私の足跡 81 東海道の完歩 16  大磯宿 ~ 藤沢宿  私の足跡 83 東海道の完歩 18  川崎宿 ~ 日本橋  

2011年04月15日

私の足跡 82 東海道の完歩 17  戸塚宿 ~ 神奈川宿  




   東海道を歩く  17

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「5」  
戸塚宿 → 「4」 保土ヶ谷 → 「3」 神奈川宿



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        「5」  戸塚宿   「元町別道」   いろんな旅人が宿に到着する夕暮れ時、軒先に「00講中」と書かれた「講中札」がさがっている旅籠「こめや」の前です。「講中札」はそれぞれの講の「常宿」を示すものであり、同時に「安心して泊まれる宿」の印ともなっていたようだ。
 

      
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   「4」 保土ヶ谷  「新町橋」  現在は橋はなく、跡地が公園になっている。



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       「3」 神奈川宿  「台之景」  神奈川湊の近くの海に沿った細長い宿場町であった神奈川宿。この絵は西の外れの高台の「神奈川台」です。茶屋の客引き女が客を呼び込んでいます。 海を一望できる見事な眺めを売りにして人気を得ていた。
 その中でも繁盛店として有名だったのが、絵にも看板が出ている「さくらや」。この店はのちに売りに出されて旅籠「田中屋」となったが、そこでは坂本龍馬の妻・おりょうが龍馬との死別後に仲居として働いていたこともあるという。1863年の開業から150年近くが経つ今も、老舗料亭として営業を続けている。(詳細は下記にも)
 
 

  本日の日程をハードに組んでいるため、12月28日の冬至にに近い日だったがホテルを6時に出発。

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 15分ほどで時宗の総本山「遊行寺」に到着。

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 「庚申」の信仰ば日本各地にあるようで、庚申塚も各地で祀られている。

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  建物はないが、遺跡あとを説明してくれていた。「見附跡」


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  出発して約2時間で 「本陣跡」に到着。
 江戸から歩きはじめた旅人の多くが、最初の宿泊地に選んだのが戸塚宿である。旅籠の数も、江戸~箱根間では小田原に次いで第2位。日本橋からの距離は40km以上あるが、朝4時に江戸を発てば、夕刻には戸塚宿には入れる。
 ここは、鎌倉への追分であったので余計賑わったとある。

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「お軽勘平 戸塚山中道行の場」の碑が建っている。


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昔の面影を残す建物もあった。

IMG_7040 益田家のモチノキ
 
 「もちの木」
  
雌雄異株の常緑広葉樹 普通の木は7~8m。
  この木は、国道1号に沿ってあり、樹高は20m近くもあり珍しいということで県指定天然記念物になっている。

  この木の樹皮より、鳥もちをつくるからこの木の名の由来になっている。

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  9時ごろやや赤く染まった富士山が見える所にきた。


IMG_7063 やきもち坂

 「焼餅坂」 武蔵の国と相模の国との国境にある「権太坂」や「焼餅坂」は昔の旅人にとっては日本橋を発てば最初の難関であった。                                                    
 この坂の辺りで一服する旅人を目当てに焼餅を売っていたことからこの坂の名の由来だといわれています。

IMG_7073 権太坂上

 この坂は正月の箱根駅伝でよく言われている「権太坂」です。この道は旧東海道です。
 昔は、もっと傾斜のある急坂だったのをこのように改修したという記念碑があった。
 「権太坂」という難所らしからぬのんびりした名前は、旅人が地元の老人に坂の名を尋ねたところ、耳の遠かった老人が自分の名を尋ねられたと勘違いし、「権太」と答えたことに由来するという。
  権太坂は指折りの難所で、坂を越え切れずに力から尽き、命を落とす旅人も少なくなかった。そうした行き倒れの死者がまとめて葬られたのが、頂上の少し手前にあった「投込塚」である。
 1961年に付近の宅地開発の際に塚跡と思しき場所から多くの遺骨が発見され、供養塔が建てられた。その供養塔の前で冥福を祈った。

IMG_7090 保土ヶ谷宿脇本陣(藤屋)跡
  保土ヶ谷宿は 今は近代的な街になり昔の面影はなく、上のようなに史跡の碑のみとなっている。

 神奈川宿は高台にあり、今は立派な住宅地となっている。

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 上の写真の家は、前にも記したが、現在は「田中屋」です。
 この前身「さくらや」で明治7年に勝海舟の紹介で 坂本龍馬の妻・おりょうが龍馬との死別後に仲居として働いていたこともあるという。英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は外国人の接待に重宝されたらしい。

1863年の開業から150年近くが経つ今も、老舗料亭として営業を続けている。


 諸外国は神奈川湊の開港を強く要求した。しかし、外国人との接触を避けたい幕府は、対岸の横浜を開港した。
 横浜には多くの人材が集まって急速に発展する一方、神奈川宿は静かになってしまった。

  

外国人と日本人の間のトラブルをなくすための工夫があった。



 豆知識」  旅人はどこへ行ったのか?

