平安京から1200年祭の高野山へ
2015年04月10日
私の足跡 176 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 9
平安京から
開創1200年の高野山へ歩く 9
9 丹生都比売神社から高野山上へ 4月 6日
橋本駅を8時にバスを出発し 途中で仲間を乗せ丹生都比売神社に9時前に到着。
準備体操の後 9時10分に出発。
丹生都比売神社を出発して すぐに「有王丸」の墓がある。
「清盛討伐の謀計が漏れ、鬼界ケ島に流された俊寛の遺骨を高野山に納め その後 天野に住んだ」と源平盛衰記に記された「有王丸の墓」
そして しばらく歩くと 「院の墓」がある。
待賢門院の墓と伝えられているが 院に仕えた後 この地に隠れ住んだ中納言の局の墓と言われている。
苦しい八丁坂を登りきり しばらく下り坂を過ぎるとゴルフ場が見え その傍に池がある。
応其上人が 丹生都比売神社の御神田のために築造したため池と言われている。
横笛が 滝口入道に会いたいため この堂に来て恋しい入道を待った所
弘法大師 子安地蔵 応其上人が祀られている。
笠木峠で休憩。
やっと 60町の矢立に到着。予定通り 12時より昼食休憩。
歩き始めて すぐに六地像がある。
袈裟掛石 女人禁制の山に母親が登ろうとしたので 弘法大師が袈裟を岩に掛けて越えさせないようしたと言われる岩。鞍のような形をしているので鞍掛石とも言われ またくぐり石とも言われている。
しばらく歩くと 大師の言葉を聞かずに 越えようしたので雷雨が降って来たので 大岩を持ちあげ そこにかくまったいう押し上げ石等の石がある。
鎌倉時代の町石が無くなったので 新しい町石が造られているが この石は昭和の時代に造られた新しい町石である。 後に原石が見つかり 二基が並んでいる。
40町石を過ぎると展望台があり 休憩する。
12町石を過ぎると厳しい登り坂となる。
坂を登り切ると 大門に到着。国の重要文化財 高さ 25.8mは日本では 最大級です。
両側にある 金剛力士像は 見事である。
壇上伽藍の中心である根本大塔である。
4時頃 京都から高野山迄の130kmを歩き終え お互いの健闘をたたえ終了した。
2015年03月26日
私の足跡 175 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 8
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 8
8 紀伊山田駅から丹生都比売神社へ 3月 16日
出発後 奈良時代に建てられたと言われる「神野々廃寺塔跡」に到着。
礎石は巨大なもので 心柱を建てた穴は 直径80cm以上もあり 相当大規模な塔だったと推定されている。
「延喜式神名帳」に記されている 「小田神社」に到着。
戦火により荒れていた旧本殿の跡に 石の宝殿を建て「小田神社」と刻して後世に伝えさせたのが ご神体となり現在に至っている。
清涼寺に到着 伝承によると 昔は4町(約400m強)四方の寺域を有し 深く皇室の保護を受けていた。
高野御幸の際 旅程の最後の宿泊をされた大寺であった。
世界遺産に登録されている「慈尊院」にお参りする。
816年 弘法大師(空海)が 高野山開創に際し 高野山参詣の表玄関として伽藍をつくり 政所等の場所とされたと言う。
弥勒堂(国の重文)に祀られている秘仏の弥勒菩薩(国宝)が 4月2日より (高野山開創1200年祭の間) 御開帳とのこと 楽しみです。
大日如来を祀っている多宝塔。
丹生官省符神社を過ぎた勝利寺の下で 昼食休憩。
その後 町石道を登って行く。
北を見れば 紀の川 南を見れば高野山の見える絶景の場所。展望台からの眺め。
(天気が良ければ 高見山も)
弘法大師坐像。目的地まで無事に行けますようにお願いする。
六本杉で 休憩。
天野の展望台が見えて来た。
二つ鳥居に到着。
この地点より上は 次回にして 八丁坂を降りて 丹生都比売神社に参拝。
丹生都比売神社に参拝し、宮司さんより丁寧な説明を受け、バスで各自の家へ。
。
2015年03月17日
