空海の足跡
2019年07月01日
私の足跡 216 空海の足跡を辿る 6
私の足跡 216
弘仁七年(816)
唐から帰国して10年 年令も43才になった。
今まで密教布教の機縁の熟するのを待って、空海は
本格的な密教宣布活動に着手した。
文字通り「雌伏十年」である
先ず、その年の6 月19日 朝廷に「密教を実践する
修禅の道場の建立地として高野山(現和歌山県伊都郡
高野町)の下賜」を願い出た。
朝廷に上奏した文面(性霊性集補闕鈔」によれば「吉
野より南に行くこと一日にして、さらに西に向かって
去ること両日程、平原の幽地あり、・・・・・四面、
高嶺にして、人蹤蹊 絶へたり」」という。
(空海は若い頃 山林修行中に見つけていた所)
(高い山に囲まれて、盆地のの中に…大門・伽藍
・金剛峯寺がある。)
簡単に言えば、高野山はまわりを高い山々にとりま
かれながら、かなり広い平地をなしている。 具体的
にいうと、この地は、東西5・5km ×南北2・2km
の広い平地で、高野山の東半分には、奥の院 西半分
は金剛峯寺と根本大塔をはじめ、壮大な伽藍を林立さ
せることができる。
そして、この平地の周囲を標高約一千mの八つの峰
(八つの神仏 )がとりまいている。
建立の目的は、一つは鎮護国家を祈る道場として、
いま一つは仏道修行者の道場として、密教寺院を建立
することです。
これは、「私の足跡 216」にも書いているが、帰国
時の大嵐にあい、無事に帰らせて欲しいと願った時に
下記のように祈っている。
・・・・帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、國界を
擁護し、衆生を建立利済せんがために、一の禅院を建立
し、法によって修行せん。願わくは,善神護念して、早く本岸
に達せしめよ」
朝廷に下賜を願い出て、1か月以内(7 月8日)に朝廷
より、勅許され た。
伽藍建立の場所として、高野山を選んだ理由とし
ては
禅経の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅宜し
すなわち、密教教論に説かれる密教修行の場所に
一 番適した所 であったからである。
そして、「金剛頂経」の一部にも
一 密教の行に相応しい場所である。
① 「清らかな水が湧き出ていて、そこに足を運
ぶとおのずと心が楽しくなる池・沼・川のほとり
② 毒蛇・毒虫等によって修行の妨げられない所
③ 耳障りな音声・雑踏等が聞こえない所 等
二 きわめて霊的な場所
高野山は インドの霊鷲山 補陀落山のような
霊地によく 似ている。
7 月8日に朝廷より、勅許されると空海は直ちに
弟子の実恵と泰範を高野山につかわした。整地作業
のためであった。
作業がほぼ完了した 弘仁九年(818)十一月、空海
は勅許後初めて 高野山に登り、檀上を結界し、伽藍
配置を定めた。
これは、空海独自の密教理論にもとずく伽藍形式
であり、大自然のなかに堂塔をもって密教空間を創
り出そうとした。
7 月8日に朝廷より、高野山に伽藍建設を勅許さ
れたが、これはあくまでも空海の私寺だから、
建設費用などは全て空海が工面しなければなら
ない。
多分費用工面のため、地方の豪族等に頭をさげ
資金集めをしたと思われる。
弘仁十二年(822) 5月
長い間、ため池の堤防の決壊のため、苦しんで
いた。「百姓恋ヒ慕フコト父母ノ如シ」(人々が
空海を実の父母のように慕っております)と讃岐
の人々の請願書で 讃岐の国満濃池の修築別当を
引き受け、地元の農民たちの懸命の働きで三ヵ月
余りで築堤工事を完成させた。
満濃池は香川県にある農業用としては日本最大
のため池です
この工事で、堤防が内側にせり出したアーチ状
であった。
弘仁十三年(822) 3月
南都仏教を代表する東大寺に灌頂道場(真言院)を
建立し、息災・増益の法を修することを命ぜられ
た。(この頃 平城上皇に灌頂を授けたらしい)
真言院南門
真言院の完成は承知三年(836)頃だった。
灌頂堂
ともあれ、この真言院の建立命令を持って、真
言宗が国から公認されたとみなされる。
天長元年(824)3月
少僧都に直任され,、同6月には造東寺別当に任ぜ
られた。(大僧都には天長四年(827)5月任ぜられる)
この別当補任を持って東寺の建設・運営に自ら
の考えを反映させるようになった。(異説アリ)
このことは、天長2年(836)5月5日付の青龍寺に
あてた実恵等書状に
天皇皇帝、譲りを受けて践祚するに及んで・・
・・帝城東寺を以って真言の寺となし
(嵯峨皇帝の譲りにより、弘仁14年(823)4月16日
淳和天皇が即位した後で、都にあった東寺は真言
の寺になった)と記すことが傍証となる。
教王護国寺に真言宗の僧のみ50人を常住させ、
密教を専ら学修することになった。
東寺は着工してから約30年たっていたが、おそ
らく伽藍の半分もできていなかった。
伽藍配置はすでに決まっていたから建物による
密教空間を創り出すことはできなかった。
(東寺の密教建築の堂宇は、わずかに灌頂院だけ
である。
空海は密教世界を表現するために、堂内の仏像
の安置に工夫をこらした。
講堂にある21体からなる立体曼荼羅と五重の塔に
安置の密教像である。
天長五年(828)12月
綜芸種智院を創る。
この学校の特色は
① 僧侶・貧富・貴賤の別なく入学できる。
② 教師・学生に衣食を支給する。
③ 仏・儒・道の三教の教授
空海の経験にもとづく理想的な教育理念であっ
た。しかし、実態は不明です。
天長七年(830)
淳和天皇の勅に応え、空海の思想を集大成した『
十住心論』十巻 『秘蔵秘宝鑰』三巻を撰述した。
ここには、悟りを求める心(菩提心)の発展過程を
本能のままに生活する状態から宗教心が芽生え、
それがやがて小乗から大乗仏教へと進み、最高の
教えである密教に至る、十住心思想が説かれてい
る。
天長九年(832) 8月
高野山での最初の法会・万燈万華会が修され、
虚空尽き、衆生衆尽き、涅槃尽きなば、
涅槃尽きなば、 我が願ひも尽きん
との大誓願が立てられた。
のちにこの誓願は、入定留身信仰のよりどころ
と された。
承和元年(834)
空海は この年から高野山に隠棲し、没後のこと
を慮り真言宗、東寺、高野山の永続化に向けて以
下の事を願い出て、勅許された。
① 毎年正月に行われる御斎会の期間に宮中で
真言法を修すること。
② 東寺に三綱をおくこと。
③ 東寺に僧供料を置き修講すべきこと。
④ 真言宗に年分度者を養成すること。
⑤ 金剛峯寺を私寺から官寺に准ずる定額寺と
すること。
そして、空海は、承和二年(835) 3月21日
この時点では、高野山は堂宇の建設もままなら
ず(定額寺になったのは1年前)、きびしい自然の中
において静かに62才の生涯を閉じた。
