2019年05月

2019年05月01日

私の足跡 214 空海の足跡を辿る 4


 私の足跡  214 
   
空海の足跡を辿る 4


 長安に残った空海達の生活する当時の唐の都・長安に
ついて詳しく記しておきます。


 唐の長安城は南北が8651m、東西が9721m。
 北辺の中央に大極殿を中心とした宮城があり、
碁盤目状の
道路で東西南北に区画されていた。
外側長安城壁で囲まれ、
一部を除き12の城門は日暮れか
ら夜明けまでは閉じられている規則であった。
 城塀高さ12メートルある巨大なものです。 
 

 

 盛唐の玄宗時代には人口100万と言われ、またイラン系の
など、周辺の世界から渡来するものも多く、国際都市として
栄え
た。



  参考までに 平城京の規模等を記しておきます。

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 東西約4.3キロメートル、南北約4.8キロメートル。
その長方形の東側には東西約1.6キロメートル、南北
約2.1キロメートルの外京があり、総面積は約2,500
ヘクタールにも及ぶ。
南端に設けられた
羅城門らじょうもんから平城宮の正門・朱雀門
まで伸びた幅約74メートルの
朱雀大路すざくおおじを中心に西
側の右京、東側の左京に別れ、碁盤の目のように
整然と区画された京域には10万人以上の人々が
暮らしたという。
 

 朱雀門を中心に12の門を囲む築地の高さは約 6メートル。

 
 次は 隋・唐時代の「長安城」です。 

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残念ながら10世紀頃の反乱などで唐が滅亡したとき、長安の

都は一部を除き 破壊されました。今は 西明寺や宣陽坊等
は残っていませんが最近になり、青龍寺は一部復活している。


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私達もこの門をくぐり高い塀の上に登って見学した。
 
 一部分当時の建物も残っているが、現在は近代的な建物に
復元されている。


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 城壁の上はこのように広くなっています。敵が攻めてき
た場合には、ここに幾重もの列をなした兵が待ち構え、
弓などで応戦できるようになっています。

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 高さ12メートル、底の幅18メートル、頂部の広さ15メート

ルある巨大なものです。特に、高さよりも厚みの方がある
ことに、当時の防衛の拠点としての城づくりの考え方が見
えます。

 今では 城壁の上をレンタサイクルもはしっている。 

  

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 唐の高僧玄將三蔵がインドから持ち帰った経典等を
保管していた建物(大雁塔)と玄奘
三蔵の僧


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大雁塔の中に入り、最上階まで狭い階段で上る。
7階建で高さは64mで、最上層まで登れば市街が
一望できる。


  
唐に残る空海や橘速成達は 大使達を見送った後、

住居を宣陽坊から西安寺に移るが、その時も上の写真
の大雁塔等を眺めがら移動したと思う。
 その他 秦の始皇帝陵等にも行ったり、いろんな所
を見学したのではないでしょうか。
 
 西明寺(崩壊後再建されていない)では 前からの留
学生永忠・円照からいろいろ教えてもらい、また、紹
介してもらったインドの僧の二人からインドの文字や
思想を学びました。
 そして、密教を学ぶな
青龍寺の恵果阿闍梨が唐で
の密教の第一人者 であることを教えてもらい青龍寺に
行き、お会い
しました。
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私達は 青龍寺の遺に見学に行きました。 
 
1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺跡と伝承
されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の
遺物を発掘し、この地域に昔の青龍寺があったことを確か
めた。復元された青龍寺に立ち寄る。 

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この館内には、空海に関わる写真や図が沢山展示
されています


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 青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、

空海記念碑()恵果・空海記念堂()が建っている。

 

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四国霊場会会長(善通寺法主)により、この青
龍寺が四国八十八箇所の零(0)番札所と名付けられた。


 空海が
龍寺に入ると、初対面の師は 笑みをた
たえ、次のように言った。
「我、先より汝が来たらんことを知り、相待つこと
久し。
・・・・・・・・・灌頂壇に入るべし」と。
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そして、その第七祖の恵果和尚から三度灌頂を受
け、インド直伝の正統な密教を受法して伝法阿闍梨
位を授けられ、第八祖師となった


