大辺路・伊勢路を歩く
2011年12月01日
私の足跡 98 熊野古道の伊勢路を歩く 11 栃原・女鬼峠・田丸
大辺路・伊勢路を歩く
伊勢路 11 栃原から女鬼峠を越え田丸まで 2011.10.27
今日は18kmの道のりを出来るだけ早く歩き終えたいから、朝5時に起き、三瀬谷駅を5時57分の始発列車で栃原駅へ。
5時40分の三瀬谷駅
6時15分の栃原駅
駅から伊勢路への道がわからなくて人に尋ねようにも早朝だったので人に会えずに約20分ほど時間を浪費した。
中国から伝わり、日本各地にひろがっている信仰の庚申さん等がある。
柳原観音千福寺。本尊は聖徳太子の作といわれる観世音菩薩。手引観音ともよばれる今も人気があり、参詣者の多い古刹です。大祭日には、臨時バスが伊勢・松阪等から往復するという。
まんじゅうや跡・寺小屋跡等とある。
ここは、寺小屋跡で建物が残っている。
左手の上に小堂がある。浄保法師は この地の伝染病の広がりを防ぐため127cmの像をつくったとある。1684年の銘がある。
やっと、女鬼峠の標識が見え始めた。
よく手入れされた銘産の茶畑を見ながら、しばらく歩くと、女鬼峠まであと1.5kmの標識になってきた。
神宮寺相鹿瀬寺跡 奈良時代に仏教が広まり、各地に大寺院が建てられた。その一つに称徳天皇が766年に建立されたとある。七堂伽藍の華麗な寺院であったと伝えられるが、775年に廃止された。 奈良時代の軒丸瓦などが出土している。
女鬼峠まで400m標識が見えた。ほっとする。
右側の石は 高さ145cmの「南無阿弥陀仏」の名号碑である。
中央の赤い前掛けの53cmの如意輪観音はかなり古い。
小祠の中には 140cmの如意輪観音は1738年と刻まれている。
急坂を登り切ると やっと女鬼峠(120m)に到着。伊勢路には16個の峠があったが、最後は一番低くて良かった。 千枚岩の岩盤を切りとおした昼でもほの暗い道です。
昔 荷車の通ったと思われる轍(わだち)跡。くつきりと二本の轍の跡が残っている。
坂道を下りきった所から振り返ると女鬼峠が見える。
背の高い道標(天保4年)がある。ここが和歌山別街道と熊野街道との分岐点である。
3年前 和歌山市から奈良・高見山を通って伊勢までの街道を歩いた時 この道を通って田丸から伊勢まで歩いている。ここからは2度目の道である。
永昌寺に立ち寄る。曹洞宗の寺院で 千手観音菩薩(室町時代作)が祀られている。隣には大日堂がある。
旧道では 軒を連ねた街並みに、築百年を越えた蔵持ちの家もあって、往時が偲ばれる。
巡礼道引観世音を祀る石仏庵の向かいには 観音堂かあり、西国三十三カ所霊場の観音石像が三十三体並ぶ。台座の施主名には周辺の国だけでなく、江戸・知多等広範にわたっている。
前方に見える小高い山は 田丸城址である。江戸時代はこの付近は紀州藩の領地であった。
田丸駅は 小山から右へ行ったところにある。
田丸駅前の広場には、昔の旅人の像があった。
田丸駅構内の写真。11時50分に着き、12時12分の列車に乗ることができた。今日は、18kmの道を約5時間少しで歩けた。これは、女鬼峠は 高い峠ではなかったからです。これで 19時頃には家に着けて、明日の語り部の仕事の準備も余裕ができた。予定では、14時頃に到着すると思ったが1時間早く出発したのと急いだので計約2時間早く到着することが出来た。
ここは伊勢路ですから 本来は伊勢まで行くべきと思うが、和歌山から奈良の高見山を越えての伊勢街道を通った時 今回の永昌寺の所から伊勢までは同じ道になる。それと伊勢参りの人は ここで西国巡礼の服装で熊野詣でをして、熊野詣の伊勢路は熊野から田丸までとなっているらしい。
これで、大辺路 4回と伊勢路11回 通算計15回の大辺路・伊勢路を終え 次回からは東北地方の旅を書きます。
2011年11月20日
私の足跡 97 熊野古道の伊勢路を歩く 10 三瀬坂峠と滝原宮
大辺路・伊勢路を歩く
伊勢路 10 三瀬坂峠と滝原宮 2011.10.26
N氏との旅行も今回で一応終了することになる。伊勢路歩きの最後だったので、ジパングクラブを使っての最安値(自宅から松阪経由で三瀬谷までの往復 約5000円弱)の切符を使った旅行をと企画した。そして、有終の美を飾る所だったが、日程に狂いが生じたのに続き、また、途中の列車の乗り継ぎにミスが出てどうなるか不安になったが、一応最小限の被害ですませることが出来た。
失った2時間をカバーするため、当初予定した阿曾駅からのスタートを滝原駅にした。
14時に駅から東に進み、川を渡ると役場があり、ここから古道に入る。家並みは揃っていないが古道の雰囲気が漂う。林業を誇る町だけに、林業家の木造妻入りの重厚な構えの家もある。
前方に大樹が茂るうっそうととした森が近づく。伊勢神宮の別宮・滝原宮の森である。
滝原宮の由緒には、伊勢神宮に属する宮々の中で最も古いとある。
深い緑につつまれ長い参道を歩いているとやわり伊勢神宮の内宮を思わせる。
そして、内宮では五十川の水で身を清めてお参りするのと同じようになっている。
約400mの参道の奥には鳥居があり、4社が祀られていた。お参りする社の順番も書いていた。20年に一度の遷宮があるとも書いていた。
古道に戻り、やっと三瀬坂峠の標識が見えてきたが、まだ1.5kmとある。急坂が始まり苦しい登りを登っていると「マムシ」の死骸があった。N氏の話では間違いないと言っていた。
ジグざク道の急坂をもくもくと登りつめるとそんなに高くないが(265m)やっと三瀬坂峠に到着。
峠には、石室の中に地蔵(1756年)が祭られ、その前に行き倒れの供養碑も建っている。左手には茶屋が2軒あったとか。わずかにそれらしい形跡がしのばれる。
峠からのジグザグ道を下ると舗装した道になる。しばらく歩くと妙楽寺があり、すぐに上記の標識があった。
玉石を整然と石垣に囲まれたこんもりと繁る森。その中に小さな社殿が祭られている。その昔、倭姫命が渡られた時案内をした真奈胡神がこの多岐原宮の祭神だ。