私の足跡 174 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 7
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 7
v 滝谷不動駅から天見へ 3月 2日
今回は 前回の天見駅を 9時に出発する
二つの班に分かれて出発。
出合いの辻を過ぎて 旧街道を通る。
国道に出ると ガードレールに守られた歩道を楽しく歩く。
紀見峠を越える時 旧国道ではなく 昔の道「み坂」を通る。
紀見峠では 旧宿場町の説明や世界的に有名なで橋本市の名誉市民である「岡 潔」が少年時代を過ごした様子をガイドにしてもらう。(ここに 六里石がある)
昔の面影の残る宿場町跡。
慶賀野戎神社に寄り、ここより良く見える 長藪城址の説明を聞く。
幕末になり賑わいをあった京・大阪道に 大阪狭山市の二人が発起人になり 堺から高野山迄の13里の道に 一里ごとに道標を建てた。 それが当時の旅人の役にたった。その里程石が 今に残っている。 (橋本市には 紀見峠の六里石から学文路の三里石迄のの四基がある。)
現「御幸駅」の近くにある道標。 現在の高野参詣道は この道を南に直進して橋本経由で高野山へのびているが、平安時代からは ここで分岐して 西に延びていたという資料により、駅名にもなっている「御幸」道を歩くことにした。
菖蒲谷・出塔・一時期鋳物の生産地として栄えた柏原を通り 本日のゴール「紀伊山田駅」へ。
2015年02月15日
私の足跡 173 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅵ
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅵ
v 天見駅から紀伊山田駅へ 2月 16日
今回は 前回の終着駅を 9時に出発する。今回より参加者8名の増加を予定していたが、6名
欠席で 総勢31名で出発。
河内長野市に近づくと一里塚跡に到着。一辺9メートルの正方形で この錦織一里塚は 東高野街道に接して 造られています。現在 宝筺印塔と石碑が残されている。府指定文化財。
塚の上には 宝筺院塔があり 承応2(1653)年の銘がある。
融通念仏宗の極楽寺に到着。阿弥陀如来の坐像です。高さ6メートル 青銅製。
天野酒の酒蔵 享保3(1718)年 創業の造り酒屋。この建物は国の登録文化財。
国指定の重要文化財の烏帽子形八幡神社に到着し 石段を登り 参拝をする。
創建は わからないが 山頂には楠木七城の一つと伝えられる烏帽子形城があり その鎮守として祀られたとの説もある。
三日市宿に到着。昔の面影を残す街道を歩く。
重厚の感じの建物・八木邸です。
江戸末期 堺から高野山迄の距離を表すため建てた里提標。 京・大坂道では 高野山まで八里となるが、我々は大師も歩いたと言われる平安時代からの町石道を通るのでもっと長い。
弘法大師に縁のある寺であったが、今は融通念仏宗の寺である。大きな石仏があるので、石仏寺と呼ばれている。
弘法大師伝説を残す「松明屋」というお堂です。大師が旅の途中 この地で夜が明け、不要になった松明を地面に突き立てたところ、松の木になったという。
本日の目的地 天見駅に予定通り 16時着。
2015年02月07日
私の足跡 172 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅴ
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅴ
Ⅴ 道明寺駅から滝谷不動駅へ 2月 2日
今回は 前回終了時の道明寺駅から滝谷不動駅へ向けて歩く。
先ず 天満宮に行き、参拝と見学。
もともとこの地は 土師氏の氏神であった。土師氏は後に菅原姓を名のるようになった。
平安時代 一族の菅原道真が太宰府に流され、没すると都に天災や疫病が続いた。道真の怒りだということで 京都の北野に天満宮が造られ これが天満信迎の始まりです。
