2019年11月30日
私の足跡220 カメラを持ってぶらり旅 4
私の足跡220
カメラを持ってぶらり旅 4
今回は 近在の祭を
まず、高野山の青葉祭
宗祖弘法大師さまのお誕生日をお祝いする、高野山一山上げてのお祭。花御堂渡御では、稚児行列を先導に青葉娘による散華が行われる。鳴り響く大師音頭に合わせて、地元はもちろん日本各地から集まった踊り子や鼓笛隊も列に加わり、メインストリートをパレードします。
弘法大師の幼児期役をする本日の主人公
行列の出発を待つお稚児さん
全校児童参加の鼓笛隊
中学生も参加
お稚児さん達もやっと出発
各種団体も参加
保育園児もお祝いに参加
終了後、参加した子供達は冷たい飲み物を頂き喜ぶ。
次は 九度山の真田祭
九度山町は、天下分け目の関ヶ原の戦いに敗れた真田幸村が父・昌幸とともに隠れ住んだ里です。その真田幸村父子を偲んで行う祭です。
この祭りは、毎年5月5日に行われ、メインイベントは武者行列です。
同町入郷の道の駅「柿の郷くどやま」芝生広場で出陣式。勇壮な真田出陣太鼓が披露され、九度山
年上のお兄さん達は 服装の準備もでき、余裕で友達と談笑。
「いざ、出陣」の太鼓が鳴り響く。
地元の中・高校生の吹奏楽も先陣で協力する。
続いて 大人の行列 そして、子供の行列と続く。
この日は 暑い日で観客者も大変だが 衣装を着けている出演者は大変なので、途中でしばらく休憩をする。
小さい子供も見学していたが、変装したお兄さんを見て怖がり,泣きだした。
休憩後、本日のゴール「真田庵」(正式名は 善名称院)を目指して出発した。
先ず、行列の大人のグループが到着。
続いて、子供のグループが到着。
行列の 到着前よく、真田庵(善名称院)では、高野山の修行僧たちが長い間、読経を続けていました。
行列の終了後、町中を歩いていると、町家や店舗に、おひな様、五月人形、甲冑、趣味の作品、お家の宝の品々等を展示してくれていました。
天野の丹生津姫神社の花盛祭
高野山の守護神として知られる和歌山県かつらぎ町の世界遺産・丹生都比売(にうつひめ)神社で、春の訪れを祝う恒例の「花盛祭」が開かれる。
同神社は1700年以上前の創建で、主祭神は天照大御神(あまてらすおおみのかみ)の妹神・丹生都比売大神。創建から約500年後の弘仁7年(816)には、弘法大師・空海が同神社の神領・高野山を拝領して、高野山を開創した「神仏融合」初の神社という。
春の訪れを祝う祭。参道に竹筒を立て、花を飾る。渡御の儀は、神宝を持ち、装束を身につけた行列が神輿とともに天野の里をお渡りする儀式です。
太鼓橋を渡る神輿行列の様子はとても華やかです。平成の御造営により2016年の冬に本殿や太鼓橋は、美しくよみがえりました
丹生宮司は、壇上に着座。玉津嶋神社の方角に向かって、うやうやしく祝詞を奏上。後ろに立ち並ぶ大天狗や、狩衣姿の人たちとともに拝礼し、人々の安寧(あんねい)を祈っていた。
最後は 地元橋本市の 秋の地方祭
収穫の感謝と、翌年の豊作を祈願する秋祭り。実りの秋は全国各地で秋祭りが行われます。郷土の伝統や歴史を再現したものや、農耕儀礼と結びついたものなど、夏のお祭りとは違った風情を感じさせてくれます。
橋本市の秋祭りいえば、だんじりを担いだり、曳いたりをするくらいです。
橋本市周辺では、曳きだんじりが多いが、担ぎだんじりも多い。
曳きだんじり
担ぎだんじり
橋本市内のだんじりの中でも歴史が古く、貴重なものを紹介します。
舟楽車(ふなだんじり)は橋本市橋本の川原町に伝わってきたもので、総欅(そうけやき)造りの本体規模は長さ3.3メートル、幅1.46メートル、高さ2.1メートルの屋形船を模しただんじりです。創建の時期は明らかではありませんが、伝承によると、享和2年(1802)に再興、その後凶作のため中断していましたが、文化8年に担ぎ出すことを許されたといいます。
神社で担われるほか市中では車台を付けて曳行されます。
和歌山県有形民俗文化財指定
東家の曳きだんじりは天保11年(1840)に岸和田中町のだんじりとして制作されたもので、現在曳行されている岸和田だんじりでは最古のものとされています。長さ3.39メートル、高さ3.38メートル、一般に岸和田型(下地車)と呼ばれる欅製の二枚屋根の曳きだんじりで、四周腰部に担い棒を付加しています。屋根下の枡合(ますあい)、腰部の連子(れんじ)・土呂幕(どろまく)、小屋根下の見送りなどに緻密な彫刻を配し、中国歴史上の場面や日本神話、鎌倉時代の歴史場面の題材を表現しています。また、岸和田城門をくぐるためのものといわれる屋根を下げるカラクリの跡を残しています。昭和34年に東家地区が購入、以後40数年間にわたって曳かれています。
