2019年07月01日
私の足跡 216 空海の足跡を辿る 6
私の足跡 216
弘仁七年(816)
唐から帰国して10年 年令も43才になった。
今まで密教布教の機縁の熟するのを待って、空海は
本格的な密教宣布活動に着手した。
文字通り「雌伏十年」である
先ず、その年の6 月19日 朝廷に「密教を実践する
修禅の道場の建立地として高野山(現和歌山県伊都郡
高野町)の下賜」を願い出た。
朝廷に上奏した文面(性霊性集補闕鈔」によれば「吉
野より南に行くこと一日にして、さらに西に向かって
去ること両日程、平原の幽地あり、・・・・・四面、
高嶺にして、人蹤蹊 絶へたり」」という。
(空海は若い頃 山林修行中に見つけていた所)
(高い山に囲まれて、盆地のの中に…大門・伽藍
・金剛峯寺がある。)
簡単に言えば、高野山はまわりを高い山々にとりま
かれながら、かなり広い平地をなしている。 具体的
にいうと、この地は、東西5・5km ×南北2・2km
の広い平地で、高野山の東半分には、奥の院 西半分
は金剛峯寺と根本大塔をはじめ、壮大な伽藍を林立さ
せることができる。
そして、この平地の周囲を標高約一千mの八つの峰
(八つの神仏 )がとりまいている。
建立の目的は、一つは鎮護国家を祈る道場として、
いま一つは仏道修行者の道場として、密教寺院を建立
することです。
これは、「私の足跡 216」にも書いているが、帰国
時の大嵐にあい、無事に帰らせて欲しいと願った時に
下記のように祈っている。
・・・・帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、國界を
擁護し、衆生を建立利済せんがために、一の禅院を建立
し、法によって修行せん。願わくは,善神護念して、早く本岸
に達せしめよ」
朝廷に下賜を願い出て、1か月以内(7 月8日)に朝廷
より、勅許され た。
伽藍建立の場所として、高野山を選んだ理由とし
ては
禅経の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅宜し
すなわち、密教教論に説かれる密教修行の場所に
一 番適した所 であったからである。
そして、「金剛頂経」の一部にも
一 密教の行に相応しい場所である。
① 「清らかな水が湧き出ていて、そこに足を運
ぶとおのずと心が楽しくなる池・沼・川のほとり
② 毒蛇・毒虫等によって修行の妨げられない所
③ 耳障りな音声・雑踏等が聞こえない所 等
二 きわめて霊的な場所
高野山は インドの霊鷲山 補陀落山のような
霊地によく 似ている。
7 月8日に朝廷より、勅許されると空海は直ちに
弟子の実恵と泰範を高野山につかわした。整地作業
のためであった。
作業がほぼ完了した 弘仁九年(818)十一月、空海
は勅許後初めて 高野山に登り、檀上を結界し、伽藍
配置を定めた。
これは、空海独自の密教理論にもとずく伽藍形式
であり、大自然のなかに堂塔をもって密教空間を創
り出そうとした。
7 月8日に朝廷より、高野山に伽藍建設を勅許さ
れたが、これはあくまでも空海の私寺だから、
建設費用などは全て空海が工面しなければなら
ない。
多分費用工面のため、地方の豪族等に頭をさげ
資金集めをしたと思われる。
弘仁十二年(822) 5月
長い間、ため池の堤防の決壊のため、苦しんで
いた。「百姓恋ヒ慕フコト父母ノ如シ」(人々が
空海を実の父母のように慕っております)と讃岐
の人々の請願書で 讃岐の国満濃池の修築別当を
引き受け、地元の農民たちの懸命の働きで三ヵ月
余りで築堤工事を完成させた。
満濃池は香川県にある農業用としては日本最大
のため池です
この工事で、堤防が内側にせり出したアーチ状
であった。
弘仁十三年(822) 3月
南都仏教を代表する東大寺に灌頂道場(真言院)を
建立し、息災・増益の法を修することを命ぜられ
た。(この頃 平城上皇に灌頂を授けたらしい)
真言院南門
真言院の完成は承知三年(836)頃だった。
灌頂堂
ともあれ、この真言院の建立命令を持って、真
言宗が国から公認されたとみなされる。
天長元年(824)3月
少僧都に直任され,、同6月には造東寺別当に任ぜ
られた。(大僧都には天長四年(827)5月任ぜられる)
