私の足跡 91  熊野古道の伊勢路を歩く 4 賀田駅より羽後峠・三木峠越え迄私の足跡 93  熊野古道の伊勢路を歩く 6 馬越峠越え

2011年09月15日

私の足跡 92  熊野古道の伊勢路を歩く 5 八鬼山越え


  大辺路・伊勢路を歩く  


  伊勢路 5
      八鬼山越え

    

 
 これから越える八鬼山越えは 3年前、町石道の語り部の仲間に案内してもらった所。 

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 巡礼たちに「西国一の難所」と言われた八鬼山越え。峻険さと多雨ばかりか、かつては山賊や狼も出没して旅人を苦しめたという。この峠で行き倒れた旅人も多く、、石畳道の傍らに巡礼墓碑や町石をかねた地蔵が多く佇む。 




  前回の三木峠・羽後峠を終えた三木里駅を出発した。しばらく歩くと、三木里の海も見える。徳川吉宗が紀州藩主の頃植えたという松並木も台風や松くい虫にやられて大部分が枯れている。

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     kumayakiyama[1]

  
民家の間を通り抜け長柄の一里塚を過ぎるとこれから越える八鬼山が見える。

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 しばらく進むと、明治道と江戸道に別れている。勿論、世界遺産に登録されている江戸道を行く。ごつごつとした石畳道て゛急坂をもくもくと登る。

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 突然、木々の間から今登って来た三木里の町と海がみえた。

        yagiyama16[1]
  途中、十五郎茶屋跡や絶景の「さくらの森エリア」を過ぎるとやがて三宝荒神堂に着く。702年に修験者によって建てられたとある。かつてはここにも茶店があり、餅が名物だったらしい。堂の裏手には 巡礼たちを苦しめた山賊を退治したという僧(山伏)の墓がある。
  

  
詳細は民話としてこの項の最後に記します。


  ここから10分ほどで最高地点(627m)に行ける。
      

     kumaebosirenge[1]

    岩の形から 前にあるのが「蓮華石」 後ろ側のが「烏帽子石」と言われている。 

     
     yagiyama11[1]
 下り初めは こう配が緩く、見晴らしのきく尾根道でこれから下る尾鷲市も見える。


         11kudari[1]
 この八鬼山越えは 西国巡礼道一番の難所と言われているが、この難所の八鬼山越えの難所「七曲がり」を下ることになる。急坂の連続で標高差約600mを下ることになる。
 尾鷲市に着いた時はぐったりだった。

       
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 この八鬼山越えをして気分爽快のはずだが 他の街道歩きとは違う何かを感じる。
 それは、この八鬼山越えの途中に上記のような景色が目に入るからだ。
 難問だと思うが、地権者と行政の話し合いで一刻も早く解決して嫌な書き物のない道になるよう熱望しています。(今では、解決へと進んでいることを期待しています)


  
昔話  「巡礼を守る「八鬼山荒神」

 昔 
八鬼山は千古の密林で、昼も暗い道でした。この暗いのを利用していつも盗賊が出て、巡礼たちを殺して、お金を巻き上げるなどして悪いことばかりしていました。
 そのころです。一人の修験者が八鬼山にやってきました。長年修行をつんだこの修験者は八鬼山に庚申堂(日輪寺)を建て、山頂付近を根城にしていた山賊たちを、片っぱしから退治して、近在の住民や通行の巡礼から神様のように慕われました。
 また八鬼山の庚申堂は山頂に近いため、水がありませんでした。飲み水ははるか下方の谷まで何時間もかけてくみに行き 持って上がるという有様でした。巡礼たちは水を欲しがりました。
 これを見かねた修験者が、「エイ ヤッ」と呪文を唱えると、不思議なことに庚申堂の傍から、冷たい水が湧きでてきました。人々はこの水を「神明水」と呼ぶようになりました。

 この修験者は権大僧都という位の高いお方で、名前は「各真」と言いましたが、おそらく庚申様の化身に違いないと皆でうわさしました。

 この各真さんは、武芸にも秀でた方で、弟子の修験者たちにも武芸をしこみました。しかし、天正4年1月27日に自分の半生をかけた八鬼山で大往生を遂げました。

 各真さんのおしえを受け継いだ修験者は、常に山中を警戒して八鬼山通行の巡礼たちを山賊から守ってくれました。 




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