2011年02月01日
私の足跡 76 東海道の完歩 11 島田宿 ~ 岡部宿
東海道を歩く 11
23 嶋田宿→ 22 藤枝宿→ 21 岡部宿
「23」 島田宿 「大井川駿岸」
はるか高所から俯瞰したようなパノラマ画。中州では多くの人が休んでいる。
「22」 藤枝宿 「人馬継立」
煙管で一服する者。背中の汗を拭者。鉢巻を締め直し気合いを入れる者・・・・・・・人足のさまざまな表情
「21」 岡部宿 「宇津之山」
道の両側には急斜面が迫り、人物からも厳しい坂道を思わる。
遠江国とも別れ、駿府の国へ。その国境に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の歌が知られる東海道一の大河がある。当時の旅人にとってはなんとも厄介な難所であったであろう。
現在の大井川
大井川鉄橋のお陰で 今は「川留め」もなく、何の不安もなく渡れるのは有り難いことだ。
大井川の金谷宿側にある川会所の中の施設の一部です。
旅人は 先ず役人にどんな方法で渡るかを申し出て、お金を払い、券をもらい待つ。
待機している人夫に川を渡してもらう。
本陣は2軒あったが、その一つ上本陣跡です。残り一つの本陣も本陣跡でした。
問屋場跡として残っている。
大井神社にお参りして東進する。
途中、甘露の井戸水を頂き、元気をもらう。
大井川の氾濫には 昔からこの地域の人々は苦しんだ。
1635年に水野氏が一千貫もの労銀を使い、領民のため約400mの堤防を築いたの「千貫堤」と名付け、今も一部が残っている。
また、山内一豊も堤防をつくったので、「一豊堤」も残っている。多くの人が氾濫のため、苦労していた。
昭和になり、水力発電用のダムがいくつも建設され、平成2002年には多目的のダムが完成した。
島田宿で多くの事を学んで 松並木の一部が残る道を通り、次の藤枝宿へ
藤枝宿は 東西に2kmにも延びる大規模な宿場まちであった藤枝宿。
その細長い藤枝宿は、現在も藤枝駅前の商店街となり、近代的な建物となってる。
推定樹齢500年と書かれている巨大なクスノキ
大きな藩の領地の中に東巌村領というようにあちこちに入り混じっている。
岡部宿本陣跡
岡部宿大旅籠を歴史博物館にしている。
川越えについて(前号の続き)
川を渡るには、旅人は渡し賃を払わなくてはいけない。勝手に渡るのはご法度。川は見た目以上に深い所があり危険。というのは表向きの理由だが、通行料が藩や宿場の大きな収入源であったのも事実だった。
渡し船の乗船料は一人10文ほどで、武士や僧侶等は無料。朝6時から夕6時ぐらいまで運行したらしい。
渡し船のない所では川越え人足を雇って徒歩渡しをするしかなかった。旅人は肩車か蓮台に乗るかを決め、川合所で料金を払い川札という切符を購入をして順番を待つ。
川越え人足の仕事が重労働だったのは、想像に難くないだろう。その分 料金も高く、水高によって下記のようになっていたらしい。
黄色は現在の金額に換算したらしい(小さくて見えづらいので拡大して見てください)
そして、150cm程度を越えると川留を余儀なくされた。川留は数日間におよぶこともしばしばあり、最大で28日間という記録が残されている。
また、時には 一部の悪い人夫により余計なお金を要求されることもあったという。