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2019年06月01日

私の足跡 215 空海の足跡を辿る 5



  私の足跡  215 


    空海の足跡を辿る 5 
 
 大同4(809)413日 嵯峨天皇 即位


 
大同4(809)  716 
 空海は 大きな夢を持って 唐に渡るために京を出発し
て以来、5年ぶりに、思い出の京に入った。
 空海は京都に入ると ほどなくして、和気氏創建の高尾
山寺(現在の神護寺)に入ることになった。

 

 
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 まだ続く石段。 長い石段
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 空海が住んでいた大師堂
 空海の住坊跡と言われ、内部の厨子に正安四年
(1302)に作られた
板彫弘法大師像(国の重要文化財)
を安置している。
 高尾山寺は空海の死後、弟子の実恵や真済が別当になる。
 
 
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 最後に石段を喘ぎながら上る。

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 やっと到着。金堂。堂内には 国宝の「薬師如来」

 
高尾山寺と言えば 入唐前、和気氏や桓武天皇等の
力添えで、
南都仏教ではない新しい仏教・天台宗を広
げるため最澄が天台宗についての講演を開き、好評を
得ていました。
 そして、最澄は唐の国から、空海より約1年ばかり
前に帰国し、本来の天台宗ではなく、唐の国だけでな
く、我が国でも人気の密教について講演をしたり、
灌頂をしたりして活躍していた時もあった。

 その最澄の活躍した高尾山寺に空海は正統な密教を
携えて入りました。
 空海は 天台宗の最澄が活躍していた思い出の高尾山
寺を、空海の活動の場にしてもらったり、畿内にもど
るについても世話になった可能性もあり、好意をいだ
いたかも知れません。
 
それに 既に比叡山寺を開創し、内供奉十禅師とな
ったので尊敬していたのでしょう。
 そして、落ち着く間もない8月24日 最澄より、空
海が唐より持ち帰った密教経典12部の借覧を願う手紙
が届いた。
 この手紙を初めとして、数年の間に約40通の借覧書
とか質問の手紙が届いたということです。
 ここで、平安時代の仏教界、日本の仏教史を代表す
る二大巨星(天台宗の最澄・真言宗の空海)の短期間だ
ったが親密な時が続いた。


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     空 海          最 澄
   
  二人の親交と決別の様子を記事にします。


 先ず、手紙の一部を紹介します。。

最澄から空海へ。
 
 春もはじめ(1)なお寒く、遍照(空海)阿闍梨にはお変
りないでしょうか。

 近頃、弟子の最澄、お陰で、つつがなく過ごしております。

  しかし、比叡山でのなすべきことが未だ終わらず、参上
して礼をつくすことも、なお果たさない儘で
あります。
ことさらに怠ってのことではないことを賢察させてお寛恕く
だされば、
甚だ幸せです。私、未だ拝謁する機会を予測
できませんが、
しかし、受法の望みは増々募るばかりで
す。

使者の大三が赴くのに託して、安否をお伺いいたします。

 不宣。謹んでしるします。


 正月十五日                 求法弟子最澄 

                                                状上

 

帰唐遍照阿闍梨法前


 
以上は 最澄から空海への手紙
 
 次は 空海から最澄への手紙

        
 空海自筆の風信帖 (国宝) 東寺蔵  
 

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 先ほどの最澄の返事ではないが、
        空海自筆の手紙「風信帖」です


風信雲書、天自り翔臨す、之を披之を閲するに、雲霧を
掲げるが如し、兼ねて止観の妙門を恵まる 、頂戴供養
せん、攸(ところを)知不 巳に冷かなり伏して惟うに、
法體何如なるや、空海推ること常のごとし。・・・・・

・・・望むらくは煩労を憚からず暫く此の院に降赴せら
れよこれ 望む所望む所。 々不具釈空海状して上る。 
     九月十一日  東嶺金蘭     


 風の(ような)便り、(たなびく)雲の様な美しい筆跡が天より舞い降りた
その様な貴方からの手紙を開きこれを読むと雲霧が晴れる心地がします。
併せて摩訶止観(天台大師の著作)を送られ。授かり御仏に捧げており
ます。(此の事は)身の置き所も無いくらい恐縮しております。このところ
は気候も寒くなり貴方様の御身はお変わりございませんでしょうか。(私)
空海あいも変わらずです・・・・・・・・・・。
・・・…
私の望む所は労苦を厭わず貴方様が私の寺院に暫く逗留していただきたい 
私はそれを望みます。僧侶の空海が伏して奉ります。
謹空