そして、ここから川原へ下ったところが三瀬の渡し場で、川船が一隻、岸に上げられていて、渡し場の昔日をほうふつさせられるとガイドブックに書いていたので楽しみにしていたがとんでもなかった。
去る9月の紀伊半島の大洪水でその面影がなく、その時の水位は上の写真の川面から高く上がり,木の一部に青色のごみの所まで来ていたというのがよくわかる。近くの人に聞いてみるとすごく怖かったといっていた。上流のせき止め湖のため、川の水の色はまだ濁っていた。
左 くまのみち の標識が大事に残されていた。
洪水時の 川の水位がすごく上がっていたのがよくわかる。
せき止め湖から流れてきている川と普通の川が合流している所。川の水の色の違いがよくわかる。
ここから三瀬谷の町までが約3km少しだが、疲れていたのかすごく長く感じた道だった。上の写真は高速道路の橋です。
買い物をしていたので、宿舎に到着したのは、6時前で真っ暗になった。
2011年11月10日
私の足跡 96 熊野古道の伊勢路を歩く 9 荷坂峠越え
大辺路・伊勢路を歩く
伊勢路 9 紀伊長嶋駅から荷坂峠を越え梅谷駅へ
かつて 伊勢と紀伊の国境であった峠。二つの峠道があるが中世はツヅラト峠だったが、徳川氏が紀州の殿様になって新しい荷坂峠の道を開発し、以後荷坂峠が中心になり、現在の国道42号線に受け継がれている。
どちらの道を通るか迷ったが、我らの(和歌山出身)かつての藩主であり八代将軍の徳川吉宗はじめ歴代藩主の何人かも通ったと思われる荷坂峠を通ることにした。
前回到着した「紀伊長嶋駅」をスタートする。
しばらく歩くと 国道42号線に出る。片上池を見ながら進む。
大きな道の駅「紀伊長嶋マンボー」があり、立ち寄る。
道は 片上川にそって、進んで行くと、一里塚があった。
道は だんだん山の中に入っていく。
いよいよ世界遺産に認定されている荷坂峠への登り坂にかかる。
ここにも見事な「ししがき」が連なっていた。農民の工夫と努力が偲ばれる。
シダに覆われた道を気持ちよく歩けた。
足下遥か下、杉林をとおして谷を渡る鉄橋が見え隠れする。昭和5年に開通した旧国鉄の鉄橋だ。
また、伊勢から紀伊へのこの区間にはトンネルが13もあり、日本一多い。それだけ険しい地形の所を通っているということだ。
沖見平へは 50mの標識がある。
「憩いの石」の標識がある。旅人はここで腰をおろして休んでいったのでしょう。
峠には 茶屋跡の標識がある。江戸時代のいつの頃からかこの峠に旅宿を兼ねた茶屋が開かれ、西国巡礼や伊勢参拝をする人々の憩いの場となっていた。
明治末期から昭和初期の鉄道開通までは 峠は人力車の中継地として客待ちの車が数台とまっており、車夫の休憩所となっていた。
坂を登り切ると平坦な道が続いていた。
旅人の信仰を集めていた石仏三基は道路改修のため、二度移転され現在地に移って来た。
如意輪観音 宝暦3年(1753年)
足守り地蔵 文化7年(1810年)
地 蔵 尊
ここから、梅谷駅への約3km弱は国道42号に沿って舗装された道を約1時間弱かけて歩いた。
2011年11月01日
私の足跡 95 熊野古道の伊勢路を歩く 8 三浦峠・平方峠・一石峠越え
大辺路・伊勢路を歩く
伊勢路 8 三浦峠・平方峠・一石峠越え
前回の最終地点 人影がなく無人の三野瀬駅を出発
駅を出て 前方を見るとこれからの三浦峠が見える。
三浦峠への急な上り坂が始まる。
突然 見事な橋が現われた。標識によると 世界遺産に登録された翌年(2005年)に両岸に残されていた基礎台を生かし、日本古来の橋が造られた。総工費 約2000万円だそうだ。
ここより 今回の世界遺産の道約1kmが始まる。
三浦峠の頂上 この道を熊ヶ谷道とも言われている。
峠を下っていくと、これから通る道瀬海岸と古里の集落が見えてきた。
古里の町は民宿が立ち並ぶ。古里海岸が広がる。紀伊の松島とも呼ばれるいくつかの島が浮かぶ海だから楽しく歩くことができた。
若宮神社の前を通る。
鉄のゲートを通り抜けると山道に入る。平石峠への道は緩やかな登りのつづく林に囲まれた山道だ。峠の南に「平方」という地名があるから平方峠と名がついた。
いよいよ一石峠への登り坂が見えてきた。1783年の「巡礼指南車」によると「日和よきときは舟になど乗らず 一石古里へ」と書かれた由緒ある峠のひとつらしい。
山道を下り終えると踏切を越え国道42号に出て紀伊長島駅に向かう。
国道を歩いていると歩行者・自転車専用のトンネルがあったので通ることにした。長さが573mもあったので涼しい時間を過ごすことができた。
駅に近づくと港がありたくさんの船があった。そして 紀伊長島駅へ。
今回の旅は 峠は三ヵ所あったが全て標高の低い峠であったし、優美な海岸線も歩けて心を癒してくれる楽しい旅だった。
2011年10月15日
私の足跡 94 熊野古道の伊勢路を歩く 7 始神峠越え
大辺路・伊勢路を歩く
伊勢路 7 始神峠越え
「ふなつ駅」から約2km程の集落の中を通り抜けると「始神峠」への古道に入る。
江戸道を30分足らずでベンチや看板のある小さな広場の頂上・始神峠に着く。
標高147mの頂上からは眼下に紀伊長島の町とその前に広がる洋々たる海(紀伊の松島とも言われる)は素晴らしい。ここから遠く富士山が見えたこともあるという。
「大洋に潮の花や 朝日の出」と詠われている。いまでも地元の人は 元日の日の出をこの峠で拝むという。
標識の整った道で安心して通れる。
所々に苔むした石畳の道があった。
後半は淡々とした整備された道であった。この江戸時代の道もボランティアによって、整備されたとある。
すぐに宮川第2発電所の所の「始神さくら広場」に着く。
ここから、約2km弱で「みのせ駅」に到着。
「みのせ駅」の橋上から今越えて来た「始神峠」を望む。
今回の始神峠の歩行は 標高の低い山だったし、半分以上は平地の道だったので楽であった。
2011年10月01日
私の足跡 93 熊野古道の伊勢路を歩く 6 馬越峠越え
大辺路・伊勢路を歩く
伊勢路 6 馬越峠越え
伊勢路最大の難所・八鬼山越えを終え、次の難所 「馬越峠越え」が始まる。
