私の足跡 161  夏の光の祭典私の足跡 163  高野街道を歩く Ⅱ

2014年09月01日

私の足跡 162  高野街道を歩く


 
私の足跡 162  高野街道を歩く

  
     「高野街道を歩く」は 何度も書いているが 今回は『黄金の町堺から聖山高野山へ』のテーマをもとに企画した9回シリーズです。
  橋本市の観光地は 橋本観光ガイドが案内するということで その一部(6・7・8回)を書きます。

  
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  この日 (6月14日)は 天見駅を出発地とする。受付には 電車の到着とともに お客さんが到着する。
  この日も 約150人程の参加者で 6つのグループに別れて出発する。

  
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  私達は 5班で出発する。天候が良く、気温も上がる。 

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  出合いの辻で 国道371号線に出る。 
出合いの辻は 元弘3年(1333年) 河内の楠方と紀州の北條方が当地で「出合い」 戦ったとの意でこう呼ばれている古戦場である。 

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  先ほどの交差点より南に少し行き、国道と別れる。道は緩やかな登り道。
  石垣の家や土塀を巡らせた家等 昔の風情や絵になる景観が漂っている。
  かつて この付近には茶店があったことから「茶屋出」と呼ばれている。

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  途中国道を離れ、蟹井神社に寄る。創建は天喜2 (1054)年と伝わる。

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   参拝後 国道に戻り、ガードレールの内側の歩道を進む。

  
  
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  トンネルの手前で 右側の旧街道に入る。
  トンネルが出来るまでは 交通量の多い道だったが 今はひっそりとした道です。
  昔の街道跡(御坂・見坂)もうっすらあるが今は通れない。

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  舗装された道を登りつめると「紀見峠」に到着。ここは 県境で和歌山県に入る。
  案内も ここから橋本市のガイドが担当する。
  この街道は 8世紀末には 官道としての「南海道」となり そのあと高野参詣の参詣道となり、賑わった峠です。
  江戸時代には 紀州藩が伝馬所を置いたり、番所を置いたりした。
  高野山迄 6里の里程石がある。
  また、世界的に有名な「岡 潔氏」が 祖父の家で 中学卒業まで過ごした所でもある。同氏は橋本市の名誉市民である。
  
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  峠の街道筋には 虎屋・丹波屋等6軒の旅籠があり、賑わった所だが今はひっそりとしている。

  途中 馬も転がりそうな急坂だから「馬こかし坂」とか言われる急な坂を下ると「沓掛」の集落に入る。  
  そして、高野街道を少し離れる。

  
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  昼食後、「・・・・・この地を愛しここに居とす」と紀伊風土記に記されている「養叟庵」に寄る。当時はもっと山奥だったがここに移築したという。

  「養叟」とは どんな人物かというと 「養叟」は「一休」と共に師「華叟」のもとて゛禅の修行をしていた。
   「養叟」は 「華叟」の一番弟子 「一休」は 「華叟」の二番弟子。したがって、「養叟」は 
「一休」の法兄になる。 
  「華叟」亡き後、「養叟」は大徳寺の第26代世に 「一休」は第27代世になった。
   

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  途中 戎神社にお参りし、城山城の説明を聞く。 

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  国道筋にある「5里石」

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  交番前に「子安地蔵」への道標がある。
                                                                                  

   高野街道と別れ 本日のゴール「御幸辻駅」へ。                                                  

drecom_yama_ya617 at 12:23│Comments(0)TrackBack(0)ウォ-ク 高野街道 

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