助かる。
帰路、地獄谷を見学し、地獄谷温泉の小屋に宿泊。
四日目
翌日、快晴に恵まれ、奥大日岳に登り帰宅。
1965 年7月27~8月1日
鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ヶ岳・奥穂高岳
二日目
夜行列車でMa氏と 当初は太郎平を経由して、薬師岳・黒部五郎・鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ヶ岳と縦走し、上高地に下り帰る予定だった。しかし、前半、天気が悪かったので、薬師・黒部五郎を省き、雲の平を経由して鷲羽岳に行くことにした。
太郎平までは、雨の中をもくもくと登り、薬師をあきらめ途中小屋へ。
三日目
ガスの中の雲の平を通り、三俣山荘へ。この頃より天気は回復し始める。
最後の急登を過ぎると三俣山荘。小屋に荷物を置いて,鷲羽岳の往復。
四日目
早朝、小屋を出て三俣蓮華岳に登り、双六岳を経由して槍ヶ岳へ。双六小屋からは二度目だが、今回は、天気もよく見晴らしも良いので疲れも少なく、槍の穂先を見ながら歩けて良かった。
当時は、大学の山岳部の活動も活発で、双六岳付近で、ある大学の20人ほどの山岳部を追い越した。20~30Kgの荷物を持った後輩に、先輩が後輩に罵声を浴びせながら登る光景を見た。私も一度は憧れた山岳部。後輩に「がんばれ」と声援を送って追い越した。もう、彼らも古希に近い年齢になり、孫のいる好好爺になっていることでしょう。そして、中高年齢の登山者となって山を楽しんでいることでしょう。
五日目
早朝、天気も良いので、二度目の槍の穂先へ挑戦。四方の景色にうっとり。この頃、ダ-クダックスの「雪山賛歌」に人気が出、我々も口ずさむ。
下山後、天気がよいので、もう一度穂高岳に登りたくなる。横尾でMa氏と別れる。途中、石川県の人と行動を共にする。せせらぎで昼食を食べるが、疲れていたのか食欲が無く、半分ほど残す。雪渓を通り,涸沢に到着。 12時半。 予定より早く到着したので、穂高小屋までと思いザイテングラ-トを登った。これが悪かった。予想以上の急登で、途中よりへばりがきて、歩いては休み、歩いては休みの連続でだんだん休む時間の方が多い状態になった。昼の食事を食べなかったのがこたえる。粉末のジュ-スを水に溶かし飲む。美味い。予備食料がほしい。雪を食ってしまう。無理な行動であったことが今わかり、これが遭難につながると思った。 5時半やっと穂高小屋にたどりついた。この時の心境が山日記にも克明に書いている。反省.反省。
六日目
奥穂高の頂上へ登った後、涸沢に下り上高地に下山し、帰る。
1966年8月7日
福井での研修会の帰り、Mi氏と白山に登山.市ノ瀬で宿泊。早朝5時出発。
別当出会を6時半出発した。
室堂付近では、黒百合の群生があり、当時はやりの歌を思い出した。 登りは砂防新道を、下りは観光新道を使った。
帰りは、夜行列車を使い、あくる日の会合に出席した。
室堂付近で
高山植物が咲き乱れていた
後方は 最高峰御前峰
2008年01月30日
私の足跡 2 1948年から1959年
1948年
小学校6年生の時、地元にボーイスカウトが誕生し、私も 即入隊させてもらい野外活動の経験をさせてもらった。
登山活動はなかつたが、米軍の中古のテントだったが、それを使い キャンプに何度も連れて行ってもらった。
高学年だったので、班長になり、班だけでの野外活動にも行った。