平成18年2月に橋本市有形民俗文化財指定
市脇の曳きだんじりは創建時期は明らかでありませんが、彫師の銘が残されていて幕末から明治期の作と推定されています。長さ3.2メートル、幅2.04メートル、高さ3.6メートル。いわゆる上地車と呼ばれる欅製の二枚屋根の曳きだんじりで、各側面の腰部には担い棒を付加しています。このだんじりの特長は「源頼朝富士の巻狩り」や神話を題材とした大振りな彫刻を前後左右の各面いっぱいに配置していることで、彫刻に覆われた姿は圧巻そのものです。明治29年(1896)もしくは30年の記録から、この時期に市脇にもたらされたものと考えられ、以後100年以上にわたって地域の人々に親しまれてきました。なお、この曳きだんじりは平成16年の秋祭りを最後に現役を引退し、地元で保存されています。
平成18年2月に橋本市有形民俗文化財指定
和歌山県無形民俗文化財に指定されている秋祭りで、 担いだんじりでは県下最大級です。
中世の隅田一族の氏神であった隅田八幡神社で行われる秋祭で、その起源は鎌倉時代の放生会(ほうじょうえ)に遡るといわれています。祭のクライマックスは神社からおよそ1キロメートル離れた御旅所までの勇壮な渡御です。渡御の先駆けとなる屋躰(だんじり)は、およそ100人で担ぐ県内最大級のもので、各地区に13基あり、毎年4基が交替で参加します。この屋躰の起源は明確ではありませんが、橋本市内に遺存している屋躰部材の墨書銘(文化14年―1817)や古記録(明和4年―1767)などにより、少なくとも江戸時代中期まで遡ることが明らかとなっています。
勇壮で迫力のある屋躰の動き、そしてそれを盛り上げる優雅で力強い笛と太鼓の囃子により、隅田八幡神社の秋祭は紀の川流域でも盛大な祭の一つとして周辺からの多くの参拝者で賑わいます。例年10月の本宮には午前中に当番の4基の屋躰が宮入し、午後から御旅所への渡御が行われます。
上記の他に 市内各地区に自慢のだんじりがあり、それぞれの祭りの日に楽しんでいる。
カメラを持ってぶらり旅 4
今回は 近在の祭を
まず、高野山の青葉祭
宗祖弘法大師さまのお誕生日をお祝いする、高野山一山上げてのお祭。花御堂渡御では、稚児行列を先導に青葉娘による散華が行われる。鳴り響く大師音頭に合わせて、地元はもちろん日本各地から集まった踊り子や鼓笛隊も列に加わり、メインストリートをパレードします。
弘法大師の幼児期役をする本日の主人公
行列の出発を待つお稚児さん
全校児童参加の鼓笛隊
中学生も参加
お稚児さん達もやっと出発
各種団体も参加
保育園児もお祝いに参加
終了後、参加した子供達は冷たい飲み物を頂き喜ぶ。
次は 九度山の真田祭
九度山町は、天下分け目の関ヶ原の戦いに敗れた真田幸村が父・昌幸とともに隠れ住んだ里です。その真田幸村父子を偲んで行う祭です。
この祭りは、毎年5月5日に行われ、メインイベントは武者行列です。
同町入郷の道の駅「柿の郷くどやま」芝生広場で出陣式。勇壮な真田出陣太鼓が披露され、九度山
で蟄居(ちっきょ)した戦国武将のある真田昌幸、幸村(信繁)と幸村の子が馬に乗った恰好をした人たちが続いた。また、武者姿の子どもたちや、手作りの甲冑(かっちゅう)を着た人らも参加し、昌幸・幸村父子らが暮らした屋敷跡に建つ街の中心部の真田庵(この地で亡くなった昌幸の宝篋印塔がある)まで練り歩くという祭りです。
年上のお兄さん達は 服装の準備もでき、余裕で友達と談笑。
「いざ、出陣」の太鼓が鳴り響く。
地元の中・高校生の吹奏楽も先陣で協力する。
続いて 大人の行列 そして、子供の行列と続く。
この日は 暑い日で観客者も大変だが 衣装を着けている出演者は大変なので、途中でしばらく休憩をする。
小さい子供も見学していたが、変装したお兄さんを見て怖がり,泣きだした。
休憩後、本日のゴール「真田庵」(正式名は 善名称院)を目指して出発した。
先ず、行列の大人のグループが到着。
続いて、子供のグループが到着。
行列の 到着前よく、真田庵(善名称院)では、高野山の修行僧たちが長い間、読経を続けていました。
行列の終了後、町中を歩いていると、町家や店舗に、おひな様、五月人形、甲冑、趣味の作品、お家の宝の品々等を展示してくれていました。
天野の丹生津姫神社の花盛祭
高野山の守護神として知られる和歌山県かつらぎ町の世界遺産・丹生都比売(にうつひめ)神社で、春の訪れを祝う恒例の「花盛祭」が開かれる。
