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2016年05月27日

私の足跡 188 橋本から古道を通り平城京へ 2 


私の足跡 188 

    橋本から古道を通り平城京へ 2

 3日目(2月16日)

  今回は 北宇智駅を出発し、葛城古道を通り、御所駅まで今回最長の約15kmを歩く。


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  高鴨神社(たかかもじんじゃ)は、奈良県御所市金剛山東山麓にある神社式内社名神大社)。社格は県社。京都の賀茂神社上賀茂神社下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社と称する。
 4月中旬から5月初旬にかけて500種2,200鉢以上の
日本サクラソウ
が咲く。


 次の見学地は 高天彦神社

高天彦神社(たかまひこじんじゃ)

 高天原を訪れた方が真っ先に向かうのがこの高天彦神社(たかまひこじんじゃ)。社務所もなく、それほど大きくない神社ですが、境内に立つと何とも言えぬ威厳を感じずにはおれません。それ程、参拝客を見かけることはありませんが、全国からこの神社をたずねてこられる方が後を絶ちません。

高天彦神社の参道

樹齢数百年の杉並木の参道を抜けると、高天彦神社の境内に辿り着きます。

神話のムード漂う高天彦神です。

高天彦神社のご祭神

高天彦神社案内板

 ご祭神は高皇産霊神(タカミムスヒノカミ・タカミムスビノカミ)で市杵島姫命と菅原道真も祀られています。 高天彦とはタカミムスヒノカミの別名だろうと言われています。

延喜式には高天彦神社。月次・相嘗・新嘗。とあり4度の官幣に預かっています。 社殿は三間社神明造り・明治十年の建築だそうですが、築年数以上の風格を漂わせています。


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 鶯宿梅は高天彦神社の参道前にある梅の古木です。その昔、高天寺で修行をしていた小僧が若くして亡くなり その師が嘆き悲しんでいたところ、梅の木に鶯がきてホーホケキョではなく、 「初春のあした毎にはくれども あはでぞかえるもとのすみかに」 と鳴いたそうです。 それ以来、この梅を鶯宿梅(おうしゅくばい)と呼ぶようになったと伝えが残ります。

                                                                       
(     )
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次は 九品寺に参拝 

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 九品寺は葛城山の懐に抱かれて静かにたたずんでいる。奈良時代、聖武天皇の詔に奉じて行基 (ぎょうき)が開基したお寺である。室町時代の兵火をまぬがれて、今に残っているという。本尊の阿弥陀如来坐像は藤原時代の作で国の重要文化財に指定されている。 優しい円満な姿で気品が高く稀にみる優秀作であるとの評判が高い。


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 この寺は境内や本堂の裏山に数多くの石仏があることで有名である。これらの石仏を総
称して千体石仏と呼んでいる。実数は1600体とも1700体といわれているが、 現在も出土しており、その数は定かではない。南北朝時代にこの地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方について北朝側と戦ったとき、地元の人たちが味方の身代わりとして奉納したもで、そのことから身代わり石仏とも呼ばれている。 


 次は 葛城古道の北端にある六地蔵石仏に到着。()

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 人々は度重なる災害や疫病から逃れるために、さらには来世の極楽浄土を願う強い信仰心から、この巨石に六体の地蔵を彫ったという。 

  



 4日目 (3月1日)

 JR御所駅を東方に進んだ所に 「御所まち」がある。
 御所町は、江戸時代に構成された陣屋町です。その後も奈良中南部の中心地として繁栄を誇ってきた。川を挟んで商業都市の西御所、寺内町の東御所からなっている。
 江戸時代の地図が今でも使えるほど、よく残っている。「背割り下水」までも残ったている。

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 東西南北の四隅には 町の入口があり 入口には高札場と悪い病気などが入って来ないようにとお地蔵がある。どの入口も 街道から直接町の中を見れないように遠見遮断があり、今でも1ヶ所残っている。

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 以前使用していた郵便局と商店蹟。

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 おおきな白壁の建物が続き、道路が碁盤の目のように整然と建てられている。
 瓦には 鬼瓦や鐘馗さん、うだつ,虫籠窓等楽しかった。

 見学には 時間が足らなかったが、次の見学地「吉祥草寺」にお参りする。

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 吉祥草寺は 役行者の開基(白鳳時代)と言われ寺院。また、誕生の地とも言われる。

 毎年の正月の「吉祥草寺の大とんど法要」は有名で国の無形民俗文化財に指定されている。


  ここから 約一時間歩いて 薬の町「高取町」を目指す。


 薬の歴史は古く 万葉時代からと言われる。

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  江戸時代には 薬を庶民にも広まり、元禄期には 家庭配置薬業( 先に薬を使い、代金後払い) が始まったと言われる。

  今回は 参加者に「高取の人形祭り」を見てもらうため、人形祭りの初日に催行した。
  11時に到着。40分昼食。その後 集合場所と時刻を決め、自由見学とした。



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 普通は 各家庭の縁側や玄関に並べているが 公民館等に集めているのもある

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 ここは 高取藩の領地で 各侍の下屋敷がたくさん残っています。
 このような武家屋敷がほかにもあり、楽しく見学できる。

 江戸時代より高取藩の御殿医をされていた医院に高取藩主屋敷表門が移築され重厚な門構えの医院・石川医院。

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子孫が 現在も居宅医院としい開業されている。
皮膚科が専門で アトピーの診察治療で全国に有名らしい。

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石畳の町筋とともに城下町の雰囲気を醸し出している。

約束の集合じこくには 時間が短かった人もいたが 全員集合。

すぐ近くの小嶋寺に参拝。

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 この小嶋寺は 往時は 近郊の壺阪寺と双璧の寺と言われていたが、今は、その面影がない。
752年の創建で 21坊の伽藍を誇った時代もあった。(言い伝えによると 京都の清水寺はここの住職さんが京都に行ったとき 霊感を感じ建てたのが清水寺のはじめとある。)

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 これは 高取城の二の門を移築したもので、現存する高取城の唯一の建造物の一部。

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本堂には 重文の十三重の塔もある。
このお寺の自慢は 国宝の「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」があることです。
この紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図は、別名小嶋曼荼羅とも呼ばれ日本三大曼荼羅の一つで平安前期の作です。言い伝えでは 嵯峨天皇が空海からもらって朝廷で祀っていたのを後の天皇が願いが叶えたので この寺に贈ったとある。 実物は 奈良国立博物館に所蔵されている。

 現在 堂内には左右に天井に届くほどのレリーフを見ることが出来るそうです。ただし、この寺は 現在無住でなのでいろいろ手をつくしたが見学することは出来なかった。(だれか 教えてください) 




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