2018年08月14日
私の足跡 206 お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 3
お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 3
今回は 恋野地区の中将姫ゆかりの里を中心に歩き、糸の細道を通り橋本駅迄を歩きます。
この恋野の地名は中将姫の「母恋し 恋しの野辺や…」と詠んだ歌から「恋野」の地名が生まれたと言われています、
中将姫は奈良時代の右大臣藤原豊成の娘として生まれたが5歳の時に母を亡くす。
成長するにつれて容姿端麗、英知に富み何事にも優れた女性になったが、豊成が後妻として迎えた照夜は、こうした中将姫に嫉妬し、憎むようになり姫は命まで狙われるようになったため、恋野の雲雀山に逃れ、仏に仕えて住むようになった。
最後は父・藤原豊成と遭遇し、當麻寺に帰ったと言われています。
最初は 中将姫がよく通ったという「糸のかけ橋」を渡る。
雲雀山(太刀捨て山)
豊成が後妻として迎えた照夜は、中将姫に嫉妬し、憎むようになり姫は命まで狙われるようになった。
殺すように命を受けた嘉藤太(かとうた)は 姫を誘い出し、奈良の都を出た。しばらくして大和と紀伊の国境近くにある雲雀山(ひばりやま)まできたが、どうしても殺すことができず 持ってきた太刀を捨てて この恋野地区で姫と共に生活をした。そして 姫が父と再会する。
「雲雀山(ひばりやま)」という地名ですが同じ名前の山が和歌山県有田市糸我町にもあり どちらにも、中将姫にまつわる言い伝えが残されています。
福王寺。
中将姫が建立した三つの庵を合併して宝暦8( 1758)年に建立. 中将姫の位牌が安置されている。
中将姫が地元民に感謝して、氏寺「栄山寺」(奈良県五條市)が見える森に、観音像を祀ったとされる 「中将ケ森」に立ち寄った。
往時をしのぶ幹周り約4メートルの椎の巨木や、蓮糸(はすいと)で姫が曼荼羅を織ったとされる、蓮を 植えたという「姿見池」などがある。
恋野地区といえば 「紫陽花「」を村をあげて」 植栽し、アジサイ祭をしています。
同園では毎年、アジサイの見頃を迎える6月中旬~下旬に多くの観光客が訪れ、あじさいまつりは平成20年からこの時期に、地元住民らでつくる中将姫旧跡保存委が実施している。
この恋野地区といえば もう一つ若者で有名な二人がここが出生地で 石碑も建っている。
一人は 俳優・タレントでテレビ・映画等で活躍中の「溝端淳平」さん
もう一人はプロ野球選手で横浜の中心バッターの筒香嘉智選手です。
恋野地区から糸の細道を通り、旧橋本に入る。
織田秀信終焉の地(墓所)の碑がある。
0 織田秀信とはどんな人物かを書いてみる。
織田信忠の嫡男で信長の嫡孫。
天正8年(1580年)織田信長の嫡孫として岐阜城に出生。
幼名三法師といい、清州会議の結果、羽柴秀吉の推挙で3才で織田家を後継。安土城で成人の後、岐阜
城主となり、秀吉の「秀」をもらって秀信と改名した。関ヶ原の戦いで落城し、秀信は自害を決意したが、福
島正則らに諌められ剃髪得度、高野山にのぼる。かつて祖父・信長が高野聖を迫害したため、聖派に追
われ、山麓の向副村に閉居した。村人の情で善福寺の一隅に住み、村の娘と結婚して一子をもうけ、幸せ
な日々を送ったが、慶長10年(1605年)5月8日病気のため秀信は26年の短い生涯を閉じた。 諸説有り。
織田秀信の墓
橋本市向副村の墓石は 自然石
高野山光臺院にある墓石は 花崗岩の五輪