ウォーク  東海道完歩

2011年05月15日

私の足跡 84  東海道の完歩  19  歩き終えて



  東海道を歩く 19

 東海道を完歩して

   今回の「東海道完歩」には五つの目標があった。

  一つ目は その年の大河ドラマは「篤姫」が主人公だった。彼女の嫁いだ道筋を辿り、今も 眠る墓所に参ること。                   私の足跡 82
    
  二つ目は 雪を被った富士山を一日中眺めて歩く。   
                         私の足跡 79 

  三つ目は 富士山を見ながら薩埵峠を越える。       
                         私の足跡  84 

  四つ目は 箱根の峠を江戸側から越える。     
                         私の足跡  80 


  五つ目は 沿道の各地の行事や名所・旧跡の見学をする等。

    豊川の手筒花火と花魁道中   私の足跡  70

    湘南のロングビーチ        私の足跡  81                                                      
    東海道 088
            夜の横浜とブリッジ                                                                

  1  歩いた年の大河ドラマは「篤姫」が主人公だった。

    篤姫の墓所は 上野の寛永寺というのは知っていたがTV放送の最終回に墓所をTVで「ここで眠っている」と放映したので、見れるのではないかと思い行ってみた。しかし、実際は駄目だった。管理人も「あの放送ではたくさんの人がくると思う」と言い、実際私達のような人は多いと言っていた。
 また、「和の宮」の墓所がある増上寺に行った。ここでも、見る事はできなかった。

 将軍の墓所の大部分は 寛永寺と増上寺に別れて葬られていますが これは将軍が自分でどちらにするか決めていたらしい。だから篤姫は寛永寺で、和の宮は増上寺となっている。 

 2 雪を被った富士山を一日中眺めて歩く。
  これは、過去に雪を被った富士山や雲のかかった富士山等を見たことが何度かあるが、殆どは乗物から見るとか、または、短時間でゆっくりとは見てなかった。一度飽きるぐらい見てみたいとの思いでこの企画をした。そして、桜の花の満開時で雪を被った富士山を飽きるほど見たかった。それが成功し、大満足。
  

 3  薩埵峠から富士山を見る計画は一度目は道を間違えて見れなかった。
    2度目は、一人歩きの時で、時間を作って挑戦した。
    東海・東高・神護寺等 059
 
前日から天気予報を調べ、確実なのを由比駅でも確かめて峠を目指した。少し、雲があったが見えて満足した。

    東海・東高・神護寺等 069
 少し離れた所から撮影した。暑い7月には下に見えるこの道を歩いたのを思い出す。  

  3度目は、東海道完歩の後、フルメンバー4人で雪を被った最高の景色を見た。 

    東海道 109

    東海道 113

  この東海道歩きは、中山道歩きもそうだったが青春切符をふんだんに使った。

  東海道 112

  そして、東海道歩きでは、その青春切符が使える今では珍しい夜行列車「ながら」をふんだんに使った。




 「豆知識」  旅人はどこへ行ったのか?

      第3部  どこが人気があったのか

  一番人気は、伊勢である。伊勢神宮は神道の総本山であるから、その利益は数ある神社の中でも別格とされた。誰もが「一生に一度はお伊勢さん」ということで年間約60万人というのも凄いが、「お陰参り」の時は年間約500万人といわれている。
、「お陰参り」とは 1650年 1705年 1771年 1830年 1868年とあったらしい。

 伊勢参りが終わると京都。かつての都、由緒ある古刹の町、祭礼の神輿や儀式は憧れであった。また、御所・公家たちの館・服装等も物珍しいものだった。

 そして、天下の台所・大坂。東海道の大津宿を分かれて伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿・大坂迄きて、新鮮な野菜等は勿論市場の熱気を見たことでょう。

 これで、帰る人もいると思うが、更に足を延ばして、金毘羅さん 厳島神社 四国遍路へと向かった。

 帰りは中山道を通り、善光寺にお参りして帰るのが定番だったらしい。

 どこを通ってどれくらいの日数を使い、旅をしたのか3例をあげておく。

 A  宮城県高木村から江戸を通り、伊勢参りをし、大阪、京都、善光寺、日光を通り帰る。
       全行程2330Km  日数72日間  8人での旅 
 
 B  
大宮に近い大和田村から善光寺、伊勢、吉野、大阪、京都、江戸を通り帰る。
        日数49日間  新居と箱根の関所を避けるためか、遠回りをしている。     

 C  清川村善光寺、伊勢、大阪、岡山、善通寺、宮島、岩国、京都、江戸、日光を通り帰る      日数168日間  
  幕末の志士、今までの自分の生活を詫び、孝行の為母と二人の旅




   東海道完歩も19回を7ケ月をかけて書きましたが、皆さんには長い間お付き合いをして読んで頂き ありがとうございました。お陰さまでこのシリーズの間で アクセス数は、1000を越えました。どんなに励みになったことか。ありがとうございました。


     
次回からは 「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部 紀伊半島の南の縁にあり 世界遺産に指定されている所が多く残る大辺路・伊勢路を歩くことにする。 


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2011年05月01日

私の足跡 83 東海道の完歩 18  川崎宿 ~ 日本橋  




    東海道を歩く  18

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   この東海道シリ-ズの最終
    
「2」  川崎宿
→ 「1」 品川宿 → 日本橋 

        

         hiroshige015[1]

         [2]  川崎宿  「六郷渡船」 渡しののどかな風景。  

      
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     「1」  品川宿 宿場町が海岸脇に連なっていた。

           hiroshige013[1]

      日本橋  快晴の朝。仰々しい大名行列に遭遇し、魚屋が慌てて道をあける。


 神奈川宿より川崎宿に向かう。
 

東海道 081
  大名行列に英国人が横切り、それを武士が切りつけ、薩英戦争の引き金となった事件の場所。


東海道 078
  総持寺 以前能登に570年の歴史を持っていたが明治31年の大火のため、現在の位置に移る。石原裕次郎の墓がある。

東海道 073
 見事な曲線をもった鶴見橋を渡る。

東海道 068
「芭蕉の句碑」 麦の穂を たよりにつかむ わかれかな

江戸に滞在していた芭蕉が見送りにきた弟子たちとここで別れるときの返歌。
 その後、2度と江戸には来れずに亡くなった。

東海道 061
   この宿には3軒の本陣があった。その一つである。

東海道 056
  「長十郎梨のふるさと」  明治の中ごろ、病害に強く、甘い梨がここ大師川崎村で生まれた。発見者 当麻辰次郎の屋号をとり、「長十郎」と命名し各地へ広がった。

東海道 055

   「六郷橋」の欄干の上に当時の渡し船の形をしたモニュメントがある。これを渡れば川崎宿に入る。
  徳川家康よって架けられた六郷大橋は1688年の大洪水で流失。その後渡し船。1707年この経営を幕府から請け負い、渡し賃を「宿」の収入にすることにしたのは田中本陣の当主だった。この読みは見事に当たり、厳しい財政難に苦しんでいた川崎宿は、徐々に活気を取り戻していった。
 初詣で賑わうで有名な「川崎大師」が近くにある。

東海道 050

  歴史によく出る鈴ヶ森刑場遺跡があった。また、その近くに刑を受ける人を見送りに来たという「涙橋」もあった。
  
東海道 047
  火炙り台  八百屋お七をはじめ火炙りの処刑者は皆この石の上で生きたまま焼き殺された。真ん中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ、しばりつけて処刑された。

東海道 048
  「磔石」 丸橋忠弥を初め罪人がこの台に建てた角柱にしばりつけて刺殺したのである。

東海道 040

IMG_7349  品川宿
   品川宿の町並み 昔の面影が残っていない。

IMG_7374  品川宿本陣跡
  品川宿本陣跡  今は公園になっている。

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  八つ山橋の説明とシンボル。

IMG_7332 品川駅
  品川駅前を北進する。

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 赤穂の四十七士が眠る泉岳寺前を通る。

東海道 035
 江戸の街を無血で救った両氏が会見した「薩摩藩邸跡」 


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  ゴールの日本橋が近づいてきた。見慣れぬ乗り物が走っていた。

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  何人かの江戸幕府の将軍が眠る増上寺に行く。すぐ後ろに東京タワーも見え、日本の新旧の建物が並んで見える。

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   箱根駅伝が近づき、その垂れ幕も見える。

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  銀座のど真ん中を我々4人がみすぼらしい姿で歩いた。

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  そして、念願の日本橋に到着。上は首都高速道路。その下に日本の道路元標があり、東海道のみならず五街道すべての起点であった。
 「日本橋」という名の橋が架けられたのは1603年です。その後、幾度もの焼失と再建を経て、現存する橋は、明治の終わりに完成した石造りの二連アーチ橋。1999年には、国の重要文化財にも指定されている。1963年に首都高速道路が橋の上を通るようになり、往時の雰囲気はすっかり失われたという。辺りには、当時から続く老舗商店も多い。

 ここ日本橋は2007年の暮れに中山道を歩いての到着から2回目となる。詳細は「私の足跡 63」


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 京都からの道中は、いつもこのフルメンバーではなかったが、終わりは揃ってゴールすることができた。
 東海道完歩を祝して般若湯を頂き、祝ったのは言うまでもなかった。


   「豆知識」  旅人はどこへ行ったのか?

      第2部  一世一代の大旅行には どれくらいの費用がかかったの?

   伊勢参りにかかる費用(片道11泊12日、伊勢滞在も含め往復25日27日で計算)
      (一番賑わった江戸後期の物価から)  

   宿泊費   食事代   人馬、川越代  伊勢滞在費   その他    合計

   5000文  2700文    2000文     1500文    2000文   
13200文

  一両は5000~7000文であったので約2両となり、現在の価値には単純に換算できないが、そばの価格で比較すると2両は約25万円 大工の賃金だと2両は約60万円になる。

   宿泊費          昼 食              川越え

普通の旅籠1泊2食   茶屋での昼食。そば、     渡船  10文
付きで200文       うどんは20文だが体力    肩車  50文
風呂もある。        のつく食べ物は70文程     蓮台 300文
 木賃宿(素泊まり)   の名物料理も
   70文         白酒は30文ほど

  風呂なし          
  雑魚寝



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2011年04月15日

私の足跡 82 東海道の完歩 17  戸塚宿 ~ 神奈川宿  




   東海道を歩く  17

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「5」  
戸塚宿 → 「4」 保土ヶ谷 → 「3」 神奈川宿



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        「5」  戸塚宿   「元町別道」   いろんな旅人が宿に到着する夕暮れ時、軒先に「00講中」と書かれた「講中札」がさがっている旅籠「こめや」の前です。「講中札」はそれぞれの講の「常宿」を示すものであり、同時に「安心して泊まれる宿」の印ともなっていたようだ。
 

      
      hiroshige017[1]
         
   「4」 保土ヶ谷  「新町橋」  現在は橋はなく、跡地が公園になっている。



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       「3」 神奈川宿  「台之景」  神奈川湊の近くの海に沿った細長い宿場町であった神奈川宿。この絵は西の外れの高台の「神奈川台」です。茶屋の客引き女が客を呼び込んでいます。 海を一望できる見事な眺めを売りにして人気を得ていた。
 その中でも繁盛店として有名だったのが、絵にも看板が出ている「さくらや」。この店はのちに売りに出されて旅籠「田中屋」となったが、そこでは坂本龍馬の妻・おりょうが龍馬との死別後に仲居として働いていたこともあるという。1863年の開業から150年近くが経つ今も、老舗料亭として営業を続けている。(詳細は下記にも)
 
 

  本日の日程をハードに組んでいるため、12月28日の冬至にに近い日だったがホテルを6時に出発。

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 15分ほどで時宗の総本山「遊行寺」に到着。

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 「庚申」の信仰ば日本各地にあるようで、庚申塚も各地で祀られている。

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  建物はないが、遺跡あとを説明してくれていた。「見附跡」


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  出発して約2時間で 「本陣跡」に到着。
 江戸から歩きはじめた旅人の多くが、最初の宿泊地に選んだのが戸塚宿である。旅籠の数も、江戸~箱根間では小田原に次いで第2位。日本橋からの距離は40km以上あるが、朝4時に江戸を発てば、夕刻には戸塚宿には入れる。
 ここは、鎌倉への追分であったので余計賑わったとある。

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「お軽勘平 戸塚山中道行の場」の碑が建っている。


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昔の面影を残す建物もあった。

IMG_7040 益田家のモチノキ
 
 「もちの木」
  
雌雄異株の常緑広葉樹 普通の木は7~8m。
  この木は、国道1号に沿ってあり、樹高は20m近くもあり珍しいということで県指定天然記念物になっている。

  この木の樹皮より、鳥もちをつくるからこの木の名の由来になっている。

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  9時ごろやや赤く染まった富士山が見える所にきた。


IMG_7063 やきもち坂

 「焼餅坂」 武蔵の国と相模の国との国境にある「権太坂」や「焼餅坂」は昔の旅人にとっては日本橋を発てば最初の難関であった。                                                    
 この坂の辺りで一服する旅人を目当てに焼餅を売っていたことからこの坂の名の由来だといわれています。

IMG_7073 権太坂上

 この坂は正月の箱根駅伝でよく言われている「権太坂」です。この道は旧東海道です。
 昔は、もっと傾斜のある急坂だったのをこのように改修したという記念碑があった。
 「権太坂」という難所らしからぬのんびりした名前は、旅人が地元の老人に坂の名を尋ねたところ、耳の遠かった老人が自分の名を尋ねられたと勘違いし、「権太」と答えたことに由来するという。
  権太坂は指折りの難所で、坂を越え切れずに力から尽き、命を落とす旅人も少なくなかった。そうした行き倒れの死者がまとめて葬られたのが、頂上の少し手前にあった「投込塚」である。
 1961年に付近の宅地開発の際に塚跡と思しき場所から多くの遺骨が発見され、供養塔が建てられた。その供養塔の前で冥福を祈った。

IMG_7090 保土ヶ谷宿脇本陣(藤屋)跡
  保土ヶ谷宿は 今は近代的な街になり昔の面影はなく、上のようなに史跡の碑のみとなっている。

 神奈川宿は高台にあり、今は立派な住宅地となっている。

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 上の写真の家は、前にも記したが、現在は「田中屋」です。
 この前身「さくらや」で明治7年に勝海舟の紹介で 坂本龍馬の妻・おりょうが龍馬との死別後に仲居として働いていたこともあるという。英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は外国人の接待に重宝されたらしい。

1863年の開業から150年近くが経つ今も、老舗料亭として営業を続けている。


 諸外国は神奈川湊の開港を強く要求した。しかし、外国人との接触を避けたい幕府は、対岸の横浜を開港した。
 横浜には多くの人材が集まって急速に発展する一方、神奈川宿は静かになってしまった。

  

外国人と日本人の間のトラブルをなくすための工夫があった。



 豆知識」  旅人はどこへ行ったのか?