今回は 尾鷲駅からではなく、少し遠いが八鬼山越えを終えた所からスタート。
町の路上には、いくつか上記の印があった。さすが世界遺産の古道を持っている街らしい。
昔の街道の面影の残っている矢浜(やのはま)の道を歩いていると上の建物があった。
この建物は、「在蔵」と言い1753年からの制度で紀州藩への納め米や囲米(かこい米・飢饉に備えた備蓄米)などを収納していた。
江戸時代約300年の歴史で 凶作は130回 飢饉は21回にのぼったとある。多くの飢饉を救ってきた建物です。
高い石垣のうえにあるのは 津波からの被害を守るためとある。
尾鷲神社大クス 樹齢 推定 約1000年
三重県指定 特別天然記念物
ひなまつりの時期だったので、豪華な雛が社殿に並べられていた。
いよいよ 山道に入って来た。
しばらく山道を登ると役の行者堂があり、左の脇道を約100m入ると不動滝があり、「不動明王石像」が祀られていた。
視界が開け、振り返ると尾鷲の町が見えた。(今回は左の鉄塔付近より出発)
はるか前方に見えるのが伊勢路最大の難所・八鬼山
レンガ造りの御堂は「桜地蔵」 当初は旅人の安全を願って奉納されたと思うが、安平衛さんが造ったので安平衛地蔵とも また子どもの夜泣きに霊験がおるので「夜泣き地蔵」とも言われている。
道も急坂となり、石畳の坂道を喘ぎながら登るようになる。
馬越峠(325m)に到着。江戸末期の俳人・可涼園桃乙の句碑が建っている。
夜は花の上に音あり山の水 弟子たちによって峠に建立されたという。
西国三十三ヵ所名所図会には 句碑の隣に岩船地蔵堂が向かいには茶屋が描かれている。
江戸時代の旅の記録にも 茶屋があり、餅を売る。左の峰に天狗石という大石ありとある。
峠よりしばらくは傾斜の少ない道だったが急に険しい下り坂となる。
林道を横切ると勾配がきつくなり 石畳道も階段状になった所でツア-客が上がって来た。「峠はもうすぐですか」という質問をする人が何人かいたが その人の気持ちが良くわかる傾斜のきつい坂道だった。
見事な尾瀬美林が続いていて、心地よい日陰を歩けてうれしい。
心地よい瀬音を聞きながら歩いていると道の傍に「夜泣き地蔵」の小さな祠がここにもあった。
山の反対側と同じように明治時代までは道中安全を見守る地蔵だったが、いつしか地区の人々が子どもの夜泣き封じを祈るようになり、今も時おり新しい哺乳瓶が供えられいいるらしい。
大きな石橋と延々と続く石畳道
江戸時代に造られたと言われるこの峠道は昭和の初めごろまで県道であった。植林により狭められた所もあるが、道幅は紀州藩の駕籠に合わせて一間半(約2.7m)とられている。敷き石は大きく滑らかで、東紀州の各地に残る石畳道の中でも端正な美しさは際立っており、敷設した地元(便の山)の石工の技術の高さを推し測ることができる。
石は麓から運び上げたものでなく、現場調達を基本としている。雨上がりに歩くと、きっちり敷設された石畳は水路の役目を果たしているいることがよくわかり、先人達の道づくりの知恵がよくわかる。
馬越峠も無事通り終えると、有名な話の残る便の山の集落に入る。
ここには、「種まき権兵衛」の話がある。「種まき権兵衛の里」の看板があちこちで見かける里である。
私のお気の入りの民話の一つですので、皆さんにも是非知ってほしいと思い、書くことにします。
昔(江戸時代の初め)この「便の山」の地に「上村」と名乗る立派なそして優しい武士がいましたが、互いに殺し合うという無慈悲なことが嫌になり、刀を捨てこの地で「権兵衛」と名乗り百姓になった。
ところが、気の優しい「権兵衛さん」は 作物が実をつけても、食べにくる動物たちを追い払うことも出来ず、あげくの果てには何度種をまいてもカラスにほじくらげる始末です。村人たちからも百姓は無理でも優しい人だと思い差し入れをしたり面倒をよくみてあげていました。
農作業に関しては、ズブの素人だったが、もともと武士だったので鉄砲の腕は素晴らしく、常日頃から農作物を荒らし農民を困らせる猪などを退治していたので鉄砲の腕はますます上がっていました。
そんなある日、紀州の殿様がこの地にとどまったおり、村人たちが殿様の前で鉄砲の腕前を披露することになりました。権兵衛さんも出場したが、お殿様の前でも、臆することなく日頃の腕前どおり腕前を発揮することが出来ました。「褒美として賞金を与える」とお殿様に言われましたがその申し出を幾度となくお断りいたしました。「どうしても」とのお殿様の御言葉で権兵衛さんは「私は御褒美はいりません。どうしてもとおっしゃるなら今まで私を助けてくれた便の山の人達の年貢の免除をお願いします」と言いました。お殿様は権兵衛さんの人徳と村人の優しさに感激して申し出を認めました。
その後は権兵衛さんと村人たちはより以上に助け合うことになり、権兵衛さんは農作業を荒らす猪狩り等に精を出していました。
それから数年後、近くの馬越峠に大蛇が出没し旅人に被害を与えているとの話を聞いたお殿様は鉄砲の名手の権兵衛さんに大蛇退治を命じました。 権兵衛さんがいつも退治している猪なんかとは相手が大きすぎて話が違います。今度は命がけです。権兵衛さんは迷ったが、村人の為、旅人の為に大蛇退治を決意しました。 鉄鍋で大蛇退治の鉄砲玉をつくり、鉄砲を片手に一人で馬越峠に出かけました。
馬越峠でしばらく待っていると世にも恐ろしい大蛇が山頂から峠に降りてきました。権兵衛さんは怖くて逃げたくなったが、村人の為、旅人の為と思い、持っていた鉄砲で何発か大蛇に撃ちこみました。しかし、大蛇は少しもひるまずそれどころか、権兵衛さんめがけて襲いかかってきました。
「権兵衛さん危うし」 そこで彼は無意識のうちに懐の中にある肌身離さず持っている「ずんべら石」 (一説には 母親からもらったお守り石といわれている) を鉄砲にこめて大蛇の急所である喉に狙いをさだめ、一発・二発と撃ちこみました.すると、大蛇は毒気をまきちらし のたうち回っていたが とうとう死に絶えてしまいました。
