2019年03月
2019年03月02日
私の足跡 212 空海の足跡を辿る 2
私の足跡 212
空海の足跡を辿る 2
空海の生涯を記した書物は、真偽とり混ぜて、650
に余るほどもある。この数は、個人の伝記類として
は、群れをぬいて多い。
もっとも、多くは、虚実が交錯し、なかには、いわ
ゆる伝説・伝奇の類も多々ある。
一般には、次の資料は信頼できると言っている。
(空海の死後 百年以内につくられた。)
書名 執筆者 成立年代
「空海僧都伝」 真斎? 835年?
「空海卒伝」 藤原良房など 869年
「空海和上伝」 貞観寺座主 895年
「三教指帰」 空海、 797年
「請来目録」 空海 806年
「性霊集」 空海 831年?
「御遺告」 空海の遺言をまとめたもの
とされる。空海入滅後 百年
以上後に書かれているので偶
像化が進んでいる可能性あり。
空海の伝記で20才頃まで 確実視できる足跡は 次
の二つだけです。
① 延暦七年 (788) 15才の時 京に入り叔父の阿刀
大足に本格的に勉学を学んだ。
② 同十年 (791) 18才 都にあった大学に入る。
そして 程なくして 一沙門より、虚空蔵求聞持
法をさずけられ、一心に修行したところ神秘体験を
得た。
15才になるまで どこで どのように過ごした
のかはわからない。
「父母、偏ニ悲ミ字シテ
貴物ト号ス」
と 空海の晩年の談話をもとにして編纂した
という「御遺告」にある。
「私は両親から貴物といわれていた よ」と門人
達に もらしていたらしい。
当時の学校は 中央に「大学」があり、各地方
にもそれぞれ「国学」があって、空海も13才から
通っていたという話もある。
(司馬遼太郎 空海の風景)
延暦七年 (788) 15才の時 京に入り叔父の阿刀
大足に本格的に勉学に励んだ。大足は 桓武天皇
の皇子・伊予親王の侍講つまり家庭教師的な役割
をしていたことは「三教指帰」の記述に見られる。
「余、年志学にして外支阿二千石文学の舅
に就いて
伏膺し鑚迎す」
(わたくし空海は、十五才のとき、母方のおじ
禄高が2000石、親王の教育係を務めていた阿刀
を師と仰ぎ、学問に励んだ)とある。
この阿刀家の環境が 空海が好学に燃える気風を
高め、少年時代の空海に及ぼした影響は大きかっ
た。
そして、 延暦十年 (791) 18才で長岡京にあった
大学の明経科に入学し、一心に勉学に励んだ。
「春秋左氏伝」や」「毛詩」を学んだ。
そこでの勉学はすさまじく「首になわをかけ腿を
錐でさして睡魔をふせいだ」と自ら記している。
この頃の4年間のもう勉強で 唐への留学のおり、
中国の教養人を感嘆させた高いレベルの漢文をした
ためたり、中国語を自由にあやつった事実を考えて
も抜群の秀才になっていたと思う。
この学力は、中央の官人を輩出し始めた父方の
学問環境、及び学問に身を立ててきた母方の好学の
気風によって育まれたと思う。
空海が入学して1~2年目ぐらいに 一人の沙門
(大安寺の僧・勤操とする説と戒明とする説あり)と
出合い、仏教の秘宝・虚空蔵求聞持法を授けられた。
高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。
開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺
の1つで、奈良時代(平城京) から平安時代前半
までは、東大寺や興福寺と並ぶ大寺であった。
この頃の七大寺は現在のように一寺一宗制では
なく、諸宗兼学として新宗教も容認されていたと
いいます。
さて、虚空蔵求聞持法は記憶力増進のための修
行で、密教の仏・虚空蔵菩薩を祀り、その真言を
百万回、百日間にわたって念誦するというもの。
