2017年03月14日
私の足跡 200 中・下高野街道を歩く 4
私の足跡 200
中・下高野街道を歩く 4
私のブログも200回を迎えることができました。これは、皆様のアクセスとコメントの励ましのお陰です。今後とも、よろしくお願いいたします。(途中、パソコンの調子が悪くなり、しばらく 休憩していたことをお詫び致します。)
街道歩きを始めた当初は、街道(古道)歩きの目標を3000kmとしていたが、これをを越えたので 次の目標を街道(古道)歩き3500kmとしたが 先日これも越えたので 現在 街道(古道)歩き、4000kmを目標にして歩いています。
私の街道ウォーク(3500km)の足跡
橋本市周辺の道路で太線の部分は 複数回以上歩いた道路。中には10回以上もある。
四国遍路は同行二人(一人遍路)(10回に分け) 私の足跡 43~53迄
小豆島遍路は半分は同行二人 往は夜行を3回使い7日間
東海道 と 中山道は仲間三人と (大河ドラマの放送の頃) 各 1年間
私の足跡66~84 私の足跡54~63
3000キロメートルとは どれだけの距離か
直線距離では 日本列島の北端「宗谷岬」から鹿児島の佐多岬まで 1,888km
車での距離では 日本列島の北端「宗谷岬」から鹿児島の佐多岬まで 2、960km
鉄道での距離は日本列島の北端「稚内駅」から鹿児島の西大山益まで 3,124km
3500㎞ を一日に歩く距離を20㎞とすると175日歩いたことになる。一年間の半分を歩いたことになる。(自分では 何という人生を過ごしたのかな 思います)
今回は 中高野街道の最終回。
12月15日 前回のゴール・JR平野駅を9時にスタートし、杭全神社から守口駅迄歩く。(この平野と守口間の街道は「放出街道とも言われている。)
先ず、杭全神社に参拝し、本日のウォークの無事を祈る。
杭全神社
平安時代初期坂上田村麻呂の孫当道(とうどう)が素戔嗚尊を勧請して第一殿に平野郷の氏神として祀り、創建したと伝えられている古社です。
鎌倉時代初めの建久元年(1190)には、熊野権現を勧請して第三殿に祀り、さらに後醍醐天皇の勅命で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を第二殿に祀った。3社殿とも、国の重要文化財です。
巽神社
中・下高野街道を歩く 4
私のブログも200回を迎えることができました。これは、皆様のアクセスとコメントの励ましのお陰です。今後とも、よろしくお願いいたします。(途中、パソコンの調子が悪くなり、しばらく 休憩していたことをお詫び致します。)
街道歩きを始めた当初は、街道(古道)歩きの目標を3000kmとしていたが、これをを越えたので 次の目標を街道(古道)歩き3500kmとしたが 先日これも越えたので 現在 街道(古道)歩き、4000kmを目標にして歩いています。
私の街道ウォーク(3500km)の足跡
橋本市周辺の道路で太線の部分は 複数回以上歩いた道路。中には10回以上もある。
四国遍路は同行二人(一人遍路)(10回に分け) 私の足跡 43~53迄
小豆島遍路は半分は同行二人 往は夜行を3回使い7日間
東海道 と 中山道は仲間三人と (大河ドラマの放送の頃) 各 1年間
私の足跡66~84 私の足跡54~63
3000キロメートルとは どれだけの距離か
直線距離では 日本列島の北端「宗谷岬」から鹿児島の佐多岬まで 1,888km
車での距離では 日本列島の北端「宗谷岬」から鹿児島の佐多岬まで 2、960km
鉄道での距離は日本列島の北端「稚内駅」から鹿児島の西大山益まで 3,124km
3500㎞ を一日に歩く距離を20㎞とすると175日歩いたことになる。一年間の半分を歩いたことになる。(自分では 何という人生を過ごしたのかな 思います)
今回は 中高野街道の最終回。
12月15日 前回のゴール・JR平野駅を9時にスタートし、杭全神社から守口駅迄歩く。(この平野と守口間の街道は「放出街道とも言われている。)
先ず、杭全神社に参拝し、本日のウォークの無事を祈る。
杭全神社
平安時代初期坂上田村麻呂の孫当道(とうどう)が素戔嗚尊を勧請して第一殿に平野郷の氏神として祀り、創建したと伝えられている古社です。
鎌倉時代初めの建久元年(1190)には、熊野権現を勧請して第三殿に祀り、さらに後醍醐天皇の勅命で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を第二殿に祀った。3社殿とも、国の重要文化財です。
巽神社
「社伝によれば、巽神社は応神天皇を奉り旧河内国渋川郡大地(おおぢ)村にあり、八幡(はちまん)神社といわれていました。創建年代は明らかではありません。
巽町役場跡の碑があった。
明治22(1889)年に町村制が施行されたとき、矢柄村・伊賀ヶ村・西足代村・四条村・大地村の5つの村が合併し、大阪城から見て、巽(東南)の方角に当たるところから「巽村」となった。昭和三十年四月大阪市に合併されるまで役場があった
境内に「雁塚」と呼ばれる二基の石塔がある。
諏訪神社
正因寺(鶴見区放出東1)前に建つ中高野街道の石柱と案内板
式内「高瀬神社」
「この神社は、延喜五年(905)から延長五年(927)にかけ作成された延喜式神名帳に記載されている由緒ある古社であります。祭神は天御中主命で、旧の世木・馬場村の氏神であります。天正年間(1573~92)に織田・三好の兵火で焼かれたものの、その後再建され」、江戸中期頃に建てられたのが現在の社殿であります。江戸時代には、神殿その他すべて備わった大社で八幡宮とも呼ばれていました。
本日のゴール 京街道の「文禄堤」に到着。以前 京街道を歩いた時を思い出す。