   庶民が旅に出るようになるのは江戸時代中期以降のこと。多くの人にとって、長旅は一生に一度のイベントである。
 人々は何を目的としてそしてどこへ旅に出たのか、そしてどれほどの日数と費用を費やしたのだろうか。

  江戸~京都(約495km)を移動手段はもっぱら徒歩であり、この間を男性で約11泊、女性で約16泊程度の旅路だった。その間、寺社・名所を訪れ、名物を楽しみ、旅籠に泊り、時には悪所を訪ね、旅を満喫したのでしょう。

 歴史上の有名な人の東海道往来日程(記録に残っているもの)

  オランダ商館長 ドイツ人医師 
   ケッぺル     シーボルト  吉田松陰   徳川家茂    勝 海舟

   11泊12日   14泊15日  16泊17日  20日21日   6泊7日


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 図の上部を左から順に
「比丘尼」尼僧。「按摩」宿場で旅人を癒したマッサージ師。「飛脚
」書状や荷物を運ぶ人。「武士」供の者と一緒 煙管をくわえ気ままな旅 「行脚」前後吁を巡り歩いた俳人や墨客
図の下部を左から順に
 「田舎同者」田舎では「講」という組織で旅をした 「雲助」人足
ふんどし一つで駕籠かきや荷物運び  等
 
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 図の上部を左から順に
 「薬売り」大きな薬箱を担いだ行商人 「駕籠」簡素な駕籠 旅人は疲れたら駕籠か馬に乗る。「客引」客を呼び込む人 宿屋は客の奪い合い
  図の下部を左から順に
 「巡礼者」日本全国の寺社を巡った巡礼者 「抜け参り」子供だけで旅をした 施行をうけながらの伊勢参り 「金比羅参り」白装束で天狗の面を背負っている  「瞽女」三味線と唄で生計をたてている 
 街道を行き交う多彩な旅人達~歌川広重「東海道風景図会」より

   
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  大日本道中行程細見記  たて18×横912cmの大作
     天保8年(1837年)  作者  酔 雅子
 旅行者向けガイドブックの一つ。この絵図では北は松前より南は九州南端までの地名、街道がコンパクトに纏めている。    
 絵図には宿場間の距離や諸藩の情報、さらに名所や渡河の賃金まで書かれており、旅人はこれを折りたたんで携帯した。

  通行手形には2種類あった。

 1 往来手形 旅人の身分証明書で、農民・町人の場合は大家や菩提寺、庄屋等が発行。

 2 関所手形 関所通過時に使用。男性は免除されても女性の場合は必須だった。発行も町奉行か各藩の留守居役が発行。    

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 井口屋善助と同徳右衛門がこのたび諸国の神社仏閣へ参詣するため出願した。この者たちは真言宗当寺の旦那に間違いなく、関所を反対なくお通しください。万一。病死致しましてもこちらへのお届けには及ばず、そちらの作法にてなされるようお願いいたします。よって証文くだんのごとし    途中略

 費用などについては次回に




 


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2011年04月01日

私の足跡 81 東海道の完歩 16  大磯宿 ~ 藤沢宿  



     東海道を歩く  16
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「6」
大磯宿 →  「5」 平塚宿 → 「4」 藤沢宿 



      
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      「6」 大磯宿 「虎ヶ雨」 と゜んより曇った空から落ちてくる大粒の雨。旅人たちは笠や合羽で雨をよけながら先を急ぐ。

      hiroshige020[2]
         「5」 平塚宿 「縄手道」 平塚を抜け、大磯へ向かう街道を描く。「縄手道」とは田のあぜ道のこと。  



     hiroshige019[1]
      
     
 「4」 藤沢宿 「遊行寺」 手前には江の島弁財天一の鳥居、遠景は「遊行寺」。 



東海・東高・神護寺等 002

  駅構内の天井に名物の提灯がぶら下がった小田原駅から今回は東に向けて出発。

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  小田原宿を守る江戸口側の見附跡と一里塚跡

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   新田義貞公の首塚

IMG_2510 酒匂川に架かる酒匂橋

  朝日が輝く酒匂川を渡る。

IMG_2563 大磯プリンスホテルへの道(大磯ロングビーチも近い)

  街道から離れた所に大磯プリンスホテルが見えた。

 以前若者に人気あり、TVでもよく出ているロングビーチが見たくなり、より道をするか迷った。しかし、時間の浪費と疲労を費やす。でも、この区間は一人歩きだったので疲れて悔んでも自己責任でということで行ってきた。

東海・東高・神護寺等 037

 ホテルの傍から撮影した。

東海・東高・神護寺等 038

 充分でないので、建物の中に入らせてもらって、撮影した。
 手前では 若者や子供達が泳ぎ、賑やかだった。
 向こうは、広々とした湘南海岸です。

東海・東高・神護寺等 039

 一段と高い所に行かせてもらい違った角度から撮影。凄い施設と人出。
 満足して、街道歩きにもどる。

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  新島襄先生の終焉の地   新島先生は明治の教育者。アメリカでキリスト教をもとにした教育を学び、それを取り入れ京都に同志社大学を設立したが志半ばにしてここに眠る。

東海・東高・神護寺等 042

  見事な松並木が続いていた。この近くに 吉田茂の別荘もあったが開館の時間が過ぎていたので素通りした。後に火事で燃えてしまったという出来事があったので寄っておけばと後悔した。

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 古風で趣のある鴫立庵が道の右側にあった。

東海・東高・神護寺等 046

   大磯の本陣跡の立て札がたっていた。

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 大磯宿をぬけると見事な松並木が続いていた。

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 化粧(けわい)坂の一里塚
  日陰で風よけなど小休止の処。
  高さ3mの所に海側には「榎」 山側には「せんだん」の木が植えられていた。

  近くに、化粧井戸があった。
  この化粧の由来は 一説には、鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近だった。
  当時の大磯の代表的美人「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なに井戸水を汲んで化粧していたので化粧井戸の名がついたとある。       

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やっと平塚宿に到着

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 平塚の塚   平塚の塚の由来  言い伝えによると「桓武天皇の子孫の高見王の娘が東国に行く途中、この地で逝去した。
ここに埋葬して墓として塚を築いたがその塚の上が平らになったので里人はそれを「ひらつか」と呼んだことからとある。
 
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 平塚宿は近代的な街になり、昔を偲ぶ建物はなかったが碑が建てられていた。
 上記の本陣跡の外、問屋場跡・高札場跡・脇本陣跡・見附跡等があった。

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  番町皿屋敷で有名な「お菊の墓」があった。

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  文字が小さく読みづらいので、拡大してして下さい。

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 相模川に架る長い橋を渡る。

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 茅ヶ崎市に入り、しばらくすると「旧寛永寺石灯篭」が三基たっていた。
 これは、徳川将軍家の菩提所である寛永寺の石灯篭の一部がここに移動したものです。各地の大名は、将軍の供養のため寄付したものです。
  中央は4代将軍・家綱の供養のため、左右の灯篭は10代将軍・家冶の供養のためのものです



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 茅ヶ崎の一里塚跡


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 車の排気ガスにもめげず元気な姿を見せている松並木。


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  源 義経の首洗い井戸

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 「おしゃれ地蔵」
 「女性の願うことなら何でも叶えてくれ、満願のあかつきには、白粉(おしろい)を塗って、お礼をする。」と伝えられていて、今でも白粉が絶えず塗られている。だから、 「おしゃれ地蔵」という。


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  昔の面影を残す建物があったが、史跡が殆どなかった。


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 町中に入り、しばらく商店街を歩くと藤沢駅に到着。


 豆知識」  飛脚について
           
    江戸時代、手紙や荷物の輸送を担っていたのが「飛脚」といわれる人足だった。初めは、幕府が作って宿場から宿場へ交代で書状や物資を運ばせる「継飛脚」だったが、各藩の大名も飛脚を使い、大名飛脚となった。
 「継飛脚」も「大名飛脚」も公務にのみ使用され、一般の武士や庶民は利用できなかった。
 やがて、飛脚問屋や飛脚屋という民営の飛脚ができ、「街飛脚」が普及する。                                 

 次は速さと値段について                                                          
   飛脚が出発する日は定まっており、例えば江戸~京都間を往復する問屋は10日ごとに出発した。月に3度往復することから三度飛脚と呼ばれ、三度笠の語源となったという。
   最も速い便で 江戸~京都まで3日、発送した翌々日というから今とたいして変わらない。ちなみに、忠臣蔵の刃傷沙汰の際は、事件を国元にしらせるため、飛脚が江戸~赤穂までわずか4日半で駆け抜けた。その距離、600km強。単純に計算すると時速6km程度だが、川渡し峠越えなどの難所、さらに休憩時間や疲労度などを踏まえるとかなりの特急便だっのがわかる。

  料金だが、江戸~大阪間で一週間かかる普通便で銀2匁、書状1通の速達専用便で金7両2分(時価 約20万円)以上という高額だった。
  急がなければ「並便」(最も安い。便に空きがあるか 飛脚が暇な時)もある。     


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2011年03月15日

私の足跡 80 東海道の完歩 15 三島宿  ~ 小田原宿  



     東海道を歩く  15

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  「9」
小田原宿
→ 「10」 箱根宿 「11」 三島宿

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       「9」 小田原宿  「酒匂川」 奥には箱根の山々、その麓に小田原城が見える。
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  「10」 箱根宿 「湖水図」 「天下の険」と言われた箱根の山々が誇張した表現で描かれている。

      hiroshige024[1]
       

      「11」 三島宿 「朝霧」 朝ぽらけの中、宿を発つ人々。霧が宿場町と三島大社の鳥居をつつみ、幻想的な光景を醸し出している。


  今回の「箱根八里越え」は 当初から一番楽しみにしていたし、期待もしていた区間だった。また、一番不安でもあったところでした。箱根宿で宿泊し、2日に分けては歩きたくない。一日で箱根越えをしたい。しかし、距離は 三島宿まで30km超えで それに標高約850mの箱根峠を越えなければならない。そのため、一番条件のよい季節(昼間が長く、暑くもない等の季節)のよい時期(3月末)にし、早朝出発の計画をたてた。旧街道の登り坂が多く残る坂を登りたいという理由で小田原から三島への方向で歩いた。そして、その通りに書きます。その方が、箱根の登りの険しさがよくわかるから。(他にも、東から西へ行った所もあるが、平地なので違いがないと思い,実際に歩いたのとは逆に書いた所もあります。)


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 小田原駅を6時に出発し、メインストリートを西に進む。


 
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 昔の面影をもつ建物がある。いつ建てたが分からないが、今も現役として活躍していた。


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 江戸時代に ここを中心にして町づくりをして本町(ほんちょう)としたとある。

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  日蓮聖人霊処

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 空も明けてきて、明るくなった国道1号線を西進する。

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  正月恒例の箱根駅伝のTVでよく見る国道1号線の風景だが、箱根旧街道はもうすぐだ。国道から県道に入り、そして県道を何度も横切りながら箱根へと進む。

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   出発して2時間後、大きな寺領を持った「早雲寺」に到着。

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  寺領が大きいが、整備も行き届いた寺だった。

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  箱根旧街道も国道は勿論県道とも別れ、昔の面影を残す石畳の登り坂の街道に入る。  8:20

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 この葛原坂を初めとして、元箱根まで次のような名前のついた坂が約10コあった。  8:42


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 女轉坂   登り一町餘   女性の旅人は転がるかもわからないと思われる登り坂が約110m続きます。  9:05

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 割石坂    曽我五郎が富士の裾野へ仇打ちに向かう時、刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真っ二つに切ったと伝えられている。     9:20
  
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 西海子坂  江戸幕府は 1680年に箱根路を石畳み道に改修しました。         
それ以前の此の道は 雨や雪の後は大変な悪路となり、旅人は膝まで没する泥道を歩かなければならないため、竹を敷いていました。 毎年、竹を調達するのは大変な努力と費用がかかりました。   10:10

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    橿木坂       10:20

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 猿すべり坂  あの木のぼりの上手な猿もすべるぐらい厳しい坂ということでこの名がついた。その部分は、此の上の県道と合流する付近(この写真の道の奥)だったらしい。    10:50

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  追込坂   いくつかの難所も通り、もうすぐ楽しみな甘酒茶屋がある。 旅人も最後の坂と思ったことでしょう。   11:03


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  現役の甘酒茶屋として営業していたが、我々は時間の都合で素通りした。この道が何度も横断した県道です。

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  天ヶ石坂       11:24

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 権現坂  小田原から箱根路をのぼる旅人がいくつかの急坂・難所を約3時間かけて喘いで登り、ためいき一息をつくのがこの場所です。
 眼前に芦ノ湖が展望し、箱根山に来たという旅の実感が身体に伝わってくるところです。      11:38

