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2019年11月21日

私の足跡219 カメラを持ってぶらり旅 3


 
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     カメラを持って 
ぶらり旅 3

 
今回は 京都北部や滋賀県へ

 
「橋本市や高野山の恩人である応其上人の入定窟のある飯道寺へ」という地区公民館主催のツアー
に参加した。

其上人とは 

       木食応其坐像[1]

 天文6年(1537)、応其上人は近江国に生まれました。37歳の時に高野山で出家し、日斉房良順と名乗って苦行を積み、12~13年で高位につきます。以降13年もの間、五穀(米、麦、粟、豆、キビ)を食べずに、木の実や野菜ばかりを食べて仏教の修行に励んだことから木食上人と呼ばれました。

 天正13年(1585)、豊臣秀吉は高野山へ攻め込もうとしたのですが、秀吉と面識があった上人が出向き、秀吉の条件を受け入れました。和平を選んだ上人を秀吉は高く評価し、「高野山は応其上人のものである」と命じ、高野山の寺領をどんどん増やしたりして、高野山復興に力を注いでいます。秀吉は高野山の金 堂 再建を計画し,その ため高野山に米1万石 と寺 領 として伊 都 郡と大和国宇 智 郡の地3,000石を寄 進 しています。また、高野山に豊臣秀吉が母の菩提を弔うために、応其上人に命じて建立した青巌寺(現 金剛峯寺の前身)も建立しています。

 高野山麓の橋本は 応其上人によって長さ230メートル余りの橋が架 かられ,この橋が今日の 橋本という地名の起源 になったと伝えられています。また、橋本に塩市の権限をもらつたり、貯水用の農業施設の充実にも力を尽くしました。これらの溜池は今も多くの耕地を潤し続けています。

 橋本は,高野山への入り口の町として,河内国や大 和国へ通じる水陸交通の要として発展していくことになります。

   豊臣時代が終わると、高野山麓を離れ、故郷の近江の国に帰り、飯道寺に隠棲した。
その後は慶長8年(1603年)に連歌の規則や作法を記した無言抄を出版した後、慶長13年(1608年)10月1日に入定し、道寺の「応其上人入定窟」で永眠しています。

 行年73。辞世は「あだし世を めぐり果てよと 行く月の きょうの入日の 空にまかせん」。高野奥の院に程近い場所に廟所がある。

 
 高野口を出発し、一路滋賀県甲賀市信楽に向け、出発。
 
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 バスを降り、しばらく舗装された道を歩いていると「飯道神社」の鳥居があったが、直進する。
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 舗装が途切れた頃より、急坂になり、疲れた頃に野仏の励ましでガンバル。

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 相当、高度が上がった頃、再度「飯道神社」の鳥居が見えたが直進する。

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少し歩くと「応其上人入定窟」に到着。
 
 応其上人の業績を思い浮かべて感謝し、安らかな永眠を祈った。 


 この時、聖武天皇の
紫香楽宮を思い出し5年間に4度も遷都したいう地を一度は訪問したいという思いを その後 やっと実現することにした。

 740年、聖武天皇は平城宮を離れ、恭仁宮(京都府木津川市)に遷都しました。しかし、恭仁京の完成を待たず744年には難波宮(大阪市)、翌745年には紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に都を移しました。有名な大仏建立の詔は紫香楽宮で出され、建立が始まります。ところが同年には都を再び平城宮に戻します。これを「平城還都」とよんでいます。

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 なぜこのように頻繁な遷都が繰り返されたのでしょう? 理由はよくわかっていません。

 740年に九州で起こった戦乱(藤原広嗣の乱)がきっかけとなったとする説が有力です。また、当時、聖武天皇の周辺には伯母の元正太上天皇と橘氏のグループ、妻の光明皇后を中心とする藤原氏の二つの有力勢力が存在していました。恭仁宮のある山城国は橘氏の拠点であり、紫香楽宮のある近江国は藤原氏の地盤です。このように、天皇を取り巻く有力氏族の力関係が遷都に強く影響したとする説もあります。その他 唐に中国を真似て三都制(副都制)を目指したのか?