大学時代も地元にいたので、指導者の手伝いもし、度々後輩を野外活動に連れて行った。
このボ-イスカウトの経験が、私の目を山に向けさせてくれた一因と感謝している。
1950年7月
中学1年生の時 先生に仲間6人と大峰山(山上ヶ岳)に連れて行ってもらった。今思うと、下市から懐かしいボンネット型の煙をたくさん出し、音も大きいバスだった。デコボコの地道で、窓を全開にして走ったと思われる。途中 休憩を入れ、3時間以上かけて,洞川に到着したと思われる。長距離バスに乗るのは初めてなので、車外の風景に酔いしれていたので、あっと言う間であった。
若かったからか登・下山の苦しさ等は記憶に無いが、鐘掛け岩の所で、先達さんが、唱えた後を我々も唱え岩山をよじ登ったのを覚えている。
また、西の覗きで、先達さんが「親の言うことをよく聞くか」と言った途端身体を崖の下に放り出されたので、恐ろしさのあまり「はい」と言ったのを覚えている。最後に先生も同じようにしてもらっていたので、私たちは最後に「生徒に優しくするか」と聞いてもらうよう先達さんに頼むと先達さんがその通り言った。すると 先生も「はい」と言ったので皆で大笑いした。
それよりも、強烈に印象に残っているのは、山上の宿舎を早く出、頂上より見せてもらったご来光・さわやかな風・そして朝露に濡れている高山植物の花の美しさだった。 この朝の体験が、山上の素晴らしさに惹きつかれて何度も山に登るようになった第一歩だと思っている。
1957年7月
大学の同期生と二十歳の成人を祝し、富士登山を計画した.先ず、河口湖で宿泊したが、持っていったテントは米軍の中古のため、夜中の雨で雨漏りがあり、眠れなかった。
翌日は 晴天に恵まれ、バスを乗り継ぎ登山開始。初めは若さにまかせて、他の登山者を追い越し、頂上を極めた。
頂上は うす曇で視界はよくなかった。気温は低く、寒いのですぐに下山し始めた。若さにまかせ、砂走りを走り降りた。運動靴だったので、靴の中に砂が入り、痛くなるので何度も靴を脱ぎ砂を出しながら降りた記憶がある。 この旅行は 若さと馬力に任せた登山だった。
1959年7月25~31日
就職した年、よき先輩MAに遭遇した。早速笠ヶ岳から双六岳・槍ヶ岳を通り、穂高への縦走する計画を企画してくれた。
二日目
大阪駅を夜行列車に乗り、高山駅からは一番のバスに乗ったが、夜行列車での睡眠不足で頭を何度もバスの窓に打ちつけながら中尾温泉で降りる。
笠ヶ岳への急な登り道を黙々と登る。初めての本格的な登山で緊張したが、何とかついていけた。曇っていて、景色はあまり見えなかった。ジュースとお菓子で疲れをとる。荷物の重さがだんだんこたえてくる。3時すぎ、やっと到着。本格的な山小屋で寝るのも初体験.夜行列車の睡眠不足と疲れていたためか、意外によく眠れた。
三日目
翌日 天気も回復し始めた。抜戸岳・弓折岳を通る頃より、槍ヶ岳もぼんやりだがよく見えるようになった。双六小屋に泊まる。近くに池もある。
また、周辺には黒百合が咲き乱れ,はい松の海が広がり、素晴らしい。
四日目
朝早く目が覚め、朝食まで散策する。朝食を済ますと7時に出発.樅沢岳を通り、千丈沢乗越を過ぎる頃より雨が降り出す。道も険しくなり,痩せた馬の背なので、疲れも多い。12時すぎ槍ヶ岳山荘へ。疲労と寒さでぐったりしていたが、ラジウスで暖かい物をつくり、充分な休養をとる。4時ごろ、雨があがり、眼前に槍の穂先が見えたとき、小屋一杯に歓声が沸き立つ。さすが「槍ヶ岳」、その険しさはスゴイ。これだけ、近くに、こんな大きなものがありながら、天候のため見えないとなれば、遭難の原因になるとつくづく思った。