(空海の死の前後については、司馬遼太郎氏作の
『空海の風景』に詳細に記されています。)
後世おこった入定信仰にもとずき、空海の最期
を入定と称している。
延喜二十一年(921)10月27日、醍醐天皇は東寺長
者 観賢の奏請に応えて、空海に「弘法大師」の
諡号(死後に贈られる称号)を贈った。
その報告のために高野山に登山した観賢は、奥
の院の霊窟を開いて禅定の姿の空海を拝し、天皇
から下賜された衣を着せたという。
このころから、空海は高野山に生身をとどめ、
いつもわれわれを救済し見守り続けているとの入
定留身信仰が起こった。これは高野山の浄土信仰
とともに喧伝され、藤原道長・頼道親子、白河・
鳥羽上皇をはじめとする貴顕の荒野参詣を誘発
し、今日の高野山を形成をする原動力となった。
これが、四国八十八ケ所巡礼の「同行二人」(一
人で霊場を巡っているときも、ただの一人ではな
く、いつも空海が寄り添い守ってくれている、と
の信仰)とともに1200年ほど前に永遠の修行に入っ
た大師信仰の根幹をなしている。
私も 200年に四国遍路を 大師との「同行二
人」で参らせていただき、無事に回り終えること
ができました。ありがとうございました。
「同行二人」と同じような行事が今も残っていま
す。
奥の院では、1日2回、お大師様に御膳を届ける
「生身供」が行われています。
お膳のみならず、毎年法要の時に御衣を献じて
います。
日々のお大師さまが、奥の院から姿を現して縁
のあった場所を巡りながら人々を助けている」と
いう意味です。
上記の行事は全て、空海は高野山に生身をとど
め、いつもわれわれを救済し見守り続けていると
という入定留身信仰からのものです。
完
2019年06月01日
私の足跡 215 空海の足跡を辿る 5
私の足跡 215
大同4年(809)の4月13日 嵯峨天皇 即位
大同4年(809) 7月16日
空海は 大きな夢を持って 唐に渡るために京を出発し
て以来、5年ぶりに、思い出の京に入った。
空海は京都に入ると ほどなくして、和気氏創建の高尾
山寺(現在の神護寺)に入ることになった。
まだ続く石段。 長い石段
空海が住んでいた大師堂
空海の住坊跡と言われ、内部の厨子に正安四年
(1302)に作られた板彫弘法大師像(国の重要文化財)
を安置している。
高尾山寺は空海の死後、弟子の実恵や真済が別当になる。
最後に石段を喘ぎながら上る。
やっと到着。金堂。堂内には 国宝の「薬師如来」
高尾山寺と言えば
力添えで、南都仏教ではない新しい仏教・天台宗を広
げるため最澄が天台宗についての講演を開き、好評を
得ていました。
そして、最澄は唐の国から、空海より約1年ばかり
前に帰国し、本来の天台宗ではなく、唐の国だけでな
く、我が国でも人気の密教について講演をしたり、
灌頂をしたりして活躍していた時もあった。
その最澄の活躍した高尾山寺に空海は正統な密教を
携えて入りました。
空海は 天台宗の最澄が活躍していた思い出の高尾山
寺を、空海の活動の場にしてもらったり、畿内にもど
るについても世話になった可能性もあり、好意をいだ
いたかも知れません。
それに 既に比叡山寺を開創し、内供奉十禅師とな
ったので尊敬していたのでしょう。
そして、落ち着く間もない8月24日 最澄より、空
海が唐より持ち帰った密教経典12部の借覧を願う手紙
が届いた。
この手紙を初めとして、数年の間に約40通の借覧書
とか質問の手紙が届いたということです。
ここで、平安時代の仏教界、日本の仏教史を代表す
る二大巨星(天台宗の最澄・真言宗の空海)の短期間だ
ったが親密な時が続いた。
空 海 最 澄
二人の親交と決別の様子を記事にします。
先ず、手紙の一部を紹介します。。
最澄から空海へ。
春もはじめ(1月)なお寒く、遍照(空海)阿闍梨にはお変わ
りないでしょうか。
近頃、弟子の最澄、お陰で、つつがなく過ごしております。
しかし、比叡山でのなすべきことが未だ終わらず、参上
して礼をつくすことも、なお果たさない儘であります。
ことさらに怠ってのことではないことを賢察させてお寛恕く
だされば、甚だ幸せです。私、未だ拝謁する機会を予測
できませんが、しかし、受法の望みは増々募るばかりで
す。
使者の大三が赴くのに託して、安否をお伺いいたします。
不宣。謹んでしるします。
正月十五日 求法弟子最澄
状上
帰唐遍照阿闍梨法前
以上は 最澄から空海への手紙
次は 空海から最澄への手紙
空海自筆の風信帖 (国宝) 東寺蔵
先ほどの最澄の返事ではないが、
空海自筆の手紙「風信帖」です。
風信雲書、天自り翔臨す、之を披之を閲するに、雲霧を
掲げるが如し、兼ねて止観の妙門を恵まる 、頂戴供養
せん、攸(ところを)知不 巳に冷かなり伏して惟うに、
法體何如なるや、空海推ること常のごとし。・・・・・
・・・望むらくは煩労を憚からず暫く此の院に降赴せら
れよこれ 望む所望む所。 々不具釈空海状して上る。
九月十一日 東嶺金蘭
風の(ような)便り、(たなびく)雲の様な美しい筆跡が天より舞い降りた
その様な貴方からの手紙を開きこれを読むと雲霧が晴れる心地がします。
併せて摩訶止観(天台大師の著作)を送られ。授かり御仏に捧げており
ます。(此の事は)身の置き所も無いくらい恐縮しております。このところ
は気候も寒くなり貴方様の御身はお変わりございませんでしょうか。(私)
空海あいも変わらずです・・・・・・・・・・。
・・・…
私の望む所は労苦を厭わず貴方様が私の寺院に暫く逗留していただきたい
私はそれを望みます。僧侶の空海が伏して奉ります。
謹空
空海から最澄にあてた 尺牘(書状)。3通をおさめ
ている。
最初の尺牘が〈風信雲書〉と始まるので古来《風信
帖》と呼んでいる。
初めは 5通が収められていたが,1通は盗難にあ
い,1通は天正年間(1573‐92)に関白豊臣秀次に所望
され進上している。
現在は京都の東寺蔵。空海が806年(大同1)帰朝す
ると,最澄は空海が請来した経典の借用や,真言
の伝授を盛んに依頼しているが,これらの来信に
対する返書で,空海の真筆である。
空海への手紙。最澄自筆で現存している唯一の手紙
上は伝教大師(最澄)から(体裁は弟子の泰範だが、内心空海の
目にも入ってほしい)宛てた尺牘手紙で時代は平安時代(9世紀)
の物(弘仁4年813)久隔帖と呼ばれる国宝 。
紙本墨書で縦29.3㎝全長55.1㎝で冒頭の久隔清音から
久隔帖と呼ばれます
久く清らか御身に会うえず、慕情は極りなくせめて。安かに和む
事を伝えるむねとし、しばらく(寂しい)人情を慰ております。
(ところで)大阿闍梨より贈られた詩の序文の示す所の58(5×8=40)の詩
(伝教大師が40歳を超えたのを祝うため贈られたこの詩)の序の中に120
礼仏ならびに方円の図ならびに注義等名が.有り.
