2017年06月
2017年06月05日
私の足跡 203 中・下高野街道を歩く 7
私の足跡 203
中・下高野街道を歩く 7
今回で 「中・下高野街道を歩く」 の最終回。 今迄 木曜日 に歩いていたが 今回は6月7日にゴールの「四天王寺」に到着するためです。その理由は、四天王寺の近くに、昨年の大河ドラマ「真田丸」の主人公「真田信繁」が最期を迎えたといわれる6月7日に「安居神社」に立ち寄ることにしたからです。
本日のスタートは 前回の終了地点「北野田駅」とする。
しばらく歩くと、街道跡の名残の残る建物が多く 連なっている。 私たちは当時の面影を思い浮かべながら楽しく歩くことができた。
また、町筋に上記のようなお地蔵さんも祀られている。きっと、旅人もここで旅の安全を祈りながら歩いたことでしょう。
また、道標もあちこちにあり、旅人もこの道しるべを頼りにして歩いたことでしょう。
上のお地蔵さんは 旅の安全を祈るお地蔵さんが道しるべも表しているものです。
堺市の美原区を過ぎ、松原市に入ると「布忍神社」ある。
この神社は、明治以前は牛頭天王を祭神とし、薬師如来も祀り神仏混合でした。
麻美許曽神社 大同年間(806年~809年)の創建といわれる
「山坂神社」 大小いくつかの力石があった。
大阪府下では住吉大社の楠の次に古い、樹齢800年の木であると言われている。
桃ケ池公園 古くから脛ケ池・百ケ池・股ケ池と呼ばれ、廃川となった猫間川につながっていたといわれている。
近鉄「阿倍野橋駅」に到着。これを横切るために駅舎を横切り、北上する。
今度は、JR天王寺駅を横切るためには 地下に潜り込み北上する。
庚申堂 「42代文武天皇のとき疫病が大流行した。この時四天王寺の僧豪範が庵を結び一心に仏の加護を祈ったところ、大宝元年(701)正月7日庚申の日に青面金剛童子の像を授かり、これを安置してお祀りしたところ疫病が治まったといわれ、以後60日ごとの庚申の日は参詣の人でにぎわう。特に正月の庚申さんは有名。 この庚申堂東側の道(四天王寺南門~西田辺あたりまで)を庚申街道といい、摂津名所図会にも記述されている谷の清水がある。」(天王寺区ホームぺジから引用)
四天王寺 聖徳太子が推古天皇元年(593)に建立
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(四天王寺のHPより)
大坂夏の陣で真田幸村が戦死したのが安居神社境内といわれています。いわゆる終焉の地です。
慶長二十年(1615)五月七日、天王寺口の茶臼山に布陣した真田幸村は、毛利勝永らとともに徳川幕府軍と大激戦を繰り広げます。一時は幸村や勝永らの獅子奮迅の戦いぶりに幕府軍が大混乱になり徳川家康を窮地に追い込むものの、大兵力の幕府軍相手に戦の流れが変わり、退却の途中、真田幸村も力尽き、安居神社境内の一本松(さだめ松)の下で休息しているところを松平忠直隊の武将(西尾仁右衛門)に討ち取られて首は徳川方に差し出されています。 享年49。
この「街道歩き」シリーズのの目的は 1つは 「 中・下高野街道を歩く」 と 2つ目は 「昨年の大河ドラマ「真田丸」で九度山に蟄居されていた「信繁一行」が和泉山脈を越え、大阪城まで歩いたと思われる道を歩いてみる」 ことでしたが やつと到着した。
中・下高野街道を歩く 7
今回で 「中・下高野街道を歩く」 の最終回。 今迄 木曜日 に歩いていたが 今回は6月7日にゴールの「四天王寺」に到着するためです。その理由は、四天王寺の近くに、昨年の大河ドラマ「真田丸」の主人公「真田信繁」が最期を迎えたといわれる6月7日に「安居神社」に立ち寄ることにしたからです。
本日のスタートは 前回の終了地点「北野田駅」とする。
しばらく歩くと、街道跡の名残の残る建物が多く 連なっている。 私たちは当時の面影を思い浮かべながら楽しく歩くことができた。
また、町筋に上記のようなお地蔵さんも祀られている。きっと、旅人もここで旅の安全を祈りながら歩いたことでしょう。
また、道標もあちこちにあり、旅人もこの道しるべを頼りにして歩いたことでしょう。
上のお地蔵さんは 旅の安全を祈るお地蔵さんが道しるべも表しているものです。
堺市の美原区を過ぎ、松原市に入ると「布忍神社」ある。
この神社は、明治以前は牛頭天王を祭神とし、薬師如来も祀り神仏混合でした。
麻美許曽神社 大同年間(806年~809年)の創建といわれる
「山坂神社」 大小いくつかの力石があった。
大阪府下では住吉大社の楠の次に古い、樹齢800年の木であると言われている。
桃ケ池公園 古くから脛ケ池・百ケ池・股ケ池と呼ばれ、廃川となった猫間川につながっていたといわれている。
近鉄「阿倍野橋駅」に到着。これを横切るために駅舎を横切り、北上する。
今度は、JR天王寺駅を横切るためには 地下に潜り込み北上する。
庚申堂 「42代文武天皇のとき疫病が大流行した。この時四天王寺の僧豪範が庵を結び一心に仏の加護を祈ったところ、大宝元年(701)正月7日庚申の日に青面金剛童子の像を授かり、これを安置してお祀りしたところ疫病が治まったといわれ、以後60日ごとの庚申の日は参詣の人でにぎわう。特に正月の庚申さんは有名。 この庚申堂東側の道(四天王寺南門~西田辺あたりまで)を庚申街道といい、摂津名所図会にも記述されている谷の清水がある。」(天王寺区ホームぺジから引用)
四天王寺 聖徳太子が推古天皇元年(593)に建立
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(四天王寺のHPより)
大坂夏の陣で真田幸村が戦死したのが安居神社境内といわれています。いわゆる終焉の地です。
慶長二十年(1615)五月七日、天王寺口の茶臼山に布陣した真田幸村は、毛利勝永らとともに徳川幕府軍と大激戦を繰り広げます。一時は幸村や勝永らの獅子奮迅の戦いぶりに幕府軍が大混乱になり徳川家康を窮地に追い込むものの、大兵力の幕府軍相手に戦の流れが変わり、退却の途中、真田幸村も力尽き、安居神社境内の一本松(さだめ松)の下で休息しているところを松平忠直隊の武将(西尾仁右衛門)に討ち取られて首は徳川方に差し出されています。 享年49。
この「街道歩き」シリーズのの目的は 1つは 「 中・下高野街道を歩く」 と 2つ目は 「昨年の大河ドラマ「真田丸」で九度山に蟄居されていた「信繁一行」が和泉山脈を越え、大阪城まで歩いたと思われる道を歩いてみる」 ことでしたが やつと到着した。