2018年08月
2018年08月16日
私の足跡 209 お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 6
お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 6
今回は 橋本市の北東部の文化財の探訪をするという企画です。
先ず 小峯寺へ。
小峯寺は、宝雲山宝蓮院と号し、本尊は馬頭観音である。
紀見村郷土誌には、「役行者の開基にして、山伏の行所なり」と記され、鎌倉時代初期の「諸山縁起」に当寺が記載され、南北朝時代は金剛山転法輪寺(現奈良県御所市)配下で、修験寺院として栄えた。現在も本堂前に、葛城根本道場の石碑が建てられている。
かつては、寺中に五坊があったが、天正年間(1573-92)の兵火で焼失したと言われている。
境内には、天授5年(1696年)銘の宝篋印塔があり、橋本市指定文化財となっている。
また、境原村の檀那寺、東光寺(明治維新で廃寺)の本尊であったと伝えられる木造薬師如来坐像も橋本市指定文化財です。
また、例年 護摩焚きをして、そのあと信者さんの火渡りがありり、その後 餅まきがあり、賑わいます。
次は 約1時間少し歩いて 杉尾に到着。
登り口に 明王寺があり、沢山の仏像が祀られている。当日 ご開帳して頂き、ありがとうございました。
ここから635段の階段に挑戦です。明王寺の横に鳥居があり、その奥に階段が見えています。
鳥居をくぐると階段が始まります。ほぼ一直線の上りです。テレビです田中陽希氏がグレートトラバース2で金剛山に登る時、駆け上ったという階段です。
両側にシャクナゲが植えられています。
時々振り返ると里が下に見え、ぐんぐん上っているのがわかります。
一直線に直登している急階段でした。
長い階段を上り詰めると大楠公腰掛け岩とベンチがありました。
その上に小さな穴のあいた岩がありました。環境庁の日本の音風景百選に選ばれています。
穴に耳をあてると、紀ノ川の流れの音?あの世の音?この世の音?が聞こえるとのことですが?
巨岩の下に 不動明王が祀られている。
この巨石群は役行者が葛城山から金峰山に橋をかけようと石を集めた跡とのことです。
帰りは 迂回路を通って下り、次の細川の阿弥陀寺へ向かう。
阿弥陀寺は、和歌山県橋本市細川にある高野山真言宗の寺院である。
紀ノ川の支流谷内川の両岸の集落が細川で、平安時代の末期、この地域一帯の相賀荘が高野山密厳院(苅萱堂)の荘園になった。
紀伊続風土記によると、細川上村には、新宮大明神の別当、神宮寺、不動院そして阿弥陀寺の3ケ寺が記録されている。
そのうち不動院が廃寺となり、本尊であった不動明王は、阿弥陀寺境内の不動堂に安置されている。ございました。(上の写真)
阿弥陀寺は、紀伊続風土記に境内周38間、隅田荘境原村小峰寺末と記されている。
本尊の阿弥陀如来坐像(像高95cm)は、平安時代末期の作で、橋本市の文化財に指定されている。
来迎印を結ぶ重量感のある姿で、白毫に水晶がはめ込まれている。当日 村の人達の好意でご開帳して頂き、ありがとうございました。
私の足跡 208 お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 5
お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 5
今回は市内の北西部の文化遺産を探訪することにして、高野口駅に集合。
当日 参加者の人数はいつもの半数近かったのは 朝から少雨だったからである。
でも 約束通り当日7時現在の降水確率は50%未満だったので出発した。
最初は弘法寺の見学。
上中の高台にある弘法寺の梵鐘は鎌倉時代(1221年〔承久3年〕)に鋳造されたもので、県下でも4番目に古く、県の文化財に指定されています。
昼前だったが 雨も降っていたので 小学校を借りて昼食をさせてもらった。(日曜日) ありがとうございました。
次いで 少し坂道を上ると信太神社があり、参拝と見学。
信太神社は九重・上中・田原・下中の氏神とされていますが、由緒などについては詳らかではありません。伝えによると、祭神は泉州の信太の森から勧請されたものともいわれ、5社がお祭されています。地元では土龍(もぐら)封じの神として知られ、この地域にはモグラが絶えていないといわれています。
橋本市高野口町九重の信太神社境内にあるクスノキ