権兵衛さんは、大蛇を退治しました。しかし、大蛇の毒気を大量に浴びたことにより、その場で倒れてしまいました。 それを聞きつけた村人たちは、戸板に乗せて麓の便の山へ運びました。何日かを頑張った権兵衛さんでしたがとうとう毒気がもとで死んでしまいました。村人たちはたいそう悲しみました。そのあと、権兵衛さんの碑がこの村に建てられ、今でも、花が供えられています。
2011年09月15日
私の足跡 92 熊野古道の伊勢路を歩く 5 八鬼山越え
大辺路・伊勢路を歩く
伊勢路 5 八鬼山越え
これから越える八鬼山越えは 3年前、町石道の語り部の仲間に案内してもらった所。
巡礼たちに「西国一の難所」と言われた八鬼山越え。峻険さと多雨ばかりか、かつては山賊や狼も出没して旅人を苦しめたという。この峠で行き倒れた旅人も多く、、石畳道の傍らに巡礼墓碑や町石をかねた地蔵が多く佇む。
前回の三木峠・羽後峠を終えた三木里駅を出発した。しばらく歩くと、三木里の海も見える。徳川吉宗が紀州藩主の頃植えたという松並木も台風や松くい虫にやられて大部分が枯れている。
民家の間を通り抜け長柄の一里塚を過ぎるとこれから越える八鬼山が見える。
しばらく進むと、明治道と江戸道に別れている。勿論、世界遺産に登録されている江戸道を行く。ごつごつとした石畳道て゛急坂をもくもくと登る。
突然、木々の間から今登って来た三木里の町と海がみえた。
途中、十五郎茶屋跡や絶景の「さくらの森エリア」を過ぎるとやがて三宝荒神堂に着く。702年に修験者によって建てられたとある。かつてはここにも茶店があり、餅が名物だったらしい。堂の裏手には 巡礼たちを苦しめた山賊を退治したという僧(山伏)の墓がある。
詳細は民話としてこの項の最後に記します。
ここから10分ほどで最高地点(627m)に行ける。
岩の形から 前にあるのが「蓮華石」 後ろ側のが「烏帽子石」と言われている。
下り初めは こう配が緩く、見晴らしのきく尾根道でこれから下る尾鷲市も見える。
この八鬼山越えは 西国巡礼道一番の難所と言われているが、この難所の八鬼山越えの難所「七曲がり」を下ることになる。急坂の連続で標高差約600mを下ることになる。
尾鷲市に着いた時はぐったりだった。
この八鬼山越えをして気分爽快のはずだが 他の街道歩きとは違う何かを感じる。
それは、この八鬼山越えの途中に上記のような景色が目に入るからだ。
難問だと思うが、地権者と行政の話し合いで一刻も早く解決して嫌な書き物のない道になるよう熱望しています。(今では、解決へと進んでいることを期待しています)
昔話 「巡礼を守る「八鬼山荒神」
昔 八鬼山は千古の密林で、昼も暗い道でした。この暗いのを利用していつも盗賊が出て、巡礼たちを殺して、お金を巻き上げるなどして悪いことばかりしていました。
そのころです。一人の修験者が八鬼山にやってきました。長年修行をつんだこの修験者は八鬼山に庚申堂(日輪寺)を建て、山頂付近を根城にしていた山賊たちを、片っぱしから退治して、近在の住民や通行の巡礼から神様のように慕われました。
また八鬼山の庚申堂は山頂に近いため、水がありませんでした。飲み水ははるか下方の谷まで何時間もかけてくみに行き 持って上がるという有様でした。巡礼たちは水を欲しがりました。
これを見かねた修験者が、「エイ ヤッ」と呪文を唱えると、不思議なことに庚申堂の傍から、冷たい水が湧きでてきました。人々はこの水を「神明水」と呼ぶようになりました。
この修験者は権大僧都という位の高いお方で、名前は「各真」と言いましたが、おそらく庚申様の化身に違いないと皆でうわさしました。
この各真さんは、武芸にも秀でた方で、弟子の修験者たちにも武芸をしこみました。しかし、天正4年1月27日に自分の半生をかけた八鬼山で大往生を遂げました。
各真さんのおしえを受け継いだ修験者は、常に山中を警戒して八鬼山通行の巡礼たちを山賊から守ってくれました。
2011年09月01日
私の足跡 91 熊野古道の伊勢路を歩く 4 賀田駅より羽後峠・三木峠越え迄
大辺路・伊勢路を歩く
伊勢路 4 賀田駅より羽後峠・三木峠
賀田駅の近くの宿舎「まさはる屋」を7時前に出発。この宿舎は釣り船を持った釣り宿だ。
私達も宿泊した夕方も主人は多くの釣り人を連れて帰って来た。皆は釣った魚を持ち、満面の笑みで写真におさまっていた。部屋の中には所狭しと見事な「魚たく」が並んでいた。
もう一つは、私達のような古道歩きの人の面倒も見てくれる宿だ。新鮮な魚を中心とした料理で堪能した。そして、後日私達を撮った写真とお礼の手紙が送られてきた。
宿を出て、20分位で羽後峠への入り口である山道に取りつく。
10分位で 古道歩きにはよくある大きな屋敷跡に到着。
峠へ続く苔の石を敷いた山道が延々と続き、我々はそれを登っていく。
やっと羽後峠に到着。宿を出て1時間弱 予定通り 小休止 そして宿のおかみさんににぎってもらった朝食のおにぎりを。
上の写真のような急坂を下ると農道に出てしまった。マップには殿様道という近道でアップダウンの少ない路があったが分岐点の道しるべを見落としたらしい。
農道をしばらく歩くと三木峠への登り坂が待っていた。
羽後峠にもあったが、ここにも「ししがき」が延々と続いていた。
また、旅の安全を守るための神仏が祀られている。多くの旅人を見送ったことでしょう。
峠の手前から急激な登り坂にとりかかる。
やっと三木峠に到着。宿を出て、約2時間半。標識では三木里駅の近くの八十川橋まで残り約2kmとある。
高台からの景色。「桃太郎岩」(手前の二つに割れた岩)の向こうには広大な賀田湾が見える。紀州の殿様もここから同じ景色を眺めたことでしょう。
列車の発車時刻があるので最後は小走りで、目的地の三木里駅に到着。宿を出て3時間。
伊勢路を歩いているが、最近になり見つけ出したという道があちこちにある。この峠の道も近くに住む初老夫婦が発掘したと聞く。素晴らしい事だし、有り難いことだ。
2011年08月15日
私の足跡 90 熊野古道の伊勢路を歩く 3 新鹿駅から賀田駅迄
大辺路・伊勢路を歩く
2011年5月18日
伊勢路 3 新鹿駅から賀田駅迄 約10km