成就すればあらゆる経典の文義を暗記し、理解で
きるという荒行であった。
山林修行者の道を選んだ。
「三教師帰」」には、
阿国太龍岳に躋り攀ぢ
土州室戸崎に勤念す
幽谷、声に応じ、明星、来影す。
或ときは、石峯に跨って、粮を絶って□□たり
(石峯は四国の石鎚山) ( 「定本」 七 64 )
修行の場は、大和の山林もあるが、主に生国
の四国が中心だった。
「三教指帰」に「空海は阿波の大龍岳や伊予の
石鎚山に籠り、土佐の室戸岬で修行に明け暮れた
」とある。
役行者以来 山林修行で有名な大峰山
左 大峰山の本堂 右 修行地
山岳ではないが 修験寺で有名な比曽山寺。
飛鳥時代に聖徳太子の創建と伝わる古刹。
吉野郡大淀町にある。
今は 当時の大寺院の面影はないが、現在の
世尊寺は江戸時代に整備・縮小された寺です。
左 現在の世尊寺の本堂 右 寺院跡 国の重要文化財
四国八十ハケ寺の一人遍路の時にが舎心岳や
石鎚山の剣が峰等に登って来た。
最初に太龍寺から見える舎心が岳にお寺の許可を
得て登り、空海が虚空蔵求聞持法の修行をしてい
る所と空海の見ている景色を見てきた。
左 ここからロープや 右 空海の視線を確かめたが
鎖を使い登る。 空と海と山だけです。
途中に紅葉の季節に遍路宿に連泊して 丸一日を
使い登った。この日は遍路姿ではない。
左 ロープや鎖もなく 右 前を行く団体で遅れたが
岩山を手足だけで登る。 やっと頂上(天狗岳)。
高知の最御崎寺の近くにある「御厨人窟(みくろど)」
空海が各地の山岳等での修行を重ねる。
ここでの修行中に明星が口中に飛び込んできたという所。
現在 車が近くを通り、誰でも行ける。
右 御厨人窟を外から見る。 左 御厨人窟を内から外を見る。
空と海だけしか見えないから
「空海」と名付けたという
上の所で、虚空蔵求聞持法の修行を続けている
と、それに応える形で虚空蔵菩薩の化身とされ
る明星が来迎し、空海の口に飛び込んだとれいう。
このような神秘体験をしたことでさらに修行に
のめりこんだ。そして、目標としていた官吏への
立身出世の道が疎ましくなった。
そしてついに出家者の道を選び、出家し私度僧となった。
空海の出家は国家公認のそれではなかった。
優婆塞と呼ばれる私度僧だった。
当然、正式の僧ではない。
このような空海に対し、周囲の親族や身内は反対した。
そのような周囲の人々を説得する目的で書かれたのが、
空海二十四才のときに著した「聾瞽指帰」(のちに
「三教指帰」に改題)である。
空海(二十四才)自筆の聾瞽指帰(三教指帰) 国宝
「三教指帰」は5人の登場人物で儒教・道教・仏教
の教えの優劣を問う比較宗教論が展開されている。
作品に登場する仮名乞児という出家者は、
空海自身がモデルとおぼしき人物で、みすぼらし
い身なりをした暮らしぶりから、親不孝ではない
かと詰問される。
それに対して仮名乞児は、仏門に入り、世間の
一切衆生のために尽くすことは、親孝行にまさる
行いであると反論する。
そのほかに、仏教の良い点を述べている。
すなわち、我が子に官吏への道を望む両親をは
じめ、周囲の人々に対する空海の決意表明の書で
あったのである。
この。「三教指帰」を著して以後、約七年の間
消息を絶つ。」いわゆる『空海の空白の七年間」
である。
伝承によると
この間 空海は山野を彷徨して不可思議な力を
身に着けるとともに、かなりの時間を、東大寺や
大安寺等の奈良の大寺院における仏教学習に費や
していたらしい。
このような山林修行と学問研究の両立はこの時
代の僧侶によく見られる行動パターンであった。
一月を半分に分けて 前半は自然の中の修行、
残りは寺院の中での研鑽を積むことが多かった。
夢のお告げにより、大和久米寺の東塔の下に
おいて、のちに日本密教の二大経典の一つとな