伝えでは 菅原氏(土師氏)の出身地であり、道真の伯母・覚寿尼の住む土師寺に天神(道真)を祀ったのが、天満宮としての神社の起こりだといわれます。この後、土師寺は「道明寺」と名前が変わります。
「道明」というのは、道真の号(別の名、雅号)だったのです。
天満宮と言えば 梅。道明寺天満宮も他の天満宮と同じく、梅の花の時期には多くの参拝客がお参りすることでしょう。
仁徳天皇陵に次ぐ 面積が2番目で 体積が全国1位の巨大な応神天皇陵を見ながら誉田八幡宮に到着。
白鳥神社は 日本武尊に関わり、日本各地に鎮座する。
羽曳野市の白鳥神社は 日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。
明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その祭神である饒速日命、
広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。
「右近の橘」「左近の桜」もあり、また 大きな狛犬もあり立派な神社であった。
境内には 古戦場跡の碑があり、当時の様子がわかった。
しばらく 歩くと東高野街道と竹内街道の交差点があった。4年前T氏と2日間かけて、竹内街道を歩いたのを思い出す。
市民会館での昼食後、本日のメインである富田林の寺内町に到着した
大阪府南東部の南河内(みなみかわち)地方に位置する富田林 (とんだばやし)市。中心部の旧市街地には江戸時代中期以降に建てられた民家(商家、町家)が約40軒、往時の姿そのままに保存・継承されています。富田林の名前の由来にもなった、富田が芝と呼ばれた荒地は、今から約450年前、戦国時代の最中に興正寺別院 (一向宗・浄土真宗)を中心に宗教自治自衛都市・寺内町 (じないまち)として開発され、発展しました。今も戦国時代の東西南北の碁盤目状の町割(都市計画)を留めています。
途中 興正寺別院の本堂に入らせてもらって 貴重な襖絵を見せてもらう。
この襖絵は 幕府御用絵師として江戸城本丸 御所等の障壁画制作に参加した狩野寿石「竹梅図」と「松図」です。
17世紀後半に入ると中世・寺内町としての性格は失いつつも、南河内地方における、米、酒造、木綿、菜種油、木材などの商品作物の交易・流通の中心地、近世・在郷町として大きく栄えました。往時の繁栄が偲ばれる大店の商家は、建築年代が江戸時代中期から昭和初期に亘り、建築様式や外観も少しずつ異なっており、それぞれが個性的な表情を見せています。伝統的建築物は、国の重要文化財に指定された(旧)杉山家住宅や興正寺別院、さらには大阪府有形文化財に指定された仲村家住宅をはじめ、文化遺産として極めて貴重で価値の高いものです。幸いにして戦災から免れ、高度成長期の開発の波も受けず、寺内町地区一帯は昔ながらの外観を残しています。
旧杉山家住宅 建築年代 1644年(寛永元年)
昭和58(1983)年 国の重要文化財指定
興正寺別院 建築年代 1638年(寛永15年)
平成26年(2014)年 国の重要文化財指定
珍しい 三階建の蔵
木口家住宅
建築年代 1735年(宝暦3年) 木綿問屋
史跡見学なら、ここの見学は マップを片手に半日を当てて 見学する値打ちがある。
私達は 街道歩きだから ゆっくりしていられないから本日の到着駅「滝谷不動駅」に向かって出発した。
そして 予定通りに 無事 到着した。
2015年01月26日
私の足跡 171 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 4
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅳ
Ⅳ 新石切駅から道明寺駅へ 1月19日
朝 家を出る時 雨が降っていたが 出発地の石切駅に着くと 晴れ間ものぞく天気だった。
早速、駅前の石切藤地蔵にお参りし、「今日の旅の無事」をお願いして出発。
東高野街道を通って 一路南下していくと大きな四差路に通りかかる。
この辻は 東高野街道と攝津から暗峠越えの大和街道の交差点
次に 左手に 大きな鳥居が見える。途中で 接いでいる。これは、20年前の神戸・淡路大震災の被害の跡らしい。