 以上の名のついた坂を登りつめて、箱根の宿に入ります。

 上記の坂以外の途中の事について記します

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 石畳の旧街道を登っていくと、突然県道に飛び出る。

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 その県道を横切りすぐに または しばらく歩くと 石畳の旧街道に入っていくのを何度か繰り返します。これは、石畳の旧街道は急傾斜だがほとんど真っすぐに登る。県道は車の道だから傾斜を緩くするため九十九折りで造ってある。そのため、重なり合う。

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 そして、また石畳の旧街道に入っていく。

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 江戸時代に造ったそのままの石畳。石の敷き方が粗雑である。

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   こんな急な坂道を登る所が何度かあった。

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 眼前に 突然小山が現われた。よく見ると、一里塚の小山だった。

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   木は枯れていたが さすが山中だけあって、塚は両方とも完全に残っていた
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  石畳の山道ばかりでなく、こんな所も通りました。

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 老杉の並木道をゆったり歩く。  元箱根地区

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  今までとは違って、江戸時代の人々と共に歩いている雰囲気になる道だった。

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   元箱根の町に入ると、遊覧船と赤い鳥居の向こうに見える富士山は最高。
 
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 箱根の関所の復元された所に到着。出発してから6時間後の12時だった。

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 昼食をとり、見学後、いろんな店や旅館などで賑わう箱根の町を出発。12:30発。
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 そして、芦ノ湖がずっと下に見える箱根の最高地点の標高846mの峠らしくないなだらかな箱根峠に到着。13:30着。

  
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 ここから、約13km離れた三島宿へ向かう。まず、草木のトンネルの中へ。

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 この坂の途中に、変わった石造物等があった。これは、兜岩
 13:50

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 次は、念仏石。此の石の前に「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻んだ碑があるが、旅人の行き倒れを宗閑寺で供養して、碑を建てたものと思われる。        14:00

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 次は、雲助徳利の墓   14:30

 墓石には、盃と徳利が浮き彫りしてある。その下に久治郎と彫られている。
 一説には、彼はある西国の大名家の剣術の指南役であった。ところが、大酒のみのため事件を起こし国外追放となり、ここで雲助仲間に入り働くようになった。
 優れた指南役だったので、雲助をいじめる武士等を懲らしめたり、文字の読めない雲助の手紙を読んであげたり、また、いろんな相談にものってあげたりしたので、雲助仲間から親分以上に慕われていた。
 しかし。お酒の飲みすぎで命を縮めてしまった。
 彼を慕い、助けられた雲助仲間は、生前にお世話になったお礼に 彼が大好きだったお酒の盃と徳利を刻んだ立派なお墓を建てたとある。

 雲助といえば、昔から、悪者が多くいて、世間から「ならず者の代名詞のように言われていたがこの街道歩きをしていて、彼のような雲助がいなかったら殆どの人は困り果てて旅はできなかっただろうと思う。
 そして、この「雲助徳利の墓」の心温まる話から雲助のイメージが変わった。そして、彼の冥福を祈って先を急いだ。

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 標高580mに降りてきた。ここに、山中城址があった。 14:00
 この城は 小田原城の北條氏の山城です。自然の要害に囲まれた城であったが、豊臣氏の大軍で一日で落城したらしい。


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  芭蕉の句碑                      14:50
 
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   笹原の一里塚                                        15:10

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  松並木は 最近になり開発の為、また、枯れたりして少なくなったが この初音ヶ原付近は約1kmにわたって続いている。
  この「錦田一里塚」とともに、昔の面影を残している。   16:30


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やっと、三島宿にある三島神社に参拝と見学をした。  17:10

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  桜も満開で まるで我々の箱根越えの成功を祝福してくれているようだった。

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ラッキーなことに ガイドさんが案内役を無料でしてくれた。

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  まさに、桜の満開でみんなは御満悦でした。

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 町中へ入ったが、本陣跡も碑のみで、昔の面影はなかった。

 

  無事箱根越えをしたことと 桜の花の祝福に感謝して夜行列車に乗り込む。

  豆知識」  箱根の関所について

    江戸時代の旅人は 関所はまさに難儀な関門だった。幕府は関東・東海を中心に50数か所をつくり、東海道は2ヶ所だった。
   
      関所を設けた理由は「入り鉄砲」と「出女」を監視するためだった。この二つについては厳重に取り調べるためにマニュアルが定められた。女性の旅人には「人見女」という調べる専門の女性をあて、ホクロ、あざ等身体のすみずみまでくまなく調べられたらしい。
   以前にも書きましたが女性は特に厳しく検査されるのが嫌で姫街道を通った(新居の関所)。でも、ここは、その姫街道がない。

   江戸時代後期には、「入り鉄砲」はなし崩し的になったが「出女」は対象が一般女性にも拡大された。     




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2011年03月01日

私の足跡 79 東海道の完歩 14 吉原宿  ~ 沼津宿  

 東海道を歩く  14

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「14」 吉原宿
→ 「13」 原 宿→ 「12」 沼津宿


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         「12」 沼津宿  「黄昏図」  満月に沼津宿の家々や白壁の蔵が照らされる幻想的な光景。 男が背負う天狗面は、四国・讃岐の金毘羅宮の守り神。当時、伊勢参りに次ぐ人気だったという金毘羅参りの際には、こうした天狗の面を奉納するのが決まりごとになっていた。
 一方、その前を行く巡礼姿の二人は、手に施しを受けるための柄杓を持つ。四国巡礼に向かう親子連れともいわれるが、諸国を旅しながら信仰を広める比丘尼との説もある。比丘尼は女性の出家者で、特に紀伊の熊野三山への信仰を説く「熊野比丘尼」が有名だった。
 自由な旅が誰でもできなかった江戸時代。庶民の「旅」といえば、こうした参拝の旅が大半だった。

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      「13」 原 宿  「朝乃富士」 画面の枠さえつき出た、悠々たる富士。


       

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        「14」 吉原宿  「左富士」  3人掛けの馬の背に乗る子ども。2人は左富士を見上げるが、一人はうたた寝中。
 「左富士」になった理由は、西へ向かっていた道が高潮の被害のため北向きに変えたためなった。 


   「東海道を歩く」のブログは以前も書いていますが、京から順に歩いたのではなく、季節や行事に合わせて歩いています。この部分は 「桜の花と雪を被った富士山」の写真に納めるという計画をたてた。そのため、出発日を4月1日にした。そして、この「東海道を歩く」のを目玉の一つにした。

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  昔は 渡船があり、旅人はそれを利用した。今は立派な橋を何の苦もなく渡る。

高野山 東海道 高千穂 真田祭 143

富士川渡船場跡

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水神の森

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 吉原宿に近づく。以前の吉原宿は今のJR吉原駅付近にあったが 度重なる洪水のため、北へ北へと移転し、現在の地に落ち着いたとある。

高野山 東海道 高千穂 真田祭 125

 平家越えの橋  源頼朝を討つため、平家は富士川の西側に布陣。富士川の水鳥の大群が物音に驚いて一斉に飛び立つと敵の襲来と誤認して平家の大軍は我先にと逃げ出し、源氏の軍勢は戦わずして勝利した所。
 この碑のたつ位置は 現在の富士川の東 6kmも離れているが、荒れる富士川が幾度も流れを変えていたことを示す。

高野山 東海道 高千穂 真田祭 132

  創業300年の旅籠。清水次郎長の定宿とあり、次郎長の編み笠をかけてある。
  この近くに、本陣跡の碑がある。

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 富士山の豊富な地下水を利用して、紙やパルプ工場が林立し、富士市が発展した。

 高野山 東海道 高千穂 真田祭 118

 高野山 東海道 高千穂 真田祭 124

JR吉原駅付近からは、JR東海道線と国道1号線に沿って東進する。天候にも恵まれ、左手には絶えず念願の「桜の花と雪を被った富士山」が見えたので、二十枚前後の写真を撮った。


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   桜の花の向こうに「真っ白な富士山」が見えた。

高野山 東海道 高千穂 真田祭 121

 次の「原宿」まてに 間宿「柏原」の標識があったが、昔の建物は殆どなかった。

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 素晴らしい言葉を刻んだ碑が立っていた。


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 一里塚跡

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  街道筋に建っている説明板を読みながら、東進する。

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手前の山が、邪魔をしてしていて十分見えないがすっぽりと雪を被った富士山。
ここ「原宿」は、田子の浦があり、富士山を眺めるには最高です。
 万葉集にも、「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり」 山部赤人の歌がある。   豆知識」を見てください。 

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 原宿の本陣跡

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沼津宿へは 見事に咲いた桜並木を通って行く。、



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 好天に恵まれ、一日中写真のような富士山を見ながら歩けた。

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 途中 是より東 沼津宿の標識があったので 沼津宿に入ったことになる。


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  沼津の町中に 「沼津の賑わい発祥の地」の説明板があるが、昔の面影を残すものは少なかった。

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  玉磨石   12・300年前 玉を磨くためにつくられたと石

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 綺麗な富士山が見えたがもうすぐ見えなくなるかもしれない。

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玉井寺一里塚   昔の姿をとどめていて珍しかった。

 もうすぐ、三原宿です

 豆知識」  旅人を見守り続けた富士山

                   天下の名峰富士山のベストスポットとは?

 富士山は、今でも人気があるが、当時の旅人にも特別な思いがあった事でしょう。(広重も川崎・平塚・箱根・吉原などで富士が描かれている。)                         

 一つ目は 東海道で一番間近に見える原宿からではないか。
    今回のブログ 東海道を歩く 14 参照    

 二つ目は、薩埵峠からではないか。(特に雪を被った富士山)      
    東海道を歩く 19 を楽しみにして下さい。

 三つ目は、箱根からの富士山ではないか
    東海道を歩く 15 を楽しみにして下さい。
     

  霊峰を崇める「富士講」ブーム

   富士は単なる名勝地と言うだけでなく、信仰の対象でもあった。太古より霊峰として崇められ、修験者(山伏)たちは修験の場とした。
 江戸中期には、富士信仰が庶民にまで広がり、信者たちは「富士講」と呼ばれるグループを組んで登拝し、現地に行けない者は、代わりに各地の富士塚に参った。
 富士詣は、大山詣や伊勢詣等と同様の宗教行事であった。
 
 私も富士山に2度登っている。 1度目は1957年の成人の年の20歳の時、仲間と登った。
  私の足跡 2 に記載
 2度目は約20年後、研修会の帰路登った。私の足跡 4 に記載


   万葉集と新古今和歌集に次の歌が載せられている

 
  万葉集・・・・・・・田子の浦うち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りけり

  新古今和歌集・・田子の浦うち出でて見れば白砂の 富士の高嶺に雪は降りつつ

 作者はどちらも山部赤人である。どうして違いがあるのだろうか?
 新古今の選者である藤原定家か誰かが読み替えたのか、500年の時を経て自然に読み替えられたは想像するしかない。

 意味は
  万葉集では 「」 は経由ので、通ってと解釈する。
   田子の浦を通って視界の開けた所まで出てみると富士の高い所には真っ白な雪が積もっていた。

  新古今和歌集では
    田子の浦まではるばる来てみると富士の高い所は真っ白になっている。今でも降り続いているのだ。
  


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2011年02月21日

私の足跡 78 東海道の完歩 13  奥津宿 ~  蒲原宿   


     東海道を歩く  13

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「17」 奥津宿
→ 「16」 由井宿→ 「15」 蒲原宿 
                                          (由比)

      
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       「17」 奥津宿  興津川を渡る相撲取り。  旅人の乗り物iについてはこのブログの最後の 豆知識」 に書きます。

                  

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   「16」 由井(比)宿   薩埵峠のの斜面にしがみつくように富士を眺める旅人(左上)。
人の小ささから自然の雄大さを実感させる。
                                                 

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        「15」 蒲原宿  広重の傑作中の傑作と言われる「夜乃雪」。             

 山も木々も、そして宿場町も街道も、すべてがしんしんと降り積もる雪に覆われ、静寂だけが伝わる。

  しかし、この絵は画家が生み出したフィクションだと言われている。実際の蒲原宿は太平洋の駿河湾に面した海岸沿いで温暖な土地であり、雪が降り積もるようなことは数十年に一度あるかないかだという。(歩いている時に60年この土地で生活しているという人も雪を見たことがないと言っていた。) 

 なぜ、雪景色にしたかは謎のまま。全ては空想の賜だとも。新潟県の蒲原にイメージを重ねたのではないかとも。


        暑い7月の末の良い天気で、昼近くになり、皆はバテ気味になったが老体に鞭を打ちながら興津宿へ向かった。
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   日影があれば、立ち止まり休憩しながら歩いていると、 「座漁荘」という建物があった。
   
   説明によると西園寺公望公が70歳になって老後の静養に建てたものとある
。           
   しかし、実物は昭和45年に愛知県の明治村に移築してしまったが、地元の人が中心になり、元の「座漁荘」を復元したとある。

   休憩を兼ねて、30分ほど見学することにした。

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    しばらく歩くと、清見寺が見えた。禅寺で足利尊氏や今川義元等から篤い帰依を受けていたらしい。徳川家康も人質の時代はここで学問をしたとある。階段を登ってお参りをと思ったが身体が動かず石段下から参拝する。


    IMG_2191 興津宿案内板

    東海道「興津宿」に入る。この宿の説明板は工夫されていた。
    
                        
   IMG_2197 興津宿西本陣跡(興津本町)

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   往時を偲ぶ建物は少なく、大部分は碑が残るのみであった。

    厳しい道だが峠から見る富士山は最高だという薩埵(さった)峠へと急ぐ。
   

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    由比宿へは右へという看板を見て、念願の薩埵峠への道だと思い指示通りに進む。


    
   IMG_2235 薩埵峠

  暑い日中に、国道1号線とJR東海道線を左に そしてセメントの防波堤を右にして歩いて行く。ふと気がつくと左手の山が薩埵峠だと気づく。どこで間違ったかわからないがもう前進するのみ。