この別当補任を持って東寺の建設・運営に自ら
の考えを反映させるようになった。(異説アリ)
このことは、天長2年(836)5月5日付の青龍寺に
あてた実恵等書状に
天皇皇帝、譲りを受けて践祚するに及んで・・
・・帝城東寺を以って真言の寺となし
(嵯峨皇帝の譲りにより、弘仁14年(823)4月16日
淳和天皇が即位した後で、都にあった東寺は真言
の寺になった)と記すことが傍証となる。
教王護国寺に真言宗の僧のみ50人を常住させ、
密教を専ら学修することになった。
東寺は着工してから約30年たっていたが、おそ
らく伽藍の半分もできていなかった。
伽藍配置はすでに決まっていたから建物による
密教空間を創り出すことはできなかった。
(東寺の密教建築の堂宇は、わずかに灌頂院だけ
である。
空海は密教世界を表現するために、堂内の仏像
の安置に工夫をこらした。
講堂にある21体からなる立体曼荼羅と五重の塔に
安置の密教像である。
天長五年(828)12月
綜芸種智院を創る。
この学校の特色は
① 僧侶・貧富・貴賤の別なく入学できる。
② 教師・学生に衣食を支給する。
③ 仏・儒・道の三教の教授
空海の経験にもとづく理想的な教育理念であっ
た。しかし、実態は不明です。
天長七年(830)
淳和天皇の勅に応え、空海の思想を集大成した『
十住心論』十巻 『秘蔵秘宝鑰』三巻を撰述した。
ここには、悟りを求める心(菩提心)の発展過程を
本能のままに生活する状態から宗教心が芽生え、
それがやがて小乗から大乗仏教へと進み、最高の
教えである密教に至る、十住心思想が説かれてい
る。
天長九年(832) 8月
高野山での最初の法会・万燈万華会が修され、
虚空尽き、衆生衆尽き、涅槃尽きなば、
涅槃尽きなば、 我が願ひも尽きん
との大誓願が立てられた。
のちにこの誓願は、入定留身信仰のよりどころ
と された。
承和元年(834)
空海は この年から高野山に隠棲し、没後のこと
を慮り真言宗、東寺、高野山の永続化に向けて以
下の事を願い出て、勅許された。
① 毎年正月に行われる御斎会の期間に宮中で
真言法を修すること。
② 東寺に三綱をおくこと。
③ 東寺に僧供料を置き修講すべきこと。
④ 真言宗に年分度者を養成すること。
⑤ 金剛峯寺を私寺から官寺に准ずる定額寺と
すること。
そして、空海は、承和二年(835) 3月21日
この時点では、高野山は堂宇の建設もままなら
ず(定額寺になったのは1年前)、きびしい自然の中
において静かに62才の生涯を閉じた。
(空海の死の前後については、司馬遼太郎氏作の
『空海の風景』に詳細に記されています。)
後世おこった入定信仰にもとずき、空海の最期
を入定と称している。
延喜二十一年(921)10月27日、醍醐天皇は東寺長
者 観賢の奏請に応えて、空海に「弘法大師」の
諡号(死後に贈られる称号)を贈った。
その報告のために高野山に登山した観賢は、奥
の院の霊窟を開いて禅定の姿の空海を拝し、天皇
から下賜された衣を着せたという。
このころから、空海は高野山に生身をとどめ、
いつもわれわれを救済し見守り続けているとの入
定留身信仰が起こった。これは高野山の浄土信仰
とともに喧伝され、藤原道長・頼道親子、白河・
鳥羽上皇をはじめとする貴顕の荒野参詣を誘発
し、今日の高野山を形成をする原動力となった。
これが、四国八十八ケ所巡礼の「同行二人」(一
人で霊場を巡っているときも、ただの一人ではな
く、いつも空海が寄り添い守ってくれている、と
の信仰)とともに1200年ほど前に永遠の修行に入っ
た大師信仰の根幹をなしている。
私も 200年に四国遍路を 大師との「同行二
人」で参らせていただき、無事に回り終えること
ができました。ありがとうございました。
「同行二人」と同じような行事が今も残っていま
す。
奥の院では、1日2回、お大師様に御膳を届ける
「生身供」が行われています。
お膳のみならず、毎年法要の時に御衣を献じて
います。
日々のお大師さまが、奥の院から姿を現して縁
のあった場所を巡りながら人々を助けている」と
いう意味です。
上記の行事は全て、空海は高野山に生身をとど
め、いつもわれわれを救済し見守り続けていると
という入定留身信仰からのものです。
完