2011年03月01日
私の足跡 79 東海道の完歩 14 吉原宿 ~ 沼津宿
東海道を歩く 14
「14」 吉原宿 → 「13」 原 宿→ 「12」 沼津宿
「12」 沼津宿 「黄昏図」 満月に沼津宿の家々や白壁の蔵が照らされる幻想的な光景。 男が背負う天狗面は、四国・讃岐の金毘羅宮の守り神。当時、伊勢参りに次ぐ人気だったという金毘羅参りの際には、こうした天狗の面を奉納するのが決まりごとになっていた。
一方、その前を行く巡礼姿の二人は、手に施しを受けるための柄杓を持つ。四国巡礼に向かう親子連れともいわれるが、諸国を旅しながら信仰を広める比丘尼との説もある。比丘尼は女性の出家者で、特に紀伊の熊野三山への信仰を説く「熊野比丘尼」が有名だった。
自由な旅が誰でもできなかった江戸時代。庶民の「旅」といえば、こうした参拝の旅が大半だった。
「13」 原 宿 「朝乃富士」 画面の枠さえつき出た、悠々たる富士。
「14」 吉原宿 「左富士」 3人掛けの馬の背に乗る子ども。2人は左富士を見上げるが、一人はうたた寝中。
「左富士」になった理由は、西へ向かっていた道が高潮の被害のため北向きに変えたためなった。
「東海道を歩く」のブログは以前も書いていますが、京から順に歩いたのではなく、季節や行事に合わせて歩いています。この部分は 「桜の花と雪を被った富士山」の写真に納めるという計画をたてた。そのため、出発日を4月1日にした。そして、この「東海道を歩く」のを目玉の一つにした。
昔は 渡船があり、旅人はそれを利用した。今は立派な橋を何の苦もなく渡る。
富士川渡船場跡
水神の森
吉原宿に近づく。以前の吉原宿は今のJR吉原駅付近にあったが 度重なる洪水のため、北へ北へと移転し、現在の地に落ち着いたとある。
平家越えの橋 源頼朝を討つため、平家は富士川の西側に布陣。富士川の水鳥の大群が物音に驚いて一斉に飛び立つと敵の襲来と誤認して平家の大軍は我先にと逃げ出し、源氏の軍勢は戦わずして勝利した所。
この碑のたつ位置は 現在の富士川の東 6kmも離れているが、荒れる富士川が幾度も流れを変えていたことを示す。
創業300年の旅籠。清水次郎長の定宿とあり、次郎長の編み笠をかけてある。
この近くに、本陣跡の碑がある。
富士山の豊富な地下水を利用して、紙やパルプ工場が林立し、富士市が発展した。
JR吉原駅付近からは、JR東海道線と国道1号線に沿って東進する。天候にも恵まれ、左手には絶えず念願の「桜の花と雪を被った富士山」が見えたので、二十枚前後の写真を撮った。
桜の花の向こうに「真っ白な富士山」が見えた。
次の「原宿」まてに 間宿「柏原」の標識があったが、昔の建物は殆どなかった。
素晴らしい言葉を刻んだ碑が立っていた。
一里塚跡
街道筋に建っている説明板を読みながら、東進する。
手前の山が、邪魔をしてしていて十分見えないがすっぽりと雪を被った富士山。
ここ「原宿」は、田子の浦があり、富士山を眺めるには最高です。
万葉集にも、「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり」 山部赤人の歌がある。 「豆知識」を見てください。
原宿の本陣跡
沼津宿へは 見事に咲いた桜並木を通って行く。、
好天に恵まれ、一日中写真のような富士山を見ながら歩けた。
途中 是より東 沼津宿の標識があったので 沼津宿に入ったことになる。
沼津の町中に 「沼津の賑わい発祥の地」の説明板があるが、昔の面影を残すものは少なかった。
玉磨石 12・300年前 玉を磨くためにつくられたと石
綺麗な富士山が見えたがもうすぐ見えなくなるかもしれない。
玉井寺一里塚 昔の姿をとどめていて珍しかった。
もうすぐ、三原宿です。
「豆知識」 旅人を見守り続けた富士山
天下の名峰富士山のベストスポットとは?