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    ここは写真のように、山が海にせまり平地がないので狭い処に国道1号線・JR東海道線・東名高速が重なるように連なっているのが良くわかる。(江戸時代の初期までは、山を越えるのではなく、峠下の波打ち際を打ち寄せる波の間を縫って抜ける危険な「下道」しかなく、親も子もなく、さきを争って渡ることから「親知らず 子知らず」と言われ旅人を悩ましたのである。)のちに道を山の上の薩埵峠を通るようにした。でも、決して楽と言えるルートではなかったが、眼下に紺碧の海・見上げれば富士山という見事な眺望は、苦しい道中を行く旅人たちへの「ご褒美」だった。 
                         
 
    IMG_2242 由比パーキング

 疲れた身体に鞭を打ち、ガンバル。途中、やっと見つけた店で冷たいものを身体に入れ、やっと息をつく。

   
    IMG_2247 西倉沢交差点で国道を横断
 やっと、 国道1号線とJR東海道線を横断する所に到着。

 念願の薩埵峠越えが出来なかったこの悔しい思いを晴らすため、東海道完歩の途中のすっきりした気候のある半日を費やし薩埵峠へ行って来た。(天気予報を調べ、土地の人の意見も聞いた。)
 
  詳しいことは、後日の「東海道を歩く19」をご覧下さい。
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  ここは 間の宿・倉沢宿の 「藤屋」。ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称し、文人・墨客が好んで休憩したと言われる。山岡鉄舟も利用したとある。
  室内には 主人が描いたといわれる絵があり、当時の様子がうかがうことができる。
               
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    倉沢宿の町中。 当時の面影が良く残っている。

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    本陣跡。 大名も休憩した所。


    IMG_2304 旧小池邸

    「小池邸」  此の建物は、明治期になってからの建物。
    大戸・くぐり戸・なまこ壁・石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残している。

    そして、由比駅に到着したのは、12時。駅のベンチで寝ころび、しばしの休憩をとる。 東海道歩きの中で一番暑くて辛い思い出となっている。

  
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  休憩後、特産の「さくらエビ」の看板を見ながら一路由比宿・蒲原宿を目指す。       

   
IMG_3015 脇本陣饂飩屋

  脇本陣跡の建物    「温飩屋」    他に「羽根の屋」もあった。


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  馬の水飲み場の跡   この水路状の壕(幅1m 長さ20m 深さ60cm)は、馬の水飲み場として、大名行列の馬に水を飲ませたり,からたを洗ってやったりした所。            

他の宿場では、見られない珍しいものである。


  IMG_3010 正雪紺屋

    この紺屋(染め物屋)は、400年以上前より続いている。慶安事件で有名な由比生雪の生家といわれるところから「生雪紺屋」の屋号がある。

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屋内には 土間に埋められた藍瓶等の染め物用具等があり、昔の染め物の様子を偲ぶことができる。


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 由比宿の本陣は 広大な土地で(約1300坪)であったが、今は「由比
本陣公園」として解放されている。
 公園の中には、安藤広重の美術館があったが、時間の都合で見学はできなかった。

 

   IMG_2975 蒲原中あたり

  蒲原宿までは、昔の面影を残す家が残っていた。

IMG_2958 旧五十嵐歯科医院

大正時代の洋風建築。   国指定登録文化財

大正3年から3回にわたり、、町家を洋風に増改築した疑洋風建築と呼ばれる建物。外観は洋風 内観は和風と言うユニークな建物。
 
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手作りガラスと総ケヤキの家
  明治42年に建築された当家の建材全てが檜材である。
  二階の窓ガラスは波うつような面が美しい手作りのガラス。


IMG_2950 本陣跡

 蒲原宿の本陣跡  これは西本陣跡   東本陣跡は100m東にあった。

 
高野山 東海道 高千穂 真田祭 167

 下の歌川広重作の東海道五拾参次の名作中の名作 「雪の蒲原宿」を描いたと思われる所。
 
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 歌川広重作の東海道五拾参次の最高の傑作といわれる蒲原宿の雪景色。
 (但し この暖かい蒲原宿にこんなに雪がふったのかと疑問視する方もおられる。この初めにも記す)
 


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この蒲原宿を過ぎると小高い峠のような所を越えて、富士川まで高度を下げる。

  ここ岩淵宿は、蒲原宿と吉原宿の間宿で富士川が洪水で渡し船が止まった時の宿場となった。そして、ここに1830年に渡船の安全を祈ってつくられた常夜燈がある。
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  この橋を渡れば吉原宿が近くなる


 豆知識」  旅人(庶民)の乗り物について

  
基本的には、自力歩行だったが時には、また、人によっては馬を利用したらしい。重さによって値段が異なり、安いのでは、人(3人まで)と軽い荷物を乗せて、一里で約150文(現代ではおよそ数千円)だった。馬子が馬と歩き、観光ガイドをしてもらいながらの旅もよかったでしょう。

 もう一つの乗り物としては、駕籠がある。庶民は禁止されていたが、享保年間から制限が解け、庶民相手の駕籠屋が登場する。駕籠の種類は宿駕籠と言われる簡易な駕籠に限られていた。値段は、江戸で一里400文(今だと一万円をはるかに超える)

 荷物だけを運ぶ場合は宿場人足を雇う。人手が足りないと、近在の農民が助っ人となる(助郷)。それでも、足りない場合は浮浪人を雇う。(雲助) 彼らの中には高額なチップを要求するたち悪い者もいて、「足下を見る」という言葉は、雲助が草履の切れたお客に高額な料金を吹っ掛けたことに由来するといわれている。



  この東海道の完歩ご覧頂ける方は このブログの私の足跡66~84 (2010年10月~2011年5月)をご覧ください 


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2011年02月11日

私の足跡 77 東海道の完歩 12 鞠子(丸子)~江尻宿  

  東海道を歩く  12

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   「20」 鞠子(丸子)→ 「19」 府中→ 「18」 江尻

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      「20」 鞠子(丸子)宿  「名物茶店」 とろろ飯を食す旅人二人。茶屋の脇の梅の花は満開のよう。梅もここの名所だった。(芭蕉の句碑にもある)

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    「19」 府中宿 「安部川」 駕籠ごと蓮台に乗る高貴な女性。蓮台の女性や肩車で渡る男もその従者でしょう。

       hiroshige031[1]

     「18」 江尻宿 「三保遠望」  広々とした湊の風景。清水湊の賑わいを感じられる。 三保の松原は停泊しているたくさんの船の向こうに見える松原。


  
岡部宿を出て、丸子宿に向かう。
   
    
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     途中、厄介な宇津の谷峠を越えなければならない。今では、明治・昭和・平成の各時代に造った3本のトンネルがあるが、我々は勿論、江戸時代の旧東海道を歩く。

   
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   こんな雰囲気の東海道を歩いたのは久しぶりだ。車の音は勿論、鳥の鳴き声以外何の音もない静かなひと時をすごせた。

    
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   峠には、当時は大きな建物のお寺の廃寺跡があった。当時は多くの旅人が安全を祈ったり、また、旅人の安全を守ってきた事でしょう。

    IMG_6393 宇津ノ谷(間宿)

    険しい峠を喘ぎながら越え、しばらく下ると眼下に「宇津の谷」の集落が見えた。一つの目標が見え、ほっとする。

     
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  しばらくは険しい下り坂を歩いていくと、馬頭観音が祀っていて婦人が花を供えていた。聞くと、この付近の仏さんに定期的なおまいりを続けているとの事。優しい人に出会えて心が温まる。

    
   
   
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   この宇津の谷は、宿場ではなく岡部宿と鞠子宿の間宿なので、本陣などはない。食事処があり、今もいろんな食事ができる。

   ある家の前にくると、年配の婦人がいたので、声をかけて話をしていると「家の中には珍しいものがあるから見るかね」と聞くので峠越えで疲れていたので休憩をかねて見せてもらうことにした。(有料)

      IMG_6425

   裏に回り、座敷にあがり、いろんな貴重品をみせてもらった。その中に豊臣秀吉から頂いたという陣羽織がかけてあった。

   少し時間を取りすぎたので急いで「鞠子宿」へ向かう。



  一度国道に出たが、離れて旧東海道に入る。

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  やっと、「鞠子宿」の西の高札場跡に到着。

10[1]
  もうすぐ、上の写真のような有名な「丁子茶屋」が見えてくるはずだった。

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   ところが、我々の見た「丁子屋」は上の写真のようであった。

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  店の人に聞くと、年に一度の休店日にして、大掃除をしているとのこと。「とろろ汁」を御馳走になろうと思っていたが残念天井には、札がたくさん貼っていて、歴史の重みを感じた。

  忙しくしているが話を聞くと
  創業は1189年だが、後に東海道の今の所に引っ越しして今に至っているとのこと。
  現在の店主は 13代目だそうです。
   
   hizakuri005[1]
   屋敷内に芭蕉の句碑「うめわかな 丸子の宿のとろろ汁」があった。
   
    hizakuri011[1]

   少し行くと、東見付付近だが 往時を偲ばせるような大きな建物は残っていないが、本陣跡・脇本陣跡の碑や格子戸の残る家・間口が狭く奥行きの深い家並が往年をわずかに偲ぶことができる。   
   
  鞠子宿を別れ、府中宿へ。

   
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     安部川の長い長い橋を渡る。

    hizakuri001[1]

  食欲をそそる美味しそうな「安部川もち」屋さんが何軒か並んでいた。

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 静岡の中心地で 昔の面影は殆ど残っていないが、所々に上の写真のような碑が残っている。

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  「西郷・山岡会見の史跡碑

  勝海舟の書状を持った山岡鉄舟が西郷隆盛と会見した処。

  その4日後、江戸薩摩邸で 西郷隆盛と勝海舟の会見で江戸城無血引き渡しが決まり、江戸100万人の命が救われた。


IMG_2060 旧東海道記念碑(栗原)

     旧東海道は 国道1号線や東海道本線の開発により、無くなったが昔はここを通っていたことを記念して造られていた。

  道もなくなったためか昔を偲ぶものが少なかった。

    IMG_2131 江尻宿案内(銀座通)

    IMG_2136

   近代化された街に変身していて、上記のような碑や説明板が残るのみだった。


  清水次郎長で有名な清水の港へは、時間の都合で立ち寄れずに残念だった。

   豆知識」   東海道中の名物&土産

    丁字屋のとろろ汁
        
      
特産の自然薯をすりおろし、白みその汁で溶いて麦飯にかけて食べるというもの。 その美味は各地に広がっていた。 丁字屋のとろろ汁は400年以上変わらぬ味もさることながら、茅葺きの外観も人気を呼んで、週末などは行列もできるほどの人気ぶりらしい。
    

    安部川餅

      餅にきな粉をまぶした名物「安倍川餅」の名付け親は、家康という。
      彼がとある茶屋に裁ち寄ったとき、そこの店主がきな粉を安倍川で採れる金に見立て「安倍川の金な粉餅」の名で献上し、それを喜んだ家康が「安倍川餅」の名をあたえたといわれている。

        その他 草津の「姥が餅」  石部の「田楽」   桑名の「焼き蛤」  池鯉附の「きしめん」  白須賀の「柏餅」  舞阪の「浜名湖の海産物」   蒲原の「栗粉餅」  原の「うなぎ」  小田原の「ういろう」  川崎の「奈良茶飯」   品川の「のり」等   


  


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2011年02月01日

私の足跡 76 東海道の完歩 11  島田宿 ~ 岡部宿  


東海道を歩く  11 
                    
     dc120901001[1]

        23 田宿→ 22 藤枝宿 21 岡部宿


      
     23」 島田宿  「大井川駿岸」 
       はるか高所から俯瞰したようなパノラマ画。中州では多くの人が休んでいる。

        

  「22」 藤枝宿  「人馬継立」  
      
煙管で一服する者。背中の汗を拭者。鉢巻を締め直し気合いを入れる者・・・・・・・人足のさまざまな表情
      
         

  「21」 岡部宿  「宇津之山」  
    道の両側には急斜面が迫り、人物からも厳しい坂道を思わる。
 

                        

  遠江国とも別れ、駿府の国へ。その国境に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の歌が知られる東海道一の大河がある。当時の旅人にとってはなんとも厄介な難所であったであろう。

    
      300px-Oigawa_Shimada[1]
         IMG_6720

      現在の大井川

     IMG_6717 大井川橋
      IMG_6727 大井川橋

   大井川鉄橋のお陰で 今は「川留め」もなく、何の不安もなく渡れるのは有り難いことだ。

     
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       大井川の金谷宿側にある川会所の中の施設の一部です。     

         IMG_6762

     旅人は 先ず役人にどんな方法で渡るかを申し出て、お金を払い、券をもらい待つ。

          IMG_6779
     
        待機している人夫に川を渡してもらう。


      IMG_6809 島田宿上本陣跡 

            本陣は2軒あったが、その一つ上本陣跡です。残り一つの本陣も本陣でした。

      IMG_6819
      IMG_6818

        問屋場跡として残っている。       

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         大井神社にお参りして東進する。
        
                   
      IMG_6827 甘露の井戸水

        途中、甘露の井戸水を頂き、元気をもらう。

        IMG_6870   
        
     大井川の氾濫には 昔からこの地域の人々は苦しんだ。

    1635年に水野氏が一千貫もの労銀を使い、領民のため約400mの堤防を築いたの「千貫堤」と名付け、今も一部が残っている。
    また、山内一豊も堤防をつくったので、「一豊堤」も残っている。多くの人が氾濫のため、苦労していた。
    昭和になり、水力発電用のダムがいくつも建設され、平成2002年には多目的のダムが完成した。
                
         IMG_6852 青山に残る松並木

    島田宿で多くの事を学んで 松並木の一部が残る道を通り、次の藤枝宿へ


     藤枝宿は 東西に2kmにも延びる大規模な宿場まちであった藤枝宿。

     その細長い藤枝宿は、現在も藤枝駅前の商店街となり、近代的な建物となってる。


        IMG_6237

        推定樹齢500年と書かれている巨大なクスノキ

        IMG_6239
       
       
         IMG_6263 巌村領標示と横内の案内

    大きな藩の領地の中に東巌村領というようにあちこちに入り混じっている。

                
            IMG_6309 岡部本陣跡

              岡部宿本陣跡
             
                IMG_6315

           岡部宿大旅籠を歴史博物館にしている。




   川越えについて(前号の続き)  