途中に 弘法大師堂があり、高野への参詣の道中、旅の安全を祈った事でしょう。
瓢箪山近くで 珍しくアーケイのついた商店街の参詣道を通った。近頃では こんなに賑わっている商店街は珍しいと思う。
瓢箪山駅を越え 商店街を過ぎるころの左に上の鳥居が見える。瓢箪山稲荷神社です。
この神社は秀吉が 大阪城の巽の方向の守り神として勧請したので 鳥居の下の小さな橋は 太閤橋と言うらしい。
この鳥居の辻は、古来から俗称「みこの辻」と言われ、神霊の降る所として辻占い「占場」になつており、往来者の言動、外見などから占われていた。このことから「辻占総本社」と言われている。
瓢箪の形をしていた六世紀に造られた古墳の西斜面に稲荷神を祀り築造したので「瓢箪山稲荷神社」と言うらしい。
京都と高野山を結ぶ東高野街道は平安時代から鎌倉時代に上皇や公家たちが往来した重要な道筋でしたので 一里塚が整備されました。正保元年(1644)の「河内の国絵図」には11ヶ所の一里塚が描かれています。現在 残っているのは これを入れて2ヶ所だけである。
恩智駅の近くに 標記の石碑が残っていた。
大和川を越え 藤井寺市に入る。ここが「河内の国」の国府(奈良・平安時代の中央政府の出先機関である河内国府が設置され河内の国の政治的中心)の有った場所。
国府跡遺跡の近くに 旧石器時代の人骨等を含む遺跡が発掘されている。
2015年01月15日
私の足跡 170 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 3
私の足跡 170
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅲ
Ⅲ 交野市から石切神社まで 12月 8日
3day切符の3回目を使い、前回 歩き終えた交野市駅に着き、 9時40分に出発。
交野市は「星」や「川」に関する地名等が多い。
ホタルの時期には ここ「天の川」も賑わうらしい。
しばらく歩くと、「本尊掛松遺跡」に到着。大念仏宗の明上上人が 会得した本尊を松の木に掛けて そのまわりを踊り回ったことから 融通念仏宗の念仏踊り発祥の地と言われている。
昔の高野街道が偲ばれる風情の残る街並みを進む。
田んぼの端に「一里塚跡」の石碑が建っている。
街道沿いに小さな井戸があり、その傍に「弘法観念水」と刻まれた石碑が建っている。
この井戸は、いくら日照りが続いても涸れる事は無かったと言われています・
高野山への往復に 通った人々の喉を渇きを癒したことでしょう。
「歴史民俗資料館」 日本最古の下駄の化石が見つかった箇所。
この付近には 古くから多くの古墳が存在していました。
四条畷神社への参道にある鳥居。本殿まで 遠いので失礼して ここから参拝する。
野崎観音さまも お参りはしなかった。
メノコ橋の欄干石 弘法大師がこの地に10日程滞在時に 橋の欄干を枕にして寝床にしたと言われている。「ねどこ」が訛って「メノコ」になったと言われている。
石切剱箭神社に到着。
石切剱箭神社は 地元では「石切さん」と呼ばれ、腫れものを治す神様として知られている。
今回は ここで解散し 次回での再会を約して解散する。
2014年12月15日
私の足跡 169 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 2
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅱ
Ⅱ 八幡市から交野市へ 12月1日
今回は 京阪の八幡市駅より3dayチケットを使い、ケーブルに乗り八幡さんへ。
そして今回の旅の安全を祈る。
参詣道を登っていき 曲がると 見事な総門が見えた。曲げている理由は 帰りにお尻を向けないようにしたらしい。
総門の向こうに見事な本殿が見える。
貞観元年(859) この地に勧請され、翌2年に創建されました。祭神は応神天皇・神宮皇后・比嘩大神の三神で、全国屈指の神社です。社殿は徳川家光の造栄によるもので、国の重要文化財とされている。
宇佐神宮・鎌倉八幡とともに 日本の三大八幡社と言われています。