昨夜の熊野市の宿泊所「紀南荘」は小じんまりとしていた。予約の時、二人というと二部屋でも同じ値段というので二部屋をお願いしてN氏と別々の部屋で寝た。敷布も糊が良くきいて気持ちよく寝れた。
宿舎を6時半に出て、昨日の新鹿駅から賀田駅迄の世界遺産の多く残る道を歩き始める。
前回 到着した新鹿駅を7時過ぎに出発。昨日鳴いていたキジが今朝も鳴いていた。
約1km歩くと、上の案内標識があり、この二つの峠について解説がしていた。7:50
そして、標高0メートルに近い所から標高290メートルの逢神坂峠への険しい登りにかかる。8:00
やっと、逢神坂峠に到着。 8:50
「逢神」とは、伊勢と熊野の神が出会う場所という意味。また、この辺りで狼(オオカミ)が出没したことによるとの説もある。
かつては、駕籠立場が設けられ、茶屋も店開きをしていたとの説明がしてある。
次の峠へは、猪垣のある道で一度急な石畳の坂道を下ってまた登る。
すると、標高240メートルの二木島峠に到着。9:10
標高240メートルの二木島峠から写真のようなごつごつした荒々しい石畳道を通って下る。
標高0メートルに近い新鹿湾から JR紀勢線のトンネルの上を通って かつては捕鯨の町として賑わった標高0メートルに近い二木島の町に着くのが上の地図でよくわかる。
右のセメントの隙間からの古道より車道に降りる。9:45
そして、 しばらく車道を通って歩く。
車道をしばらく歩いてから 曽根次郎坂・太郎坂の古道に入る。10:10 (頭上の看板)
この付近には、下の写真のような「猪垣」がたくさん残っている。猪や鹿の被害から守るため築いたもので「猪垣」と書いてシシガキとも、シカガキともいう。江戸時代に農民たちは苦労して新しい田畑を開墾したが 猪や鹿の被害から守るために、さらに苦労して築いた「猪垣」で、村人の大切な財産であった。
これらのことを書いた記念碑を 熊野市は熊野市指定文化財にしている。10:23
農民の皆さんの汗水のしみ込んだ見事な石垣を眺めて頂上を目指して歩く。
最高点から少し下った所に ほうじ茶屋跡があ。 12:10
江戸時代の旅人の日記に ほうじ茶屋があったと記されている。
ほうじ茶屋跡には 赤いよだれかけをした地蔵が祭られている。ここを通った旅人の安全を願って建立したものである。
茶屋のすぐ下に 標高305mの甫母峠がある。
ここは、現在尾鷲市と熊野市の市境であるが、大化の改新から天正10年(1582年)迄紀伊と志摩の国境であった。
曽根次郎坂・曽根太郎坂の名称は 自領すなわち自分の領地(志摩) 他領すなわち他人の領地(紀伊)がなまったもので、甫母峠より北は次郎坂 南は太郎坂ということである。(初めて知ってビックリ)
可愛くて癒される地蔵さまも旅人の安全を祈ってくれている。
巡礼供養碑があった。
江戸時代の1830年に ここで倒れた武州足立郡那珂之田村(現 埼玉県さいたま市)の人の供養碑です。巡礼の途中、急に様態が悪化して倒れたのでしょう。当時は 国元へは知らせるが、地元の負担で仮葬して供養もしている。
真珠の養殖もしている賀田湾が見えてきた. 12:30
郷土の英雄・曽根禅正一族の墓地で曽根禅正の五輪塔もある。
室町時代 海賊や盗賊のため治安の悪化に困り果てていた村人が近江から招いた佐々木宇右衛門(名前を佐々木禅正と改める)は 近江の国から甲賀忍者を引き連れてやって来た。そして、この地を平穏な土地として、土地の人々を喜ばしたとある。
集落の中を歩いていると、大クスのある飛鳥神社のそばを通り、賀田駅に到着。13:00
今回、 この後、前日までは三木峠・羽後峠を越えるという予定を組んでいたが臨時の列車があると言うのを知り予定を取りやめ、早く帰ることにした。
新宮を通り、和歌山経由で家に帰る。予定より早く20:30。
2011年08月01日
私の足跡 89 熊野古道の伊勢路を歩く 2 有井駅から新鹿駅
熊野古道の大辺路・伊勢路を歩く
2011年5月17日
伊勢路 2 有井駅から新鹿駅迄 約10km
今回から 現地へのアプローチの仕方を車の使用から鉄道使用に替えることにした。
今回は、JRジパングの3割引きの切符を使って、和歌山線・関西本線・紀勢線を乗り継ぎ松阪経由で熊野市へ。
帰りは、新宮・和歌山を経由して、橋本へと紀伊半島を一周した。
黒色の部分は歩き終えた所 赤色の所は今回です
今回以後、上記のような地図を載せますが、私達は南の方向から歩いていますので下方から上へと見てください。
赤色の部分も緑色の部分も昔の伊勢路ですが赤色の部分は近年開発されて昔の面影がのこっていないから、世界遺産にはなっていない。
緑色の部分は昔の面影がのこっているので世界遺産になっている。
有井駅から約1kmで世界遺産「花の窟」到着。
花の窟はイザナギノミコトの墓所と言われ、高さ45メートルの巨岩を御神体として祭る神社である。
日本書記によると、花の窟は火の神・カグツチを生む際に負った火傷がもとで死んだ神々の母・イザナギノミコトのお葬所だといい、地元の人々が墓である岩前に季節の花々を供えたことから「花の窟」の名がついたと伝えられている。
熊野三山の親神さまとして崇敬され、「花の時には花をもて祭る」という古式にのっとって毎年春と秋に花を飾った大綱を駆け換える神事が行われる。
大きな岩山なので遠くからでもよくわかる。
そして、しばらく北上すると世界遺産「獅子岩」がある。
「獅子岩」と言われるが 獅子が吠えているように見えますか
熊野市駅から更に約20分で松本峠の登り口に到着。
約20分で標高約135mの松本峠に到着。
ここ松本峠には 鉄砲傷のある有名な地蔵さんが立っていた。(4年前 語り部の研修会でも立ち寄った所)
この地蔵さんには 次のような話が残っている。その昔 鉄砲の名手が早朝に峠を越えて隣の町で仕事をして夕方うす暗くなってからこの峠を通ると早朝には 無かった等身大の地蔵があった。実はこの日に完成していた地蔵を運びあげて建てていたのだ。そうとは知らぬ鉄砲の名手は妖怪の仕業と勘違いして撃ってしまったという話です。