  
川を渡るには、旅人は渡し賃を払わなくてはいけない。勝手に渡るのはご法度。川は見た目以上に深い所があり危険。というのは表向きの理由だが、通行料が藩や宿場の大きな収入源であったのも事実だった。

 渡し船の乗船料は一人10文ほどで、武士や僧侶等は無料。朝6時から夕6時ぐらいまで運行したらしい。

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  渡し船のない所では川越え人足を雇って徒歩渡しをするしかなかった。旅人は肩車か蓮台に乗るかを決め、川合所で料金を払い川札という切符を購入をして順番を待つ。

 川越え人足の仕事が重労働だったのは、想像に難くないだろう。その分 料金も高く、水高によって下記のようになっていたらしい。   

   
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 黄色は現在の金額に換算したらしい(小さくて見えづらいので拡大して見てください)


 そして、150cm程度を越えると川留を余儀なくされた。川留は数日間におよぶこともしばしばあり、最大で28日間という記録が残されている。
  また、時には 一部の悪い人夫により余計なお金を要求されることもあったという。




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2011年01月21日

私の足跡 75 東海道の完歩 10 掛川宿 ~ 金谷宿  


東海道の完歩 10
  
 
      dc120901001[1]


        26掛川宿→ 25日坂宿→ 24金谷宿
                               (新坂)
   hiroshige039[1]

    「26」 掛川宿 「秋葉山遠望」  巡礼の老夫婦が腰をかがめて僧侶に挨拶している。画面右奥の山が秋葉山。

   hiroshige038[1]

    「25」 日坂 「佐夜の中山」 物珍しそうに夜泣き石を眺める旅人たち。

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    「24」 金谷 「大井川遠岸」 大名行列の川越だろうか。列の最後尾では、大名の駕籠を乗せた大蓮台を20人以上の人足が運ぶ。


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    東海道の京都と江戸の「ど真ん中」にあたる袋井の茶店で 休憩をする。

   IMG_5896 袋井宿東本陣跡

         袋井宿の東本陣跡に別れをして、東海道の残り半分を歩くため、次の宿場に進む。
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  富士浅間神社の赤鳥居 この奥に社殿があったので、見事な参道があったという。
   IMG_6009 清水銀行(掛川市掛川)

    町の銀行の壁に山内一豊の一枚の絵がある。

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   千代が蓄えていた黄金で馬を買い与えたという物語です
   
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 山内一豊の居城・掛川城  1590年から10年過ごしたが家康に城を明け渡し、後に土佐20万石を手にした「出世城」。
 

IMG_6016 掛川城復元大手門

  浜松城の復元大手門

     IMG_6003

     「十九首塚」とある。平安時代の平将門の乱の後、将門を含む19名の首を川の水で洗い、橋に掛けて首実験した土地であることから「掛川」になったとの説もある。


 ここより東海道の山の中に入っていく。   

西行法師の 「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」で有名。
          
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      高札場跡
    IMG_6099 萬屋

     「萬屋」 当時の旅籠屋。庶民の宿  安宿 

  IMG_6105 日坂本陣跡

    日坂本陣跡
 
   IMG_6122

   「夜泣き石」は広重の絵にもある。これは、旅の途中に山賊に襲われ、この地で息絶えた妊婦の霊が乗り移り、夜な夜な泣き声をあげたという「夜泣き石」。
 この話を聞いて同情した弘法大師が「南無阿弥陀仏」の文字を刻んで、念仏を唱えたところようやく泣き声は止んだが、祟りを恐れてなのか、明治時代になるまでこの場所から動かされることはなかったという。
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      明治時代まで このように道の傍に置かれていた。

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        現在は 久遠寺の境内に祀られている。
  
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  高い台地の上だから天気が良ければ、景色がよく、富士山も見えるし、広大な茶畑の景色も見事らしいが今回は駄目だった。
  そして、珍しく道に迷ったりで時間のロス等もあり、歌碑、句碑も多くあったが暗闇に包まれ残念だった。
   
  
 遠州最後の宿場 大井川を控えた「金谷宿」に到着。

   IMG_6709 大井川の堤防から富士山が見える

 次の日、 天気は回復し、見えなかった「雪を被った富士山」がよく見える。

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    榎の植えていた一里塚の跡がある。

   IMG_6689

   川止めのよくある宿場だったが、3軒とも佐塚屋のように当時の面影がない。

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 川越えの両岸(大井川渡船場)には、茶屋があり、渡る順番を待っている。

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   女性は蓮台にのり、後ろの男性は肩車で渡っている。

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   この蓮台は一般的な人の物

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   この蓮台は殿様のような人が乗り約20人程の人が担ぐ。



  

   川越え

  川は東海道の旅にとって、最大の難所であった。今は川には橋が架っているのが普通だが当時は殆ど橋はなかった。旅人は橋のない川を、船渡しを使ったり、徒歩で渡らなければならなかった。

      とうしてか、

    Ⅰ 幕府は諸国の反乱を恐れて橋を架けることや船場を設けることを制限した。
    2 流れが急で危険だったから
    3 旅人がすんなり川を渡ってしまうと地元の宿場の経済が停滞するから 
      と考えられる。
           
    西から順に書くと

       七里の渡し   →  帆船
       今切の渡し   →  帆船
       天竜川      →  川船と徒歩
       大井川      →  徒歩
       安部川      →  徒歩
       興津川      →  徒歩
       富士川      →  川船と徒歩
       酒匂川      →  徒歩
       馬入川      →  川船と徒歩
       六郷川      →  川船と徒歩


         川渡りの値段等は 次回に 



  
 


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2011年01月11日

私の足跡 74 東海道の完歩 9  浜松宿 ~ 袋井宿  

 東海道を歩く   9
      
   west[1]
   
 29 浜松宿 → 28 見付宿(見附) → 27 袋井宿
 
  hiroshige042[1]
  29」 濱松宿 「冬枯ノ図」
              杉の大木の根元で暖をとる男たち。手前に松林、遠くに浜松城を望む。  

  hiroshige041[2]
   28」 見附宿 「天竜川図」 
            霧にむせぶ天竜川。手前の人間は川の深さを測っているのだろうか。


  hiroshige040[1]
     27」 袋井宿 「出茶屋ノ図」  
            簡素な出店の茶屋で火をおこす女中と人夫。

  ここで一言
   東海道を歩く「Ⅰ」より 歌川広重の「東海道五十三次」の絵を順次載せてきて、 東海道を歩く「4」「5」「6」では 歌川(安藤)広重について記しました。
 しかし、今年の元日の夕方のBSTVで、天才画家・歌川広重の「東海道五十三次」は司馬江漢の作品の盗作だった?の放送があったのを見た人もいるでしょう。

 私はびっくりしています。

  舞阪宿より、松並木の道を通り、一路東へ。

  途中、熊野神社・諏訪神社・愛宕神社・稲荷神社等の前を通り、浜松宿へ。

  ここ浜松は かつては、6軒もの本陣を抱える東海道の中でも箱根と並んで最大規模の宿場町であった。旅籠の数も100軒近くと、その繁栄ぶりがうかがえる。
  しかし、広重の絵は、その賑わいでなく、街道から外れた冬の枯野の光景である。

  
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でも、今は浜松とその周辺の中心街となり、昔の面影は全くない。
 
  IMG_7450


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   本陣跡等の碑のみである

 見付宿が近づく。見付宿の名の由来は、京都から下ってここまで来ると初めて富士さんを「見付ける」場所だからこの地名「見付」がついたという。近くに「富士見台」の地名もあるのも納得する。
  
  
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 街道沿いには、今も国府の護りとして建てられた府八幡宮、聖武天皇の命で建てられた国分寺の跡等が点在し、この地方の歴史の中心だったことが分かる。
   
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   金原明善翁生家

   
  IMG_9467 天竜川橋
  
   日本で有数の暴れ川で有名な天竜川を渡ることにする。
   手前の橋は歴史が古く、歩道もなく、危険で渡れそうでないので左手に見える新しい橋へ行く。
  
  IMG_9468 新天竜川橋
   この橋は新天竜川橋で広い歩道もあり、安心して渡れた。

  高野山 東海道 高千穂 真田祭 070

  見付宿の本陣跡

  IMG_9489 宮ノ一色一里塚
  ここ見付宿付近には 一里塚跡が多く残っており、それを保存している
  宮の一色一里塚では 木はないが、小山の塚を残していた。

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  この付近で 東海道を歩く 7 にも記した姫街道も東海道に合流する。
  東海道を歩いているので、姫街道も一度歩いて多くの遺跡を訪ねたいものです。


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  見附と言えば磐田。磐田と云えばジュピロ磐田。一時は全盛の時代があった。
 当時の名選手の中山雅史選手等の足跡が今も残していた。(今年は 復活の兆候がある)
 応援していたチームだ。ガンバレ。  
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   洋風の小学校跡が残されている。


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   松並木を越えて 見付宿を後にした。

 そして、ド真ん中で有名な袋井宿に入る。
 どうして、ド真ん中かというと五十三次のうち、東からも西からも27番目。「東海道のど真ん中」にあたる「袋井宿」。やっと半分かと言って良いか、もう半分かとも思う。

 もう一つの特徴は 東海道で一番「短い宿場町」である。入り口から出口までが約570mだったらしい。今は宿場町の雰囲気は殆ど感じられない。

 現在 町のあちこちに掲げられているキャッチフレーズは「東海道のど真ん中」だ。    
   
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  その他、お菓子・饅頭等にも命名されていた。


   「凧」について

 「遠州の空っ風」といわれる強い風の吹く遠州地方は「凧上げ」が盛んだった。その起源は殿様に男の子が生まれたのが始まりと言われる。
 今も一部の地域で受け継がれている風習が「初凧」だ。端午の節句に、初節句を迎えた子どもの名前と家紋を入れた凧を揚げるというのだ。かつては、長男だけの行事だったが、時代とともに次男以降や女の子にも行われるようになった。

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     江戸時代の凧上げ

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  IMG_6440

  上の三点の作品は二川宿の歴史資料館に展示されている凧。



  女性の旅 (前号の続き)

 前号でも記しましたが、出女を取り締まるため、江戸時代の女性の旅行は厳しいチェックで大変だった。関所では、人見女という女検査官が通過する女性の旅人を詳細に調べていた。
 怪我の傷跡やホクロの位置までこと細かく調べ、少しでも不審な点があれば厳しい詮議が行われていた。勿論、手形や証文に不備があれば、どんな仔細なことでも頑として通過を許さなかった。
 こうした厳しいチェックを嫌う女性は 夜中に関所を通ったり、案内人を雇って裏道を通り関所破りをする者がいたという。
 新居関所は特に検査が荒々しく厳しいので 高貴な子女達は姫街道をよく利用したという。

 厳しい検査があったが、江戸時代の後半には緩やかになり100日以上の旅行をした女性もいた。
 でも、女性の一人旅は少なかったとある。当時は追剥ぎ暴漢に襲われる危険が今よりずっと多かったからでしょう。
 


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2011年01月01日

私の足跡 73 東海道の完歩 8  白須賀宿 ~ 舞阪宿  

   rabbitzentre_b05[1]
 
旧年中は 多くの人にアクセスして頂き ありがとうございました。
 一時 ブログ会社の変更時のトラブルで一定期間記事を書けなくなりご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。
 やっと軌道にのりアクセスの数も昨年の7割近くになり、本年の最高の月はこの12月で200を越え、順調に回復していますのでよろしくお願いします。

west[1]

東海道の完歩  8

   32白須賀宿→ 31新居宿→ 30舞阪宿

  
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    「32」 白須賀 「汐見阪図」   遠州灘や海岸沿いの松林を一望できる塩見坂。
     しかし、大名行列の一行は脇目もふらずに進む。

    hiroshige044[2]
   31」 新居(荒井)宿  「渡舟の図」 
           新居関の船着き場。乗客がしばしのうたた寝から目をさます。

   hiroshige043[1]
   30」 舞阪  「今切真景」  
    前面に波除け杭と松が配され、右奥にはかすかに富士が見える。  色彩豊かな作品。

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   二川宿から南進して行くとキャベツ畑が広がり、広大な土地を歩く。

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    この白須賀は 古くから景勝地として名高い「塩見坂」の上にある宿場町である。
  もともとは、坂の下に置かれていたものが、1707年の大地震と津波で、大半の家屋が流されてしまうなどの大きな被害を出し、坂の上に移された。
  したがって、高台にあるため、風が強く、火事が大敵だった。そこで、空き地をつくりそこに緑樹で火に強い槇等を植えて火防とした。   

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 火防のための槇の木の一部が残っている。

  この高台の白須賀からは太平洋が一望できる。「塩見坂公園跡」は1582年武田勝頼を滅ぼした織田信長をもてなすために、茶室をつくった所と伝えられる。  



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 道路にも いろんな工夫があると感心した。

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 この坂の下は 昔の白須賀宿があった。

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 坂の下の宿場は、大きな建物は残っていないが、面影の残る建物もある。

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 そして、海からの風を防ぐための松並木も残っていた。

 そして、東海道五十三次での関所・新居宿に到着。

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 各地に設けられた関所の内、唯一当時の建築がそのまま残っている。
 但し、此の建物は1855年建築のものである。
 建物の中には、蝋人形の取り調べの役人も配され、当時の雰囲気がよくわかった。

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 関所は 男性より女性の方が厳しかった。いわゆる「入り鉄砲に出女」だが、箱根の関所が本来の意味の出女 いわゆる幕府の人質として江戸に住む大名の妻子の逃亡を防ぐため、東から西へ向かう女性だけに手形を求めたのに対し、ここではその逆の場合も手形が必要だった。
 この手形には、旅の目的や行き先、人相や特徴などが事細かに(髪形・背丈・手足の特徴等)記され、すこしでもそれと違いがあれば通行を止められた。その「改め」のために「人見女」と呼ばれる専門監視員がいた。