 
 空海から最澄にあてた 尺牘せきとく(書状)3通をおさめ
いる。

最初の尺牘が〈風信雲書〉と始まるので古来《風信
帖》と
呼んでいる。

 初めは 5通が収められていたが,1通は盗難にあ
い,1通は天正年間(1573‐92)に関白豊臣秀次に所望
され進上している。
 現在は京都の東寺蔵。空海が806(大同1)帰朝す
ると,
空海が請来した経典の借用や,真言
の伝授を盛んに依頼しているが,これらの来信
対する返書で,空海の真筆である。




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 空海への手紙。最澄自筆で現存している唯一の手紙
上は伝教大師(最澄)から(
体裁は弟子の泰範だが内心空海の
目にも入ってほしい)
宛てた尺牘手紙で時代は平安時代(9世紀)
の物(弘仁4年813)久隔帖きゅうかくじょう呼ばれる国宝 。   
紙本墨書で縦29.3㎝全長55.1㎝で冒頭の久隔清音から
久隔帖と呼ばれます


 
久く清らか御身に会うえず、慕情は極りなくせめて。安かに和む
事を伝えるむね
とし、しばらく(寂しい)人情を慰ております。
(ところで)大阿闍梨より贈られた詩
の序文の示す所の58(5×8=40)の詩
(伝教大師が40歳を超えたのを祝うため
贈られたこの詩)の序の中に120
礼仏ならびに方円の図ならびに注義等名が
.有り
今、(貴方の詩の返礼に)詩を(私が作詞し)あなたの詩と和して奉りたい
と思いますが、未だに其の知礼仏図者と言う意味をが解りません。
伏して
阿闍梨聞にお尋ねしますが。其の貴方が選んだ所の図義並に
其大意等の
言葉の意味を教えて下さい。其の和するための詩は直ぐに
は作りにくく、(一度)
作詞してしまったからには後に改作はし難いの
です。
ただ(またはおもう)其の詳
しい訳を示し、必す゜和するための詩を造
り、あなたの座席の近くに奉上(差し
上げましょう。謹んで貞聡に託し
て書状を奉ります。和南(※和南とはサンス
クリット語のvavdandの音
写で敬礼の意味です)

   弘仁4年11月25日小法弟最澄状を上(たてまつる) 高尾範阿闍梨所法
近頃、妙法蓮華経のサンスクリット本1巻を得たので。阿闍梨に御覧
頂きたく、
来月9日か10日を以て参上をしたいのです。若し和上に暇が
有れば、必ず
参上したいのです。若し暇が無ければ後で暇が出来るの
をお待まちします。
(私が)思うにただ指南を示して下さい。詳しい訳を
尋ね申上げます。
 


 上記の様に、二人の交友が進んで 一度最澄が空海を訪ね
た時 話が長びき 夜になったので、宿泊して話をしたらし
い。
 その後、最澄やその弟子達は 空海から金剛界と胎蔵界の
結縁灌頂をうけた。
 
この時、結縁灌頂を受けた人達の名前が名簿である空海
自筆の「灌頂歴名」(国宝)が残されている。


 だが 月日が経ってくるとお互いの密教に対する考え方等
の違いが出てきたり、最澄の弟子・泰範の件 それに「理趣
釈経」借覧の件等が重なり、二人の交友は七年間で終わった。

 この頃 空海は南都仏教とも繋がりがあり、多忙であった。
 先ず、弘仁二年(811)乙訓寺の別当就任は早良親王慰霊の
祈禱の効験を期待したためである。(政治的陰謀)
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 次に、川原寺の別当就任は 大同二年(807)おじの阿刀大足
の教え子・仕伊予親王が謀反の罪により、川原寺に幽閉
され、その後 
自ら命を絶つという事件があった。
(政治的陰謀)

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 空海の法力で親王慰霊の祈禱の効験を期待したためである。

 (その後、この川原寺を京都と高野山との往復の宿とし
て嵯峨天皇より賜ったと伝えられています。)

 空海の入京後の天皇・嵯峨天皇との関わりについて
は、橘逸勢や空海と共に当時の三筆と称された天皇は、
空海にしばしば書の揮毫を所望した。
空海はそれに応えるとともに、唐から持ち帰った漢詩集
や法帖,墨蹟などを献上した。

 それで、両者の親密度は深まって行きました。


  

   
 
 
 



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