2019年04月
2019年04月01日
私の足跡 213 空海の足跡を辿る 3
私の足跡 213
空海の足跡を辿る 3
空海の願っていた遣唐使が25?年ぶりに復活し
、遣唐使船が出発することになった。
とにかく、長い間夢に見ていた遣唐使での出発です。
降り大宰府に寄り、それから最後の九州の最西端の
島・五島列島の田ノ浦?で最後の食糧・水の補給を
し、風待ちをして出発。
遣隋使船や遣唐使船が中国に渡った航路
今回は五島列島から中国の杭州を目指した。
七月六日。遣唐使船4隻。遭難に備え、四隻体制。
別名「四つの船」 一隻あたりに約150人位乗船。
船の大きさ、詳しい資料は残っていないから推測
だが全長約30m 全幅約10mとされる。
平城京跡に資料を参考にして造られた遣唐使船
1船には 遣唐大使・藤原葛野麻呂と共に空海・橘
逸勢ら留学生ら約150名程が乗り込む。
2船には 副使 石川道益 判官 菅原清公 請益
僧最澄ら 第3船 判官 三棟今輔 第4船 判官
高階遠成が乗り込み一路西に向かったが翌日の戌の
刻(午後7~9時)には 第3・4船が「火信するも応え
ずで」から両船は行方不明となる。また、しばらくす
ると、第1船と第2船も別れてしまう。
ここで第二船に乗った最澄のことを記事の中に挿入し
ながら書いていきます。
空海さんと言えば最澄さん。最澄さんといえば空海さ
んといわれる位 平安時代の二大宗教家として有名です。
同時代に生き、船は違うが共に遣唐使になり、空海は
真言宗を学びに第一船に乗り、最澄は天台宗を学びに第
二船に乗り、五島列島を出港した。
最澄は 空海より七才年上て この頃 比叡山に延暦
寺を建て、時の天皇・桓武天皇の庇護を受け、たくさん
の弟子もいる立派なお坊さんでした。今度の遣唐使も空
海のような20年間 自費で唐に滞在し 修行しなければ
ならない身分とちがい、最澄は還学生で僅か1年位の間
で 国の費用で個人の通訳(義真)と二人の留学生を連れ
て正式には「入唐請益天台法華宗還学生」の格式である。
同じ留学僧でも、空海とは雲泥の差があった。
この時は 乗った船も違うし、唐でも別行動だったので
また、帰りも別行動だったので二人の会話はなかったでし
ょう。
しかし、帰国後、二人は一時期、仲良しになり、話し込
んで一夜をあかしたり、手紙の交換も頻繁にやっておった
が、ある時期にバッタリ途絶えた。 詳細は この後 記
していきます。
元に戻り
船中では、卜部や陰陽師が船の進む方向を決めるの
だから大変だったでしょう。
空海の乗った1船も、暴風雨に襲われ、船の帆は痛み、
船の中に海水が流れ込み、船中では 泣き叫ぶ声や風
雨を鎮める僧の読経の声で大変だったでしょう。
「生死ノ間に出入シ、
波濤ノ上二□曳セラルルコト、
スべテ丗四個日』
葛野麻呂が上表した文章 [日本後紀]による
船は 正しい方向が分からない(方位磁針も無い)から
北へ行ったり、南へ行ったりで洋上をぐるぐる回っていたの
でしょう。
海が凪いでいる時も無事に陸地に着けるか心配だっ
たでしょう。
8月10日、やっと 出発から34日目に陸地が見えた。どこ
の国か判らず接岸すると目的地の揚子江の河口(普通であ
れば10日前後ぐらいで到着する)から相当南の福州赤岸鎮
の海口に流れついた。
司馬遼太郎氏の「空海の風景」の一部に[暦は8月10日になつて
いる。海岸に山がせまり、岬の地肌が赤かった。・・・」 とあるが、
に実際は赤色ではなかった。
古代中国の『陰陽五行説」から赤岸と名付けたらしい。
ここで、 同じ日に、日本を発った第二船の最澄達の船に
ついて記します。
第三船・第四船と別れてすぐに第一船とも別々になった。
第一船と同じく、暴風雨に襲われ、9月1日に明州に流れ
ついた。 漂流期間は54日です。距離が短いが日数が長
いということは、ぐるぐる回ったり、行ったり、来たりの時間
が多く、食糧・水分の面も不安だったでしょう。
但し 長安や天台山に行くには距離が短く、好都合だった。
第二船の最澄と随行者は 滞在期間は1年で 修行は
天台法華宗を学び、お経等を写経するのが目的だから
船をおりて、皆と別れ、長安ではなく、天台山に向かった。
空海ロードを目指す空海達の話に戻します。
2010年5月8日に 私は仲間と 飛行機・バス等の交
通機関を利用して赤岸鎮に到着した。
約一千ニ百年前の804年8月10日に空海達は長い
不安な漂流の船旅を終えての陸地だったのでどんな
気持ちであっただろうと思い、しばし 砂浜に立ち、