富士山は、今でも人気があるが、当時の旅人にも特別な思いがあった事でしょう。(広重も川崎・平塚・箱根・吉原などで富士が描かれている。)
一つ目は 東海道で一番間近に見える原宿からではないか。
今回のブログ 東海道を歩く 14 参照
二つ目は、薩埵峠からではないか。(特に雪を被った富士山)
東海道を歩く 19 を楽しみにして下さい。
三つ目は、箱根からの富士山ではないか
東海道を歩く 15 を楽しみにして下さい。
霊峰を崇める「富士講」ブーム
富士は単なる名勝地と言うだけでなく、信仰の対象でもあった。太古より霊峰として崇められ、修験者(山伏)たちは修験の場とした。
江戸中期には、富士信仰が庶民にまで広がり、信者たちは「富士講」と呼ばれるグループを組んで登拝し、現地に行けない者は、代わりに各地の富士塚に参った。
富士詣は、大山詣や伊勢詣等と同様の宗教行事であった。
私も富士山に2度登っている。 1度目は1957年の成人の年の20歳の時、仲間と登った。
私の足跡 2 に記載
2度目は約20年後、研修会の帰路登った。私の足跡 4 に記載
万葉集と新古今和歌集に次の歌が載せられている。
万葉集・・・・・・・田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りけり
新古今和歌集・・田子の浦にうち出でて見れば白砂の 富士の高嶺に雪は降りつつ
作者はどちらも山部赤人である。どうして違いがあるのだろうか?
新古今の選者である藤原定家か誰かが読み替えたのか、500年の時を経て自然に読み替えられたは想像するしかない。
意味は
万葉集では 「ゆ」 は経由のゆで、通ってと解釈する。
田子の浦を通って視界の開けた所まで出てみると富士の高い所には真っ白な雪が積もっていた。
新古今和歌集では
田子の浦まではるばる来てみると富士の高い所は真っ白になっている。今でも降り続いているのだ。
「14」 吉原宿 → 「13」 原 宿→ 「12」 沼津宿
「12」 沼津宿 「黄昏図」 満月に沼津宿の家々や白壁の蔵が照らされる幻想的な光景。 男が背負う天狗面は、四国・讃岐の金毘羅宮の守り神。当時、伊勢参りに次ぐ人気だったという金毘羅参りの際には、こうした天狗の面を奉納するのが決まりごとになっていた。
一方、その前を行く巡礼姿の二人は、手に施しを受けるための柄杓を持つ。四国巡礼に向かう親子連れともいわれるが、諸国を旅しながら信仰を広める比丘尼との説もある。比丘尼は女性の出家者で、特に紀伊の熊野三山への信仰を説く「熊野比丘尼」が有名だった。
自由な旅が誰でもできなかった江戸時代。庶民の「旅」といえば、こうした参拝の旅が大半だった。
「13」 原 宿 「朝乃富士」 画面の枠さえつき出た、悠々たる富士。
「14」 吉原宿 「左富士」 3人掛けの馬の背に乗る子ども。2人は左富士を見上げるが、一人はうたた寝中。
「左富士」になった理由は、西へ向かっていた道が高潮の被害のため北向きに変えたためなった。
「東海道を歩く」のブログは以前も書いていますが、京から順に歩いたのではなく、季節や行事に合わせて歩いています。この部分は 「桜の花と雪を被った富士山」の写真に納めるという計画をたてた。そのため、出発日を4月1日にした。そして、この「東海道を歩く」のを目玉の一つにした。
昔は 渡船があり、旅人はそれを利用した。今は立派な橋を何の苦もなく渡る。
富士川渡船場跡
水神の森
吉原宿に近づく。以前の吉原宿は今のJR吉原駅付近にあったが 度重なる洪水のため、北へ北へと移転し、現在の地に落ち着いたとある。
平家越えの橋 源頼朝を討つため、平家は富士川の西側に布陣。富士川の水鳥の大群が物音に驚いて一斉に飛び立つと敵の襲来と誤認して平家の大軍は我先にと逃げ出し、源氏の軍勢は戦わずして勝利した所。
