2011年02月11日
私の足跡 77 東海道の完歩 12 鞠子(丸子)~江尻宿
東海道を歩く 12
「20」 鞠子(丸子)→ 「19」 府中→ 「18」 江尻
「20」 鞠子(丸子)宿 「名物茶店」 とろろ飯を食す旅人二人。茶屋の脇の梅の花は満開のよう。梅もここの名所だった。(芭蕉の句碑にもある)
「19」 府中宿 「安部川」 駕籠ごと蓮台に乗る高貴な女性。蓮台の女性や肩車で渡る男もその従者でしょう。
「18」 江尻宿 「三保遠望」 広々とした湊の風景。清水湊の賑わいを感じられる。 三保の松原は停泊しているたくさんの船の向こうに見える松原。
岡部宿を出て、丸子宿に向かう。
途中、厄介な宇津の谷峠を越えなければならない。今では、明治・昭和・平成の各時代に造った3本のトンネルがあるが、我々は勿論、江戸時代の旧東海道を歩く。
こんな雰囲気の東海道を歩いたのは久しぶりだ。車の音は勿論、鳥の鳴き声以外何の音もない静かなひと時をすごせた。
峠には、当時は大きな建物のお寺の廃寺跡があった。当時は多くの旅人が安全を祈ったり、また、旅人の安全を守ってきた事でしょう。
険しい峠を喘ぎながら越え、しばらく下ると眼下に「宇津の谷」の集落が見えた。一つの目標が見え、ほっとする。
しばらくは険しい下り坂を歩いていくと、馬頭観音が祀っていて婦人が花を供えていた。聞くと、この付近の仏さんに定期的なおまいりを続けているとの事。優しい人に出会えて心が温まる。
この宇津の谷は、宿場ではなく岡部宿と鞠子宿の間宿なので、本陣などはない。食事処があり、今もいろんな食事ができる。
ある家の前にくると、年配の婦人がいたので、声をかけて話をしていると「家の中には珍しいものがあるから見るかね」と聞くので峠越えで疲れていたので休憩をかねて見せてもらうことにした。(有料)
裏に回り、座敷にあがり、いろんな貴重品をみせてもらった。その中に豊臣秀吉から頂いたという陣羽織がかけてあった。
少し時間を取りすぎたので急いで「鞠子宿」へ向かう。
一度国道に出たが、離れて旧東海道に入る。
やっと、「鞠子宿」の西の高札場跡に到着。
もうすぐ、上の写真のような有名な「丁子茶屋」が見えてくるはずだった。
ところが、我々の見た「丁子屋」は上の写真のようであった。
店の人に聞くと、年に一度の休店日にして、大掃除をしているとのこと。「とろろ汁」を御馳走になろうと思っていたが残念。天井には、札がたくさん貼っていて、歴史の重みを感じた。
忙しくしているが話を聞くと
創業は1189年だが、後に東海道の今の所に引っ越しして今に至っているとのこと。
現在の店主は 13代目だそうです。
屋敷内に芭蕉の句碑「うめわかな 丸子の宿のとろろ汁」があった。
少し行くと、東見付付近だが 往時を偲ばせるような大きな建物は残っていないが、本陣跡・脇本陣跡の碑や格子戸の残る家・間口が狭く奥行きの深い家並が往年をわずかに偲ぶことができる。
鞠子宿を別れ、府中宿へ。
安部川の長い長い橋を渡る。
食欲をそそる美味しそうな「安部川もち」屋さんが何軒か並んでいた。
静岡の中心地で 昔の面影は殆ど残っていないが、所々に上の写真のような碑が残っている。
「西郷・山岡会見の史跡碑」
勝海舟の書状を持った山岡鉄舟が西郷隆盛と会見した処。
その4日後、江戸薩摩邸で 西郷隆盛と勝海舟の会見で江戸城無血引き渡しが決まり、江戸100万人の命が救われた。
旧東海道は 国道1号線や東海道本線の開発により、無くなったが昔はここを通っていたことを記念して造られていた。
道もなくなったためか昔を偲ぶものが少なかった。
近代化された街に変身していて、上記のような碑や説明板が残るのみだった。
清水次郎長で有名な清水の港へは、時間の都合で立ち寄れずに残念だった。
「豆知識」 東海道中の名物&土産
丁字屋のとろろ汁
特産の自然薯をすりおろし、白みその汁で溶いて麦飯にかけて食べるというもの。 その美味は各地に広がっていた。 丁字屋のとろろ汁は400年以上変わらぬ味もさることながら、茅葺きの外観も人気を呼んで、週末などは行列もできるほどの人気ぶりらしい。
安部川餅
餅にきな粉をまぶした名物「安倍川餅」の名付け親は、家康という。
彼がとある茶屋に裁ち寄ったとき、そこの店主がきな粉を安倍川で採れる金に見立て「安倍川の金な粉餅」の名で献上し、それを喜んだ家康が「安倍川餅」の名をあたえたといわれている。
その他 草津の「姥が餅」 石部の「田楽」 桑名の「焼き蛤」 池鯉附の「きしめん」 白須賀の「柏餅」 舞阪の「浜名湖の海産物」 蒲原の「栗粉餅」 原の「うなぎ」 小田原の「ういろう」 川崎の「奈良茶飯」 品川の「のり」等
