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2011年04月01日

私の足跡 81 東海道の完歩 16  大磯宿 ~ 藤沢宿  



     東海道を歩く  16
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「6」
大磯宿 →  「5」 平塚宿 → 「4」 藤沢宿 



      
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      「6」 大磯宿 「虎ヶ雨」 と゜んより曇った空から落ちてくる大粒の雨。旅人たちは笠や合羽で雨をよけながら先を急ぐ。

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         「5」 平塚宿 「縄手道」 平塚を抜け、大磯へ向かう街道を描く。「縄手道」とは田のあぜ道のこと。  



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 「4」 藤沢宿 「遊行寺」 手前には江の島弁財天一の鳥居、遠景は「遊行寺」。 



東海・東高・神護寺等 002

  駅構内の天井に名物の提灯がぶら下がった小田原駅から今回は東に向けて出発。

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  小田原宿を守る江戸口側の見附跡と一里塚跡

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   新田義貞公の首塚

IMG_2510 酒匂川に架かる酒匂橋

  朝日が輝く酒匂川を渡る。

IMG_2563 大磯プリンスホテルへの道(大磯ロングビーチも近い)

  街道から離れた所に大磯プリンスホテルが見えた。

 以前若者に人気あり、TVでもよく出ているロングビーチが見たくなり、より道をするか迷った。しかし、時間の浪費と疲労を費やす。でも、この区間は一人歩きだったので疲れて悔んでも自己責任でということで行ってきた。

東海・東高・神護寺等 037

 ホテルの傍から撮影した。

東海・東高・神護寺等 038

 充分でないので、建物の中に入らせてもらって、撮影した。
 手前では 若者や子供達が泳ぎ、賑やかだった。
 向こうは、広々とした湘南海岸です。

東海・東高・神護寺等 039

 一段と高い所に行かせてもらい違った角度から撮影。凄い施設と人出。
 満足して、街道歩きにもどる。

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  新島襄先生の終焉の地   新島先生は明治の教育者。アメリカでキリスト教をもとにした教育を学び、それを取り入れ京都に同志社大学を設立したが志半ばにしてここに眠る。

東海・東高・神護寺等 042

  見事な松並木が続いていた。この近くに 吉田茂の別荘もあったが開館の時間が過ぎていたので素通りした。後に火事で燃えてしまったという出来事があったので寄っておけばと後悔した。

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 古風で趣のある鴫立庵が道の右側にあった。

東海・東高・神護寺等 046

   大磯の本陣跡の立て札がたっていた。

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 大磯宿をぬけると見事な松並木が続いていた。

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 化粧(けわい)坂の一里塚
  日陰で風よけなど小休止の処。
  高さ3mの所に海側には「榎」 山側には「せんだん」の木が植えられていた。

  近くに、化粧井戸があった。
  この化粧の由来は 一説には、鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近だった。
  当時の大磯の代表的美人「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なに井戸水を汲んで化粧していたので化粧井戸の名がついたとある。       

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やっと平塚宿に到着

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 平塚の塚   平塚の塚の由来  言い伝えによると「桓武天皇の子孫の高見王の娘が東国に行く途中、この地で逝去した。
ここに埋葬して墓として塚を築いたがその塚の上が平らになったので里人はそれを「ひらつか」と呼んだことからとある。
 
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 平塚宿は近代的な街になり、昔を偲ぶ建物はなかったが碑が建てられていた。
 上記の本陣跡の外、問屋場跡・高札場跡・脇本陣跡・見附跡等があった。

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  番町皿屋敷で有名な「お菊の墓」があった。

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  文字が小さく読みづらいので、拡大してして下さい。

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 相模川に架る長い橋を渡る。

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 茅ヶ崎市に入り、しばらくすると「旧寛永寺石灯篭」が三基たっていた。
 これは、徳川将軍家の菩提所である寛永寺の石灯篭の一部がここに移動したものです。各地の大名は、将軍の供養のため寄付したものです。
  中央は4代将軍・家綱の供養のため、左右の灯篭は10代将軍・家冶の供養のためのものです



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 茅ヶ崎の一里塚跡


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 車の排気ガスにもめげず元気な姿を見せている松並木。


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  源 義経の首洗い井戸

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 「おしゃれ地蔵」
 「女性の願うことなら何でも叶えてくれ、満願のあかつきには、白粉(おしろい)を塗って、お礼をする。」と伝えられていて、今でも白粉が絶えず塗られている。だから、 「おしゃれ地蔵」という。


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  昔の面影を残す建物があったが、史跡が殆どなかった。


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 町中に入り、しばらく商店街を歩くと藤沢駅に到着。


 豆知識」  飛脚について
           
    江戸時代、手紙や荷物の輸送を担っていたのが「飛脚」といわれる人足だった。初めは、幕府が作って宿場から宿場へ交代で書状や物資を運ばせる「継飛脚」だったが、各藩の大名も飛脚を使い、大名飛脚となった。
 「継飛脚」も「大名飛脚」も公務にのみ使用され、一般の武士や庶民は利用できなかった。
 やがて、飛脚問屋や飛脚屋という民営の飛脚ができ、「街飛脚」が普及する。                                 

 次は速さと値段について                                                          
   飛脚が出発する日は定まっており、例えば江戸~京都間を往復する問屋は10日ごとに出発した。月に3度往復することから三度飛脚と呼ばれ、三度笠の語源となったという。
   最も速い便で 江戸~京都まで3日、発送した翌々日というから今とたいして変わらない。ちなみに、忠臣蔵の刃傷沙汰の際は、事件を国元にしらせるため、飛脚が江戸~赤穂までわずか4日半で駆け抜けた。その距離、600km強。単純に計算すると時速6km程度だが、川渡し峠越えなどの難所、さらに休憩時間や疲労度などを踏まえるとかなりの特急便だっのがわかる。

  料金だが、江戸~大阪間で一週間かかる普通便で銀2匁、書状1通の速達専用便で金7両2分(時価 約20万円)以上という高額だった。
  急がなければ「並便」(最も安い。便に空きがあるか 飛脚が暇な時)もある。     


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この記事へのコメント

1. Posted by チョウシモン   2011年04月27日 21:45
いつものように、超人的な歩きで、東海道を一っ飛び。
そんなに急いで、次にどこへ行くのですか?

通り過ごした平塚に、聞き覚えがあります。平塚!平塚!
現役の頃、不二家のネクターを製造していました。

果汁ですが、果肉も、すりつぶして、トロッとしたジュースです。ピーチ、オレンジ、ミックスジュース。
下請ですから、平塚から、色々、注文やら、ご指導がありました。

平塚に、不二家の研究室があって、何人かの、お名前が、いまでも思い出されます。

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