今、(貴方の詩の返礼に)詩を(私が作詞し)あなたの詩と和して奉りたい
と思いますが、未だに其の知礼仏図者と言う意味をが解りません。
伏して阿闍梨聞にお尋ねしますが。其の貴方が選んだ所の図義並に
其大意等の言葉の意味を教えて下さい。其の和するための詩は直ぐに
は作りにくく、(一度)作詞してしまったからには後に改作はし難いの
です。
ただ(またはおもう)其の詳しい訳を示し、必す゜和するための詩を造
り、あなたの座席の近くに奉上(差し上げましょう。謹んで貞聡に託し
て書状を奉ります。和南(※和南とはサンスクリット語のvavdandの音
写で敬礼の意味です)
弘仁4年11月25日小法弟最澄状を上(たてまつる) 高尾範阿闍梨所法
前近頃、妙法蓮華経のサンスクリット本1巻を得たので。阿闍梨に御覧
頂きたく、来月9日か10日を以て参上をしたいのです。若し和上に暇が
有れば、必ず参上したいのです。若し暇が無ければ後で暇が出来るの
をお待まちします。(私が)思うにただ指南を示して下さい。詳しい訳を
尋ね申上げます。
上記の様に、二人の交友が進んで 一度最澄が空海を訪ね
た時 話が長びき 夜になったので、宿泊して話をしたらし
い。
その後、最澄やその弟子達は 空海から金剛界と胎蔵界の
結縁灌頂をうけた。
この時、結縁灌頂を受けた人達の名前が名簿である空海
自筆の「灌頂歴名」(国宝)が残されている。
だが 月日が経ってくるとお互いの密教に対する考え方等
の違いが出てきたり、最澄の弟子・泰範の件 それに「理趣
釈経」借覧の件等が重なり、二人の交友は七年間で終わった。
この頃 空海は南都仏教とも繋がりがあり、多忙であった。
先ず、弘仁二年(811)乙訓寺の別当就任は早良親王慰霊の
祈禱の効験を期待したためである。(政治的陰謀)
次に、川原寺の別当就任は 大同二年(807)おじの阿刀大足
の教え子・仕伊予親王が謀反の罪により、川原寺に幽閉
され、その後 自ら命を絶つという事件があった。
(政治的陰謀)
空海の法力で親王慰霊の祈禱の効験を期待したためである。
(その後、この川原寺を京都と高野山との往復の宿とし
て嵯峨天皇より賜ったと伝えられています。)
空海の入京後の天皇・嵯峨天皇との関わりについて
は、橘逸勢や空海と共に当時の三筆と称された天皇は、
空海にしばしば書の揮毫を所望した。
空海はそれに応えるとともに、唐から持ち帰った漢詩集
や法帖,墨蹟などを献上した。
それで、両者の親密度は深まって行きました。
2019年05月01日
私の足跡 214 空海の足跡を辿る 4
私の足跡 214
空海の足跡を辿る 4
長安に残った空海達の生活する当時の唐の都・長安に
ついて詳しく記しておきます。
唐の長安城は南北が8651m、東西が9721m。
北辺の中央に大極殿を中心とした宮城があり、 碁盤目状の
道路で東西南北に区画されていた。
外側長安城壁で囲まれ、 一部を除き12の城門は日暮れか
ら夜明けまでは閉じられている規則であった。
城塀の高さ12メートルある巨大なものです。
盛唐の玄宗時代には人口100万と言われ、またイラン系の
人など、周辺の世界から渡来するものも多く、国際都市として
栄えた。
参考までに 平城京の規模等を記しておきます。
東西約4.3キロメートル、南北約4.8キロメートル。
その長方形の東側には東西約1.6キロメートル、南北
約2.1キロメートルの外京があり、総面積は約2,500
ヘクタールにも及ぶ。
南端に設けられた
まで伸びた幅約74メートルの
側の右京、東側の左京に別れ、碁盤の目のように
整然と区画された京域には10万人以上の人々が
暮らしたという。
朱雀門を中心に12の門を囲む築地の高さは約 6メートル。
次は 隋・唐時代の「長安城」です。
残念ながら10世紀頃の反乱などで唐が滅亡したとき、長安の
都は一部を除き 破壊されました。今は 西明寺や宣陽坊等
は残っていませんが最近になり、青龍寺は一部復活している。
私達もこの門をくぐり高い塀の上に登って見学した。
一部分当時の建物も残っているが、現在は近代的な建物に
復元されている。
城壁の上はこのように広くなっています。敵が攻めてき
た場合には、ここに幾重もの列をなした兵が待ち構え、
弓などで応戦できるようになっています。 高さ12メートル、底の幅18メートル、頂部の広さ15メート
ルある巨大なものです。特に、高さよりも厚みの方がある
ことに、当時の防衛の拠点としての城づくりの考え方が見
えます。
今では 城壁の上をレンタサイクルもはしっている。
唐の高僧玄將三蔵がインドから持ち帰った経典等を
保管していた建物(大雁塔)と玄奘三蔵の僧
大雁塔の中に入り、最上階まで狭い階段で上る。
7階建で高さは64mで、最上層まで登れば市街が
一望できる。
唐に残る空海や橘速成達は 大使達を見送った後、
の大雁塔等を眺めがら移動したと思う。
その他 秦の始皇帝陵等にも行ったり、いろんな所
を見学したのではないでしょうか。
西明寺(崩壊後再建されていない)では 前からの留
学生永忠・円照からいろいろ教えてもらい、また、紹
介してもらったインドの僧の二人からインドの文字や
思想を学びました。
そして、密教を学ぶなら 青龍寺の恵果阿闍梨が唐で
の密教の第一人者 であることを教えてもらい青龍寺に
行き、お会いしました。
私達は 青龍寺の遺に見学に行きました。
1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺跡と伝承
されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の
遺物を発掘し、この地域に昔の青龍寺があったことを確か
めた。復元された青龍寺に立ち寄る。
この館内には、空海に関わる写真や図が沢山展示
されています。
青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、
空海記念碑(上)や恵果・空海記念堂(下)が建っている。