気の早い者は、早速「槍の穂先」へ登る者もいたが、我々は明朝のご来光を頂上でということで、付近を散策し雄大なアルプスの景観に酔いしれていた。
さすが、3000mの雲上、セーターを着ていたが、寒くて1時間も外にいられず、小屋の中へ。山日記を書こうとしたが、寒くて手がかじかんで、自分でも読めないくらいの文字であった。
明日の行動を考え、7時に床につく。
五日目
4時起床、用意が終わると小屋を飛び出す。空には一点の雲も無い快晴。カメラだけを持ち、一番乗りにと思ったがもう20名ほど先にいる。当時、穂先へは登り20分 下り30分と言われ,上りも下りも道は殆んど同じ道だった。
(今は、混雑を避けるため、登りと下りの道を別にし、梯子や鎖を多くしたのでスム-スになった。)
槍の穂先からのご来光 槍の穂先にて
頂上は満員であった。西を見れば我々が昨日歩いてきた西鎌尾根・双六岳が見え、北を見れば烏帽子岳、東を見れば常念岳・富士山が見え、南に目を転ずればこれから歩く穂高岳への山々というように四方八方の山々に酔いしれていると、富士山の方向よりご来光。槍の穂先で歓声が上がった。頂上に上がれず、待っている人に場所を譲るため、名残惜しいが穂先より降りる。
小屋を7時に出発。緊張する槍・穂高の縦走です。でも大キレットは思ったよりスム-スに通過。
北穂高岳の滝谷側の絶壁はスゴカッタ。途中 常念岳を見ながらの昼食。にぎり2個,沢庵4切れだけだったが絶景を見ながらなので、美味だった。
後方に槍ヶ岳 下方の白い線が梓川
涸沢岳を超え,奥穂高小屋で宿泊。背中の米もすべてなくなり、荷が軽くなる。時間があったので、ゆっくり過ごす。夕食の味噌汁が美味しく、お変わりをする。
六日目
7時に小屋を出て、鎖・梯子を使い奥穂高へ。頂上から、視界に入る景色を脳裏に納めるため、時間をとった。上高地の梓川は白い糸のようだった。
小屋の赤や青の屋根とあわせると、箱庭のようであつた。
前穂高へ登る途中、雷鳥親子に励まされ元気をもらった。
途中、紀美子平・岳沢ヒュッテを通る頃より、急坂のため、膝が痛くなり始める。
時間がたつが、上高地がなかなか近づいてくれない。やっと、梓川につき、一時間足らずで「山のひだや」へ。
そこでの一週間ぶりの風呂・そしてビ-ルの味は今でも忘れられない。
夜、スライドで四季の上高地や山を見せてもらった。
七日目
9時に宿舎を出る。上高地でゆっくりし、久方ぶりに町の雰囲気にひたる。
5時ごろ松本に着いたが、夜行列車までの時間を映画[鍵]を見て、23時半の夜行列車に乗る。
今から50年ほど前の話だが、小屋へ荷物を運ぶのは、ヘリコブタ-等でなく、すべて人の力だった。だから、米を持って行くと宿泊代が安くなった。
田舎育ちの私は、米を持って登った。多い時には、米だけで5㎏近くもあった。最後の日,残った米を渡して、宿泊代を安くしてもらったことが 度々あった。
この時期、小屋の食事・弁当などは、今の時代に比べると質素だったので、発売間もない『ふりかけ』をよく利用した。
でも、よいこともあった。それは、今ほど登山ブ-ムでなかったので、小屋の宿泊もゆったりしていた。それで山小屋の人達や他の登山者との談笑が多くあったことだ。
小学校6年生の時、地元にボーイスカウトが誕生し、私も 即入隊させてもらい野外活動の経験をさせてもらった。
登山活動はなかつたが、米軍の中古のテントだったが、それを使い キャンプに何度も連れて行ってもらった。
