ウォーク 大和街道

2014年05月01日

私の足跡 154  大和街道ウォーク 1 

  私の足跡 154
  

     大和街道ウォーク 1

  昨秋 伊勢ウォークと題して 6回に(私の足跡152から157まで)分けて橋本から遷宮した伊勢神宮迄をウォークしたことを書きましたが 今回は その続きで 隅田駅から西方に向けて和歌山城迄(約50km強)を4回に分けて歩くことにした


 第1回目 4月9日

 桜の花も終わりに近づいていますが、春の花に見送られて隅田駅を出発する計画をたてた。
 このシリーズの参加希望者は33名ほどである。

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伊勢ウォークと同じく、どんな景色に出会えるかの期待をもって出発。

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先ず、立ち寄った所は利生護国寺です。聖武天皇の勅命により行基菩薩が国家の平穏を目的として建てた。
文禄3年(1594年) 豊臣秀吉が高野山でのしきたりを破ったため、天候が荒れ、雨の中をこの地にやっとたどりついた。その時に正面の松の木に馬を繋いたといわれる「駒繋ぎ松」です。
本堂は国指定文化財。本尊の大日如来像は鎌倉時代の作で県指定文化財。

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室町時代より 隅田党の氏寺となり、裏には隅田一族の墓がある。

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よい天気で暖かかったので 道中、6人乗りの車に乗った保育園児の散歩途中に出会った。

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途中、坂道を下って谷底のような所に上記のような案内標柱がある。
ここは 昔から闇峠(くらがりとうげ)といわれている。高さの低い所を峠という珍しい峠。
標柱では 「峠」の字の山が逆さまになっている。


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 まちかど博物館前を通ると、「前畑秀子 生誕百年祭展」を開催していたので立ち寄る。
、「前畑秀子」と言えば、思い浮かべる人もいると思うが、ベルリンオリンピックで女子百メートル平泳ぎで金メダルをとった人です。ラジオ放送で『前畑 ガンバレ  前畑 ガンバレ  」とアナウンサーが絶叫したのは有名です。


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当時の新聞の写真

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この橋本市は 一時期 水泳日本の一部を支えた有名な所です。前畑秀子さんだけでないことが、上の表でもわかるでしょう。 
この橋本市で もう一人 古川 勝さんがいます。 平泳ぎで金メダルをとった人です。

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中世の豪族 生地氏の居城「銭坂城祉」です。

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白鳳時代に法起寺式の建物があった跡です。橋本市だけでこの時代の建物跡が3ヶ所あった。

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名古曾廃寺跡の説明

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また、この近くから白鳳時代の文化遺産「三彩の壺」が昭和58年 柿畑より見つかる。
三彩の壺は三色(白 緑 茶)の骨蔵器で中国の唐三彩の技術を用いている。
国指定の重要文化財に指定され、実物は国立京都博物館に保管されている。

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登録有形文化財。明治末期に開通した紀和鉄道高野口駅にできた木造3階建ての建物。高野山1500年祭にこの鉄道を使ってのお参りで賑わった「葛城館」。入母屋造り。千鳥破風、桟瓦葺です。

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街道には その当時の建物が多く残っている。
卯建(うだつ)のあがる建物が軒を並べている。明治の末、高野参詣客で賑わった当時の雰囲気を残している。



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江戸時代から続く建物で、 薬種問屋・両替商として栄えた「前田邸」。江戸時代 明治時代 大正時代の建物や収蔵品が残る登録重要文化財。

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高野口小学校 昭和12年築の木造こうしゃとしては 日本最大級の現役小学校校舎です。2013年10月に国の重要文化財(建造物)に指定される。
戦前からの現役校舎では 初めてである。

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今も残る長さ98mの長い廊下(現在は一部改装されている)
朝の連ドラ「芋たこなんきん」の花岡町子が通った学校のロケ地。

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桜の古木に囲まれた校舎から下校する児童達。

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 最後にかつらぎ町の酒造工場の見学。お馴染の杉玉や馬を繋いでおく「駒繋ぎ」も残る。
  但しこの
酒造工場も 現在の表玄関はR24号に面して造られ、この玄関は大和街道時代のものです。




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2014年05月15日

私の足跡 155  大和街道ウォーク 2 

 私の足跡 155
  

     大和街道ウォーク 2



  今回(4月23日)は 前回の続きで 中飯降駅から名手駅迄の約12kmです。

中飯降駅に9時10分に集まり、9時半スタート。

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しばらく歩くと,道端に一字一石塔が見られる。特に このかつらぎ町に多く見られる。

大和街道は 江戸時代に築かれた堤防の上を歩く。(紀州藩士 安藤帯刀が中心になって造ったので 安藤堤と言われていた。)

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また、丁の町付近で この街道に沿って用水路が流れている。この用水路は「七郷井」と言われている
。妙寺・丁の町・・・・・の七ヶ村の田地を潤していたため「七郷井」と名付けられたらしい。
この用水路は 寛永年間に紀州藩の新田開発が熱心に行われていたための用水路です。先人の英知と熱い志によって造られ、この近郷の農家のみなさんにより今日まで脈々と受け継がれている。と書かれている。