四国霊場会会長(善通寺法主)により、この青
龍寺が四国八十八箇所の零(0)番札所と名付けられた。
空海が青龍寺に入ると、初対面の師は 笑みをた
たえ、次のように言った。
「我、先より汝が来たらんことを知り、相待つこと
久し。
・・・・・・・・・灌頂壇に入るべし」と。
そして、その第七祖の恵果和尚から三度灌頂を受
け、インド直伝の正統な密教を受法して伝法阿闍梨
位を授けられ、第八祖師となった。
そして「一日も早く祖国に帰り、密教をもって国
家に仕え、国中に広めて人々の幸せを祈りなさい」
と言って示寂した。
空海は帰りたいと思っても、許可もなくどんな方法
で帰れるかを考えるととても無理であった。
その時 あたかも空海を迎えにきたかのごとく長安に
やってきたのが 判官・高階遠成であった。
この機会を逃すと、いつ帰国できるか定かでないと
考え、高成に願い出た。
高成も了承し、唐朝の了解も得て、空海は師の
遺誡にもとづき、20年の留学予定を切り上げて
長安を後にした。
空海の入唐求法がまさしく「虚往実帰」の旅であ
ったと自分でも記しています。
それは、日本では解決できない問題を抱いて入唐
し、正統な密教の相承であった恵果和尚と出会
い、和尚が所持していた教法を余すところもなく
受法し、満ち足りた気持ちで、我が国に帰ってきた
からです。
空海が 日本に最初に到着したのは 出発した「福江島」
との説もあり、行って来ました。
寺の名は「西高野山」で、立派な寺院でした。
そして、その境内に立派な石碑が建ち「虚往実帰」とある。
空海 四国で修行中 口の中に明星が入ったということか
ら「明星院」とある。梵鐘や絵天井が印象的でした。
そして、明州を8月に出航し、10月に九州(
どこか不明)に到着らしい。
帰りの船も激しい風雨に遭い、船中でも大変だった。
ある記録には、嵐に遭い、木の葉のように玩ばれる
船中で立てた小願である。
空海、大唐より還る時、しばしば漂蕩に遇いて、
聊か一の少願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光
を増益し、國界を擁護し、衆生を利済せんがために、
一の禅院を建立し、法によって修行せん。願わくは,
善神護念して、早く本岸に達せしめよ、と。神明眛
からずして、平らかに本朝に帰る。
(「定本」7―99~100 )
この時立てた小願は、10年後、高野山の開創として実
現することになる。
帰国後、すぐに、正式な帰国報告書である「御請来
目録」をしたため、上京する判官・高階遠成に託して
朝廷に届けた。
その中には、空海は唐から持ち帰った新訳の経24
7巻、梵字の真言等44巻、経の注釈は170巻にお
よび、その他に仏像、曼荼羅、法具類を目録にまとめ
て渡したとされています。
これらの全ては初めて請来されたものであると明記し
て最後に
「規定より早く帰国したことは、死をもってお詫びし
ても償いきれないけれども、生きて最高の教えである
密教を伝え得たことは、それにも勝ることであり、ひ
そかに喜んでいる。」と20年の留学期間を足かけ2
年で切り上げて帰国したことへの弁明もみられる。
大宰府は、大和朝廷が朝鮮半島および大陸との外交
窓口、辺境の防衛のための軍事の統括、貿易管理、
そして西海道・九国・・・三島の統治を目的として
筑紫に置いた出先機関である。
その後、空海は大宰府を離れ、中国で学んできた
密教を理論的にせいりしたり、今後 我が国にどの
ように密教を流布させるかを考えていた。
現在は特別史跡「大宰府政庁跡」が残っている。
京都からは2年半の間 何の音沙汰もなかった。
九州滞在中の殆どは 近くの観世音寺に逗留していた。
母・斎明天皇の冥福を祈るため天智天皇が発願
し、天平十八年(746)に落慶した。かつては三戒壇
院の一つが置かれ、九州寺院の中心であった。
本堂の裏手に客僧房とみられる建物跡があり、空
海が観世音寺で住していたとすればここで起居し
ていたと想像される場所です。。
もう一つ、空海に関わる寺があります。
帰国した空海が初めて創建した寺。密教が
ここ九州から日本の東方に広がってほしいとの
願いで「東長密寺」としたらしいです。
空海は こんなに長く入京を許されないのは
なぜか ? 留学期間を守らなかったためか?もう
京都に生涯帰れないのではないか等 考えてい
たかも知れません。毎日不安な日々であったこ
とでしょう。
但し異説アリ
2019年04月01日
私の足跡 213 空海の足跡を辿る 3
私の足跡 213
空海の足跡を辿る 3
空海の願っていた遣唐使が25?年ぶりに復活し
、遣唐使船が出発することになった。
とにかく、長い間夢に見ていた遣唐使での出発です。
降り大宰府に寄り、それから最後の九州の最西端の
島・五島列島の田ノ浦?で最後の食糧・水の補給を
し、風待ちをして出発。
遣隋使船や遣唐使船が中国に渡った航路
今回は五島列島から中国の杭州を目指した。
七月六日。遣唐使船4隻。遭難に備え、四隻体制。
別名「四つの船」 一隻あたりに約150人位乗船。
船の大きさ、詳しい資料は残っていないから推測
だが全長約30m 全幅約10mとされる。
平城京跡に資料を参考にして造られた遣唐使船
1船には 遣唐大使・藤原葛野麻呂と共に空海・橘
逸勢ら留学生ら約150名程が乗り込む。
2船には 副使 石川道益 判官 菅原清公 請益
僧最澄ら 第3船 判官 三棟今輔 第4船 判官
高階遠成が乗り込み一路西に向かったが翌日の戌の
刻(午後7~9時)には 第3・4船が「火信するも応え
ずで」から両船は行方不明となる。また、しばらくす
ると、第1船と第2船も別れてしまう。
ここで第二船に乗った最澄のことを記事の中に挿入し
ながら書いていきます。
空海さんと言えば最澄さん。最澄さんといえば空海さ
んといわれる位 平安時代の二大宗教家として有名です。
同時代に生き、船は違うが共に遣唐使になり、空海は
真言宗を学びに第一船に乗り、最澄は天台宗を学びに第
二船に乗り、五島列島を出港した。
