2019年02月05日
私の足跡 211 空海の足跡を辿る 1
私の足跡 211
空海の足跡を辿る 1
密教の正統な後継者として 日本に真言密教を
伝えた宗教家の空海・弘法大師信仰は時を越えて
語り継がれ、日本人の心に深く根付いている。
小説家の幸田露伴が「・・・大師が我が邦人の
思想史上に遺された功績、我国の思想界に貢献さ
れた分量の大なることは申すまでもない。
・・、その思想の輝きは今に至って猶輝き、其
の信念の火は今猶世に存している。
大師は吾々の思想の上の忘れ可からざる恩人
である。」と話している。
唐の知識人たちをも唸らせる漢詩の達人であ
り、あらゆる書体を自在に操り三筆の一人に数
えられた語学の天才であった。
「満濃池」を治水した技術者であり、庶民も学
べる学校「綜芸種智院」を創設した教育者であ
り・・・・まさに平安時代に現れた天才である。
こんな宗教界のスーパースター・空海が霊場と
して開いた高野山麓で 空海に関わるボランティ
ア活動をしていた。
空海の生き方・考え等を知ることにより、空海
の遺した実地を知りたくなり、また、実地を歩く
ことによって、少しでも近づきたいと思うように
なった。
10年程前、日本国内の空海の修行地と言われる所
を歩き、三度目の四国遍路での「ひとり歩き」で
も 、空海の修行地と言われる所をくまなく歩き
満願した。
それ以後 中国でも 一部だが足跡等を辿って
きた。
今回 その辿った足跡をも書くことにした。
空海の生涯についての参考資料もたくさんあり、
どの資料が正しいか 私に わかり難いことが
多々あるので 意見が分かれている場合は異説あり
とし A と B とし、二つの意見を書きます。
(また、本当かなと思う所には「?」をつけます。
佐伯真魚。これが空海の幼少の頃の名前である。
真魚の父は讃岐地方の豪族の佐伯直田公 母は
学者の家系の阿刀氏。
先ず 空海の生誕地はというと殆どの人は従来
から
A 讃岐の国の善通寺市にあるとされてきた。
異説あり、
五岳山 善通寺の創建は、唐より帰朝された空海が、
御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚
の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、父
の法名「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と
号したと言われています。
この善通寺は 京都の東寺 和歌山の高野山と共
に空海ゆかりの三大霊跡として古くから信仰を集め
ている。
上記の図は 善通寺境内図
これは 伽藍の金堂です。創建期の建物は、永禄元年
(1558)の兵火によって焼失し、元禄12年(1699)
に再建されたものです。
金堂内の中央須弥壇上に座すのが、善通寺の本尊
・薬師如来坐像です。御室大仏師・北川運長の製作で、
元禄13年に完成しました。
像高は3m。ヒノキ材による寄木造で、表面は漆地に
金箔を押しています。
また、眼には水晶を嵌め込んで生気に満ちた表情を
つくりだしています。
基壇から相輪までの高さが約43メートルの五重塔は、
国内の木造塔として3番目の高さを誇ります。創建以
来いくたびかの倒壊、焼失により再建を繰り返し、
明治35年(1902)に完成した現在の五重塔は、4代目
となります。
空海が御誕生された折に用いられた産湯の井戸です。
B この善通寺は 本籍地かも知れないが 生誕地
ではない。その理由はこの当時の婚姻の形態が妻訪婚
であった。そして、阿刀氏は 都か畿内にのみ、住ん
でいた。だから生誕地は 畿内と考えられる。
佐伯直真魚?。これが空海の幼少の頃の名前である。
真魚の生まれた年月日は
A 宝亀5年(774)6月15日に誕生した。異説あり
B 宝亀4年かも 6月15日は不空が示寂した日
真魚の父は讃岐地方の豪族の佐伯直田公 母は学者
の家系の阿刀氏。
空海は幼い頃から数々の伝説がある人物です。
佐伯家では、昔から自分の領地に氏寺を持ち、仏教
に熱心であった。
母方の阿刀一族からも何人もの高僧(玄昉・道教等)
が誕生しており、一族は仏教に熱心であった。
このような仏教に熱心な家庭に育ったから次のよう
な逸話・伝説が生まれたのでしょう。
その一つは、空海が5・6・才の頃 八葉の蓮華に座
り、仏と語る夢を見ていた、また、泥で仏像をつくり
草堂に安置し礼拝するのが常の遊びであった。
次は この近くの73番札所 出釈迦寺前方に我拝師
山が見える。この山は7才の空海(真魚)が「仏門に入
り、多くの人を救えるなら、釈迦如来よ現れてくださ
い.叶わぬのならこの身を諸仏に捧げる」と言って身
を投げたという「捨身ケ嶽」です。(捨身ケ嶽へは、団体
の遍路では時間がかかるし危険だから案内していない)。
しかし いずれも伝承であって史実とみなすことは
できなぃ。だが、これらは空海が昔からいかに常人と
は違うキャラクターであると人々に認識され、いかに
尊敬され、親しみを持たれていたかがわかる逸話と言
えるでしょう。
今回 この「空海の足跡を辿る」で主に参考にさせ
てもらった書物は 下記の通りです。
「空海はいかにして空海になったか」 武内孝善
「弘法大師空海の寺を歩く」 武内孝善
「空海風信帳の謎」 静 慈圓
「空海入唐の道」 静 慈圓
「空海の風景」 司馬遼太郎
「空海をめぐる人物日本密教史」 正木 晃
「伝教大師巡礼」 瀬戸内寂聴