この八幡は京都の都の裏鬼門となるように 宇佐神宮より勧請された。そして源氏家の守り神として信仰されていた。そして鎌倉に幕府を開いた時に鎌倉に勧請されたとある。
石灯篭の並んだ参道は見事だった。
帰りは ケーブルのない時代の参詣道を通って帰った。長い石段を通って東高野街道に降りる。
途中、茶店があったが、平日なのか閉まっていた。
放生川に架る安居橋。太鼓橋でぎぼしもついた風情のある橋である。
悲しい話が残る小野頼風の五輪塔があつた。 女性(妻)の五輪塔は松花庭園に。二つの五輪塔が並ぶ時があるのだろうか。
もみじ寺
足利義満の母が紅葉がすきだったので この善法律寺に紅葉を植えた。今では「紅葉寺」と言われています。雨にうたれていて残念だった。
正法寺
徳川家康の側室「お亀」のた方・相応院の菩提寺。家康の8男・9男を出産。9男は尾張藩の藩祖・義直である。
本堂・唐門(写真の正面)や書画など数多くの重要文化財を誇ります。
徳川家が八幡さんにお参りに来ると必ずここを宿泊所にした。
松家堂庭園に到着した。今回は 時間の都合で庭園の中に入らなかった。
上の2枚の写真は 数年前に立ち寄った時に撮影したものです。
京都の八幡市を散策していると、上記のような竹林がよく目にする。どこかの庭園のように綺麗に管理されているのにビックリ。
眺めていると 管理している人が来たので、いろいろ聞いてみた。おいしい筍を作るには世話が必要との事。
先ず、太陽を取り入れるため 竹と竹の間隔をあける為元気な竹のみを残す。 そして無駄な養分を親竹に送らないため 不必要な竹の先を切る。そして、無駄な養分を親竹に送らない。
次に、土に養分を加える。そして、保水のため 藁と土を毎年積み重ねる。除草は勿論大切との事。
その他、いろんな事を教えてもらった。
上の竹林は 私達のよく見る竹林です。これでは 美味しい筍は無理でしょう。
しばらく歩くと 国道1号線にぶつかる。そこには 昔からある「洞が峠の茶屋」がある。
下見の時は 蕎麦とぼたもちを昼食に食す。今回は人数の都合で買い物だけ。
そして、上のような「いなかぼたもち」を土産に買って帰った。本番の時も20人程の人が土産に買って帰った。
この後、国道1号線を南下して 山田池公園に到着し、小休止。
そして、出屋敷の町並みに入る。
出屋敷は 枚方市内で東高野街道が集落内を通過する唯一の集落で、伝統的な外観を持つ民家が点在していた。
そして 南の端に円通寺があった。
その後、国道18号線を南下して 交野駅着。16時
次回の再会を楽しみにして解散。
2014年12月01日
私の足跡 168 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅰ
私の足跡 168
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅰ
今回から 高野山開創1200年を迎えて 平安時代後期に白河上皇等が御幸したと言われる道を 歩くことにしたので、それを報告します。。11月に 京都をスタートして 目的の高野山へは 開創1200年の祭の期間中の4月に到着するするよう 全行程 約120Kmを9回に分けた。
( この企画は 以前 伊勢神宮の遷宮のあった昨年 地元から伊勢神宮まで参詣したウォークの続きである。 )
第一日目(11月17日)
最初は 平安京の羅生門跡より まっすぐ南にのびる「鳥羽作道」を南下して 石清水八幡宮を目指して 約15kmを歩く。
京都迄は 交通費がかさむので 3dayチケットを使用して三回分の交通費とする。
各自の駅から 難波・淀屋橋・丹波橋を経由して 近鉄の東寺駅に到着。 東寺駅発 9:15
そして 東寺駅から西へ徒歩15分程で「東寺」に到着。
見事な大門を通り、まず東寺の五重の塔を背に 参加者23人で写真撮影。
(実の写真には、美女・美男が写っていますが意図的にぼかしました。)
その後、各自で食堂や御影堂を見学した。
平安初期に 空海は 嵯峨天皇から真言密教を広めるために高野山を つづいて「東寺」も下賜された。 その後 両寺発展のため、高野山とここ「東寺」を何回となく往復しました。