地蔵の左裾をよく見ると、なるほど小指の先ほどの穴がある。でも、さすが名手だけあって 急所を狙わず足下を狙っていたのに感心。
峠から 岬の突端に出ると東屋があり そこからの風景は七里御浜のビューポイントだ。
正面の山の突出した部分の手前は世界遺産「獅子岩」 少し離れた山の向こうは世界遺産「花の窟」である。
この七里御浜は 「世界遺産」「日本の白砂 青松百選」「日本の名松百選」「日本の渚百選」「21世紀に残したい日本の自然百選」の五冠に輝く美しい浜で、緩やかな弧を描きながら和歌山県境の近くまで延々と25kmも続いている。
峠を過ぎると 小振りの石畳の道を下って、最後は厳しい道を下り 国道に出て、海水浴場のそばを通り、大吹峠へ向かう。
いよいよ大吹峠に登り始める。道端には 行き倒れ巡礼碑があり、冥福を祈り、厳しい登山道に入る。
この大吹峠の前後は 珍しく竹林に覆われていた。木の多い熊野古道にあって、ここは独特な風情を醸している。竹は 水筒やカゴ、箸などの生活用品に欠かせない材料であった。
ゴロゴロした石畳みに竹林の落ち葉が散り敷いて足裏に程良いクッションとなり、快適だった。
標高205mの大吹峠に到着。
周辺にはスケールの大きな猪垣(ししがき)があった。ここの猪垣は総延長十数キロもあり、かつてはかなりの隠田が造られていた。往時は 毎年総出で石垣の補修をしたという。
大吹峠から険しい古道の坂道を下り、一度車道に出てしばらく歩くと足下に波田須の集落が見えてきた。
波田須と言えば、荘大なロマンを秘めた伝説が残っている。
その昔、秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて中国から渡って来た徐福が、この地へ上陸したという。上の写真は徐福のお宮で地区の人々によって守られている。きっと中国のすばらしい文化を伝えてもらったお礼でしょう。
弘法大師の伝説も伝わっている。一つ目は山から清水がしたたり、岩肌の穴に注いて出いる場所で弘法大師の御足跡水といわれている。
もうひとつは、背の低い栗の木が植えられているが、これは弘法栗といって、子どもでも実が獲れるよう弘法大師がしたと言われている。
車道に出たが再び古道の須波田の道に入る。須波田神社を過ぎると、有名な石畳があった。この付近では最古で鎌倉時代のものだ。約300mと短いが石は表面が滑らかで大きく、うっすらと苔むしている。
手前の石畳は 江戸時代 前方は 鎌倉時代のものです。
後、30分というところで、天気予報通りの雨が来た。雨具をつけ急いで新鹿駅へ向かったが列車に乗り遅れ 約一時間も待ち、宿泊地の熊野市駅へ向かう。
2011年07月15日
私の足跡 88* 熊野古道の大辺路 伊勢路を歩く 4 紀伊浦上駅から有井駅迄
熊野古道の大辺路・伊勢路を歩く
2010年6月8・9日
大辺路 4 紀伊浦上駅から有井駅迄 約45km
伊勢路 1 (和歌山県) (三重県)
この「熊野古道の大辺路 伊勢路を歩く」のシリーズの既に歩いた部分は黒色で(数字は大辺路 伊勢路の数字) 赤色は今回歩く箇所です。
前回と同じく、3人で 一台の車を宿泊地の新宮に置き、列車で紀伊浦上駅に戻りスタートする。
前回のゴール・ 紀伊浦上駅をスタートする。
間もなく 臨済宗の海蔵禅寺にすぐ着く。
休平への道を登っていく。
茶屋跡らしい平坦な土地も残っている。 10:43
無料休憩所という「おもてなし」があったので、使わせてもらう。、(四国の歩き遍路の時は よく使わせてもらった。地元の好意に感謝)
平惟盛が一夜を過ごしたという市屋峠を通る。12:50
二河坂峠着。
駿田峠着。 13:50
近くに 地蔵尊が祀られていた。婦人の病に霊験あらたからしい。
15:10 補陀洛山寺に到着。偶然 面識のある熊野那智観光ガイドの会長に会い、歓談する。
補陀洛山寺と言えば、僧侶たちが観音の浄土 補陀洛山を目指して船出した最大の聖地だ。 上の写真は その船の模型です。
こんなに、多くの僧侶が船出をしたらしい。
神倉神社に到着。15:16
この険しい石段を 2月6日の夜の神燈祭には何百人の信者が松明をもって駆け下りる勇壮な祭りで 下の写真のような実風景を一度実際に見てみたいものだ。
上記の石段を登りつめると熊野速玉大社の飛地境内摂社ですが、もともとここが元宮であるといわれています。熊野三所大神が降臨した場所とも伝えられています。
ことぶき岩と呼ばれる巨岩が御神体とします。
熊野速玉大社に到着。16:16
この熊野速玉大社は 熊野本宮大社と熊野那智大社とともに熊野三山の一社。
1200点あまりの古神宝類が保管されています。
参道には熊野三山の神木で平重盛が植えたとされる樹齢800年以上のナギの巨木がある。幹回り6m 高さは20mまありナギでは日本一の巨木です。
この後、今夜の宿舎のある新宮駅前へ。
宿舎を出て、熊野市を目指す。
すぐ熊野川を渡り、三重県の紀宝町に入る。いよいよ伊勢路に入った。
国道42号線や脇道を通って有名な七里御浜を右手に見ながら北上を始める。
ここから 有井駅までのやく25kmは山越えもなく、殆ど平坦な道だったのでピッチを上げ、約6時間で歩く予定だ。
(二枚の地図があるか、下から上へ見てください。)
ガイドブックの地図を借用したが、緑色の世界遺産登録の道をできるだけ歩くようにした。
この七里御浜は 紀宝町 御浜町 熊野市にわたる海岸です。吉野熊野国立公園の代表的な名勝にして「21世紀に残したい日本の自然遺産」 「日本の名松百選」 「日本の白砂名松百選」 「日本の渚百選」の4冠に輝いています。
この25kmに渡り続く海岸線は 周辺にある熊野古道と同じく古の巡礼者が熊野三山を目指して歩いたことから「浜街道」として世界遺産に登録もされている。
この七里御浜を 松本峠から見た写真です。
この七里御浜を眺めながら歩いていると浅瀬に船が座礁して転覆していた。
外国籍の船で 鉄くずとして処分されるそうだ。
転覆船から機嫌良く歩いていた防波堤が突然 なくなっていた。予算の関係か?
