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2011年03月15日

私の足跡 80 東海道の完歩 15 三島宿  ~ 小田原宿  



     東海道を歩く  15

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  「9」
小田原宿
→ 「10」 箱根宿 「11」 三島宿

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       「9」 小田原宿  「酒匂川」 奥には箱根の山々、その麓に小田原城が見える。
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  「10」 箱根宿 「湖水図」 「天下の険」と言われた箱根の山々が誇張した表現で描かれている。

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      「11」 三島宿 「朝霧」 朝ぽらけの中、宿を発つ人々。霧が宿場町と三島大社の鳥居をつつみ、幻想的な光景を醸し出している。


  今回の「箱根八里越え」は 当初から一番楽しみにしていたし、期待もしていた区間だった。また、一番不安でもあったところでした。箱根宿で宿泊し、2日に分けては歩きたくない。一日で箱根越えをしたい。しかし、距離は 三島宿まで30km超えで それに標高約850mの箱根峠を越えなければならない。そのため、一番条件のよい季節(昼間が長く、暑くもない等の季節)のよい時期(3月末)にし、早朝出発の計画をたてた。旧街道の登り坂が多く残る坂を登りたいという理由で小田原から三島への方向で歩いた。そして、その通りに書きます。その方が、箱根の登りの険しさがよくわかるから。(他にも、東から西へ行った所もあるが、平地なので違いがないと思い,実際に歩いたのとは逆に書いた所もあります。)


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 小田原駅を6時に出発し、メインストリートを西に進む。


 
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 昔の面影をもつ建物がある。いつ建てたが分からないが、今も現役として活躍していた。


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 江戸時代に ここを中心にして町づくりをして本町(ほんちょう)としたとある。

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  日蓮聖人霊処

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 空も明けてきて、明るくなった国道1号線を西進する。

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  正月恒例の箱根駅伝のTVでよく見る国道1号線の風景だが、箱根旧街道はもうすぐだ。国道から県道に入り、そして県道を何度も横切りながら箱根へと進む。

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   出発して2時間後、大きな寺領を持った「早雲寺」に到着。

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  寺領が大きいが、整備も行き届いた寺だった。

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  箱根旧街道も国道は勿論県道とも別れ、昔の面影を残す石畳の登り坂の街道に入る。  8:20

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 この葛原坂を初めとして、元箱根まで次のような名前のついた坂が約10コあった。  8:42


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 女轉坂   登り一町餘   女性の旅人は転がるかもわからないと思われる登り坂が約110m続きます。  9:05

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 割石坂    曽我五郎が富士の裾野へ仇打ちに向かう時、刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真っ二つに切ったと伝えられている。     9:20
  
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 西海子坂  江戸幕府は 1680年に箱根路を石畳み道に改修しました。         
それ以前の此の道は 雨や雪の後は大変な悪路となり、旅人は膝まで没する泥道を歩かなければならないため、竹を敷いていました。 毎年、竹を調達するのは大変な努力と費用がかかりました。   10:10

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    橿木坂       10:20

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 猿すべり坂  あの木のぼりの上手な猿もすべるぐらい厳しい坂ということでこの名がついた。その部分は、此の上の県道と合流する付近(この写真の道の奥)だったらしい。    10:50

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  追込坂   いくつかの難所も通り、もうすぐ楽しみな甘酒茶屋がある。 旅人も最後の坂と思ったことでしょう。   11:03


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  現役の甘酒茶屋として営業していたが、我々は時間の都合で素通りした。この道が何度も横断した県道です。

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  天ヶ石坂       11:24

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 権現坂  小田原から箱根路をのぼる旅人がいくつかの急坂・難所を約3時間かけて喘いで登り、ためいき一息をつくのがこの場所です。
 眼前に芦ノ湖が展望し、箱根山に来たという旅の実感が身体に伝わってくるところです。      11:38

 以上の名のついた坂を登りつめて、箱根の宿に入ります。

 上記の坂以外の途中の事について記します

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 石畳の旧街道を登っていくと、突然県道に飛び出る。

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 その県道を横切りすぐに または しばらく歩くと 石畳の旧街道に入っていくのを何度か繰り返します。これは、石畳の旧街道は急傾斜だがほとんど真っすぐに登る。県道は車の道だから傾斜を緩くするため九十九折りで造ってある。そのため、重なり合う。

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 そして、また石畳の旧街道に入っていく。

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 江戸時代に造ったそのままの石畳。石の敷き方が粗雑である。

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   こんな急な坂道を登る所が何度かあった。

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 眼前に 突然小山が現われた。よく見ると、一里塚の小山だった。