今回は 「平安京から 高野山へ歩く」という企画だが もう一つ「空海が歩いた高野山と東寺の道を歩く」とも重ねている。
「東寺」発 10;05 東寺からさらに西へ10分程歩くと 児童公園の入り口に平安京への主要入り口・羅城門跡に到着
羅城門は平安京の表玄関として朱雀大路の南端に建てられた二重の楼門だった。
816年に暴風雨で倒壊したので再建したが 2度目の倒壊(980年)以後、再建されていない。
ここから南へ行くと淀川の畔に出るか、この辺りは西国からの玄関口であったので、車馬の通れる広い道が必要だった。この道が「鳥羽作道」と呼ばれていた。
この羅生門遺蹟を後にして 鳥羽作道を一路南下して 高野山へ向け出発の一歩を踏み出す。
「羅生門跡」から30分程歩き、街道から 少し入った所にある日蓮宗の実相寺です。10:50
境内には 江戸時代 ぬかるむ街道に原板石を敷き並べ、通りやすくした車道を移設保存してある。
この道は 低地にあるためか、旧家は石垣の上に建てられていた。特に 蔵は一段と高い石垣の上だった。
その後、有名な石堂丸の父「刈萱道心」が開祖したと言われる「誓祐寺」に11時頃到着。
「羅城門跡」から約1時間程歩くと、街道筋に恋塚 淨禅寺がある。文覚上人が開祖したと言われる浄土宗の寺である。 11:15
北面の武士であった遠藤盛遠は 源渡の妻である袈裟御前に横恋慕し、遠藤盛遠を殺そうと企てるが、袈裟御前は夫をかばうため、自分が夫の身代りになって遠藤盛遠に殺されてしまう。
遠藤盛遠はそれを悔み、出家して「文覚」と名乗り、この寺を建て、恋塚は自分の刀ではねた袈裟御前の首を埋めた塚とされている。
その後、日本全国を荒行して廻った。神護寺の改修をしたりとか 源頼朝に平家討伐の助言をしたりとかしたと言われている。
そして、かつらぎ町でも滞在し人々の役になることをしたともある。
境内の地蔵堂に祀られている地蔵尊は、いわゆる「京都六地蔵」の一つ「鳥羽地蔵」である。平安京の入り口にあたる六ヶ所にそれぞれ六角堂を建立して六地蔵を分置した。当地に「鳥羽地蔵」が安置されたのは、大阪から京都へ上る鳥羽街道に面していたからである。
その後 南下を続けけていると、石柱があった。この付近で、明治になって 旧幕府軍と薩長連合軍との鳥羽伏見の戦いの勃発地で多くの犠牲者を出した所です。その後、戊辰戦争へと続き、日本各地へと戦いの広まった。
予定通り 12時に昼食場所の鳥羽離宮に到着。
予定通り 12時に昼食場所の鳥羽離宮に到着。11:55
鳥羽離宮は平安後期に院政時代をつくった白河上皇や鳥羽上皇に縁のある土地である。今は建物の跡は何もないが近くに城南宮や白河上皇や鳥羽上皇の御陵がある。
昼食後 また南へ南へと歩き始める。
しばらく歩くと、各地蔵に化粧した六地蔵があった。
お酒と言えば伏見だか鳥羽にも造り酒屋があった。この店の自慢の酒は「にごり酒」とある。
この付近より 自動車との共用道路から離れ、サイクリング道路を長い間 歩くことになる。堤防の上を 車への注意から解放され 淀川に戯れる小鳥たちを眺め、友との会話を楽しみながら歩けた。
鳥羽の大石の説明板がある。
川原に上の大石が並べられている。
日本最古の魚市場跡の記念碑。大阪湾から淀川を船でここまで運び ここの魚市場で売れた魚は 京に運ばれた。また、近くに「鳥羽の湊の跡」の碑もあった。
「納所」の交差点の手前に 妙教寺がある。14:10
この寺の有名な理由の一つは 淀城ではなく淀古城と言われ、「淀君」が一時ここに住み、第一子を生み、3歳まで育てたと言われる城の一部に建てられた寺である。
もう一つ 有名にしているのは 鳥羽・伏見の戦いの戦場になり 当時の傷跡があちこちに残っていることです。
上の写真は、本堂の壁際に位牌を並べた所に 穴があいている。これは 大砲の弾が壁を突き破ってあけた穴です。そして、下の写真は 壁を突き破った大砲の弾が 今度は柱の真ん中を突き破った跡です。当日 その不発弾を見せてもらい持つと重かった感触が今でも手に残っている。
桂川 木津川を渡る「御幸橋」(ごこう橋)を渡る。向こうに 本日のゴールである八幡の男山が見えた。
京阪 八幡駅着 15:50