る「大日経」をひもといた。
しかし、理解できぬ所が多々あった。
東大寺の創建に関わった久米仙人と縁の深いお寺です。空海
がここ久米寺の宝塔内で大日経を発見したとされている
玄昉が六十年以上も前に輸入したが、当時の仏
教界の実力では、十分読みこなせたとは、到底言
えない凄い経典で、誰もわからずほったらかしに
なっていたというのが実情だったらしい。
空海は 以前 四国の山林修行で得た、明星が
、口中に飛び込むという神秘体験の意味すること
がわかり、[大日経」を読み取れて理解するため
には唐に留学して、かの地の学者について学ぶ
しかすべがない。そうすれば、この時代の日本の
仏教とはまるで次元の異なる仏教が展開できる
。そのあかつきには、いろんな意味で素晴ら
しい未来が自分の前に開けてくる。そう、空海は
予感しながら勉学と修行に明け暮れていたかも
しれない。
かくして、七年の音信不通ののち、延暦二十三
年(804)に、空海は忽然として姿を姿をあらわした。
ときに、三十一才。この頃、世界最高の文明を
誇った大唐帝国へ、遣唐使が25年ぶりに出ると
いうことが空海の耳に入った。
でも、空海には 遣唐使になるには、突破しな
けければならない問題がいくつかある。
それは 留学生になる資格がないということです。
優婆塞と呼ばれる私度僧だった。出発までの時間がない。
最初の出発は 延暦二十二年(803)4月16日
難波津であった。だから、出家・受戒した日は
いつかが問題だった。
古来、真言宗ては、「御遺告」にもとづいて、
二十歳の時「槇尾山寺」で大安寺の勤操大徳を
師として出家、二十二才で東大寺戒壇院にて受戒
したという説があった。
大安寺の勤操大徳を師として出家した言われる槇尾山寺
左 剃髪 右 本堂
更に、最近の資料によると太政官符(延暦24年9月付き)
には
□学僧空海
右去ル延暦廿二年四月七日出家□□□□□
承知・・・・
太政官符 治部省
「空海の出家得度を延暦二十二年(803)四月七日」とみ
なすと書かれている。
空海は 第一回目の延暦二十二年(803)4月16日
難波津発の遣唐使船に乗ることができた。
異説アリ
これらの問題解決に 佐伯一族の長・佐伯今毛人・
大安寺の勧操 それに空海の叔父の阿刀大足という
人達の知恵と根回しがあったかも知れません。
最後は費用の問題です。 空海の父方は地方の役人
だが、広く田畑を耕し、また、船を持ち荷物の運送等
でも活躍し、かなり裕福であったらしい。
また、母方も裕福であったらしい。異説アリ
遣唐使が始まる。
第一回目 延暦二十二年(803)4月16日 難波津発
同 4月21日 瀬戸内海で暴風雨に遭い、船団
の一部破損あり、一部難波に戻る。遣唐使中止
第ニ回目 延暦二十三年(804)5月16日 難波津発
空海,去んるぬ延喜廿三年季夏の月、
入唐之月、入唐の大使藤原朝臣に隋って、
おなじく第一船に上りて、咸陽に発赴す
(わたくし空海は、延暦二十三年(804)6月 遣唐
大使・藤原葛野麻呂に従って、同じく第一船に
乗り、唐の都・長安に向けて出発しました。
(ご請来目録)
では いよいよ出港です。7月6日 五島列島か
ら唐へ旅立った。出発した港はどこか?
異説アリ
私達は 遣唐使船が出発した候補地の一つ
「五島列島では最大の福江島」の三井楽の
浜辺に行ってきました。
周辺には民家もなく、淋しい所でした。
一角に 空海の像と遣唐使船が出発したという
記念碑が建ててありました。
文字は「辞本崖」です。静慈円先生の揮毫です。
この「本土の涯を辞した」との意味らしい。
遣唐使として送り出した母親の短歌もあった。
日本の最西端の福江島の三井楽の浜辺から西に延びる海
遣唐使は磁石もなく、航海術もわからず、
この地より中国へ出発した。