 相次ぐ遷都は、膨大な労力と資材を必要とし、人々の暮らしにも負担と混乱をもたらしたにちがいありません。

 まず恭仁京

 天平12年(740)10月、聖武天皇は平城京を離れ、伊賀、伊勢、美濃、近江などを行幸して、同年12月、恭仁宮(現、木津川市加茂町)に入り遷都を宣言しました。その後、天平16年(744)2月に難波宮への遷都が行われ、翌天平17年(745)5月には再び平城の地へ都が戻りました。
 恭仁京の都としての期間は足掛け4年とも5年とも短いものでしたが、その間、天平13年(741)には国分寺・国分尼寺建立の詔、天平15年(743)には大仏造立の詔、墾田永年私財法の発布があり、歴史上極めて重要な時期であったといえます。
 恭仁京が廃都となって2年後の天平18年(746)、宮跡の中心部分は、当時、全国的に進められていた国分寺建立の動きに合わせて、廃都跡に国分寺が建ち、山城国分寺として生まれ変わりました。
 

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      国分寺復元模型(山城郷土資料館) 

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七重の塔の礎石

 廃都跡の研究は 京都府教育委員会では、昭和48年度から調査を始め、大極殿や内裏、朝堂院等宮の主要施設の跡を確認し、宮の範囲も東西約560m・南北750mであることが判明し、内部の構造も徐々にわかってきています。
 昭和32年(1957)7月に国の史跡に指定され、平成19年(2007)2月には史跡名称が「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」となり宮跡全体が守られています。

 次は 難波京 です

  前期難波宮は朱鳥元(686)年に起こった火災により焼失しましたが、その後、8世紀になると聖武天皇により難波宮は再建されます。この段階の宮殿遺構が後期難波宮です。

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    上空から見た後期難波宮跡
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   左の建物は大阪歴史博物館  右はNHK大阪
 難波宮跡を調べるために、隣にある大阪歴史博物館に入る。
 10階には 難波宮に関する資料もたくさんある

 9階は中世の大阪の歴史資料を中心に展示している。
 順に階段をおりてくると途中のガラス越に大阪城や難波宮跡が見える。

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    大阪城
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  難波宮 
中央の白い基壇が再建され、いろんな催しに利用されている。
 
 最後は 紫香楽宮
です

  信楽高原鐵道の紫香楽宮跡駅から北西へ約lkm、松林に覆われた丘陵地に残る、国指定の史跡です。 紫香楽宮跡は、奈良時代の天平14年(742)、現在の京都府木津川市に恭仁宮を造営中であった聖武天皇が、恭仁宮から東北への道を開いてこの地に造営した離宮であり、たびたびの行幸の後、3年後に改めて首都と定められました。
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 緑の松林に囲まれた緩い坂の参道をたどると、金堂跡があり、背後を囲むように僧坊跡・経堂跡・鐘楼跡・塔院跡などの礎石が並び、東大寺とよく似た建物配置の寺院跡であることがわかります。
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       金堂跡の礎石
 この寺院は、聖武天皇が紫香楽宮で大仏造立をはじめた甲賀寺跡だと考えられています。

 東西90m・南北110mにわたる広い丘陵地には、建造当時の335個の礎石が残り、はるか天平時代の雅やかな雰囲気が偲ばれます。
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 年の発掘調査により宮町地区に紫香楽の内裏があり、黄瀬・牧地域に広がる各遺跡に役所や寺院、居住ゾーンが分布していたことがわかりました。市街地の規模は、平城京のほぼ半分くらいであろうと推測されています。
 宮町遺跡から出てくる遺跡はヒノキの建築素材、美しい器など、他の遺跡とは比べものになりません。今日まで紫香楽宮とされてきた史跡は、甲賀寺では、と推測されています。
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宮町遺跡中央区 点線部分は朝堂があったと推測される部分


 
都の巡りは終えますが、時間に余裕がてきたので、近くに未だ行っていない茶畑があったので、この機会に見学した。

 和束町(京都府相楽郡)の茶畑です。
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 山の頂上まで、耕作した茶畑。先人の苦労が偲ばれる。

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       素晴らしい幾何学模様


drecom_yama_ya617 at 13:38│Comments(0)ぶらり旅 

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