   庶民が旅に出るようになるのは江戸時代中期以降のこと。多くの人にとって、長旅は一生に一度のイベントである。
 人々は何を目的としてそしてどこへ旅に出たのか、そしてどれほどの日数と費用を費やしたのだろうか。

  江戸~京都(約495km)を移動手段はもっぱら徒歩であり、この間を男性で約11泊、女性で約16泊程度の旅路だった。その間、寺社・名所を訪れ、名物を楽しみ、旅籠に泊り、時には悪所を訪ね、旅を満喫したのでしょう。

 歴史上の有名な人の東海道往来日程(記録に残っているもの)

  オランダ商館長 ドイツ人医師 
   ケッぺル     シーボルト  吉田松陰   徳川家茂    勝 海舟

   11泊12日   14泊15日  16泊17日  20日21日   6泊7日


04[1]
 図の上部を左から順に
「比丘尼」尼僧。「按摩」宿場で旅人を癒したマッサージ師。「飛脚
」書状や荷物を運ぶ人。「武士」供の者と一緒 煙管をくわえ気ままな旅 「行脚」前後吁を巡り歩いた俳人や墨客
図の下部を左から順に
 「田舎同者」田舎では「講」という組織で旅をした 「雲助」人足
ふんどし一つで駕籠かきや荷物運び  等
 
05[1]

 図の上部を左から順に
 「薬売り」大きな薬箱を担いだ行商人 「駕籠」簡素な駕籠 旅人は疲れたら駕籠か馬に乗る。「客引」客を呼び込む人 宿屋は客の奪い合い
  図の下部を左から順に
 「巡礼者」日本全国の寺社を巡った巡礼者 「抜け参り」子供だけで旅をした 施行をうけながらの伊勢参り 「金比羅参り」白装束で天狗の面を背負っている  「瞽女」三味線と唄で生計をたてている 
 街道を行き交う多彩な旅人達~歌川広重「東海道風景図会」より

   
P231[1]

  大日本道中行程細見記  たて18×横912cmの大作
     天保8年(1837年)  作者  酔 雅子
 旅行者向けガイドブックの一つ。この絵図では北は松前より南は九州南端までの地名、街道がコンパクトに纏めている。    
 絵図には宿場間の距離や諸藩の情報、さらに名所や渡河の賃金まで書かれており、旅人はこれを折りたたんで携帯した。

  通行手形には2種類あった。

 1 往来手形 旅人の身分証明書で、農民・町人の場合は大家や菩提寺、庄屋等が発行。

 2 関所手形 関所通過時に使用。男性は免除されても女性の場合は必須だった。発行も町奉行か各藩の留守居役が発行。    

ouraitegata[1]

 井口屋善助と同徳右衛門がこのたび諸国の神社仏閣へ参詣するため出願した。この者たちは真言宗当寺の旦那に間違いなく、関所を反対なくお通しください。万一。病死致しましてもこちらへのお届けには及ばず、そちらの作法にてなされるようお願いいたします。よって証文くだんのごとし    途中略

 費用などについては次回に




 


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この記事へのコメント

1. Posted by チョウシモン   2011年04月27日 21:57
歩きの日程は、いつも、釣行といっしょですね。
夜討ち、朝駆け、薄暗いうちが勝負です。

しかし、このごろ、年のせいか、眼が覚めた時が出発時間。
そのせいか、釣果は、いつも、言えない、ないしょです。
2. Posted by グリム伊藤公雄   2011年05月12日 15:51
吉田松陰なんて大っ嫌い!

なぜなら松陰と彼の弟子たちによって「僕」「君」といった男性に特化した呼称が広まったからです。こういった言葉の性差には悩まされます。

「僕」とはしもべを意味します。辞書で「僕」を引くと、「親しい人や目下の人に対して用いる」と書かれているので、上司など目上の人に対して「僕」を使っているのを見ると、男は女以上にへりくだらんといけんのかっていう感じで、ちょっと嫌です。本来なら「わたし」というべきじゃないでしょうか。

敬称の「君(くん)」は同輩や目下の人に対する場合に限って用いられ、「さん」は年長者を含め広く一般的に用いられますが、女子に「さん」、男子に「君」と男女を区別するための使用されるというのは、どうも頂けません。これは男性には上下関係の厳しい環境に耐えることを要求してるのに対し、女性は上下関係をあまり意識せず自由でいいということを暗示しているかにも思えます。あと、小学生から男子の「君」に対して女子が「さん」っていうのは、女子は大人のようにお行儀よくしなさいというのを暗示してるようで、女子もかわいそうなので、女子も「さん」で呼ぶなら男子も「さん」で呼ぶべきと思います。

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