江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』には「境内に樟の大樹あり 圍三丈餘輪困陸離たり 社地の古き事知るへし」と記されていて、クスが相当古くから境内にあって意識されていたことが知れます。しかしながら、老樹とはいえ樹上には多くの枝葉を茂らせ、樹勢はそれほど衰えていないようです。本幹の根元の立つ幹周り2.1メートルのクロガネモチの壮齢樹がこのクスの根元に抱合され、完全に癒合状態になっているもの奇観となっています。
次は 大きな谷越えをするため、急坂を下り、そして急坂を上り、山田地区の一言主神社に向かう。
空海が当地を訪れた際、産土神を祀る神宮寺を創立したのが始まりと伝えられており、祭神は一言主大神をはじめ十八の神々を祀っており多くの人々から「一言(いちごん)さん」と呼ばれ崇敬をもって親しまれております。
途中 橋本市では珍しい南北朝時代の北朝年号の残る不退寺に寄る。
延命山普賢寺は、和歌山県橋本市菖蒲谷にある真言宗の寺院で、隣接する熊野権現社と大夫宮(たゆうのみや)の別当寺と伝えられている。
寺伝によると、天平9年(737年)春、行基菩薩が当地方へ巡錫の際に、この地を浄所と定めて、自ら資材を運び、仏像を彫刻した。
本尊普賢延命菩薩は4頭の白象に乗った二十臂像として表現されており、行基作と伝えられている。4月15日の春の大祭に開帳されているので、参加者全員ゆっくり見せて頂く。大祭での餅まきがあり、たくさん拾わせて頂きましたました。
本尊は、檜材による寄木造り、漆箔(しっぱく)仕上げで、等身大(像高94cm)の像である。
藤原仏(平安時代後期)の典型的な作品であるが、普賢延命菩薩像の現存するものとしては、奈良・法隆寺の像に次いで日本では二番目に古い貴重なもので、平成8年4月に和歌山県文化財に指定されている。
本日の最後の締めくくりとして市立郷土資料館に立ち寄り 市の文化財を見学してとして解散した。
2018年08月15日
私の足跡 207 お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 4
お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 4
今回は 隅田駅に集合し、真土地区での万葉歌碑巡りをし、その後 落合地区に移動し摩崖仏の見学をした。
【万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和 歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられている。
橋本市には 10首 詠われているが 真土地区には8首ある。
先ず 隅田駅前に上記の歌碑がある。
真土山 夕越え行きて 廬前の 角田河原に ひとりかも寝む 巻3-298 弁基(べんき)
真土の山に登って行くと歌碑がある。 これは 長歌である。
神亀元年甲子の冬の十月に、紀伊の国に幸す時に、従駕の人に贈らむために娘子に誂へらえて作る歌
大君の 行幸のまにま もののふの 八十伴の男と出で行きし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の路より
玉たすき 畝傍を見つつ あさもよし 紀伊道に入り立ち 真土山 越ゆらむ君は 黄葉の 散り飛ぶ見つつ
にきびにし 我れは思はず 草枕 旅をよろしと思ひつつ 君はあるらむと あそそには
かつは知れども しかすがに 黙もえあらねば我が背子が 行きのまにまに 追はむとは
千たび思へど たわや女の 我が身にしあれば道守の 問はむ答を 言ひやらむすべを知らにと
立ちてつまづく
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もう少し下ると 石碑゛かある。
橡(つるばみ)の 衣解き洗ひ 真土山 本(もと)つ人には
なほ及(しか)かずけり
巻12-3009
いで我が駒 早く行きこそ 真土山 待つらむ妹を 行きてはや見む 巻12-3154
国道筋に行くと 二基の歌碑がある。
あさもよし 紀伊へ行く君が
真土山 越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね 巻9-1680
宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊の国に幸す時の
あさもよし 紀伊人羨ともしも 真土山 行き来と見らむ 紀伊人羨しも
巻1-55