高学年だったので、班長になり、班だけでの野外活動にも行った。
大学時代も地元にいたので、指導者の手伝いもし、度々後輩を野外活動に連れて行った。
このボ-イスカウトの経験が、私の目を山に向けさせてくれた一因と感謝している。
1950年7月
中学1年生の時 先生に仲間6人と大峰山(山上ヶ岳)に連れて行ってもらった。今思うと、下市から懐かしいボンネット型の煙をたくさん出し、音も大きいバスだった。デコボコの地道で、窓を全開にして走ったと思われる。途中 休憩を入れ、3時間以上かけて,洞川に到着したと思われる。長距離バスに乗るのは初めてなので、車外の風景に酔いしれていたので、あっと言う間であった。
若かったからか登・下山の苦しさ等は記憶に無いが、鐘掛け岩の所で、先達さんが、唱えた後を我々も唱え岩山をよじ登ったのを覚えている。
また、西の覗きで、先達さんが「親の言うことをよく聞くか」と言った途端身体を崖の下に放り出されたので、恐ろしさのあまり「はい」と言ったのを覚えている。最後に先生も同じようにしてもらっていたので、私たちは最後に「生徒に優しくするか」と聞いてもらうよう先達さんに頼むと先達さんがその通り言った。すると 先生も「はい」と言ったので皆で大笑いした。
それよりも、強烈に印象に残っているのは、山上の宿舎を早く出、頂上より見せてもらったご来光・さわやかな風・そして朝露に濡れている高山植物の花の美しさだった。 この朝の体験が、山上の素晴らしさに惹きつかれて何度も山に登るようになった第一歩だと思っている。
1957年7月
大学の同期生と二十歳の成人を祝し、富士登山を計画した.先ず、河口湖で宿泊したが、持っていったテントは米軍の中古のため、夜中の雨で雨漏りがあり、眠れなかった。
翌日は 晴天に恵まれ、バスを乗り継ぎ登山開始。初めは若さにまかせて、他の登山者を追い越し、頂上を極めた。
頂上は うす曇で視界はよくなかった。気温は低く、寒いのですぐに下山し始めた。若さにまかせ、砂走りを走り降りた。運動靴だったので、靴の中に砂が入り、痛くなるので何度も靴を脱ぎ砂を出しながら降りた記憶がある。 この旅行は 若さと馬力に任せた登山だった。
1959年7月25~31日
就職した年、よき先輩MAに遭遇した。早速笠ヶ岳から双六岳・槍ヶ岳を通り、穂高への縦走する計画を企画してくれた。
二日目
大阪駅を夜行列車に乗り、高山駅からは一番のバスに乗ったが、夜行列車での睡眠不足で頭を何度もバスの窓に打ちつけながら中尾温泉で降りる。
笠ヶ岳への急な登り道を黙々と登る。初めての本格的な登山で緊張したが、何とかついていけた。曇っていて、景色はあまり見えなかった。ジュースとお菓子で疲れをとる。荷物の重さがだんだんこたえてくる。3時すぎ、やっと到着。本格的な山小屋で寝るのも初体験.夜行列車の睡眠不足と疲れていたためか、意外によく眠れた。
三日目
翌日 天気も回復し始めた。抜戸岳・弓折岳を通る頃より、槍ヶ岳もぼんやりだがよく見えるようになった。双六小屋に泊まる。近くに池もある。
また、周辺には黒百合が咲き乱れ,はい松の海が広がり、素晴らしい。
四日目
朝早く目が覚め、朝食まで散策する。朝食を済ますと7時に出発.樅沢岳を通り、千丈沢乗越を過ぎる頃より雨が降り出す。道も険しくなり,痩せた馬の背なので、疲れも多い。12時すぎ槍ヶ岳山荘へ。疲労と寒さでぐったりしていたが、ラジウスで暖かい物をつくり、充分な休養をとる。4時ごろ、雨があがり、眼前に槍の穂先が見えたとき、小屋一杯に歓声が沸き立つ。さすが「槍ヶ岳」、その険しさはスゴイ。これだけ、近くに、こんな大きなものがありながら、天候のため見えないとなれば、遭難の原因になるとつくづく思った。
