竹の内街道を歩く
2012年02月15日
私の足跡 104 竹内街道を歩く 2
私の足跡 104
竹内街道を歩く 2
2012.2.4
T氏と「竹内街道を歩く」の2回目を歩くことにする。前回の最終駅の駒ヶ谷駅を9:50に出発。 今回の方が 古い家並みの多く残る太子町・竹の内町を通るので楽しみだ。
杜本神社に寄り 参拝する。 説明板には約1100年前の「延喜式神名帳」に大社に列せられる。後 朝廷より正四位下を授かり高貴な神社とされてきたとある。
河内ワイン工場に寄るが他に客がなく我々二人だった。T氏の購入したワインを昼食時に頂くと味も口ざわりもよくとてもおいしかった。
こじんまりとした駒ヶ谷小学校を過ぎてしばらくすると前方のブドウ畑の向こうに二上山が見えて来た。
そして、上の太子駅の前を通過する。
叡福寺へ参拝する。寺の庭木の仕事をしている人と出会い 「普通では見られない源頼朝の供養塔を見たいかね」と言われて裏庭に案内してもらった五輪の塔です。大阪府指定の文化財らしい。
叡福寺は 推古天皇が聖徳太子の墓を守護する香華所として建立され、後聖武天皇の勅願で七堂伽藍が整いおおいに栄えました。しかし、織田信長の兵火で焼失しました。その後、豊臣秀頼により聖霊殿が再建され、次第に伽藍の整備が整いました。
上の聖霊殿は境内の中で最古の建物で重要文化財です。
これは 聖徳太子の御廟で、中には聖徳太子とその母 そして妃の3人が安置されていたところから 三骨一廟と呼ばれています。後に弘法大師をはじめ多くの高僧が廟内で修行したと伝えられています。
見事な多宝塔 重要文化財
叡福寺は「上の太子」 前回の野中寺は「中の太子」 今度は「下の太子」に行きたいねと話した。
元の竹内街道に戻り、歩いていると手入れのよく行きとどいた地蔵堂があった。
旧山本家住宅 中の見学は出来なかった。
この小さな太子町に多くの天皇陵があり、上はそのうちの一つ 敏達天皇陵で全長113mの前方後円墓です。太子町に最初につくられて天皇陵で 第30代敏達天皇とその母の合葬陵と伝えられています。
そして、竹の内街道歴史資料館に寄る。竹内街道と太子町の歴史について 展示やパネル・ビジョンがあり、詳しく解説している。予定の時間を越えて見学。一人200円
途中、道の駅で遅い昼食をとる。13:50発。
ここを過ぎると、国道166号を通って 奈良県へ。初めは歩道があったが途中より歩道がなく、大きなトラックが我々の傍を通過し、危険そのものだった。
途中 ダイヤモンドトレイルと交差している所に葛城修験道の塚があった。
やっと、竹内峠に到着。
やっと、喧騒で危険な国道とも別れると風情のある家並みが続く竹内集落にいたる。司馬遼太郎氏は、幼いころ、母の実家のあるこの地をよく訪れていた。有名な「街道をゆく」の竹内街道の項には「竹内峠の山麓は故郷のようなもの」との記述があり、この集落に対する氏の思いの深さが伝わってくる。
そして、氏が『長尾~竹内間のほんの数丁の間は、日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう」と愛でた道を楽しく歩いた。
長尾神社に到着.創祀は定かではないが895年にはこの地に鎮座していたと記されている由緒ある神社に参拝。
そして、最寄りの磐城駅より16時の電車で帰宅。
19時からの写真教室に出席する。
竹内街道を歩く 2
2012.2.4
T氏と「竹内街道を歩く」の2回目を歩くことにする。前回の最終駅の駒ヶ谷駅を9:50に出発。 今回の方が 古い家並みの多く残る太子町・竹の内町を通るので楽しみだ。
杜本神社に寄り 参拝する。 説明板には約1100年前の「延喜式神名帳」に大社に列せられる。後 朝廷より正四位下を授かり高貴な神社とされてきたとある。
河内ワイン工場に寄るが他に客がなく我々二人だった。T氏の購入したワインを昼食時に頂くと味も口ざわりもよくとてもおいしかった。
こじんまりとした駒ヶ谷小学校を過ぎてしばらくすると前方のブドウ畑の向こうに二上山が見えて来た。
そして、上の太子駅の前を通過する。
叡福寺へ参拝する。寺の庭木の仕事をしている人と出会い 「普通では見られない源頼朝の供養塔を見たいかね」と言われて裏庭に案内してもらった五輪の塔です。大阪府指定の文化財らしい。
