2015年02月07日
私の足跡 172 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅴ
私の足跡 172
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅴ
Ⅴ 道明寺駅から滝谷不動駅へ 2月 2日
今回は 前回終了時の道明寺駅から滝谷不動駅へ向けて歩く。
先ず 天満宮に行き、参拝と見学。
もともとこの地は 土師氏の氏神であった。土師氏は後に菅原姓を名のるようになった。
平安時代 一族の菅原道真が太宰府に流され、没すると都に天災や疫病が続いた。道真の怒りだということで 京都の北野に天満宮が造られ これが天満信迎の始まりです。
伝えでは 菅原氏(土師氏)の出身地であり、道真の伯母・覚寿尼の住む土師寺に天神(道真)を祀ったのが、天満宮としての神社の起こりだといわれます。この後、土師寺は「道明寺」と名前が変わります。
「道明」というのは、道真の号(別の名、雅号)だったのです。
天満宮と言えば 梅。道明寺天満宮も他の天満宮と同じく、梅の花の時期には多くの参拝客がお参りすることでしょう。
仁徳天皇陵に次ぐ 面積が2番目で 体積が全国1位の巨大な応神天皇陵を見ながら誉田八幡宮に到着。
白鳥神社は 日本武尊に関わり、日本各地に鎮座する。
羽曳野市の白鳥神社は 日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。
明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その祭神である饒速日命、
広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。
「右近の橘」「左近の桜」もあり、また 大きな狛犬もあり立派な神社であった。
境内には 古戦場跡の碑があり、当時の様子がわかった。
しばらく 歩くと東高野街道と竹内街道の交差点があった。4年前T氏と2日間かけて、竹内街道を歩いたのを思い出す。
市民会館での昼食後、本日のメインである富田林の寺内町に到着した
大阪府南東部の南河内(みなみかわち)地方に位置する富田林 (とんだばやし)市。中心部の旧市街地には江戸時代中期以降に建てられた民家(商家、町家)が約40軒、往時の姿そのままに保存・継承されています。富田林の名前の由来にもなった、富田が芝と呼ばれた荒地は、今から約450年前、戦国時代の最中に興正寺別院 (一向宗・浄土真宗)を中心に宗教自治自衛都市・寺内町 (じないまち)として開発され、発展しました。今も戦国時代の東西南北の碁盤目状の町割(都市計画)を留めています。
途中 興正寺別院の本堂に入らせてもらって 貴重な襖絵を見せてもらう。
この襖絵は 幕府御用絵師として江戸城本丸 御所等の障壁画制作に参加した狩野寿石「竹梅図」と「松図」です。
17世紀後半に入ると中世・寺内町としての性格は失いつつも、南河内地方における、米、酒造、木綿、菜種油、木材などの商品作物の交易・流通の中心地、近世・在郷町として大きく栄えました。往時の繁栄が偲ばれる大店の商家は、建築年代が江戸時代中期から昭和初期に亘り、建築様式や外観も少しずつ異なっており、それぞれが個性的な表情を見せています。伝統的建築物は、国の重要文化財に指定された(旧)杉山家住宅や興正寺別院、さらには大阪府有形文化財に指定された仲村家住宅をはじめ、文化遺産として極めて貴重で価値の高いものです。幸いにして戦災から免れ、高度成長期の開発の波も受けず、寺内町地区一帯は昔ながらの外観を残しています。
旧杉山家住宅 建築年代 1644年(寛永元年)
昭和58(1983)年 国の重要文化財指定
興正寺別院 建築年代 1638年(寛永15年)
平成26年(2014)年 国の重要文化財指定
珍しい 三階建の蔵
木口家住宅
建築年代 1735年(宝暦3年) 木綿問屋
史跡見学なら、ここの見学は マップを片手に半日を当てて 見学する値打ちがある。
