2018年07月06日
私の足跡 204 お宝拝見! 橋本市の文化財探訪 1
私の足跡 204
お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 1
今回より、歴史の古い自分の住んでいる橋本市の文化財を 市民に案内をするという企画をたて沢山のお客様を案内しました。
より、詳しくということで7回に分けた。そして 各地の行事等も考慮して日程も立案したのが良かったと思う。
第1回 1月 23日 (水)
隅田駅に9時に集合し、最初の見学地の隅田八幡神社にお参りして宮司様より説明をして頂きました。
貞観元年(859年)に、神功皇后が外征後、筑前国から紀伊の衣奈浦(日高郡由良町)を経て大和の都に御還幸の途中、八幡社を勧請したのが創祀であるといわれています。
隅田八幡神社に伝わる青銅鏡「国宝・人物画象鏡」は、直径19.8cm・重さ1434gあり、背面内区には人物や騎馬像をあらわした画像文が描かれ、外区には48文字からなる銘文が鋳出されています。
次は 建物は国の重要文化財に指定されている利生護国寺に参拝。住職さんの案内で本堂へ。ご本尊の大日如来の前に集合し、住職さんのお話を聞いていると雨が降り出した。
予定では 外の庭を借りて 昼食をとお願いしていたが雨のため 住職さんの好意でご本尊の大日如来の前で頂くことにした。
この松は、太閤駒繋ぎの松と言われ、豊臣秀吉が高野参詣のおり馬を繋いだものと言われています。
食事が終わる頃 雨も止み 次の見学地 暗闇峠に向かう。
峠といえば 坂を登って 下る所だが ここは その逆さまで峠の文字も上のように書いている。
ここもかつては鬱蒼と木々の茂る風景だったのだろう。
でも、普通の峠と同じように茶店もあり、峠には名物「夫婦饅頭」が売られ賑わった所であったと「紀伊名所図会」にある。
奈良の都から和歌浦への行幸に付き添った人が「妻」という在所に来た時に詠んだ万葉集です。
紀の国に
止まず 通はむ
妻の杜
妻よしこせね
妻といひながら
次は この付近では最大の古墳「陵山古墳」の見学。
直径は約45メートルにも及ぶ和歌山県下最大の円墳です。墳丘は3段に築成され、周囲には周濠(しゅごう)がめぐらされています。石室は石材を小口にして持ち送りに積み上げられたもので、南東方向に開口しています。入口から羨道部(せんどうぶ)を通り玄門(げんもん)とみられる狭まった空間を経て遺体を葬った玄室(げんしつ)に至ります。
石室羨道部から内部を見る
この古墳の築造年代は5世紀末から6世紀初め頃と推定されています。近年、開口している石室羨道
部の壁が噴き出し、崩壊の危険が高まったため石室内に砂を充填する措置がとられました。
次の見学先は 応其上人が里の寺を再建したといわれる「応其寺」です。
木喰応其上人は、秀吉と交渉して高野山を戦火から守っただけではなく、秀吉の熱い信任を得て金堂の再建や数々の寺社の建設・改修をして、高野中興の祖と呼ばれます。また紀の川を渡るこの地に橋をかけ、橋本の名の由来となる事業も手掛けます。
橋本は、秀吉を後ろ盾にした応其の安定した統治によって急激に発展することとなる。応其は、大和・紀伊・和泉など領地であった弟の豊臣秀長と親交が深く、その時期に様々な寺や宝物の寄進のほかに、大きな特権を得ている。
その秀長が橋本の町に認めた特権が「永代諸役免除」(永久免税)と、「塩市の開設」である。
本日の最後の見学先は 真言律宗「妙楽寺」です。
妙楽寺は弘法大師・空海の創建と伝えられる。市教委によると、入り母屋造りで本瓦ぶきの鐘楼門(高さ約6・5メートル)は、鬼瓦の銘から江戸時代中期の宝暦9(1759)年に建立されたとされる。 屋根にはシャチホコが施され、2階部分に鐘がつるされている。
木造建築としては市内で唯一の鐘楼門形式の建造物で、江戸時代中期の建築文化や意匠、技法を伝えているため、市指定文化財に決まった。
本堂は老朽化のため取り壊されたが、平安時代後期とされる本尊の木造薬師如来坐像2体と木造大日如来坐像1体(3体とも 県有形文化財)は市郷土資料館に寄託されている。
drecom_yama_ya617 at 08:50│Comments(0)│橋本市の探訪