同神社は1700年以上前の創建で、主祭神は天照大御神(あまてらすおおみのかみ)の妹神・丹生都比売大神。創建から約500年後の弘仁7年(816)には、弘法大師・空海が同神社の神領・高野山を拝領して、高野山を開創した「神仏融合」初の神社という。
春の訪れを祝う祭。参道に竹筒を立て、花を飾る。渡御の儀は、神宝を持ち、装束を身につけた行列が神輿とともに天野の里をお渡りする儀式です。
太鼓橋を渡る神輿行列の様子はとても華やかです。平成の御造営により2016年の冬に本殿や太鼓橋は、美しくよみがえりました
丹生宮司は、壇上に着座。玉津嶋神社の方角に向かって、うやうやしく祝詞を奏上。後ろに立ち並ぶ大天狗や、狩衣姿の人たちとともに拝礼し、人々の安寧(あんねい)を祈っていた。
最後は 地元橋本市の 秋の地方祭
収穫の感謝と、翌年の豊作を祈願する秋祭り。実りの秋は全国各地で秋祭りが行われます。郷土の伝統や歴史を再現したものや、農耕儀礼と結びついたものなど、夏のお祭りとは違った風情を感じさせてくれます。
橋本市の秋祭りいえば、だんじりを担いだり、曳いたりをするくらいです。
橋本市周辺では、曳きだんじりが多いが、担ぎだんじりも多い。
曳きだんじり
担ぎだんじり
橋本市内のだんじりの中でも歴史が古く、貴重なものを紹介します。
舟楽車(ふなだんじり)は橋本市橋本の川原町に伝わってきたもので、総欅(そうけやき)造りの本体規模は長さ3.3メートル、幅1.46メートル、高さ2.1メートルの屋形船を模しただんじりです。創建の時期は明らかではありませんが、伝承によると、享和2年(1802)に再興、その後凶作のため中断していましたが、文化8年に担ぎ出すことを許されたといいます。
神社で担われるほか市中では車台を付けて曳行されます。
和歌山県有形民俗文化財指定
東家の曳きだんじりは天保11年(1840)に岸和田中町のだんじりとして制作されたもので、現在曳行されている岸和田だんじりでは最古のものとされています。長さ3.39メートル、高さ3.38メートル、一般に岸和田型(下地車)と呼ばれる欅製の二枚屋根の曳きだんじりで、四周腰部に担い棒を付加しています。屋根下の枡合(ますあい)、腰部の連子(れんじ)・土呂幕(どろまく)、小屋根下の見送りなどに緻密な彫刻を配し、中国歴史上の場面や日本神話、鎌倉時代の歴史場面の題材を表現しています。また、岸和田城門をくぐるためのものといわれる屋根を下げるカラクリの跡を残しています。昭和34年に東家地区が購入、以後40数年間にわたって曳かれています。
平成18年2月に橋本市有形民俗文化財指定
市脇の曳きだんじりは創建時期は明らかでありませんが、彫師の銘が残されていて幕末から明治期の作と推定されています。長さ3.2メートル、幅2.04メートル、高さ3.6メートル。いわゆる上地車と呼ばれる欅製の二枚屋根の曳きだんじりで、各側面の腰部には担い棒を付加しています。このだんじりの特長は「源頼朝富士の巻狩り」や神話を題材とした大振りな彫刻を前後左右の各面いっぱいに配置していることで、彫刻に覆われた姿は圧巻そのものです。明治29年(1896)もしくは30年の記録から、この時期に市脇にもたらされたものと考えられ、以後100年以上にわたって地域の人々に親しまれてきました。なお、この曳きだんじりは平成16年の秋祭りを最後に現役を引退し、地元で保存されています。
平成18年2月に橋本市有形民俗文化財指定
和歌山県無形民俗文化財に指定されている秋祭りで、 担いだんじりでは県下最大級です。
中世の隅田一族の氏神であった隅田八幡神社で行われる秋祭で、その起源は鎌倉時代の放生会(ほうじょうえ)に遡るといわれています。祭のクライマックスは神社からおよそ1キロメートル離れた御旅所までの勇壮な渡御です。渡御の先駆けとなる屋躰(だんじり)は、およそ100人で担ぐ県内最大級のもので、各地区に13基あり、毎年4基が交替で参加します。この屋躰の起源は明確ではありませんが、橋本市内に遺存している屋躰部材の墨書銘(文化14年―1817)や古記録(明和4年―1767)などにより、少なくとも江戸時代中期まで遡ることが明らかとなっています。
勇壮で迫力のある屋躰の動き、そしてそれを盛り上げる優雅で力強い笛と太鼓の囃子により、隅田八幡神社の秋祭は紀の川流域でも盛大な祭の一つとして周辺からの多くの参拝者で賑わいます。例年10月の本宮には午前中に当番の4基の屋躰が宮入し、午後から御旅所への渡御が行われます。
上記の他に 市内各地区に自慢のだんじりがあり、それぞれの祭りの日に楽しんでいる。
drecom_yama_ya617 at 15:02│Comments(0)│ぶらり旅