 また、この厳しさを逃れるために御油宿から東海道を分かれ、浜名湖の北を通って見附宿に至る脇街道が発達した。女性の旅人が多かったので「姫街道」の別名で呼ばれている。
 (私の足跡 72 に前記)


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 新居宿と別れて、今は徒歩で立派な橋を渡り、舞阪宿へ行くが、当時は舟で行った。
 その理由は もともと浜名湖は海とは切り離された完全な淡水湖であった。それが、1498年の大地震で海岸に切れ目ができ、湖は遠州灘と繋がってしまった。いらい、それまで徒歩で行けた新居宿と舞阪宿の間は渡し船に頼らなければならなくなった。この「切れ目」の部分は今では「今切口」の名で呼ばれている。
 今切口から遠州灘の荒波がひっきりなしに打ち寄せてきたため、渡し船の航路に沿って「波除け杭」と呼ばれる杭が立てられた。広重絵のてまえに描かれているのはそれである。現在海水浴等で賑わう弁天島は、此の杭に砂が堆積してできた島だとも言われている。ここには、海上の安全を祈願して建てられた弁天神社がある。

   
   
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舞阪宿に入るとすぐに昔の船着き場跡があり、常夜燈も残っている。
  

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  その近くに、本陣は本陣跡の碑のみだが、脇本陣が復元されて残っていて、公開している。

  
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  脇本陣の遺構としては、東海道中唯一の物です。
  
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 玄関の入り口から二部屋の次に庭があり更にその奥に二部屋があり、その奥の上段の間までの見通しである。
  
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  上段の間です。

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 お風呂
  
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  トイレ

  
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  舞阪宿を出て、松並木を通り、浜松宿に向かった。



  通行手形について


    img057[1]

 上の通行手形(往来手形)は、男性の一般的なものである。発行した人は、名主・住職等身近な人でよかった。行き倒れの場合は知らせてもらわなくても結構です。その土地の習わしで処理してくださいと書いている。(昨年 四国遍路でたくさんの無縁仏を見た)
 当時の社会を考えると庶民では止むをえないと思う。
 
 でも、女性は大変だったという。次号で
 
    


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2010年12月15日

私の足跡 72 東海道の完歩 7  御油宿 ~ 二川宿  


    tokaido_hdb_tizu[1]

      tizu1[1]

    west[1]
   
 東海道を歩く 7                        

     35
御油宿→ 34吉田→ 33二川宿

   
htm72[1]

   35」 御油宿 「旅人留女」 
           強引な客引きを旅籠の女中が退屈しのぎで見ている。 

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 吉田 「豊川の橋」
       左側の橋は 長さ200m以上の吉田大橋(東海道で三大橋の一つ)
です。

        右側は普請中の吉田城です。

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 二川  「猿ヶ馬場」 
        名物「かしわ餅」の看板を出す茶店。その店に向かっているのは盲目の旅芸 人 と仲間たち。



 
御油宿の中心より、東進すると追分がある。

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 これは、浜松宿や見付宿に通じる本坂通(通称 姫街道)と豊橋を通る東海道との追分です。
    image88[1]

  本坂通は東海道の脇街道として重要な役割を果たしていた。(一説には 新居の関所の厳しい取り調べを避けるため 女性たちが多かった)
 とりわけ、宝永4年(1707年)の東海大地震によって「今切渡」が中断したさいは、大名はじめ通行人が本坂通に殺到したという。

 今回は 本坂通ではなく、東海道を行くことにした。

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  東進して、しばらくすると大社神社が見えてきた。

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 名前の通り、大きな境内を持った大きな神社でした。

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  豊川橋(旧吉田大橋)が見える。広重もここに200m以上の大橋を描いている。

  豊橋は、中世では今橋とよばれたが、戦国期に吉田と改められ、明治になって豊橋になった。
  戦国期以降、東三河の要衝の地となり、三河をほぼ統一した徳川家康は吉田城に重臣酒井氏を入れ、東三河の旗頭とした。その後池田氏・小笠原氏等がお城の整備や町の整備をした。
   
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   吉田城の一部で、桜に包まれ見事であった。

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 ある家の軒をみると、何と手筒花火が飾っていた。さすが手筒花火の町だと思った。

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 歩いていると提灯屋があった。立ち止まると声をかけてくれたので話を聞くことにする。
骨の組み立てから紙の貼り方まで細かいところまで教えてくれた。とても良い人に出会えて、感謝・感謝。

  


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  街道の上に小さな門がある。これは惣門です。この門の傍らには、十二畳の上屋敷、八畳の下屋敷、勝手があり門外の西側に駒寄せ場十一間がありました。
 惣門は 朝六つ(午前六時)から夜四つ(午後十時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。

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 この門は 宿場の東の端と西の端にあり、上は東の惣門 下は西の惣門です。


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 二軒の本陣は 二軒とも本陣跡の標柱があるのみである。

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 脇本陣も 問屋場も脇本陣跡 問屋場跡の石柱のみである。

  ここ吉田宿は、城下町・宿場町として栄えたが、1945年6月の大空襲で灰燼に帰してしまった。そのため、旧東海道筋を示す標識等は整備されているが、昔の面影を偲ぶことはできない。


 次の宿場・二川宿はそれほど規模は大きくなかったが、明治に入った後も、鉄道駅が宿場町の中心から離れた所に建設されたことなどから、大きな開発の波が及ばなかった。それに、戦災による焼失もなく、かつての宿場町の雰囲気を色濃く残る宿場町である。     

 

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 古い民家もあちこちに残り、昔の雰囲気を味わうことができた。

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 高札場跡や問屋場跡なども残っていた。

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 手前は「旅籠屋 清明屋」 その向こうが1849年に築造された表門。

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 滋賀県の草津宿と並び、東海道でただ二つ現存する本陣の一つ。
 1988年に往時の姿を取り戻すために修理・復元が行われ、現在では建物の中の様子を見学することができる。

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 玄関を入るといくつもの部屋が奥に続いている。

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 いくつもの部屋の奥が殿さまの部屋。この部屋の隣には、見事な庭がある。

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 また、本陣の隣には、当時の旅籠の一部を復元した「旅籠屋 清明屋」も。武士の宿泊場と一般庶民の宿泊場。双方の違いが見比べられて興味深かった。
 
 また、豊橋市二川宿本陣資料館も併設されていたので時間をとり、見学した。


 ここからは、一路「白須賀宿」へ



 参勤交代について。

  参勤交代の制度ができ、東海道も整備され、宿場町も発展したが、各藩の財政を苦しめた。
  
  そのことについて記すことにする。
  
  鳥取藩(池田氏)の参勤交代の資料をもとにする。江戸迄の距離720kmを21泊22日で一日平均32.8kmである。総費用の43%の847両が人足費。25%の492両が駄賃。残りは備品購入費・修理代・船賃・宿泊費等です。
  大藩だった加賀前田家の従者の数は 約4000人もの大行列だった。その費用は今の貨幣価値では 7億円近くもかかったという推計もある。全て藩持ちなので藩の財政は大変だった。
 一方 街道の経済発展に大きく寄与した面もあった。道路は整備され、大勢が宿泊する宿場町が潤ったのだ。また、飛脚などの通信網の発達にも貢献した。

   
     


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2010年12月01日

私の足跡 71 東海道の完歩 6  岡崎宿 ~ 御油宿  

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東海道を歩く 6
 
                 
  38 岡崎宿→ 37藤川宿→ 36赤坂宿→ 35御油宿

      
  
      htm60[1]
     
            「38」  岡崎宿  「矢矧乃橋」  この矢作橋は 全長370mあまり、東海道最長の橋であった。橋の向こうには家康の生誕地・岡崎城が見える。
 また、士豪の蜂須賀小六が豊臣秀吉に出会った地という伝説が残る矢作橋である。

       
    
          「37」 藤川宿  藤川棒鼻ノ図」   
       
   町のシンボル的存在となっている町の両側の入り口の二か所に境界を示す「棒鼻」である。
   この行列をよく見ると、黒色と茶色の二頭の馬姿が見える。そしてその背には御幣をたてている。
  これは、天皇家へ謙譲する儀式(八朔御馬進献の儀)に広重はお伴をしていった。  
      
        htm68[1]


        「38」  赤坂宿 「赤坂旅舎娼婦の図」   
   
   化粧をする女たち、風呂から上がってきた客、室内で横になってくつろぐ人、膳を運ぶ女性のあわただし人々の様子がユーモラスに描かれています。
  当時の生活用具も丹念に描かれ、風俗的にも興味が多い。



   前回の続き(広重の東海道五十三次について)

      
  広重は 「東海道五十三次」の資料を得るため棒鼻ノ図」の行列に加わったというがそうではないという意見もある。

 その理由は
    火消同心の身分でこのような行列に参加できない。(だから「伝手(つて)」を頼んだという説もある)
    
参加していないもうひとつの理由として当時の景色と違った絵が描かれている。   

  例  
   蒲原  池鯉鮒  宮  三条大橋  石部 等 宿の絵   
  
    新星出版社「東海道五十三次」を参考にする。
   
   

                              
  江戸幕府の開祖・徳川家康の生誕地である岡崎。この地に藩庁を置く岡崎藩はわずか5万石ながら、代々家康とゆかりの深い譜代大名が藩主を務めるなど、幕府からは常に重要視された藩であった。岡崎宿もまた、城下町として、そして宿場町として、大変な賑わいを見せていた。

 

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 丁蔵通りの名の通り、大きな蔵が連なっている

 
岡崎と言えば、「八丁味噌」。歴史は室町時代にさかのぼり、岡崎城から西へ八丁(約870m)の八丁村(現在の岡崎市八帖町)で盛んに造られていたのでこの名がついた。

 工場見学ができると聞いていたので、八丁味噌の匂いに誘われて30分待って見学。
 
 大豆と食塩のみを原料に、二夏・二冬をかけてつくられる。
 
 この地方は良質な大豆が収穫され、矢作川の水運によって塩も入手しやすく、さらに天然水が湧き出ており、味噌作りに適した土地であった。
 
 固く日持ちがするため、戦国時代には武士の兵糧として用いられたともいわれる。
 現在は、味噌汁の他、名物の味噌カツにも欠かせない。

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 現在はカクキューとまるや八丁味噌の2社のみで製造されている。

 この町で最も特徴的なのは、岡崎城の三方を囲むように複雑に曲がりくねりながらすすんでいく東海道、通称「二十七曲」でしょう。

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 とにかく、この宿を出るまで何度曲がったことでしょう。

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 初代本多康重が整備したもので、街道を引き入れることによる城下町の発展と敵を城によせつけない防犯体制を両立させるねらいがあったと言われる。

 現在都市化によって宿場関係の遺構は殆ど残っていないが標識は整備されている。
 
 本陣跡も問屋場跡も標柱のみである。

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 町のあちこちに上のような石の彫刻がある。当時の建物のあった跡につくられている。  これは、助郷で人馬の世話をする所。

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 ここは御馳走屋敷があった所。等たくさんある。

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 1601年から続いた本多氏四代の間に天守閣をはじめとする整備が進み、1645年の水野氏の代に完成した。

 
  ( 一度桜の季節に行ったが、桜と天守閣が綺麗で今も脳裏に刻まれている)

 岡崎を離れ、藤川宿に向かう。

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 突然現れた大きな屋敷。かの有名な大岡越前守の陣屋跡です。

 大岡忠相は旗本でした。1748年・72歳の時将軍吉宗の口添えで加増され、一万石の大名になる。廃藩置県まで7代続いた。

 大岡家は 江戸に常駐する定府大名で参勤交代はなかった。家臣団の大部分は江戸に住み、この陣屋詰めの家臣団は 多い時で郡代1 郡奉行1 代官2 その他10人前後だった。  

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 大岡越前守忠相の人柄について有名なのは「大岡裁き」・「享保の改革」・火消の「いろは四十八組」「小石川養生所」など幕藩体制の建てなおしと江戸の町人のために尽力した。

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 藤川の松並木も保存されており、見事である。

IMG_0158 藤川宿脇本陣跡(藤川宿資料館)

 大川脇本陣跡の標識。今は藤川宿資料館になっている。本陣跡も近くにある。

 その他 国指定の一里塚や宿場の境界を表す棒鼻跡もある。

IMG_0173 東海道筋でみた紫麦の畑

 芭蕉が「ここも三河むらさき麦のかきつばた」と詠んだ「むらさき麦」です。

 これは、その名のとおり、茎や穂が紫色に染まる珍しい麦。かつては薬用や染め物用に広く栽培されたが、いつしか途絶えてしまっていた。しかし、1990年代に復活し、再び藤川名物として訪れる人の目を楽しませている。

 
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  この法蔵寺の七世教翁は、家康が幼少時の師であったといい、近世を通じて下馬の寺として、往来する諸大名や旅人の参詣が絶えなかったという。

 IMG_0072 近藤勇首塚

 この寺の奥に新撰組隊長近藤 勇 の首塚があった。以前 中山道を歩いた時に近藤勇の墓があったので関心があり、お参りし調べた。

 勇は、慶応4年 35歳で板橋の刑場で露と消えた。死後、勇の死体を近親者が人夫に頼み夜中に掘り起こし、竜源寺に埋葬した。
 勇の首は、処刑後京都に送られたのを同士が持ち出し、この寺の和尚に頼み、裏の山の中に石碑とともに埋めていた。その後、それを掘り起こし、胸像とともに供養している。

 今回の街道歩きの日程を、この近くで行われる祭(手筒花火大会と仮装花魁道中)日程を合わせて来た。
 手筒花火は以前豊橋で見たことがあったが、もう一度見たくて企画をした。花火は夜なので昼は街道歩きをし、夜は手筒花火の見学をした。そして、宿泊(この街道歩きで初めての宿泊)所を街道歩きの支障にならない場所にした。