最澄は 空海より七才年上て この頃 比叡山に延暦
寺を建て、時の天皇・桓武天皇の庇護を受け、たくさん
の弟子もいる立派なお坊さんでした。今度の遣唐使も空
海のような20年間 自費で唐に滞在し 修行しなければ
ならない身分とちがい、最澄は還学生で僅か1年位の間
で 国の費用で個人の通訳(義真)と二人の留学生を連れ
て正式には「入唐請益天台法華宗還学生」の格式である。
同じ留学僧でも、空海とは雲泥の差があった。
この時は 乗った船も違うし、唐でも別行動だったので
また、帰りも別行動だったので二人の会話はなかったでし
ょう。
しかし、帰国後、二人は一時期、仲良しになり、話し込
んで一夜をあかしたり、手紙の交換も頻繁にやっておった
が、ある時期にバッタリ途絶えた。 詳細は この後 記
していきます。
元に戻り
船中では、卜部や陰陽師が船の進む方向を決めるの
だから大変だったでしょう。
空海の乗った1船も、暴風雨に襲われ、船の帆は痛み、
船の中に海水が流れ込み、船中では 泣き叫ぶ声や風
雨を鎮める僧の読経の声で大変だったでしょう。
「生死ノ間に出入シ、
波濤ノ上二□曳セラルルコト、
スべテ丗四個日』
葛野麻呂が上表した文章 [日本後紀]による
船は 正しい方向が分からない(方位磁針も無い)から
北へ行ったり、南へ行ったりで洋上をぐるぐる回っていたの
でしょう。
海が凪いでいる時も無事に陸地に着けるか心配だっ
たでしょう。
8月10日、やっと 出発から34日目に陸地が見えた。どこ
の国か判らず接岸すると目的地の揚子江の河口(普通であ
れば10日前後ぐらいで到着する)から相当南の福州赤岸鎮
の海口に流れついた。
司馬遼太郎氏の「空海の風景」の一部に[暦は8月10日になつて
いる。海岸に山がせまり、岬の地肌が赤かった。・・・」 とあるが、
に実際は赤色ではなかった。
古代中国の『陰陽五行説」から赤岸と名付けたらしい。
ここで、 同じ日に、日本を発った第二船の最澄達の船に
ついて記します。
第三船・第四船と別れてすぐに第一船とも別々になった。
第一船と同じく、暴風雨に襲われ、9月1日に明州に流れ
ついた。 漂流期間は54日です。距離が短いが日数が長
いということは、ぐるぐる回ったり、行ったり、来たりの時間
が多く、食糧・水分の面も不安だったでしょう。
但し 長安や天台山に行くには距離が短く、好都合だった。
第二船の最澄と随行者は 滞在期間は1年で 修行は
天台法華宗を学び、お経等を写経するのが目的だから
船をおりて、皆と別れ、長安ではなく、天台山に向かった。
空海ロードを目指す空海達の話に戻します。
2010年5月8日に 私は仲間と 飛行機・バス等の交
通機関を利用して赤岸鎮に到着した。
約一千ニ百年前の804年8月10日に空海達は長い
不安な漂流の船旅を終えての陸地だったのでどんな
気持ちであっただろうと思い、しばし 砂浜に立ち、
四方を眺めていたら込み上げてくる熱いものを感じた。
私たちは 海浜を離れ、山のほうへ歩いて行くと風変わ
りな門がある。空海坊と書いていた。平成五年(1995)建立。
赤岸は 今も半農半漁の田舎の感じがした。
空海記念堂の中の「弘法大師空海」
遣唐使の話に戻ります。
大使は早速 村の役人らしき人に話をした。
大使は自分たちの目的を言い、悪天候のためにここに到
着したことを説明しましたが ここは田舎の一地方だから
役所のある福州へ行って事情を説明するように言われた。
仕方がなく また、船に乗り約250km離れた福洲に向
かった。
⇧
台湾 霞浦から福州へ。 10月3日発
福州に到着後 新長官「閻済美」の就任を待って、
葛野麻呂が入国の交渉に取り掛かったが、取り合って
くれない。
仕方なく、空海に文書を書いてもらい渡す。すると
文書の文字・文章の素晴らしさに感心し閻済美の
態度が変わった。
その文章の題は「大使の為に福州の観察使に與る
書]で数多い空海の名文の中でも特に名文とせられて
いる。
実物は「性霊集」に収められている。
内容の概略は 中国を讃え、日本の位置を示し、信
物には印書を用いなくても信ぜらるべきこと等を
説いている。
こんな名文に新長官が感激して、話が進み、長安へ
の道が開かれた。
それで、福州を11月3日に出発し、2400㎞(四国遍路
二廻りか、大坂・東京を二往復半)離れた長安に向か
った。
この漂着の地・赤岸鎮から伝法の地・長安まで
の2400㎞の道のりを「空海ロード」と言って
いる。
高野山大学の静慈円教授を中心にしたグループが
30年以上も前から古い資料をもとにして空海ロー
ドを現在中国の地図の上に再現されている。
12月の中旬に長安到着をめざして急いだのは150
名位の乗組員だったが、選ばれたのは 23名だった。
星二立チ、 星二宿ス。
晨昏 兼行セリ
(日本後紀)
という表現で、その強行軍が想像できるであ
ろう。
私達は 福州に行かずに 静先生達も立ち寄っ
た時もあるという観光名所を見学した。
空海も寄ったかも知れませんが 一時空海ロード
から外れます。
それは、海外 国内ともの観光のメッカの一つで
ある武夷山である。
第一の魅力はたくさんの奇峰が点在していること
です。
川には 孟宗竹で作った筏に人を乗せて川下りを
するのです。
中国にはこのような河川が多くある。
この河川では、観光のため、船ではなく孟宗竹を組
んだ筏に客を乗せて楽しませています。
第二の魅力は、奇峰の一つに登ることです。
通路は梯子や手すりを整備して安全を確保している。
最後の頂上までは、何度も休憩を要したが、登り始めた
川を見下ろすと見事で、疲れが吹っ飛んだ。
空海ロードから少し離れたが、元の空海
ロードに戻ります。
仙霞嶺には、唐代官道が残り、仙霞関と
いう関所がある。
この仙霞関は 中国四大古関所の一つとして
大事に保存されている。
山の谷あいに ダムのような関所があり
「仙霞関」の標識が建っている。
八0四年十二月初旬,遣唐大使の藤原葛野麻呂一行
23名がこの道を急いでいる姿を 私は想像しながら
坂道を登った。
孟宗竹の茂みの中の像。