気の早い者は、早速「槍の穂先」へ登る者もいたが、我々は明朝のご来光を頂上でということで、付近を散策し雄大なアルプスの景観に酔いしれていた。
さすが、3000mの雲上、セーターを着ていたが、寒くて1時間も外にいられず、小屋の中へ。山日記を書こうとしたが、寒くて手がかじかんで、自分でも読めないくらいの文字であった。
明日の行動を考え、7時に床につく。
五日目
4時起床、用意が終わると小屋を飛び出す。空には一点の雲も無い快晴。カメラだけを持ち、一番乗りにと思ったがもう20名ほど先にいる。当時、穂先へは登り20分 下り30分と言われ,上りも下りも道は殆んど同じ道だった。
(今は、混雑を避けるため、登りと下りの道を別にし、梯子や鎖を多くしたのでスム-スになった。)
槍の穂先からのご来光 槍の穂先にて
頂上は満員であった。西を見れば我々が昨日歩いてきた西鎌尾根・双六岳が見え、北を見れば烏帽子岳、東を見れば常念岳・富士山が見え、南に目を転ずればこれから歩く穂高岳への山々というように四方八方の山々に酔いしれていると、富士山の方向よりご来光。槍の穂先で歓声が上がった。頂上に上がれず、待っている人に場所を譲るため、名残惜しいが穂先より降りる。
小屋を7時に出発。緊張する槍・穂高の縦走です。でも大キレットは思ったよりスム-スに通過。
北穂高岳の滝谷側の絶壁はスゴカッタ。途中 常念岳を見ながらの昼食。にぎり2個,沢庵4切れだけだったが絶景を見ながらなので、美味だった。
後方に槍ヶ岳 下方の白い線が梓川
涸沢岳を超え,奥穂高小屋で宿泊。背中の米もすべてなくなり、荷が軽くなる。時間があったので、ゆっくり過ごす。夕食の味噌汁が美味しく、お変わりをする。
六日目
7時に小屋を出て、鎖・梯子を使い奥穂高へ。頂上から、視界に入る景色を脳裏に納めるため、時間をとった。上高地の梓川は白い糸のようだった。
小屋の赤や青の屋根とあわせると、箱庭のようであつた。
前穂高へ登る途中、雷鳥親子に励まされ元気をもらった。
途中、紀美子平・岳沢ヒュッテを通る頃より、急坂のため、膝が痛くなり始める。
時間がたつが、上高地がなかなか近づいてくれない。やっと、梓川につき、一時間足らずで「山のひだや」へ。
そこでの一週間ぶりの風呂・そしてビ-ルの味は今でも忘れられない。
夜、スライドで四季の上高地や山を見せてもらった。
七日目
9時に宿舎を出る。上高地でゆっくりし、久方ぶりに町の雰囲気にひたる。
5時ごろ松本に着いたが、夜行列車までの時間を映画[鍵]を見て、23時半の夜行列車に乗る。
今から50年ほど前の話だが、小屋へ荷物を運ぶのは、ヘリコブタ-等でなく、すべて人の力だった。だから、米を持って行くと宿泊代が安くなった。
田舎育ちの私は、米を持って登った。多い時には、米だけで5㎏近くもあった。最後の日,残った米を渡して、宿泊代を安くしてもらったことが 度々あった。
この時期、小屋の食事・弁当などは、今の時代に比べると質素だったので、発売間もない『ふりかけ』をよく利用した。
でも、よいこともあった。それは、今ほど登山ブ-ムでなかったので、小屋の宿泊もゆったりしていた。それで山小屋の人達や他の登山者との談笑が多くあったことだ。
at 09:05|Permalink│Comments(0)