この碑のたつ位置は 現在の富士川の東 6kmも離れているが、荒れる富士川が幾度も流れを変えていたことを示す。
創業300年の旅籠。清水次郎長の定宿とあり、次郎長の編み笠をかけてある。
この近くに、本陣跡の碑がある。
富士山の豊富な地下水を利用して、紙やパルプ工場が林立し、富士市が発展した。
JR吉原駅付近からは、JR東海道線と国道1号線に沿って東進する。天候にも恵まれ、左手には絶えず念願の「桜の花と雪を被った富士山」が見えたので、二十枚前後の写真を撮った。
桜の花の向こうに「真っ白な富士山」が見えた。
次の「原宿」まてに 間宿「柏原」の標識があったが、昔の建物は殆どなかった。
素晴らしい言葉を刻んだ碑が立っていた。
一里塚跡
街道筋に建っている説明板を読みながら、東進する。
手前の山が、邪魔をしてしていて十分見えないがすっぽりと雪を被った富士山。
ここ「原宿」は、田子の浦があり、富士山を眺めるには最高です。
万葉集にも、「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり」 山部赤人の歌がある。 「豆知識」を見てください。
原宿の本陣跡
沼津宿へは 見事に咲いた桜並木を通って行く。、
好天に恵まれ、一日中写真のような富士山を見ながら歩けた。
途中 是より東 沼津宿の標識があったので 沼津宿に入ったことになる。
沼津の町中に 「沼津の賑わい発祥の地」の説明板があるが、昔の面影を残すものは少なかった。
玉磨石 12・300年前 玉を磨くためにつくられたと石
綺麗な富士山が見えたがもうすぐ見えなくなるかもしれない。
玉井寺一里塚 昔の姿をとどめていて珍しかった。
もうすぐ、三原宿です。
「豆知識」 旅人を見守り続けた富士山
天下の名峰富士山のベストスポットとは?
富士山は、今でも人気があるが、当時の旅人にも特別な思いがあった事でしょう。(広重も川崎・平塚・箱根・吉原などで富士が描かれている。)
一つ目は 東海道で一番間近に見える原宿からではないか。
今回のブログ 東海道を歩く 14 参照
二つ目は、薩埵峠からではないか。(特に雪を被った富士山)
東海道を歩く 19 を楽しみにして下さい。
三つ目は、箱根からの富士山ではないか
東海道を歩く 15 を楽しみにして下さい。
霊峰を崇める「富士講」ブーム
富士は単なる名勝地と言うだけでなく、信仰の対象でもあった。太古より霊峰として崇められ、修験者(山伏)たちは修験の場とした。
江戸中期には、富士信仰が庶民にまで広がり、信者たちは「富士講」と呼ばれるグループを組んで登拝し、現地に行けない者は、代わりに各地の富士塚に参った。
富士詣は、大山詣や伊勢詣等と同様の宗教行事であった。
私も富士山に2度登っている。 1度目は1957年の成人の年の20歳の時、仲間と登った。
私の足跡 2 に記載
2度目は約20年後、研修会の帰路登った。私の足跡 4 に記載
万葉集と新古今和歌集に次の歌が載せられている。
万葉集・・・・・・・田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りけり
新古今和歌集・・田子の浦にうち出でて見れば白砂の 富士の高嶺に雪は降りつつ
作者はどちらも山部赤人である。どうして違いがあるのだろうか?
新古今の選者である藤原定家か誰かが読み替えたのか、500年の時を経て自然に読み替えられたは想像するしかない。
意味は
万葉集では 「ゆ」 は経由のゆで、通ってと解釈する。
田子の浦を通って視界の開けた所まで出てみると富士の高い所には真っ白な雪が積もっていた。
新古今和歌集では
田子の浦まではるばる来てみると富士の高い所は真っ白になっている。今でも降り続いているのだ。