私達は 街道歩きだから ゆっくりしていられないから本日の到着駅「滝谷不動駅」に向かって出発した。
そして 予定通りに 無事 到着した。
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅴ
Ⅴ 道明寺駅から滝谷不動駅へ 2月 2日
今回は 前回終了時の道明寺駅から滝谷不動駅へ向けて歩く。
先ず 天満宮に行き、参拝と見学。
もともとこの地は 土師氏の氏神であった。土師氏は後に菅原姓を名のるようになった。
平安時代 一族の菅原道真が太宰府に流され、没すると都に天災や疫病が続いた。道真の怒りだということで 京都の北野に天満宮が造られ これが天満信迎の始まりです。
伝えでは 菅原氏(土師氏)の出身地であり、道真の伯母・覚寿尼の住む土師寺に天神(道真)を祀ったのが、天満宮としての神社の起こりだといわれます。この後、土師寺は「道明寺」と名前が変わります。
「道明」というのは、道真の号(別の名、雅号)だったのです。
天満宮と言えば 梅。道明寺天満宮も他の天満宮と同じく、梅の花の時期には多くの参拝客がお参りすることでしょう。
仁徳天皇陵に次ぐ 面積が2番目で 体積が全国1位の巨大な応神天皇陵を見ながら誉田八幡宮に到着。
白鳥神社は 日本武尊に関わり、日本各地に鎮座する。
羽曳野市の白鳥神社は 日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。
明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その祭神である饒速日命、
広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。
「右近の橘」「左近の桜」もあり、また 大きな狛犬もあり立派な神社であった。
境内には 古戦場跡の碑があり、当時の様子がわかった。
しばらく 歩くと東高野街道と竹内街道の交差点があった。4年前T氏と2日間かけて、竹内街道を歩いたのを思い出す。
市民会館での昼食後、本日のメインである富田林の寺内町に到着した
大阪府南東部の南河内(みなみかわち)地方に位置する富田林 (とんだばやし)市。中心部の旧市街地には江戸時代中期以降に建てられた民家(商家、町家)が約40軒、往時の姿そのままに保存・継承されています。富田林の名前の由来にもなった、富田が芝と呼ばれた荒地は、今から約450年前、戦国時代の最中に興正寺別院 (一向宗・浄土真宗)を中心に宗教自治自衛都市・寺内町 (じないまち)として開発され、発展しました。今も戦国時代の東西南北の碁盤目状の町割(都市計画)を留めています。
途中 興正寺別院の本堂に入らせてもらって 貴重な襖絵を見せてもらう。
この襖絵は 幕府御用絵師として江戸城本丸 御所等の障壁画制作に参加した狩野寿石「竹梅図」と「松図」です。
17世紀後半に入ると中世・寺内町としての性格は失いつつも、南河内地方における、米、酒造、木綿、菜種油、木材などの商品作物の交易・流通の中心地、近世・在郷町として大きく栄えました。往時の繁栄が偲ばれる大店の商家は、建築年代が江戸時代中期から昭和初期に亘り、建築様式や外観も少しずつ異なっており、それぞれが個性的な表情を見せています。伝統的建築物は、国の重要文化財に指定された(旧)杉山家住宅や興正寺別院、さらには大阪府有形文化財に指定された仲村家住宅をはじめ、文化遺産として極めて貴重で価値の高いものです。幸いにして戦災から免れ、高度成長期の開発の波も受けず、寺内町地区一帯は昔ながらの外観を残しています。
旧杉山家住宅 建築年代 1644年(寛永元年)
昭和58(1983)年 国の重要文化財指定
興正寺別院 建築年代 1638年(寛永15年)
平成26年(2014)年 国の重要文化財指定
珍しい 三階建の蔵
木口家住宅
建築年代 1735年(宝暦3年) 木綿問屋
史跡見学なら、ここの見学は マップを片手に半日を当てて 見学する値打ちがある。
私達は 街道歩きだから ゆっくりしていられないから本日の到着駅「滝谷不動駅」に向かって出発した。
そして 予定通りに 無事 到着した。