叡福寺は 推古天皇が聖徳太子の墓を守護する香華所として建立され、後聖武天皇の勅願で七堂伽藍が整いおおいに栄えました。しかし、織田信長の兵火で焼失しました。その後、豊臣秀頼により聖霊殿が再建され、次第に伽藍の整備が整いました。
上の聖霊殿は境内の中で最古の建物で重要文化財です。
これは 聖徳太子の御廟で、中には聖徳太子とその母 そして妃の3人が安置されていたところから 三骨一廟と呼ばれています。後に弘法大師をはじめ多くの高僧が廟内で修行したと伝えられています。
見事な多宝塔 重要文化財
叡福寺は「上の太子」 前回の野中寺は「中の太子」 今度は「下の太子」に行きたいねと話した。
元の竹内街道に戻り、歩いていると手入れのよく行きとどいた地蔵堂があった。
旧山本家住宅 中の見学は出来なかった。
この小さな太子町に多くの天皇陵があり、上はそのうちの一つ 敏達天皇陵で全長113mの前方後円墓です。太子町に最初につくられて天皇陵で 第30代敏達天皇とその母の合葬陵と伝えられています。
そして、竹の内街道歴史資料館に寄る。竹内街道と太子町の歴史について 展示やパネル・ビジョンがあり、詳しく解説している。予定の時間を越えて見学。一人200円
途中、道の駅で遅い昼食をとる。13:50発。
ここを過ぎると、国道166号を通って 奈良県へ。初めは歩道があったが途中より歩道がなく、大きなトラックが我々の傍を通過し、危険そのものだった。
途中 ダイヤモンドトレイルと交差している所に葛城修験道の塚があった。
やっと、竹内峠に到着。
やっと、喧騒で危険な国道とも別れると風情のある家並みが続く竹内集落にいたる。司馬遼太郎氏は、幼いころ、母の実家のあるこの地をよく訪れていた。有名な「街道をゆく」の竹内街道の項には「竹内峠の山麓は故郷のようなもの」との記述があり、この集落に対する氏の思いの深さが伝わってくる。
そして、氏が『長尾~竹内間のほんの数丁の間は、日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう」と愛でた道を楽しく歩いた。
長尾神社に到着.創祀は定かではないが895年にはこの地に鎮座していたと記されている由緒ある神社に参拝。
そして、最寄りの磐城駅より16時の電車で帰宅。
19時からの写真教室に出席する。
2012年02月01日
私の足跡 103 竹の内街道を歩く 1
私の足跡 103
竹の内街道を歩く 1
2011.12.
お待たせしました。街道ウォークに戻ります。
竹の内街道の起源は、推古天皇21年(613)に整備されたことにあります。難波と飛鳥を結び、わが国最古の官道となったこの道とほぼ重なる竹の内街道を歩くことにした。
この道は、時代に応じて役割を変えて来た。飛鳥と大陸との行き来を担う「外交の道」 聖徳太子信仰を支える「信仰の道」 物資を運ぶ「経済の道」・・・今も大阪と奈良を結ぶ大事な道を歩くことにする。
街道は 堺の大小路(おおしょうじ)から始まる。上の写真は、今は川は無くなり、道路になっているが、昔の「おほせうぢばし」の標識が残っている所を通る。
堺市役所の前を通り、仁徳天皇陵を右手に眺めながら進むと西高野街道との分岐にかかる。
平安時代初期に、庶民の安全と五穀豊穣を祈願して創建されたといわれる金岡神社に参拝。
所々に標識があったが、少なくて道に迷うことがあった。
野中寺に到着。聖徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられ、「中の太子」と呼ばれており、竹の内街道に南大門を置く大寺院でした。
境内に残っている塔跡や金堂跡飛鳥時代の伽藍の一部は、国指定の史跡。
上記の古墳出土の石棺も国指定の重要文化財
浄瑠璃でおなじみのお染・久松の墓もあった。
上の写真は、正面からのお墓。下は碑の裏側。
野中寺を出て、道を間違え、北寄りの道を通り、応神天皇陵を左手に見ながら進む。今日の予定は、古市駅迄だったがピッチが速く、時間があったので駒ヶ谷駅まで進むことにする。
神社・仏閣の多く残る古市の街道を通り抜け石川を越えれば、ブドウで有名な駒ヶ谷駅に到着。
帰路、途中二人で忘年会を。