2016年11月30日
私の足跡 194「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加遺産
私の足跡 194
今年 「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産に追加登録された道です。
不動坂
私の足跡 122 の再掲です。
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅲ-2
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
前回の続き 京 大阪道の極楽橋から大門までを書きます。

朱塗りの極楽橋を渡る

そして 従来の不動坂を登る
![f-015[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/a/fae441bc-s.jpg)
今回は 江戸時代によく使われていたが 大正4年頃から 約100年間埋もれていた登山道を登ることにする。この道(赤い色の道)は 最近整備された。

1915年 高野山開創1100年記念大法要が行われるので大勢の参詣客のため、急勾配でなく広くて歩きやすい道をつくった。そのため 旧道は使われなくなった。

この難所を登る人を助ける「腰押し」や「荷物持ち」などの仕事をする人も多くいたそうです。また 牛にロープをつけそれを持ち引っ張ってもらう人もいたそうです。
![dscn3073[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/4/04f6dae6.jpg)
整備前の道路
![p1130742[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/2/f204d009.jpg)
整備後の道路


上記の場所とか「稚児の滝」とかの名所もあります。
![p1130745[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/b/2b036104.jpg)
右 加みや(神谷) まきのを(槇尾) いせ 京 大阪
「寛政四子年七月立」「南無大師遍照金剛」の石柱あり。100年の間 倒れていたそうです。

現在の清不動 新しい道を造ったため、旧不動坂より大正時代につくったこの道に新しく造ったもの。

旧不動坂に建てられていた。山内の不動堂と区別するため 「外不動」と言われていた。これを移築して現在は「清不動」と言われている。

また 旧不動坂を登っていくと花折坂の石の花立てがある。これも100年の間 倒れていたそうです。

仏像が祀られている。

京 大阪道の終点 女人堂に到着。以前は高野七口の全てに女人堂が建てられていたが、現在残っているのはここだけ。この近くに 小杉明神やお竹地蔵が祀られています。
高野の町を囲むように 女人禁制の時代に女人のための女人道があるが 今回その一部を上の女人堂から大門迄を歩くことにする。

ここにも 女人堂があった。「谷上女人堂跡」

もくもくと弁天岳の頂上をめざす。

高野山には 七つの弁天様が祀られているが ここのは弁天岳の弁天様で通称「岳弁」と言われている。

頂上(985m)からの遠景の素晴らしさにウットリ。

もう一つの絶景ポイント。大塔が見える。昔の女人は この女人道からしか拝めなかったからどんな気持ちで眺めたことだろう。首をロクロのように伸ばして眺めたというロクロ峠があるが こんなに遠い所からでも何日もかけて登って来てお大師さんの修行地を眺めて涙を流した人も多くいたことでょう。
![10photo01[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/5/a5f0a50e-s.jpg)
今回のゴール大門。 創建は 江戸時代

今年 「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産に追加登録された道です。
不動坂
私の足跡 122 の再掲です。
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅲ-2
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
前回の続き 京 大阪道の極楽橋から大門までを書きます。

朱塗りの極楽橋を渡る

そして 従来の不動坂を登る
![f-015[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/a/fae441bc-s.jpg)
今回は 江戸時代によく使われていたが 大正4年頃から 約100年間埋もれていた登山道を登ることにする。この道(赤い色の道)は 最近整備された。

1915年 高野山開創1100年記念大法要が行われるので大勢の参詣客のため、急勾配でなく広くて歩きやすい道をつくった。そのため 旧道は使われなくなった。

この難所を登る人を助ける「腰押し」や「荷物持ち」などの仕事をする人も多くいたそうです。また 牛にロープをつけそれを持ち引っ張ってもらう人もいたそうです。
![dscn3073[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/4/04f6dae6.jpg)
整備前の道路
![p1130742[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/2/f204d009.jpg)
整備後の道路


上記の場所とか「稚児の滝」とかの名所もあります。
![p1130745[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/b/2b036104.jpg)
右 加みや(神谷) まきのを(槇尾) いせ 京 大阪
「寛政四子年七月立」「南無大師遍照金剛」の石柱あり。100年の間 倒れていたそうです。

現在の清不動 新しい道を造ったため、旧不動坂より大正時代につくったこの道に新しく造ったもの。

旧不動坂に建てられていた。山内の不動堂と区別するため 「外不動」と言われていた。これを移築して現在は「清不動」と言われている。

また 旧不動坂を登っていくと花折坂の石の花立てがある。これも100年の間 倒れていたそうです。

仏像が祀られている。

京 大阪道の終点 女人堂に到着。以前は高野七口の全てに女人堂が建てられていたが、現在残っているのはここだけ。この近くに 小杉明神やお竹地蔵が祀られています。
高野の町を囲むように 女人禁制の時代に女人のための女人道があるが 今回その一部を上の女人堂から大門迄を歩くことにする。

ここにも 女人堂があった。「谷上女人堂跡」

もくもくと弁天岳の頂上をめざす。

高野山には 七つの弁天様が祀られているが ここのは弁天岳の弁天様で通称「岳弁」と言われている。

頂上(985m)からの遠景の素晴らしさにウットリ。

もう一つの絶景ポイント。大塔が見える。昔の女人は この女人道からしか拝めなかったからどんな気持ちで眺めたことだろう。首をロクロのように伸ばして眺めたというロクロ峠があるが こんなに遠い所からでも何日もかけて登って来てお大師さんの修行地を眺めて涙を流した人も多くいたことでょう。
![10photo01[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/5/a5f0a50e-s.jpg)
今回のゴール大門。 創建は 江戸時代