空海の足跡を辿る 1
密教の正統な後継者として 日本に真言密教を
伝えた宗教家の空海・弘法大師信仰は時を越えて
語り継がれ、日本人の心に深く根付いている。
小説家の幸田露伴が「・・・大師が我が邦人の
思想史上に遺された功績、我国の思想界に貢献さ
れた分量の大なることは申すまでもない。
・・、その思想の輝きは今に至って猶輝き、其
の信念の火は今猶世に存している。
大師は吾々の思想の上の忘れ可からざる恩人
である。」と話している。
唐の知識人たちをも唸らせる漢詩の達人であ
り、あらゆる書体を自在に操り三筆の一人に数
えられた語学の天才であった。
「満濃池」を治水した技術者であり、庶民も学
べる学校「綜芸種智院」を創設した教育者であ
り・・・・まさに平安時代に現れた天才である。
こんな宗教界のスーパースター・空海が霊場と
して開いた高野山麓で 空海に関わるボランティ
ア活動をしていた。
空海の生き方・考え等を知ることにより、空海
の遺した実地を知りたくなり、また、実地を歩く
ことによって、少しでも近づきたいと思うように
なった。
10年程前、日本国内の空海の修行地と言われる所
を歩き、三度目の四国遍路での「ひとり歩き」で
も 、空海の修行地と言われる所をくまなく歩き
満願した。
それ以後 中国でも 一部だが足跡等を辿って
きた。
今回 その辿った足跡をも書くことにした。
空海の生涯についての参考資料もたくさんあり、
どの資料が正しいか 私に わかり難いことが
多々あるので 意見が分かれている場合は異説あり
とし A と B とし、二つの意見を書きます。
(また、本当かなと思う所には「?」をつけます。
佐伯真魚。これが空海の幼少の頃の名前である。
真魚の父は讃岐地方の豪族の佐伯直田公 母は
学者の家系の阿刀氏。
先ず 空海の生誕地はというと殆どの人は従来
から
A 讃岐の国の善通寺市にあるとされてきた。
異説あり、
五岳山 善通寺の創建は、唐より帰朝された空海が、
御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚
の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、父
の法名「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と
号したと言われています。
この善通寺は 京都の東寺 和歌山の高野山と共
に空海ゆかりの三大霊跡として古くから信仰を集め
ている。
上記の図は 善通寺境内図
これは 伽藍の金堂です。創建期の建物は、永禄元年
(1558)の兵火によって焼失し、元禄12年(1699)
に再建されたものです。
金堂内の中央須弥壇上に座すのが、善通寺の本尊
・薬師如来坐像です。御室大仏師・北川運長の製作で、
元禄13年に完成しました。
像高は3m。ヒノキ材による寄木造で、表面は漆地に
金箔を押しています。
また、眼には水晶を嵌め込んで生気に満ちた表情を
つくりだしています。
基壇から相輪までの高さが約43メートルの五重塔は、
国内の木造塔として3番目の高さを誇ります。創建以
来いくたびかの倒壊、焼失により再建を繰り返し、
明治35年(1902)に完成した現在の五重塔は、4代目
となります。
空海が御誕生された折に用いられた産湯の井戸です。
B この善通寺は 本籍地かも知れないが 生誕地
ではない。その理由はこの当時の婚姻の形態が妻訪婚
であった。そして、阿刀氏は 都か畿内にのみ、住ん
でいた。だから生誕地は 畿内と考えられる。
佐伯直真魚?。これが空海の幼少の頃の名前である。
真魚の生まれた年月日は
A 宝亀5年(774)6月15日に誕生した。異説あり
B 宝亀4年かも 6月15日は不空が示寂した日
真魚の父は讃岐地方の豪族の佐伯直田公 母は学者
の家系の阿刀氏。
空海は幼い頃から数々の伝説がある人物です。
佐伯家では、昔から自分の領地に氏寺を持ち、仏教
に熱心であった。
母方の阿刀一族からも何人もの高僧(玄昉・道教等)
が誕生しており、一族は仏教に熱心であった。
このような仏教に熱心な家庭に育ったから次のよう
な逸話・伝説が生まれたのでしょう。
その一つは、空海が5・6・才の頃 八葉の蓮華に座
り、仏と語る夢を見ていた、また、泥で仏像をつくり
草堂に安置し礼拝するのが常の遊びであった。
次は この近くの73番札所 出釈迦寺前方に我拝師
山が見える。この山は7才の空海(真魚)が「仏門に入
り、多くの人を救えるなら、釈迦如来よ現れてくださ
い.叶わぬのならこの身を諸仏に捧げる」と言って身
を投げたという「捨身ケ嶽」です。(捨身ケ嶽へは、団体
の遍路では時間がかかるし危険だから案内していない)。
しかし いずれも伝承であって史実とみなすことは
できなぃ。だが、これらは空海が昔からいかに常人と
は違うキャラクターであると人々に認識され、いかに
尊敬され、親しみを持たれていたかがわかる逸話と言
えるでしょう。
今回 この「空海の足跡を辿る」で主に参考にさせ
てもらった書物は 下記の通りです。
「空海はいかにして空海になったか」 武内孝善
「弘法大師空海の寺を歩く」 武内孝善
「空海風信帳の謎」 静 慈圓
「空海入唐の道」 静 慈圓
「空海の風景」 司馬遼太郎
「空海をめぐる人物日本密教史」 正木 晃
「伝教大師巡礼」 瀬戸内寂聴
drecom_yama_ya617 at 16:07│Comments(0)│空海の足跡