「20」 鞠子(丸子)→ 「19」 府中→ 「18」 江尻
「20」 鞠子(丸子)宿 「名物茶店」 とろろ飯を食す旅人二人。茶屋の脇の梅の花は満開のよう。梅もここの名所だった。(芭蕉の句碑にもある)
「19」 府中宿 「安部川」 駕籠ごと蓮台に乗る高貴な女性。蓮台の女性や肩車で渡る男もその従者でしょう。
「18」 江尻宿 「三保遠望」 広々とした湊の風景。清水湊の賑わいを感じられる。 三保の松原は停泊しているたくさんの船の向こうに見える松原。
岡部宿を出て、丸子宿に向かう。
途中、厄介な宇津の谷峠を越えなければならない。今では、明治・昭和・平成の各時代に造った3本のトンネルがあるが、我々は勿論、江戸時代の旧東海道を歩く。
こんな雰囲気の東海道を歩いたのは久しぶりだ。車の音は勿論、鳥の鳴き声以外何の音もない静かなひと時をすごせた。
峠には、当時は大きな建物のお寺の廃寺跡があった。当時は多くの旅人が安全を祈ったり、また、旅人の安全を守ってきた事でしょう。
険しい峠を喘ぎながら越え、しばらく下ると眼下に「宇津の谷」の集落が見えた。一つの目標が見え、ほっとする。
しばらくは険しい下り坂を歩いていくと、馬頭観音が祀っていて婦人が花を供えていた。聞くと、この付近の仏さんに定期的なおまいりを続けているとの事。優しい人に出会えて心が温まる。
この宇津の谷は、宿場ではなく岡部宿と鞠子宿の間宿なので、本陣などはない。食事処があり、今もいろんな食事ができる。
ある家の前にくると、年配の婦人がいたので、声をかけて話をしていると「家の中には珍しいものがあるから見るかね」と聞くので峠越えで疲れていたので休憩をかねて見せてもらうことにした。(有料)
裏に回り、座敷にあがり、いろんな貴重品をみせてもらった。その中に豊臣秀吉から頂いたという陣羽織がかけてあった。
少し時間を取りすぎたので急いで「鞠子宿」へ向かう。
一度国道に出たが、離れて旧東海道に入る。
やっと、「鞠子宿」の西の高札場跡に到着。
もうすぐ、上の写真のような有名な「丁子茶屋」が見えてくるはずだった。
ところが、我々の見た「丁子屋」は上の写真のようであった。
店の人に聞くと、年に一度の休店日にして、大掃除をしているとのこと。「とろろ汁」を御馳走になろうと思っていたが残念。天井には、札がたくさん貼っていて、歴史の重みを感じた。
忙しくしているが話を聞くと
創業は1189年だが、後に東海道の今の所に引っ越しして今に至っているとのこと。
現在の店主は 13代目だそうです。
屋敷内に芭蕉の句碑「うめわかな 丸子の宿のとろろ汁」があった。
少し行くと、東見付付近だが 往時を偲ばせるような大きな建物は残っていないが、本陣跡・脇本陣跡の碑や格子戸の残る家・間口が狭く奥行きの深い家並が往年をわずかに偲ぶことができる。
鞠子宿を別れ、府中宿へ。
安部川の長い長い橋を渡る。
食欲をそそる美味しそうな「安部川もち」屋さんが何軒か並んでいた。
静岡の中心地で 昔の面影は殆ど残っていないが、所々に上の写真のような碑が残っている。
「西郷・山岡会見の史跡碑」
勝海舟の書状を持った山岡鉄舟が西郷隆盛と会見した処。
その4日後、江戸薩摩邸で 西郷隆盛と勝海舟の会見で江戸城無血引き渡しが決まり、江戸100万人の命が救われた。
旧東海道は 国道1号線や東海道本線の開発により、無くなったが昔はここを通っていたことを記念して造られていた。
道もなくなったためか昔を偲ぶものが少なかった。
近代化された街に変身していて、上記のような碑や説明板が残るのみだった。
清水次郎長で有名な清水の港へは、時間の都合で立ち寄れずに残念だった。
「豆知識」 東海道中の名物&土産
丁字屋のとろろ汁
特産の自然薯をすりおろし、白みその汁で溶いて麦飯にかけて食べるというもの。 その美味は各地に広がっていた。 丁字屋のとろろ汁は400年以上変わらぬ味もさることながら、茅葺きの外観も人気を呼んで、週末などは行列もできるほどの人気ぶりらしい。
安部川餅
餅にきな粉をまぶした名物「安倍川餅」の名付け親は、家康という。
彼がとある茶屋に裁ち寄ったとき、そこの店主がきな粉を安倍川で採れる金に見立て「安倍川の金な粉餅」の名で献上し、それを喜んだ家康が「安倍川餅」の名をあたえたといわれている。
その他 草津の「姥が餅」 石部の「田楽」 桑名の「焼き蛤」 池鯉附の「きしめん」 白須賀の「柏餅」 舞阪の「浜名湖の海産物」 蒲原の「栗粉餅」 原の「うなぎ」 小田原の「ういろう」 川崎の「奈良茶飯」 品川の「のり」等