次は 空海ロードは二十八都鎮に入る。
二十八都鎮は古駅で有名な鎮です。
日本であれば、地方の小都市である。
東海道五十三次の宿場のような働きをしている。
古道の両側には 清代の民家等の建物が連なって
いる。
長い歴史と文化の残る建築群が雑居の中にある。
僅か4枚の写真ですが 二十八都鎮の生活の
様子・風景です。
高野山真言宗は、空海入唐1200年記念事業と
して、「二十八都鎮唐代官道の整備」をした。
そして、中国の江山市は 建造物を唐代様式
として、古鎮復興をすると、決議をしたとある。
うれしいことです。
私達の空海ロードで途中の立ち寄っての見学は
以上で終わり、次は 乗り物を使い目的地の長安
です。
空海達は、長安へは、長い長い道のりを辛苦の
末に12月23日長安に辿り着いた。そして,
宣陽坊の官舎に入る。
先に到着していた第二船の一行と合流した藤原
葛野麻呂大使は 徳宗皇帝に謁見し、遣唐大使の
使命を全うした。
ところが、翌年の1月23日 徳宗皇帝が崩御された。
そして新しく順宗皇帝が任命されたりで大変であった。
その為、大使の帰国が遅れ、長安を3月29日に出発し
明州にに到着した。
ここで、最澄一行と一緒になり、乗ってきた船
に乗り、5月18日に帰国の途につく。
帰りの航海は 順風満帆で6月5日に無事 対馬
に到着。
2019年03月02日
私の足跡 212 空海の足跡を辿る 2
私の足跡 212
空海の足跡を辿る 2
空海の生涯を記した書物は、真偽とり混ぜて、650
に余るほどもある。この数は、個人の伝記類として
は、群れをぬいて多い。
もっとも、多くは、虚実が交錯し、なかには、いわ
ゆる伝説・伝奇の類も多々ある。
一般には、次の資料は信頼できると言っている。
(空海の死後 百年以内につくられた。)
書名 執筆者 成立年代
「空海僧都伝」 真斎? 835年?
「空海卒伝」 藤原良房など 869年
「空海和上伝」 貞観寺座主 895年
「三教指帰」 空海、 797年
「請来目録」 空海 806年
「性霊集」 空海 831年?
「御遺告」 空海の遺言をまとめたもの
とされる。空海入滅後 百年
以上後に書かれているので偶
像化が進んでいる可能性あり。
空海の伝記で20才頃まで 確実視できる足跡は 次
の二つだけです。
① 延暦七年 (788) 15才の時 京に入り叔父の阿刀
大足に本格的に勉学を学んだ。
② 同十年 (791) 18才 都にあった大学に入る。
そして 程なくして 一沙門より、虚空蔵求聞持
法をさずけられ、一心に修行したところ神秘体験を
得た。
15才になるまで どこで どのように過ごした
のかはわからない。
「父母、偏ニ悲ミ字シテ
貴物ト号ス」
と 空海の晩年の談話をもとにして編纂した
という「御遺告」にある。
「私は両親から貴物といわれていた よ」と門人
達に もらしていたらしい。
当時の学校は 中央に「大学」があり、各地方
にもそれぞれ「国学」があって、空海も13才から
通っていたという話もある。
(司馬遼太郎 空海の風景)
延暦七年 (788) 15才の時 京に入り叔父の阿刀
大足に本格的に勉学に励んだ。大足は 桓武天皇
の皇子・伊予親王の侍講つまり家庭教師的な役割
をしていたことは「三教指帰」の記述に見られる。
「余、年志学にして外支阿二千石文学の舅
に就いて
伏膺し鑚迎す」
(わたくし空海は、十五才のとき、母方のおじ
禄高が2000石、親王の教育係を務めていた阿刀
を師と仰ぎ、学問に励んだ)とある。
この阿刀家の環境が 空海が好学に燃える気風を
高め、少年時代の空海に及ぼした影響は大きかっ
た。
そして、 延暦十年 (791) 18才で長岡京にあった
大学の明経科に入学し、一心に勉学に励んだ。
「春秋左氏伝」や」「毛詩」を学んだ。
そこでの勉学はすさまじく「首になわをかけ腿を
錐でさして睡魔をふせいだ」と自ら記している。
この頃の4年間のもう勉強で 唐への留学のおり、
中国の教養人を感嘆させた高いレベルの漢文をした
ためたり、中国語を自由にあやつった事実を考えて
も抜群の秀才になっていたと思う。
この学力は、中央の官人を輩出し始めた父方の
学問環境、及び学問に身を立ててきた母方の好学の
気風によって育まれたと思う。
空海が入学して1~2年目ぐらいに 一人の沙門
(大安寺の僧・勤操とする説と戒明とする説あり)と
出合い、仏教の秘宝・虚空蔵求聞持法を授けられた。
高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。
開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺
の1つで、奈良時代(平城京) から平安時代前半
までは、東大寺や興福寺と並ぶ大寺であった。
この頃の七大寺は現在のように一寺一宗制では
なく、諸宗兼学として新宗教も容認されていたと
いいます。
さて、虚空蔵求聞持法は記憶力増進のための修
行で、密教の仏・虚空蔵菩薩を祀り、その真言を
百万回、百日間にわたって念誦するというもの。
成就すればあらゆる経典の文義を暗記し、理解で
きるという荒行であった。
山林修行者の道を選んだ。
「三教師帰」」には、
阿国太龍岳に躋り攀ぢ
土州室戸崎に勤念す
幽谷、声に応じ、明星、来影す。
或ときは、石峯に跨って、粮を絶って□□たり
(石峯は四国の石鎚山) ( 「定本」 七 64 )
修行の場は、大和の山林もあるが、主に生国
の四国が中心だった。
「三教指帰」に「空海は阿波の大龍岳や伊予の
石鎚山に籠り、土佐の室戸岬で修行に明け暮れた
」とある。
役行者以来 山林修行で有名な大峰山
左 大峰山の本堂 右 修行地
山岳ではないが 修験寺で有名な比曽山寺。
飛鳥時代に聖徳太子の創建と伝わる古刹。
吉野郡大淀町にある。
今は 当時の大寺院の面影はないが、現在の
世尊寺は江戸時代に整備・縮小された寺です。
左 現在の世尊寺の本堂 右 寺院跡 国の重要文化財
四国八十ハケ寺の一人遍路の時にが舎心岳や