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   木は枯れていたが さすが山中だけあって、塚は両方とも完全に残っていた
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  石畳の山道ばかりでなく、こんな所も通りました。

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 老杉の並木道をゆったり歩く。  元箱根地区

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  今までとは違って、江戸時代の人々と共に歩いている雰囲気になる道だった。

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   元箱根の町に入ると、遊覧船と赤い鳥居の向こうに見える富士山は最高。
 
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 箱根の関所の復元された所に到着。出発してから6時間後の12時だった。

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 昼食をとり、見学後、いろんな店や旅館などで賑わう箱根の町を出発。12:30発。
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 そして、芦ノ湖がずっと下に見える箱根の最高地点の標高846mの峠らしくないなだらかな箱根峠に到着。13:30着。

  
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 ここから、約13km離れた三島宿へ向かう。まず、草木のトンネルの中へ。

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 この坂の途中に、変わった石造物等があった。これは、兜岩
 13:50

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 次は、念仏石。此の石の前に「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻んだ碑があるが、旅人の行き倒れを宗閑寺で供養して、碑を建てたものと思われる。        14:00

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 次は、雲助徳利の墓   14:30

 墓石には、盃と徳利が浮き彫りしてある。その下に久治郎と彫られている。
 一説には、彼はある西国の大名家の剣術の指南役であった。ところが、大酒のみのため事件を起こし国外追放となり、ここで雲助仲間に入り働くようになった。
 優れた指南役だったので、雲助をいじめる武士等を懲らしめたり、文字の読めない雲助の手紙を読んであげたり、また、いろんな相談にものってあげたりしたので、雲助仲間から親分以上に慕われていた。
 しかし。お酒の飲みすぎで命を縮めてしまった。
 彼を慕い、助けられた雲助仲間は、生前にお世話になったお礼に 彼が大好きだったお酒の盃と徳利を刻んだ立派なお墓を建てたとある。

 雲助といえば、昔から、悪者が多くいて、世間から「ならず者の代名詞のように言われていたがこの街道歩きをしていて、彼のような雲助がいなかったら殆どの人は困り果てて旅はできなかっただろうと思う。
 そして、この「雲助徳利の墓」の心温まる話から雲助のイメージが変わった。そして、彼の冥福を祈って先を急いだ。

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 標高580mに降りてきた。ここに、山中城址があった。 14:00
 この城は 小田原城の北條氏の山城です。自然の要害に囲まれた城であったが、豊臣氏の大軍で一日で落城したらしい。


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  芭蕉の句碑                      14:50
 
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   笹原の一里塚                                        15:10

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  松並木は 最近になり開発の為、また、枯れたりして少なくなったが この初音ヶ原付近は約1kmにわたって続いている。
  この「錦田一里塚」とともに、昔の面影を残している。   16:30


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やっと、三島宿にある三島神社に参拝と見学をした。  17:10

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  桜も満開で まるで我々の箱根越えの成功を祝福してくれているようだった。

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ラッキーなことに ガイドさんが案内役を無料でしてくれた。

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  まさに、桜の満開でみんなは御満悦でした。

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 町中へ入ったが、本陣跡も碑のみで、昔の面影はなかった。

 

  無事箱根越えをしたことと 桜の花の祝福に感謝して夜行列車に乗り込む。

  豆知識」  箱根の関所について

    江戸時代の旅人は 関所はまさに難儀な関門だった。幕府は関東・東海を中心に50数か所をつくり、東海道は2ヶ所だった。
   
      関所を設けた理由は「入り鉄砲」と「出女」を監視するためだった。この二つについては厳重に取り調べるためにマニュアルが定められた。女性の旅人には「人見女」という調べる専門の女性をあて、ホクロ、あざ等身体のすみずみまでくまなく調べられたらしい。
   以前にも書きましたが女性は特に厳しく検査されるのが嫌で姫街道を通った(新居の関所)。でも、ここは、その姫街道がない。

   江戸時代後期には、「入り鉄砲」はなし崩し的になったが「出女」は対象が一般女性にも拡大された。     




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この記事へのコメント

1. Posted by チョウシモン   2011年03月20日 11:57
箱根越えを、一気に、記事も、三島まで、一気に続けて書いてしまうのですね。
チョウシモンなら、4~5分割して、書く量です。

箱根の雲助にも、ええとこが、ありますね~。
字は書けなくも、戒名も要りません。

さかづきと、とっくりがあれば、それで、充分。
しかし、とっくりが、あそこでは、おかわりが出来ませんね~~。 

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