津波が心配です。仕方なくロープをたよりに降りる。 12:10
この後、巡礼供養碑や龍神塔を見ながら防風林の松林の中の小道を約2時間歩いて本日の目標駅「ありい」到着。
新宮~有井駅までは約25kmあるが、朝7時に出て午後1時に到着。休憩入れて6時間で歩いたことになる。これは、平坦な道であったからだ。次回からはいくつもの峠越えがあるので大変だろうと今から心配だ。
列車で 新宮に戻り 車で帰る。
今回の街道歩きの一部ではないが、那智勝浦の語り部のグループと交流していた時に案内してもらって世界遺産の那智山周辺の素晴らしい地域もこの機会に記しておきます。
一回目は 2008年3月に今まで親交のあった那智勝浦の語り部(前年の秋 高野山町石道の案内をした)にガイド案内をしてもらった。
那智山の駐車場を那智勝浦の語り部の会長さんに見送ってもらい、案内はベテランの若林さんと江崎さんにお願いをした。
那智大社から妙法山に行き、富士見台を通り那智高原公園に戻るコースとする。
妙法山(740m)の山頂近くにあり、弘法大師の修行の土地と伝わり、女人高野と呼ばれていた。
片道約一時間半の山道だが、近くの大門坂の賑わいとは違い 人が滅多に通らない素晴らしい古道だ。
苔むした石坂・石段が続き、半分以上が自然石による石段路で 途中には古い町石や道標が残っている。
中近世はもっと厳しかったと思えるが、その難路を浄土を求めてひたすら歩いたであろう古人の熊野詣を偲ばせる山道である。
急坂を登っていくと、上の地図の現在地に到着。
阿弥陀寺が近づいてくると深い森林に覆われているせいか何か霊気を感じる。(ガイドさんの一人も良く感じると言っていた)
途中、見晴らし台に到着。
見晴らし台からの熊野灘の絶景。緑の木々・青い海。本当にスバラシカッタ。
梵鐘があった。
人が死ぬとこの鐘をひとつつくという。
上の写真は「火生三昧跡」といわれる所
平安時代 応照上人は すべての衆生の罪を一身にかぶり、火を持って自らの体を焼きつくすという薬王の姿にこころをうたれ 食物を絶ち 苦行を重ね 火生三昧を実践した場所(石で囲まれている)。
上人の身体が火に包まれても 読経の声は最後まで穏やかで、煙は 三日三晩 熊野灘に漂い続けたと言われている。。
阿弥陀寺より険しい石段道を喘ぎながら登る。
やっと、奥の院に到着。
那智高原公園への下山途中 富士見台(日本の最西端)があったが、天候は良すぎてか姿を見せてくれなかった。
曼茶羅図を見せてもらい、那智山の説明をしてもらった。
那智勝浦の語り部のスタッフのみなさんありがとうございました。
二回目は 2009年3月14日に前回と同じく、那智勝浦の語り部のスタッフのお世話で橋本エリアだけでなく、高野山町石の語り部全員から募集して20名で参加。
「那智の滝三名瀑を訪ねる神秘ウォーク」と銘うち企画した。一の滝(普通 那智の滝と言っている滝)は良く見るが、二の滝と三の滝は普段は立ち入り禁止で見る事が出来ない滝です。一の滝の滝そのものが、御神体だからその上流に自由に立ち入ることは考えられないわけです。
早朝 橋本を出発して、和歌山まわりで那智を目指す。(帰りは 五条まわり)
那智に到着すると、那智勝浦の語り部のスタッフの暖かいお接待を受ける。
そして、早速、駐車場よりウォーキング開始する。
那智神社にお参りをして、無事にお参り出来ますよう全員祈祷をうける。(那智大社の神域に入らせてもらうから)
そして 全員で境内を見学する。
烏が石になったという「烏石」
いよいよ滝めぐりに出発。
山道を約一時間登ると上の写真のような渓谷に到着。この渓谷の下流に那智の一の滝がある。近くにしめ縄の張り替え等に使用したと思われるものが置いてあった。
渓谷を右岸から左岸へというように横切るのも何箇所かあった。
二の滝 高さ23m、幅7mで一の滝に比べて女性的。
渓谷歩きは 大変危険なので鎖やロープが張られている所もあった。
三の滝 滝壺は奥深く、落下する水の勢いが早く魅力的だった。
帰り道に、杉の大木を見に行ってきた。
帰り路は 熊野市の花の窟に寄り、見学してから帰った。(詳細は 次回の「私の足跡 89」を見てください)
2011年07月01日
私の足跡 87 熊野古道の大辺路を歩く 3 見老津から紀伊浦神迄
熊野古道の大辺路・伊勢路を歩く
大辺路 3 見老津から紀伊浦神迄 約35km 5月26・27日
前回と同じく、3人で1台の車を使い、見老津まで行き、車を置いて歩きだす。
しばらく歩くと 突然真っ青な海が目の前に飛び込んで来た。
マップを見ると道路から離れて、海岸線を歩くようになっている。 距離は短かったが、なんと 素晴らしい街道歩きでしょう。(以前 紀伊路を歩いた時も体験したことがある)
潮の香りを味わいながら進んだ。
でも、すぐに山の中の石畳み道に入って 登ることになる。 10:50
石畳み道は 旅人達が楽しく行き来できるように幕府等の命により、また、地元の人達の暖かい好意により近世以後日本各地に造られたと言われる。
山の中を歩いたり、集落の中を歩いたりしていると また海岸線に出てホットする。
13:10
舗装された道を歩いていると博物館があったので休憩を兼ねて立ち寄ることにした。
明治32年 ハワイに移民した中筋氏が ハワイでの鰹の漁法を見て 新しい漁法をつくった。それは写真のようなケンケン船を使った漁法です。 16:30
途中 右前方のあれが潮岬の灯台かと言いながら進む。
くじの川の手前で国道を離れ、古道に入る。
人のいない所だったので、この道が正しいのかどうかわからず不安だったが、くじの川地蔵さんが見つかりホットした。
そして、ひと山越えると国道42号線に出た。
本日の宿泊は、橋杭岩の近くの旅館にした。
翌朝 4時過ぎに起き、写真を撮るために,海岸線に出る。4時40分から約30分間で上記の写真を撮りました。
朝食後、宿舎を出発。
「弘法の湯」を通り、北上。 7:30
道中、脱サラをしてこの好きな所で生活をしている人に出会う。時々、孫に会うのが楽しみとも言っていた。また、近所の人の暖かさも素晴らしいとも感謝していた。 10:00
相変わらず、素晴らしい景色を見ながら進む. 10:50
今回の目的地 「紀伊浦神駅」に到着。 13:15
その後は、見老津まで列車で戻り、置いていた車で帰る。