高野山 東海道 高千穂 真田祭 398

 大きな手筒花火を一人の人があげている。圧巻であった。

高野山 東海道 高千穂 真田祭 403

 これは、大勢の人が同時にあげている。火の粉が飛び散り豪快そのものだった。 

 あくる日の午前中は、街道歩きをして、午後花魁道中の見学をした

高野山 東海道 高千穂 真田祭 439

 この花魁は、女性でなく店の主人だそうだ。両脇の男性は花魁の左の人は傘を持ち、右の人は肩を貸し、花魁が歩きやすくしている。
 前の男性は 夏の昼間なので花魁の汗の処理と化粧直しをしつつ、歩いていた。

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 花魁が歩きにくいのは、履いている下駄の高さを見てください。補助なしではとても歩けない。

 宿の中ほどの本陣跡と問屋場跡を過ぎると、右手に「大橋屋」 左手に「尾崎屋」がある。

IMG_9987 大橋屋

 大橋屋は旅籠屋であったが、現在も旅館 食事処をしている

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IMG_9984 尾崎屋にかかる古い軒行灯

 尾崎屋は曲輪などの民芸品を販売している。

 そして、東進すると御油の松並木に入る。

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家康が三河黒松を植樹させたといわれる。旅人の日除けや風雪除けとして作られている。

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 約400m続いていて、今でも340本ほど残っている。樹齢100年を越える古木が約90本もあり、1944年に国の天然記念物に指定されており、そのため戦時中の供出も免れている。  

 松林を通り過ぎると、御油の宿場内に入ると町並みは落ち着いた佇まいを示しており、宿場の面影を残している。高札場跡や本陣跡等は、標柱や説明板のみなのは残念だった。




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2010年11月15日

私の足跡 70 東海道の完歩 5  宮宿(熱田) ~岡崎宿  

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       東海道を歩く 5

     41宮宿→ 40鳴海→ 39池鯉鮒→ 38岡崎宿


         htm48[1]
      「41」  宮宿 「熱田神事」  赤と青の絞りの半てんを着た男たちが二組に分かれて、馬を追う神事。遠くから宿場町の旅人が見守っている。

                 htm52[1]

        「40」 鳴海宿 「名物有松絞」  駕籠に乗った女性と馬に乗った女性が供を連れて街道を行く。絞りを買いに来たのだろう。

         htm56[1]
       

     「39」 地鯉鮒宿 「首夏馬市」  毎年四月末頃開かれた馬市の光景だ。数ある馬    市の中でも、ここは街道沿いとあって規模も大きく、遠くは甲斐・信濃から、多い時には500頭もの馬が集まってきた。


  歌川広重の続き
 
 
この「東海道五十三次」の出版元は二社が争ったが「保永堂」が権利を得た。
         
 この「保永堂版東海道五十三次」の大ヒットによって、広重は一躍売れっ子浮世絵師となり、また、風景画が浮世絵の一ジャンルとしての地位を得た。

 葛飾北斎や歌川豊国らも五十三次を手掛けるようになった。広重自身も違う版元から30種に上がる東海道物を刊行したといわれている。

 最初の五十三次は広重37歳の作になる。その前年頃丹、幕府が宮中に馬を献上する一行に加わり、京都に上がった時途中でスケッチをしたのが元になっているともいう。


 歌川広重の続きは次回に
              
  
     桑名宿から宮宿の七里の渡し間には、現在渡し船がないのでそこを省略。

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 宮の渡し場の船着き場跡。桑名の船着き場より面影を多く残していた


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 250軒近くの旅籠を抱え、人口は1万人以上。東海道五十三次の中でも最大級の賑わいを誇った宮宿は、佐屋街道や美濃街道への分岐点であるとともに、古くから栄えた熱田神宮の門前町でもあった。

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   宮宿の渡し場の常夜燈。

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 近くに熱田神宮があったので、「宮宿」の呼称が一部では「熱田宿」の表記もある。

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 早速、熱田神宮へお参りする。デッカイ敷地(約六万坪・約十九万平方メートル)の神域を有し、入り口を探すのに時間がかかった。

 源頼朝の母は、この宮の大宮司の娘で、頼朝は大宮司館で生まれたともいわれており、室町幕府・江戸幕府の将軍など、時代が変わっても武家の手厚い保護を受ける事が多かったらしい。

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 さて、境内に入ったが、朝早かったので参拝客も少なかった。荘厳な佇まいをみせている。
 
 熱田神宮は、三種の神器の一つ・草薙の剣を祀ると伝えられ、伊勢神宮に継ぐ権威を持つとされる神社である。

 かつてヤマトタケルが、東国平定の帰路に尾張国に滞在し、地元の豪族の娘であったミヤスヒメと結婚した後、草薙の剣を妻のもとにおいたまま、伊吹山へと出立した。しかし、そこでの戦いで傷ついたヤマトタケルは尾張へ戻ることなく命を落としたため、ミヤスヒメが社を建て
剣を祀ったのがはじまりらしい


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  しばらく、東進して、間もなく尾張四観音の一つ「笠覆寺」に到着。

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 山門を通り、大勢の人が入っていくので私達も入ると、縁日らしく出店がたくさん出ていた。
 私達も出店を覗きながら、本堂へ。

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 桜の花に囲まれた本堂に、今後の旅の安全を祈願する。

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  鳴海の宿に入るが、宿関係の遺構は殆ど残されていない。県の有形文化財に指定されている曹洞宗の瑞泉寺の山門は、宇治の黄檗宗万福寺の総門を模した中国風の形式だった。

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 そこから、間もなくで往時の宿場の雰囲気をよく残している街並みに入る。
 
 鳴海宿と池鯉鮒宿の間が長く、淋しい所だったので「間の宿」としたのが「有松宿」である。

 その時、南の知多半島からやってきた移住者たちが、収入を得るため生み出した産業が「有松絞り」であった。

 また、名古屋城築城のためにやってきていた九州出身の職人が、持っていた絞り染めの手ぬぐいをヒントにして生み出したともされる。

 この絞り染めは、浴衣用などとして全国的に人気を得て、現在ではその生産量は、日本で生産される「絞りの」布の9割以上である。


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 ここは、有松絞りで有名な有松町で、絞り問屋の井桁屋をはじめ、武田・岡・小塚などの風格のある家並みが続いている。

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 近くの絞りの資料館では、展示や製品の販売 それに実演も見れる。

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   多種多様な技法と模様が魅力的。

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 よくある「一里塚」だが、今は殆ど残ってなく、有っても石柱の「一里塚跡」となったり、また、片方だけ残ったりだが、ここの「一里塚」は、道の両側に残っていた。

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 東進していると、高徳院の名と桶狭間の古戦場跡の印があり、見学する。

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 今川義元は 1560年5月に織田信長の襲撃を受け、討死した所である。

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 高徳院にも義元本陣跡などの石碑があった。

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 。
  今川義元の墓がある


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 知立古城跡とあるが、今は何も残っていない。現在は平地の公園になっている。

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やっと「知鯉鮒宿」に到着。知立の名の方が先にあったが、知立神社に「殺生禁断の池」とされる池があり、ここに鯉や鮒が多く住んでいたことから「知鯉鮒」の表記が定着した。

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 家康の側室で、結城秀康の生母であるお万の方ゆかりの総持寺である。

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 さらに東進すると、並木八丁と呼ばれる松並木に入る。旅人の風除け・日よけのため幕府の命により植えられた。


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 知立の松並木として、約500mにわたり凡そ170本の松の木が残っている貴重な物です。特に松の木を枯らさず残してくれているのは長年の地道な努力があったと思う。

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 松並木とともに、旅人に有りがたかったものは一里塚です。

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 この来迎寺一里塚も道の両側にそろって残っているのが貴重だということで県指定の史跡になっている。

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 岡崎宿の手前に、矢作川があり当時も橋があった。近世初めは土橋であったが、1634年将軍家光の上洛時に本格的な板橋になったと言われている。長さは374mで、東海道随一の橋と言われた。

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  現在の矢作橋


  そして、八丁味噌で有名な岡崎宿に入る。





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2010年11月01日

私の足跡 69 東海道の完歩 4 庄野宿~桑名宿


東海道を歩く 4

 4 45庄野→44石薬師→43四日市→42桑名宿

     htm36[1]
     
   「44」 石薬師宿 「石薬師寺」  宿場町の裏に広がる田んぼでは、収穫を終えた農民が田の整備をしている。

      htm40[1]
     
   「43」 四日市宿 「三重川」  現在「笹井屋」がある場所の近くにあった三重川(三滝川)にかかる三重橋とされる。
     
    htm44[1]
 
    42」 桑名 「七里渡口」   二隻の船が丁度渡し口に到着したところ。
 各回の初めに「東海道中五十三次」の浮世絵をいれてきていますが「東海道中五十三次」について触れておきます。

 「東海道中五十三次」と聞くと、現在の風景より先に、歌川広重による浮世絵を思い浮かべる人も多いだろう。この作品が出版されたのは、1833年(天保4)。その約30年前に十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が刊行されており、全国的の旅ブームの中で大ヒットしたらしい。

 広重は江戸の火消の同心・安藤源右衛門の子として生まれる。そのため、「安藤広重」とも言われた。15歳にして浮世絵師・歌川豊広に入門、20代後半にして家業の火消同心を譲り、画業に専念した。


  この続きは、次回に


 ここ石薬師寺は、庄野宿とともに遅くに宿場町に指定された。(亀山宿と四日市宿の間が長すぎたから)

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 この石薬師寺は真言宗の古刹である。(726年)。嵯峨天皇の勅願所で、元は大伽藍であったというが戦国期に兵火に罹り、現在の堂宇は近世のはじめに再建されたものである。
 
  本尊の石造薬師如来は有名で、弘法大師が巨石に爪で薬師如来の姿を彫りこみ、それが今に伝わる秘仏の本尊だと伝わる。厄除けの神として信仰を集め、有名な寺なので地名の由来ともなっている。

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 宿内には、歌人で国文学者の佐々木信綱の生家があり、その隣には資料館が建てられている。

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 信綱は短歌雑誌「心の花」を主宰し、和歌革新運動の中心となり、昭和12年に第一回文化勲章を受章した。

IMG_4444 小澤本陣跡(石薬師宿)
 宿内の町並みは比較的風情をとどめ、小澤本陣跡などが残されている。

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 この坂道は、「杖衝坂」と呼ばれる急こう配の坂がある。これは、かつて東国平定ののちに伊吹山に向かったヤマトタケルが、山の神との戦いに敗れて傷つき、大和への帰還を目指してここまでたどり着いたものの、弱り切った身体では剣を杖代わりに衝いて上がるのがやっとだった・・・・・・という故事にちなんだ名称だという。
 坂を上り切ったところには、その時ヤマトタケルが流れ出た血を洗い流したと伝わる「血塚社」も。
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IMG_4513 東海道名残の一本松
 往時の東海道を偲ぶことのできる松並木の名残りの一本松
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 ここは東海道と伊勢街道の分岐点で有名な「日永の追分」である。石製の常夜灯、標柱や鳥居が見える。
   
  詳細は下記の「立て札」を見てください。
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 私の好きな作家の一人 「丹羽文雄」 生誕の地とある。
IMG_5659 三ツ谷一里塚跡
 日本各地の街道には、江戸時代は一里塚が完備されていたが今やほんの一部しか残ってなくて、このように一里塚跡とあるのみだ。
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 約1300年前、当地に疫病が流行し、人々が苦しんでいた。弘法大師は、東国からの帰りに此の事を知り、薬師如来を彫り、開眼し祈願した。すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。
 諸人は弘法大師に感謝をするとともに、お堂を建てて、薬師如来を祀ったのが始まりとある。
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 壬申の乱のおり、後の天武天皇がここに滞在したことから天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。

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 桑名はまた、城下町でもあった。本格的な城下町の町割は、1601年に桑名藩主となつた本多忠勝のもとで始まった。本格的な城郭だったが、二度の戦災、伊勢湾台風の被害などにより、今ではおうじの面影は残されていません。
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 渡し場近くには常夜灯や鳥居がたっている。常夜灯の役目はわかるが、鳥居がたっているのは、まさに「伊勢参り」の出発点ということで、伊勢国に入ったという実感させる。
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 七里の渡しの跡の説明を読むと良く分かった。本陣2 脇本陣1 旅籠248もあり、当時の人口は1万人越の人が住み、賑わっていたと想像できる。

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 この桑名宿より、宮宿まで海上渡しで東海道上で唯一の海上路。所要時間は約4時間ほど。
 海難事故も多かったので渡しを回避して脇街道を徒歩で往来する人もいたらしい。
 
それに、「七里の渡し」とは言いながら干潮時には沖合を通らねばならず、航海が10里近くになることもあったという。
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 賑わった桑名宿だが、悲しい話もある。それは、18世紀半ばの「宝暦治水」に殉じた薩摩藩士たちである。木曽・長良・揖斐の大河の下流に位置するこの地域は、古くから洪水に苦しめられていた。そして、1753年の大洪水後、幕府は薩摩藩に河川改修工事を命ずる。
 工事は一年あまりで完了したが、そのあまりに過酷な状況に、病死者や切腹自害者
が相次いだ。総奉行・平田ゆきえも、その責任を取って工事終了後に自害している。

 平田はじめ薩摩藩士24名の墓は、近くの海蔵寺につくられている。





  桑名といえば蛤の焼いた「焼き蛤」が有名で、現在も看板を掲げている店が多い。
 それと変わらぬぐらい多いのは佃煮の「時雨蛤」の看板。当時の資料によると「焼き蛤」は その場で楽しんだメニュー。「時雨蛤」のほうは土産物として売られたらしい。