 そして「一日も早く祖国に帰り、密教をもって国
家に仕え、国中に広めて人々の幸せを祈りなさい」
と言って示寂した。
 空海は帰りたいと思っても、許可もなくどんな方法
で帰れるかを考えるととても無理であった。
 その時 あたかも空海を迎えにきたかのごとく長安に
やってきたのが 判官・高階遠成であった。
 この機会を逃すと、いつ帰国できるか定かでないと
考え、高成に願い出た。
 高成も了承し、唐朝の了解も得て、空海は師の
遺誡にもとづき、20年の留学予定を切り上げて
長安を後にした。


 空海の入唐求法がまさしく「虚往実帰」の旅であ
ったと自分でも記しています。
 それは、日本では解決できない問題を抱いて
入唐
し、正統な密教の相承であった恵果和尚と出会
い、和尚が所持していた教法を余すところもなく
受法し、満ち足りた気持ちで、我が国に帰ってきた
からです。


 空海が 日本に最初に到着したのは 出発した「福江島」
との説もあり、行って来ました。

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 寺の名は「西高野山」で、立派な寺院でした。
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そして、その境内に立派な石碑が建ち「虚往実帰」とある。

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 空海 四国で修行中 口の中に明星が入ったということか
ら「明星院」とある。梵鐘や絵天井が印象的でした。

 
そして、明州を8月に出航し、10月に九州(
どこか不明)に到着らしい。

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 帰りの船も激しい風雨に遭い、船中でも大変だった。
    ある記録には、嵐に遭い、木の葉のように玩ばれる
船中で立てた小願である。

 空海、大唐より還る時、しばしば漂蕩に遇いて、
(いささ)一の少願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光
を増益し、國界を擁護し、衆生を利済せんがため
一の禅院を建立し、法によって修行せん。願わくは,
善神護念して、早く本岸に
達せしめよ、と。神明(くら
)

からずして、平らかに本朝に帰る

                  (「定本」7―99100 )       

                      

  この時立てた小願は、10年後、高野山の開創として実
現することになる。


 帰国後、すぐに、正式な帰国報告書である「御請来
目録」をしたため、上京する判官・高階遠成に託して
朝廷に届けた

 その中には、
空海は唐から持ち帰った新訳の経24
7巻、梵字の真言等44巻、経の注釈は170巻にお
よび、その他に仏像、曼荼羅、法具類を目録にまとめ
て渡したとされています。
これらの全ては初めて請来されたものであると明記し
て最後に
「規定より早く帰国したことは、死をもってお詫びし
ても償いきれないけれども、生きて最高の教えである
密教を伝え得たことは、それにも勝ることであり、ひ
そかに喜んでいる。」
20年の留学期間を足かけ2
年で切り上げて帰国したことへの弁明もみられる。

 大宰府は、大和朝廷が朝鮮半島および大陸との外交
窓口、辺境の防衛のための軍事の統括、貿易管理、
そして西海道・九国・・・三島の統治を目的として
筑紫に置いた出先機関である。


 その後、空海は大宰府を離れ、中国で学んできた
密教を理論的にせいりしたり、今後 我が国にどの
ように密教を流布させるかを考えていた。
  
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 現在は特別史跡「
大宰府政庁跡」が残っている。

京都からは2年半の間 何の音沙汰もなかった。


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九州滞在中の殆どは 近くの観世音寺に逗留していた

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 母・斎明天皇の冥福を祈るため天智天皇が発願
し、天平十八年(746)に落慶した。かつては三戒壇
院の一つが置かれ、九州寺院の中心であった。

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本堂の裏手に客僧房とみられる建物跡があり、空
海が観世音寺で住していたとすればここで起居し
ていたと想像される場所です。。

 

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もう一つ、空海に関わる寺があります。

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 帰国した空海が初めて創建した寺。密教が
ここ九州から日本の東方に広がってほしいとの
願いで「東長密寺」としたらしいです。


 
空海は こんなに長く入京を許されないのは
なぜか
? 留学期間を守らなかったためか?もう
京都に生涯帰れないのではないか等 考えてい
たかも知れません。毎日不安な日々であったこ
とでしょう。  
      
但し異説アリ

 
 



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