今回歩いた区間は 黄緑色の部分。このシリーズで歩いた部分は 燈色。
2011年06月15日
私の足跡 86 熊野古道の大辺路を歩く 2 長井坂
熊野古道の大辺路・伊勢路を歩く
大辺路 2 長井坂 を越える 約10km 2,010年4月19日
(世界遺産)
早朝 国民宿舎を出て 一路南下を始める。
いよいよ 国道を離れて約4kmの長井坂の入り口に入る。この坂の歴史は平安時代からという話もあるが、史実はない。
この長井坂は、全長約5kmともある。 きつい坂を登りつめると稜線にかかり、これより見老津への下りまでは 標高250m前後の多少起伏はあるが、腐葉土の重なる平坦道で歩きやすい。
そして 木々の間を通して枯木灘が望め、二つの島が見え絶景の景色を呈している。
昭和初期まで 松の根株が残っていたと伝えられる一里塚松跡である。 9:30
和深川王子神社 寛永2年(1625)創建された。王子神社と春日神社が併せてつくられ
ている。
ナギ ムクの古木がある。 10:00
稜線を歩いていると 「 版築」という標識があった。
道の左右は高い傾斜になっている。
これは、版築(段築)によって土手状に整形して 古道平面のレベルを一定に保ち通行をスム
ースにした(アップダウンを少なくする)ものと考えられる。
古道の構築 維持管理上からみて極めて重要な事例である。
長井坂には版築とわかる顕著なものが2ヶ所ある。
そして、古びた道標が私達を和ませてくれる。
稜線から見老津への険しい険しい下り坂を降りると上記の標識があった。 12:05
この長井坂はすさみの八景の一つとなっている。
その後 列車で周参見に戻り、置いていた車で 帰宅。 一回目は終了。
世界遺産
「紀伊山地の霊場と参詣道」について
紀伊山地の熊野三山、高野山、吉野・大峯は古代以来、自然崇拝に根ざした神道、中国から伝来しわが国で独自の展開を見せた仏教、その両者が結びついた修験道など、多様なしんこうの形態が育んだ神仏の霊場であり、高野山町石道などの参詣道(巡礼道)とともに広範囲にわたって極めて良好に保存している比類のない事例です。また、それらが今なお連綿と民衆の中に息づいている点においても極めて貴重なものです。
熊野三山への参詣道は 大峯奥駈道、中辺路、小辺路、大辺路、伊勢路とあるが 今シリーズは大辺路、伊勢路の約250kmを記しています。
2011年06月01日
私の足跡 85 熊野古道の大辺路を歩く 1 富田坂・仏坂
熊野古道の大辺路・伊勢路を歩く
以前 日本海の小浜から鯖街道を通り京都へ(私の足跡33)、京都から京・大坂道を通り大阪(天満橋)へ(私の足跡32)、そこから岸和田 和歌山を通り田辺へ(私の足跡35と36)の紀伊路を歩いた記録を残していますが、今回は部分的だが世界遺産としての古道の残っている田辺から新宮までの大辺路(約100km)と新宮から伊勢までの伊勢路(約150km)を歩くことにした。
(田辺と本宮間の中辺路は私の足跡37・38に、本宮と那智間の小雲越えと大雲越えは私の足跡28・29に 高野山と本宮間の小辺路は私の足跡26・27に 吉野と本宮間の大峯奥駆路の一部は私の足跡15・18に記しています。)
今シリーズは田辺から新宮迄の大辺路、新宮から田丸迄の伊勢路の約250kmを記しています。
大辺路1 富田坂 仏坂 を越える 約20km 2010・4・20
(世界遺産) (世界遺産)
この大辺路の街道歩きは3人で車を出し合い、一泊二日の旅で3回て゛歩いた。
1回目は 宿泊地の周参見の国民宿舎迄車で行き、周参見駅から富田駅迄列車で戻り、そこから歩くことにした。この区間には、世界遺産が部分的に三ヵ所(富田坂・仏坂・長井坂)残っている。是非歩きたかった所だった。
駅には次の張り紙がしていた。
幻 の 花
キイジョウロウホトトギス
多年草で かつては紀南地方の山間部に自生していたが
近年の乱獲によって自生地は激減し、幻の花となっていた。
しかし、20数年前に当町の山元茂氏が植えた1本を年々
増やし、今では約2500が咲きそろいます。
(開花時期は、9月下旬から10月下旬頃)
キイジョウロウホトトギス
(私の好みの花の一つですので、冒頭に載せました。高野山の一部でも見れます。)
早速目指す富田坂へ向かう。
そして、約30分の徒歩で、大きな草堂寺に到着。
草堂寺を左折した所から約30分林道を登る。林道が終わると約1時間登り続ける
「七曲り」の名のつく坂もあった。昔の面影が残り、世界遺産として価値のある所だった。
途中、白浜方面の眺望が開けて疲れもとれた。
そして、登り始めて約2時間後の11時20分に標高300mの茶屋跡に到着。
そして、30分後に標高400mの安居辻松峠に到着。12時 。
ここから林道と交差している所まではアップダウンも少なくて、すぐだったが「安居(あご)の渡し」まで8.6kmとある。 そして、ここから祝滝との分岐の所までは厳しい下りだった。(標高差約300mを2.3kmで下る)
三ヶ川梵字塔
同じ紀伊半島だが、高野山の周辺には見られない「うらしまそう」が目に入った。高野町石道で見かけるのは「まむしそう」。同じサトイモ科 テンナンショウ属です。
「安居の渡し場跡」へ行って渡し船を利用すれば時間のロスがないが予約をしていないので、三ヶ川バス停から 約700m下流の口ヶ橋を渡って対岸に渡り、日置川の南側の「安居の渡し場跡」へ来た。所要時間約一時間。
この標識を左の方に歩くと、川が見える。
南岸の対岸の「安居の渡し場跡」から 北側の対岸の「安居の渡し場跡」を見ると予約をしておくと乗せてもらえる渡し船が見える。
ここ安居の渡し場跡からは急激な登りにかかる。(1kmの道のりで約150m上がる)
所要時間約30分だった。2:50
15:20 やっと峠に到着。ここから約一時間後、最高地点300mに到着。
ここからの下りは また急傾斜で約30分で250mを下った。名前は仏坂という有り難い名だが、峠道は反対に地獄のように厳しいと知人が言っていたがその通りだった。
ss
d社殿がなく、森全体が御神体という神社です。
ここ熊野地方では 山や岩や滝を御神体としている神社が多くあります。
本日の見学を終え、宿泊予定の国民宿舎まで歩く。
今回歩いた区間は 黄色の部分。