石鎚山の剣が峰等に登って来た。
最初に太龍寺から見える舎心が岳にお寺の許可を
得て登り、空海が虚空蔵求聞持法の修行をしてい
る所と空海の見ている景色を見てきた。
左 ここからロープや 右 空海の視線を確かめたが
鎖を使い登る。 空と海と山だけです。
途中に紅葉の季節に遍路宿に連泊して 丸一日を
使い登った。この日は遍路姿ではない。
左 ロープや鎖もなく 右 前を行く団体で遅れたが
岩山を手足だけで登る。 やっと頂上(天狗岳)。
高知の最御崎寺の近くにある「御厨人窟(みくろど)」
空海が各地の山岳等での修行を重ねる。
ここでの修行中に明星が口中に飛び込んできたという所。
現在 車が近くを通り、誰でも行ける。
右 御厨人窟を外から見る。 左 御厨人窟を内から外を見る。
空と海だけしか見えないから
「空海」と名付けたという
上の所で、虚空蔵求聞持法の修行を続けている
と、それに応える形で虚空蔵菩薩の化身とされ
る明星が来迎し、空海の口に飛び込んだとれいう。
このような神秘体験をしたことでさらに修行に
のめりこんだ。そして、目標としていた官吏への
立身出世の道が疎ましくなった。
そしてついに出家者の道を選び、出家し私度僧となった。
空海の出家は国家公認のそれではなかった。
優婆塞と呼ばれる私度僧だった。
当然、正式の僧ではない。
このような空海に対し、周囲の親族や身内は反対した。
そのような周囲の人々を説得する目的で書かれたのが、
空海二十四才のときに著した「聾瞽指帰」(のちに
「三教指帰」に改題)である。
空海(二十四才)自筆の聾瞽指帰(三教指帰) 国宝
「三教指帰」は5人の登場人物で儒教・道教・仏教
の教えの優劣を問う比較宗教論が展開されている。
作品に登場する仮名乞児という出家者は、
空海自身がモデルとおぼしき人物で、みすぼらし
い身なりをした暮らしぶりから、親不孝ではない
かと詰問される。
それに対して仮名乞児は、仏門に入り、世間の
一切衆生のために尽くすことは、親孝行にまさる
行いであると反論する。
そのほかに、仏教の良い点を述べている。
すなわち、我が子に官吏への道を望む両親をは
じめ、周囲の人々に対する空海の決意表明の書で
あったのである。
この。「三教指帰」を著して以後、約七年の間
消息を絶つ。」いわゆる『空海の空白の七年間」
である。
伝承によると
この間 空海は山野を彷徨して不可思議な力を
身に着けるとともに、かなりの時間を、東大寺や
大安寺等の奈良の大寺院における仏教学習に費や
していたらしい。
このような山林修行と学問研究の両立はこの時
代の僧侶によく見られる行動パターンであった。
一月を半分に分けて 前半は自然の中の修行、
残りは寺院の中での研鑽を積むことが多かった。
夢のお告げにより、大和久米寺の東塔の下に
おいて、のちに日本密教の二大経典の一つとな
る「大日経」をひもといた。
しかし、理解できぬ所が多々あった。
東大寺の創建に関わった久米仙人と縁の深いお寺です。空海
がここ久米寺の宝塔内で大日経を発見したとされている
玄昉が六十年以上も前に輸入したが、当時の仏
教界の実力では、十分読みこなせたとは、到底言
えない凄い経典で、誰もわからずほったらかしに
なっていたというのが実情だったらしい。
空海は 以前 四国の山林修行で得た、明星が
、口中に飛び込むという神秘体験の意味すること
がわかり、[大日経」を読み取れて理解するため
には唐に留学して、かの地の学者について学ぶ
しかすべがない。そうすれば、この時代の日本の
仏教とはまるで次元の異なる仏教が展開できる
。そのあかつきには、いろんな意味で素晴ら
しい未来が自分の前に開けてくる。そう、空海は
予感しながら勉学と修行に明け暮れていたかも
しれない。
かくして、七年の音信不通ののち、延暦二十三
年(804)に、空海は忽然として姿を姿をあらわした。
ときに、三十一才。この頃、世界最高の文明を
誇った大唐帝国へ、遣唐使が25年ぶりに出ると
いうことが空海の耳に入った。
でも、空海には 遣唐使になるには、突破しな
けければならない問題がいくつかある。
それは 留学生になる資格がないということです。
優婆塞と呼ばれる私度僧だった。出発までの時間がない。
最初の出発は 延暦二十二年(803)4月16日
難波津であった。だから、出家・受戒した日は
いつかが問題だった。
古来、真言宗ては、「御遺告」にもとづいて、
二十歳の時「槇尾山寺」で大安寺の勤操大徳を
師として出家、二十二才で東大寺戒壇院にて受戒
したという説があった。
大安寺の勤操大徳を師として出家した言われる槇尾山寺
左 剃髪 右 本堂
更に、最近の資料によると太政官符(延暦24年9月付き)
には
□学僧空海
右去ル延暦廿二年四月七日出家□□□□□
承知・・・・
太政官符 治部省
「空海の出家得度を延暦二十二年(803)四月七日」とみ
なすと書かれている。
空海は 第一回目の延暦二十二年(803)4月16日
難波津発の遣唐使船に乗ることができた。
異説アリ
これらの問題解決に 佐伯一族の長・佐伯今毛人・
大安寺の勧操 それに空海の叔父の阿刀大足という
人達の知恵と根回しがあったかも知れません。
最後は費用の問題です。 空海の父方は地方の役人
だが、広く田畑を耕し、また、船を持ち荷物の運送等
でも活躍し、かなり裕福であったらしい。
また、母方も裕福であったらしい。異説アリ
遣唐使が始まる。
第一回目 延暦二十二年(803)4月16日 難波津発
同 4月21日 瀬戸内海で暴風雨に遭い、船団
の一部破損あり、一部難波に戻る。遣唐使中止
第ニ回目 延暦二十三年(804)5月16日 難波津発
空海,去んるぬ延喜廿三年季夏の月、
入唐之月、入唐の大使藤原朝臣に隋って、
おなじく第一船に上りて、咸陽に発赴す
(わたくし空海は、延暦二十三年(804)6月 遣唐
大使・藤原葛野麻呂に従って、同じく第一船に
乗り、唐の都・長安に向けて出発しました。
(ご請来目録)
では いよいよ出港です。7月6日 五島列島か
ら唐へ旅立った。出発した港はどこか?