四方を眺めていたら込み上げてくる熱いものを感じた。
私たちは 海浜を離れ、山のほうへ歩いて行くと風変わ
りな門がある。空海坊と書いていた。平成五年(1995)建立。
赤岸は 今も半農半漁の田舎の感じがした。
空海記念堂の中の「弘法大師空海」
遣唐使の話に戻ります。
大使は早速 村の役人らしき人に話をした。
大使は自分たちの目的を言い、悪天候のためにここに到
着したことを説明しましたが ここは田舎の一地方だから
役所のある福州へ行って事情を説明するように言われた。
仕方がなく また、船に乗り約250km離れた福洲に向
かった。
⇧
台湾 霞浦から福州へ。 10月3日発
福州に到着後 新長官「閻済美」の就任を待って、
葛野麻呂が入国の交渉に取り掛かったが、取り合って
くれない。
仕方なく、空海に文書を書いてもらい渡す。すると
文書の文字・文章の素晴らしさに感心し閻済美の
態度が変わった。
その文章の題は「大使の為に福州の観察使に與る
書]で数多い空海の名文の中でも特に名文とせられて
いる。
実物は「性霊集」に収められている。
内容の概略は 中国を讃え、日本の位置を示し、信
物には印書を用いなくても信ぜらるべきこと等を
説いている。
こんな名文に新長官が感激して、話が進み、長安へ
の道が開かれた。
それで、福州を11月3日に出発し、2400㎞(四国遍路
二廻りか、大坂・東京を二往復半)離れた長安に向か
った。
この漂着の地・赤岸鎮から伝法の地・長安まで
の2400㎞の道のりを「空海ロード」と言って
いる。
高野山大学の静慈円教授を中心にしたグループが
30年以上も前から古い資料をもとにして空海ロー
ドを現在中国の地図の上に再現されている。
12月の中旬に長安到着をめざして急いだのは150
名位の乗組員だったが、選ばれたのは 23名だった。
星二立チ、 星二宿ス。
晨昏 兼行セリ
(日本後紀)
という表現で、その強行軍が想像できるであ
ろう。
私達は 福州に行かずに 静先生達も立ち寄っ
た時もあるという観光名所を見学した。
空海も寄ったかも知れませんが 一時空海ロード
から外れます。
それは、海外 国内ともの観光のメッカの一つで
ある武夷山である。
第一の魅力はたくさんの奇峰が点在していること
です。
川には 孟宗竹で作った筏に人を乗せて川下りを
するのです。
中国にはこのような河川が多くある。
この河川では、観光のため、船ではなく孟宗竹を組
んだ筏に客を乗せて楽しませています。
第二の魅力は、奇峰の一つに登ることです。
通路は梯子や手すりを整備して安全を確保している。
最後の頂上までは、何度も休憩を要したが、登り始めた
川を見下ろすと見事で、疲れが吹っ飛んだ。
空海ロードから少し離れたが、元の空海
ロードに戻ります。
仙霞嶺には、唐代官道が残り、仙霞関と
いう関所がある。
この仙霞関は 中国四大古関所の一つとして
大事に保存されている。
山の谷あいに ダムのような関所があり
「仙霞関」の標識が建っている。
八0四年十二月初旬,遣唐大使の藤原葛野麻呂一行
23名がこの道を急いでいる姿を 私は想像しながら
坂道を登った。
孟宗竹の茂みの中の像。
次は 空海ロードは二十八都鎮に入る。
二十八都鎮は古駅で有名な鎮です。
日本であれば、地方の小都市である。
東海道五十三次の宿場のような働きをしている。
古道の両側には 清代の民家等の建物が連なって
いる。
長い歴史と文化の残る建築群が雑居の中にある。
僅か4枚の写真ですが 二十八都鎮の生活の
様子・風景です。
高野山真言宗は、空海入唐1200年記念事業と
して、「二十八都鎮唐代官道の整備」をした。
そして、中国の江山市は 建造物を唐代様式
として、古鎮復興をすると、決議をしたとある。
うれしいことです。
私達の空海ロードで途中の立ち寄っての見学は
以上で終わり、次は 乗り物を使い目的地の長安
です。
空海達は、長安へは、長い長い道のりを辛苦の
末に12月23日長安に辿り着いた。そして,
宣陽坊の官舎に入る。
先に到着していた第二船の一行と合流した藤原
葛野麻呂大使は 徳宗皇帝に謁見し、遣唐大使の
使命を全うした。
ところが、翌年の1月23日 徳宗皇帝が崩御された。
そして新しく順宗皇帝が任命されたりで大変であった。
その為、大使の帰国が遅れ、長安を3月29日に出発し
明州にに到着した。
ここで、最澄一行と一緒になり、乗ってきた船
に乗り、5月18日に帰国の途につく。
帰りの航海は 順風満帆で6月5日に無事 対馬
に到着。