2018年07月11日
私の足跡 205 お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 2
私の足跡 205
お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 2
今回は 橋本駅から高野口駅までを歩く
最初は 相賀大神社に参拝。
4箇村(市脇・東屋・寺脇・野)の産土神。江戸時代後期の社号は「総社三部明神社」と記されて
いる。
相賀荘が根来寺領であった時、荘の鎮守として勧請した。『高野参詣記』によれば、平安時代、関
白藤原頼通が高野山へ参詣する際に休憩のために立ち寄った時、境内で惣社の市と呼ばれる市場が
開かれていたと記されている。
境内には、正平10(1346)年の年号の入った石灯籠があり、和歌山県の指定文化財になっている。
梵鐘も残されており、元禄13(1700)年と記されており、江戸時代の代表的な作品として、橋本市の指定文化財になっている。
本殿裏には、橋本市の文化財に指定されている、「市脇相賀古墳群」が散在している。現在、8基の古墳が確認されている。
次は 同じ相賀壮内の銭坂城へ。領主は 生地岩見の守です。
紀伊續風土記によると、生地氏は本姓坂上氏で、坂上氏は相賀荘下司である。
承久年間(1219-22)坂上朝澄の時、軍功によって「禿村東岡」(現在の学文路)に畑山城を築いた。
その後、生地氏は伊都郡司として楠木正成と婚姻関係を結び、河内千早・赤坂城などの戦いに加わり、以降も南朝に属して没落した。
応永年間(1394-1428)畠山基国に属し、足利義満が旧地を与えられ、永享年間(1429-41)畑山城をこの地(相賀荘)に移し、相賀新城と称して、居城としたのが始まりである。
日本城郭全集では、坂上田村麻呂の子孫 生地俊澄が築いた城とされている。
畠山氏滅亡後は織田・豊臣両氏に属して没落した。
橋本市には 奈良白鳳時代の廃寺跡 が3ケ所?あったらしいが、二つの廃寺跡が残っているので
見学する。
一つ目は 神野々廃寺跡です。
付近からは、八葉複弁蓮華文の軒丸瓦が出土しており、川原寺や本薬師寺の瓦と同じ系統であることから、7世紀後半の白鳳時代の寺院のものといわれている。
この礎石は巨大なもので、地表に見えている部分の長さは約3m、また心柱を立てた穴は直径80cm以上90cm近くもあります。これほどの大きな礎石は珍しいのではないでしょうか。心柱の直径も80cm以上というと相当大規模な塔だったと思われます。他の建物の様子が判らないというのが残念です。
二つ目は 名古曽廃寺跡です。
建物の中に「護摩石(ごまいし)」と呼ばれる大きな石が残されています。その昔、祈親上人(きしんしょうにん)がここで護摩を修したとの言い伝えによりこの名があります。
この石は長さ223センチメートル、幅133センチメートルで、中央に直径44センチメートルの心柱を受ける孔、さらにその中に仏舎利(ぶっしゃり)をおさめる孔がうがたれています。これは古代寺院の塔の心柱をすえる心礎(しんそ)と呼ばれる礎石で、平成元年度の発掘調査によって一辺が約9メートルの規模をもつ塔跡であることが確認されました。
平成2年度の発掘調査によって、塔跡の西側から東西約15メートル、南北約12メートルの規模をもつ金堂跡が確認されました。これにより東に塔、西に金堂を配する法起寺式伽藍配置(ほっきじしきがらんはいち)であったことが明らかになりました。こうした発掘調査の結果に基づき、現地に基壇や礎石が復元され、史跡公園として整備されています。
金堂跡から塔跡を見る
三つ目の廃寺跡は 古佐田廃寺跡だが 今の所 不明である。
次は この名古曽廃寺跡の近くで 農作業をしていて、 偶然見つけたものです。
昭和38年に名古曽廃寺の付近の一里山から発見された三彩骨蔵器。これは窯業史上貴重なもの で、光沢、色彩ともすばらしく、国の重要文化財に指定されています。 現在は国立京都博物館に保存されており、産業文化会館アザレアに実物大のレプリカが展示されています。
最後に 国の重要文化財に指定された昭和12年築で現役の高野口小学校の見学をする。
これだけの小学校を当時の高野口町が建てたということは、この地域の繁栄ぶりがうかがえる。高野口町は高野山への参拝の起点として古くから栄えた町である。さらに、最盛期には日本全国のパイル織物の80%を生産し、 パイル織物産業が盛んになっていく途上の時期に小学校が建てられた。