異説アリ
私達は 遣唐使船が出発した候補地の一つ
「五島列島では最大の福江島」の三井楽の
浜辺に行ってきました。
周辺には民家もなく、淋しい所でした。
一角に 空海の像と遣唐使船が出発したという
記念碑が建ててありました。
文字は「辞本崖」です。静慈円先生の揮毫です。
この「本土の涯を辞した」との意味らしい。
遣唐使として送り出した母親の短歌もあった。
日本の最西端の福江島の三井楽の浜辺から西に延びる海
遣唐使は磁石もなく、航海術もわからず、
この地より中国へ出発した。
2019年02月05日
私の足跡 211 空海の足跡を辿る 1
空海の足跡を辿る 1
密教の正統な後継者として 日本に真言密教を
伝えた宗教家の空海・弘法大師信仰は時を越えて
語り継がれ、日本人の心に深く根付いている。
小説家の幸田露伴が「・・・大師が我が邦人の
思想史上に遺された功績、我国の思想界に貢献さ
れた分量の大なることは申すまでもない。
・・、その思想の輝きは今に至って猶輝き、其
の信念の火は今猶世に存している。
大師は吾々の思想の上の忘れ可からざる恩人
である。」と話している。
唐の知識人たちをも唸らせる漢詩の達人であ
り、あらゆる書体を自在に操り三筆の一人に数
えられた語学の天才であった。
「満濃池」を治水した技術者であり、庶民も学
べる学校「綜芸種智院」を創設した教育者であ
り・・・・まさに平安時代に現れた天才である。
こんな宗教界のスーパースター・空海が霊場と
して開いた高野山麓で 空海に関わるボランティ
ア活動をしていた。
空海の生き方・考え等を知ることにより、空海
の遺した実地を知りたくなり、また、実地を歩く
ことによって、少しでも近づきたいと思うように
なった。
10年程前、日本国内の空海の修行地と言われる所
を歩き、三度目の四国遍路での「ひとり歩き」で
も 、空海の修行地と言われる所をくまなく歩き
満願した。
それ以後 中国でも 一部だが足跡等を辿って
きた。
今回 その辿った足跡をも書くことにした。
空海の生涯についての参考資料もたくさんあり、
どの資料が正しいか 私に わかり難いことが
多々あるので 意見が分かれている場合は異説あり
とし A と B とし、二つの意見を書きます。
(また、本当かなと思う所には「?」をつけます。
佐伯真魚。これが空海の幼少の頃の名前である。
真魚の父は讃岐地方の豪族の佐伯直田公 母は
学者の家系の阿刀氏。
先ず 空海の生誕地はというと殆どの人は従来
から
A 讃岐の国の善通寺市にあるとされてきた。
異説あり、
五岳山 善通寺の創建は、唐より帰朝された空海が、
御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚
の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、父
の法名「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と
号したと言われています。
この善通寺は 京都の東寺 和歌山の高野山と共
に空海ゆかりの三大霊跡として古くから信仰を集め
ている。
上記の図は 善通寺境内図
これは 伽藍の金堂です。創建期の建物は、永禄元年
(1558)の兵火によって焼失し、元禄12年(1699)
に再建されたものです。
金堂内の中央須弥壇上に座すのが、善通寺の本尊
・薬師如来坐像です。御室大仏師・北川運長の製作で、
元禄13年に完成しました。
像高は3m。ヒノキ材による寄木造で、表面は漆地に
金箔を押しています。
また、眼には水晶を嵌め込んで生気に満ちた表情を
つくりだしています。
基壇から相輪までの高さが約43メートルの五重塔は、
国内の木造塔として3番目の高さを誇ります。創建以
来いくたびかの倒壊、焼失により再建を繰り返し、
明治35年(1902)に完成した現在の五重塔は、4代目
となります。
空海が御誕生された折に用いられた産湯の井戸です。
B この善通寺は 本籍地かも知れないが 生誕地
ではない。その理由はこの当時の婚姻の形態が妻訪婚
であった。そして、阿刀氏は 都か畿内にのみ、住ん
でいた。だから生誕地は 畿内と考えられる。
佐伯直真魚?。これが空海の幼少の頃の名前である。
真魚の生まれた年月日は
A 宝亀5年(774)6月15日に誕生した。異説あり
B 宝亀4年かも 6月15日は不空が示寂した日
真魚の父は讃岐地方の豪族の佐伯直田公 母は学者
の家系の阿刀氏。
空海は幼い頃から数々の伝説がある人物です。
佐伯家では、昔から自分の領地に氏寺を持ち、仏教
に熱心であった。
母方の阿刀一族からも何人もの高僧(玄昉・道教等)
が誕生しており、一族は仏教に熱心であった。
このような仏教に熱心な家庭に育ったから次のよう
な逸話・伝説が生まれたのでしょう。
その一つは、空海が5・6・才の頃 八葉の蓮華に座
り、仏と語る夢を見ていた、また、泥で仏像をつくり
草堂に安置し礼拝するのが常の遊びであった。
次は この近くの73番札所 出釈迦寺前方に我拝師
山が見える。この山は7才の空海(真魚)が「仏門に入
り、多くの人を救えるなら、釈迦如来よ現れてくださ
い.叶わぬのならこの身を諸仏に捧げる」と言って身
を投げたという「捨身ケ嶽」です。(捨身ケ嶽へは、団体
の遍路では時間がかかるし危険だから案内していない)。
しかし いずれも伝承であって史実とみなすことは
できなぃ。だが、これらは空海が昔からいかに常人と
は違うキャラクターであると人々に認識され、いかに
尊敬され、親しみを持たれていたかがわかる逸話と言
えるでしょう。
今回 この「空海の足跡を辿る」で主に参考にさせ
てもらった書物は 下記の通りです。
「空海はいかにして空海になったか」 武内孝善
「弘法大師空海の寺を歩く」 武内孝善
「空海風信帳の謎」 静 慈圓
「空海入唐の道」 静 慈圓
「空海の風景」 司馬遼太郎
「空海をめぐる人物日本密教史」 正木 晃
「伝教大師巡礼」 瀬戸内寂聴