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2010年10月21日

私の足跡 68 東海道の完歩 3 関宿~庄野宿


 東海道を歩く 3

 
 往来する人々
   江戸時代の
東海道は、さまざまな職業・身分の人が行き交っていた。
    たとえば、東海道は信仰の道であると言われるほど巡礼者が多くいた。
    東国の人々にとって、東海道は伊勢神宮や四国札所、西国霊場へのいわば参  
   道だったのだ。特に強烈だったのが、伊勢神宮に集団で参拝する「お蔭参り」と 
   いう一年間に数百万人の人々が参拝した現象が60年周期で4度あったので参拝        
   者の数はすこ゛かったらしい。
    
全国行脚する虚無僧の尺八と深網笠はおなじみだが、健常者ばかりでなく、目
   の不自由な按摩や女旅芸人なども多かった。
    
所要日数は普通14~5日だが、早駕籠では5日 大名行列では24~5日かか  
   ったと言われる。
    
   3     47 関宿→ 46 亀山宿→ 45 庄野宿           
        
         htm28[1]
       「47」関宿 「本陣早立」  本陣に宿泊した大名行列が、早朝出立する様子が描かれている。手前には 出立する大名の名を描いて青竹に掲げた「関札」、門や玄関には家紋入のまん幕提灯が見える。


    250px-Hiroshige_matin_clair_d'hiver_à_Kameyama[1]
  46」 亀山宿 「雪晴」 一面の雪景色のなかを進む大名行列の行く手に見えるのは、新しい亀山城。丘陵に建つ城を、京口門の側から見上げる構図である。石垣や櫓、番所を備えたこの門は、その豪華で壮麗の姿から「亀山に過ぎたるものなし」と謳われた。現在は その全てが失われ(白壁や櫓や土塀が連なる姿が白い蝶の乱れ飛ぶ姿のようだとして、「粉蝶城」の別名で呼ばれた亀山城。残念ながら、明治の廃城令により、殆どが取り壊された。)、当時の面影を偲ばせてくれるものは何もない。
htm28[1]
      
     45」 庄野 「白雨」  町外れの街道でしょう。激しく打ちつける雨と風の中、慌てて先を急ぐ人々の光景が描かれています。副題の「白雨」は夕立のこと。風雨に揺れる林の濃淡で表現されたシルエットが印象的で広重の絵の中でも、「名作」の一つらしい。 
         
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 関宿の素晴らしい町並みに別れる。
 
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 亀山への途中、広重の東海道五十三次の絵の一部が描かれていた。 

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 片側しか残っていないが樹齢は300年と言われ、木は幹回り5m、高さ20mの椋の木です。現存する東海道の一里塚の中では、最も見事なものの一つで、国の史跡に指定されている。

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 昔の建物はないが町の努力で屋号をかけて、趣を出している。

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 布気皇館大神社にお参りする。

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 亀山城が見える。黒板張りの多聞櫓と石垣が残っているにすぎない。
 亀山と言えば、ローソクで広告もあちこちに見えた。それに、ビッグなシャープの亀山工場も見えた。 
 

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 境内に見事な木があったので早速撮影した。詳しくは下記を。

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 庄野の町並みはある程度往時の面影を残しており、中ほどに、問屋であった旧小林家の住宅があり、現在は庄野宿資料館となっている。

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庄野宿本陣跡

IMG_4420 庄野宿の街並み

 見事な古い町並みの残る庄野宿。

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 東海道五十三次の中で最も遅く、1624年に宿場町に指定された庄野。それ以前は静かな農村で人口も少なく、周辺の集落を集めて70戸でスタートしたらしい。
 ここはヤマトタケルの伝説が残る。伊吹山で傷つきなんとかここまで来たが、力尽き故郷の大和を見ぬままに息絶えた.近在の人々は墓をつくり悲しんでいたところ、その墓から一羽の白鳥が舞い上がり、大和の方へ飛び去って行ったというのが「古事記」にある。




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2010年10月11日

私の足跡 67 東海道の完歩 2 水口宿~関宿


東海道を歩く 2
 
  第2回 50水口宿~49土山~48坂下~47関宿
 
       htm20[1]
        
      「49」 土山宿  「春の雨」  土山宿は 地元に伝わる労働歌の「鈴鹿馬子唄」に「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌われている土地である。「あいの」は「まもなく」という意味(地元の人の話ではいろんな意味があると云う)の方言との説あり、「雨の多い場所」とのイメージが強い。


       htm24[1]
        「48」 坂(乃)下  「筆捨山」  ごつごつした奇岩の山は、筆捨山だ。川の対     岸の筆捨茶屋から休憩がてらに眺めている旅人達を描いている。
  筆捨山の名の由来は室町時代の絵師・狩野元信が此の山を描こうとしたが、変化に富んだ景観を描写しきれずに筆を捨てたというエピソードかららしい。
   

 
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 水口宿を出発する前に、今回の街道歩きの安全を祈るため、大きな藤榮神社に寄りお願いする。

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 ここ水口宿には「曳山まつり」というこの地方では有名な祭が保存されている

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 最盛期は三十基あまりの曳山できっと豪華だったでしょう。今でも十六基の曳山が出ているので是非一度は見たいものだ

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 見事なのは曳山ばかりでなく、街道に「からくり時計」もあった。

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 日本各地の町の商店街も同じだが、ここの商店街もひっそりとしていた。

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 道端に司馬遼太郎の「街道をゆく」の一文が石に刻まれていた。

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 町の遺跡は、少なくなっていたが町の人々の努力で昔の屋号(油屋のほかに、加佐屋、ぬし屋、ひょうたん屋等)を入り口にかけてくれていて、旅人を楽しませてくれている。


 土山宿には、土山本陣・大黒屋本陣・土山宿本陣等があったが、今は○○跡の標柱のみが残るのみである。
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  坂上田村麻呂を祀る「田村神社」にも寄り、お祈りする。

東海道  049

  地元に伝わる労働歌の「鈴鹿馬子唄」に坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌われている場所である。「あいの」は「まもなく」という意味の方言との説もあり、「雨の多い場所」とのイメージが強い。「あいの」の意味には幾通りの説あり。

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 ここは昔の宿場町であったということを知ってもらうために何かをと考えて日本一のモニュメントを造った

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 この万人灯は平成3年に造ったので、「平成万人灯」と言い,高さ9.33m 重さ156.8tです。
 夜になると火袋に火が入り、ライトアップされるという。一度見たいものです。
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 これが、「平成万人灯」のモデルになった万人講です。江戸時代中期に旅の往来の安全を祈願し、国道から離れ鈴鹿峠に向かう所にある「万人講常夜灯」です。高さ5m、重さ38tです。



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 鈴鹿峠に向かう途中にはお茶畑が続いていたが、国境の標識がある。ここからは、伊勢の国に入る。

 IMG_4979 鈴鹿峠の説明板

 江戸時代の街道を一部石畳もあり、楽しく峠に向かうと、鈴鹿峠に到着。それほど、厳しい峠(標高289m)とは思わなかったが、当時は盗賊等が出て、旅人にとっては大変だったという。

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 峠から見下ろすと、土山に向かうくねくねと曲がった国道が見える。

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 峠から坂下宿へはアップダウンの激しい道で私達を悩ました

IMG_4943 坂下宿大竹屋本陣跡

 坂下宿は 江戸からの人はこれから厳しい峠を越える宿場なので、本陣3 脇本陣1 旅籠が48軒あったとある。残念だが、今は殆ど現存していない。

 さらに東進すると、関宿に近づく。
 中山道の不破関、北陸道の愛発関と並ぶ「古代三関」の一つ。鈴鹿関に置かれていた関宿。
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 江戸時代に宿場町となってからも、大和街道や伊勢別街道への分岐点となる交通の要所として、多くの人で賑わった。

IMG_4895 関の地蔵院と鈴鹿の山々

IMG_4890 関宿中町あたり

IMG_4896 関宿伊藤本陣跡

 現在の関宿は、東海道で唯一、国が定める「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。町の中心部では、電柱や電線が地中下され、近代的な造りの建物もほとんど見当たらないなど、まさに町全体が博物館。

 格子窓や虫籠窓を備えた軒の低い民家が連なる通りを歩いているとタイムスプリットした気分になる素晴らしい町である。
 
IMG_4899 玉屋内部 店の間

 代表的な旅籠の一つ「玉屋」も往時の姿に復元されている。  

 関宿には 本陣2 脇本陣2 旅籠42軒あり、賑わったとある。


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2010年10月01日

私の足跡 66 東海道の完歩 1 草津宿~水口宿

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  東海道を歩く 1

 2007年は皇女「和宮」が降嫁した中山道の69宿に足跡を残してきた。
 2008年は「篤姫」が将軍家に嫁ぐ道の東海道53次宿場を完歩することにした。
 今回も中山道と同様 京都から順に歩いたのでなく、季節に応じて(雪を被った富士と桜の花を見た) 又各地の祭(豊橋での手筒花火大会)や行事に合わせて歩いた。


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 京  三条大橋   500kmの東海道のゴールでもあり、出発点でもある三条大橋。

 橋の上には、 実にさまざまな人達が描かれている。それぞれの理由で都に到着した人と出て行く人。都の出入り口となる大橋は、今も昔も多くの人の出会いと別れを見つめてきたことでしょう。

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 「53」 大津宿  「走井茶屋」


 
第 Ⅰ 回   52草津宿 → 51石部宿 →  50水口宿 

                         
         
「52」 草津宿 「名物立場」 次の大津宿に向かう途中の「矢倉の立場」にある名物「姥が餅」を売る茶屋である。大きな荷物を担いだ人足と早駕籠がすれ違う。
 由来は 佐々木義賢が織田信長に滅ぼされた際、義賢の血を引く子を託された乳母が、郷里の草津に戻り、養育費のために餅をつくって街道筋で売ったのが始まりとされる。
 一説には徳川家康や松尾芭蕉も食したとされ、与謝野蕪村は俳句に詠んで褒め称えたという。
   
                                       
      htm12[1]
            
                       「 51」 石部宿  「目川の里」  この目川の名物は、地元の食材を使った菜飯。そして、豆腐に味噌を塗って焼いた「田楽」。此の絵は 元伊勢屋だといわれる。 
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                 「50」 水口宿  「名物干瓢」   1682年の加藤秋友より特産品として、干瓢を進めた。夕顔を栽培し、それを薄い干瓢にすることに成功し、今も水口の有力な特産物の一つである。
                            
                                                   

 本来なら京都の三条から記すのが当然だが、前回の中山道とは草津宿まで同じ道なので割愛します
。(詳細は 私の足跡 54  中山道をゆく 1) 



 草津宿と言えば、当時の京・大坂と江戸を結ぶ二つの(東海道・中山道)大動脈の追分(草津追分)なので人通りも多く、大変賑わったと記されている。

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京・大坂と江戸を結ぶ二つの(東海道・中山道)大動脈の追分道しるべ等も見事な物が残っている。

 宿場町としての最大のシンボルともいえる本陣が2軒あったが、現存するその一つ1200坪の広大な敷地を誇る田中七左衛門本陣に寄る。 

 宿泊者名簿には、吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮,シーボルト、土方歳三などそうそうたる名前がある。勿論、参勤交代時に各国の大名行列で賑わったとある。

IMG_5909 草津本陣跡
現存している本陣では最大級の建物だそうです1998年より一般公開している。

IMG_5913 表玄関から上段の間まで続く畳廊下
 長い畳み廊下が幾つもの部屋を通り越し、上段の間まで続いている。
IMG_5927 天井川トンネル
 草津宿に別れを告げ、東進すると草津川が天井川となり、道路の上を流れている。

 
街道筋は、所々に当時の面影を残すものがある。

IMG_5946 菜飯と田楽は東海道中の名物
 田楽の発祥の地は ここ栗東市ですとある。

IMG_5943 古じま屋(寺田家)
 当時旅人は 名物の田楽と菜飯を食べるのを楽しみに旅をしたのでしょう。
 上の写真のような名物食堂が3軒あったというが今は碑があるのみである。

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 今は当時の面影はないが、広重の絵の舞台である。

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 善性寺の門前に こんな説明板もあった

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 応仁の乱後、衰えた幕府の力を強めるため、当時の将軍・足利義尚は2年間当地で頑張るも、病のため当地で無念の死を遂げたとある。後に、この地にたくさんの句碑が建てられている。

  更に進むと、徳川家康が名付け親となったと伝わる道中薬・「和中散」を製造・販売していた「和中散本舗」ある。

IMG_6031 旧和中散本舗
 現在の建物は1624~43年に建てられたものである。 

IMG_6037 旧和中散本舗
 重厚な建物であることが良く分かる。お陰で筑後400年近く経過してもびくともしていない。
 店舗の他、大名や公家の休憩用本陣として使われた座敷などがそのまま残されている。 

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 「京立ち石部泊り」の言葉があるように、京から東海道を下る旅人の多くが最初の宿をとった石部宿。
 ここも、伊勢神宮参詣の道への分岐点だったから尚一層賑わったところだが、現在はその面影が殆どない。


IMG_6106 水口宿三里半 草津宿三里
 でも、町の人々が創意工夫をしてくれて私達を楽しませてくれているのがうれしい。




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  通りには 昔からの造り酒屋「御代榮」が営業していた。

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 小さな公園の中に碑があるので近づき下の写真の記事を見てみると百姓一揆があり、沢山の犠牲者が出たと書いてある。
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  日本各地に弘法大師にまつわる話が何百とあるが、ここにも大師が地元の人にもらった箸を土にさしておいたのが、杉の大木になった・・・・・・・・と書いてある。

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  現在は大きな川には今ではりっぱな橋が架っているが、江戸時代には幕府の都合で渡し船が長い間活躍していた。その時の旅人の便利を考え大きな常夜灯を造った。それが今も残っている。私も川の常夜灯がこんなに大きく立派なのでビックリした。 

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 水口には、小さいが城郭がある。これは徳川家光が京都に用がある時に宿泊するために造ったが一度も使用しなかったらしい。



 


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