途中 「米ぬか」から食用油を造っている「築野食品工業」に立ち寄る。

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かつらぎ町役場周辺の広場で昼食。

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笠田小学校近くの楠木の大木を見学

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大木の隙間に神の社が見える。

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道中でガイドの説明を聞く。

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芋山・背山を詠った万葉歌をガイドさんが美声でうたってくれているのを聞き入る皆さん。

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「名手宿本陣」 史跡・重要文化財に指定されている。

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「妹背家」と言えば、ここの娘さん(加恵さん)が 世界で最初の麻酔を使っての手術をした有名な花岡青洲の妻となり、自ら進んで夫に身体を提供して手術を成功させたということです。

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当時の台所の様子です。

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見学後 駅に向かう途中に 宿場町の面影を残す町並みがあった。

  本日の歩数 20875歩


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2014年06月01日

私の足跡 156 大和街道ウォーク 3

 私の足跡 156

  

     大和街道ウォーク 3




 3回目は5月8日に実施した。


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 前回の終わりの名手駅を出発点とした。

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しばらくは 古い家並みの残る街筋を歩く。

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しばらく歩くと大和街道と高野街道の交差点に上記の標識があった。

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 高野街道を南に少し行くと 最近まで この水を使っていた「大師の井戸」がある。

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『お大師さんの井戸」についての説明板があった。

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元の大和街道に戻り、粉河の町を過ぎ、長田観音にお参りに行く。


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 厄除観音として有名で 例年「初馬の日」等の日にはスゴイ人で賑やかだが 今日は閑散としていた。

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 東田中神社に到着。

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 4神社が日吉神社の社地に併せ祀り、東田中神社となり、当初は四殿だあった。
今は、一殿は 焼失し、一殿は台風により倒壊し現在は二殿が残る。
昼食場所にさせてもらう。


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 西
田中神社に到着。

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旧八幡神社本殿 寛永12年建立。

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 旧羊の宮本殿 室町時代末期の建立と推定される。

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 紀三井寺・和歌山道の大きな石標。

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 大宮神社に到着。

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 大宮神社の由緒

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参拝としばしの休憩。多分 合祀されたよろずの神様が祀られていた。

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 岩出橋上より東方を見るとJRの鉄橋が見える。

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船戸駅前の旧船着き場跡の見学。

 本日の街道歩きはここまで。約15km。
船戸駅で解散。



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2014年06月16日

私の足跡 157  大和街道ウォーク 4 

 私の足跡 157
  

     大和街道ウォーク 4




  今回(最終回)は 5月14日に船戸駅から和歌山城迄の約17kmを歩く。船戸駅を予定通り、9時過ぎに出発。
 歩き始めて、10分位で国道24号線を分かれて大和街道に入る。

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紀伊小倉駅を左に見て進むと右側に「巡礼の墓」があった。宝永(1705年)の6月、岩出の渡し場で根来寺に向かう40名余の乗った船が転覆してしまった。そのうちⅠ5名は岸に泳ぎ着き助かったが残りの人は遭難。その中に遠くからの巡礼者が多く、当地の人々はこの地に
巡礼者を葬った
 その後、現在までここ満屋地区の人々は当番を決め、祀っている。そして、春秋の彼岸やお盆には僧侶による法要もしている。地区の人々の心がすばらしい。

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馬次。旅で馬を利用した人は、ここで馬を乗り換えた所。

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この街並みを左に折れる。

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松下幸之助の生誕地に寄る。湯川秀樹氏の書で書かれた石碑。
右の写真は、明治の初めに姓をつける時 この松の下に家があったから「松下」とした松の木。
今は、天災等により、見る影もなくなっている。

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 全国で 7つしかないと言われる女子刑務所の一つ。
 私達は ここで刑を受けている人達が作った作品を買い、受刑者を影から応援する。

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大和街道の和歌山城からの一里塚。道の両側に造ってある。重要文化財

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地蔵の辻の「地蔵さん」

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 紀の川の堤防上の大和街道に造られた建物の一部。 「嘉家作」といい、和歌山藩主の造った建物。門前に建てられ、普段は裏の畑で農作物を作る百姓や宿屋。兵事の時は、刀や槍を持って戦う武士を住ませていたとう建物。今は、ほんの一部しか残っていない。江戸時代は 藩からの支援を受けていたが、今は立ち退きを迫られているようです。

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大和街道の終着点の京橋に到着。橋の上には 駕籠がのっかり、定時になると殿様などの人形が出てきて、「鞠と殿様」の曲が流れて癒してくれる場所てす。
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大和街道 終点 京橋上にて。

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この京橋の北側に 小さいが上記に門の有った場所になっている。ここから内は城内で用のないのは 立ちいられなかった。したがって、大和街道はここまで。

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私達は、この一の橋の橋の上での到着の記念写真を撮る。

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城内に到着し、大和街道隅田からの約60Kmを歩き通した喜びを表した写真。
人によりますが、隅田から伊勢遷宮までの約120Kmの合計とで180kmを歩いたという「喜びに満ちた写真」でもあります。

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本日の歩数   27806歩






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