この歌碑は 真土を詠んでいますが 橋本駅前にあります。
残り2首の歌碑は 詠んだ地区にありますが今回は行きません。(1首は第1回に記しています。)
真土と言えば、「飛び越え石」がある。 この一歩で大和の国から紀伊の国へ入るのです。
次は 極楽寺に向かい歩く。
途中 旅人達で賑わった大和街道の面影が残る真土地区を通る。
極楽寺に到着。市指定の文化財 宝篋印塔です。
市指定の文化財 阿弥陀如来坐像
満開の枝垂桜の下を借りて昼食をとったり,集合写真をとったりゆっくり過ごさせてもらつた。
最後は 落合の摩崖仏を見学。
落合川の両岸にある巨岩に沢山の仏像やお経の一部が刻まれています。
山肌にむき出した岩に 不動明王像が刻まれています。
それぞれ描かれた時期は異なるようですが、五輪塔をはじめ両脇に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、倶利伽羅童子(くりからどうじ)を従えて剣を持つ不動明王像、「法華経」や「涅槃経」の一部分、梵字が刻まれています。
2018年08月14日
私の足跡 206 お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 3
お宝拝見! 橋本市の文化財の探訪 3
今回は 恋野地区の中将姫ゆかりの里を中心に歩き、糸の細道を通り橋本駅迄を歩きます。
この恋野の地名は中将姫の「母恋し 恋しの野辺や…」と詠んだ歌から「恋野」の地名が生まれたと言われています、
中将姫は奈良時代の右大臣藤原豊成の娘として生まれたが5歳の時に母を亡くす。
成長するにつれて容姿端麗、英知に富み何事にも優れた女性になったが、豊成が後妻として迎えた照夜は、こうした中将姫に嫉妬し、憎むようになり姫は命まで狙われるようになったため、恋野の雲雀山に逃れ、仏に仕えて住むようになった。
最後は父・藤原豊成と遭遇し、當麻寺に帰ったと言われています。
最初は 中将姫がよく通ったという「糸のかけ橋」を渡る。
雲雀山(太刀捨て山)
豊成が後妻として迎えた照夜は、中将姫に嫉妬し、憎むようになり姫は命まで狙われるようになった。
殺すように命を受けた嘉藤太(かとうた)は 姫を誘い出し、奈良の都を出た。しばらくして大和と紀伊の国境近くにある雲雀山(ひばりやま)まできたが、どうしても殺すことができず 持ってきた太刀を捨てて この恋野地区で姫と共に生活をした。そして 姫が父と再会する。
「雲雀山(ひばりやま)」という地名ですが同じ名前の山が和歌山県有田市糸我町にもあり どちらにも、中将姫にまつわる言い伝えが残されています。
福王寺。
中将姫が建立した三つの庵を合併して宝暦8( 1758)年に建立. 中将姫の位牌が安置されている。
中将姫が地元民に感謝して、氏寺「栄山寺」(奈良県五條市)が見える森に、観音像を祀ったとされる 「中将ケ森」に立ち寄った。
往時をしのぶ幹周り約4メートルの椎の巨木や、蓮糸(はすいと)で姫が曼荼羅を織ったとされる、蓮を 植えたという「姿見池」などがある。
恋野地区といえば 「紫陽花「」を村をあげて」 植栽し、アジサイ祭をしています。
同園では毎年、アジサイの見頃を迎える6月中旬~下旬に多くの観光客が訪れ、あじさいまつりは平成20年からこの時期に、地元住民らでつくる中将姫旧跡保存委が実施している。
この恋野地区といえば もう一つ若者で有名な二人がここが出生地で 石碑も建っている。
一人は 俳優・タレントでテレビ・映画等で活躍中の「溝端淳平」さん
もう一人はプロ野球選手で横浜の中心バッターの筒香嘉智選手です。
恋野地区から糸の細道を通り、旧橋本に入る。
織田秀信終焉の地(墓所)の碑がある。
0 織田秀信とはどんな人物かを書いてみる。
織田信忠の嫡男で信長の嫡孫。
天正8年(1580年)織田信長の嫡孫として岐阜城に出生。
幼名三法師といい、清州会議の結果、羽柴秀吉の推挙で3才で織田家を後継。安土城で成人の後、岐阜
城主となり、秀吉の「秀」をもらって秀信と改名した。関ヶ原の戦いで落城し、秀信は自害を決意したが、福
島正則らに諌められ剃髪得度、高野山にのぼる。かつて祖父・信長が高野聖を迫害したため、聖派に追
われ、山麓の向副村に閉居した。村人の情で善福寺の一隅に住み、村の娘と結婚して一子をもうけ、幸せ
な日々を送ったが、慶長10年(1605年)5月8日病気のため秀信は26年の短い生涯を閉じた。 諸説有り。
織田秀信の墓
橋本市向副村の墓石は 自然石
高野山光臺院にある墓石は 花崗岩の五輪