2017年02月
2017年02月01日
私の足跡 199 中・下高野街道を歩く 3
私の足跡 199
中・下高野街道を歩く 3
狭山駅からJR平野駅まで
狭山駅に8時半に集合。
街道筋に 菅生神社へ参拝する鳥居があり、近くに街道の道路標識がある。
「正面「當社菅生天満宮」
右面「すぐ平野総本山大阪天王寺、右藤井寺誉田八幡宮道明寺」
左面「すぐ三日市高野山」
(慶応二年)
私たちは 菅生神社へ参拝することにした。 まず、記念の集合写真を撮る。
菅生神社の祭神 創建は奈良初期 延喜式神名帳に載る。歴史がある。
主神は菅原道真公 明治四十年に合祀
松原東小学校そばにある中高野街道の道標。「右平の大坂 左さやま 三日市 高野」寛政九年」とある。 隣に 天保五年の道標もある。
松原駅を過ぎ、松原市役所の東隣の公園を借り、昼食。
阿保(あお)神社
平安初期 平城天皇の皇子 阿保親王が親王池をつくったり、善政をしたので地元の人達が創建したとある。
本殿 菅原道真公 右に阿保親王 左に弁天さん。
屯倉(みゆけ) 神社
平安時代 942年 道真公祭神 。それ以前は 先祖の土師氏の祭神。
本殿 菅原道真公。南北朝の争乱や戦国期の畠山抗争のあおりで喪失、衰微していった。長い参道が往年の勢いを偲ばせる。
歩いていると 突然前方に堤防が現れ、道がなくなったようだ。
堤防に上り、見てみるとここに橋があったのがわかる。
今は、左の川下に立派な橋を造り、その橋を使っている。(以前 ここを通った時 川床に橋杭の一部が残っていたのを思い出す.)
街道歩きをしていて、一番うれしいのは 上の写真のような古道の雰囲気を醸し出している所を歩くことです。
平野豪の中に入れる出入り口・13口の一つ樋口地蔵。この平野豪の中に悪魔や病気が入らないようにお地蔵さんに見張ってもらっていた。
話が変わるが、大阪冬の陣で真田信繁が徳川軍に向けて地雷を使ったがここの地蔵さんの首が吹っ飛んで行って失敗したらしい。
上記の地蔵の首が飛んできたのはここ「全興寺」だと言われている。
この寺には 弘法大師を祀っていたり・地獄の声が聴けたりとかいろんなものがあった。
今回の最終見学地は、融通念仏宗の総本山「大念仏寺」。
本尊 画像十一尊天得如来(国宝) 勿論 実物は見られない。
現存の本堂は 1938年に建てる。 府内で最大の木造建造物。
JR 平野駅を4時に解散。
中・下高野街道を歩く 3
狭山駅からJR平野駅まで
狭山駅に8時半に集合。
街道筋に 菅生神社へ参拝する鳥居があり、近くに街道の道路標識がある。
「正面「當社菅生天満宮」
右面「すぐ平野総本山大阪天王寺、右藤井寺誉田八幡宮道明寺」
左面「すぐ三日市高野山」
(慶応二年)
私たちは 菅生神社へ参拝することにした。 まず、記念の集合写真を撮る。
菅生神社の祭神 創建は奈良初期 延喜式神名帳に載る。歴史がある。
主神は菅原道真公 明治四十年に合祀
松原東小学校そばにある中高野街道の道標。「右平の大坂 左さやま 三日市 高野」寛政九年」とある。 隣に 天保五年の道標もある。
松原駅を過ぎ、松原市役所の東隣の公園を借り、昼食。
阿保(あお)神社
平安初期 平城天皇の皇子 阿保親王が親王池をつくったり、善政をしたので地元の人達が創建したとある。
本殿 菅原道真公 右に阿保親王 左に弁天さん。
屯倉(みゆけ) 神社
平安時代 942年 道真公祭神 。それ以前は 先祖の土師氏の祭神。
本殿 菅原道真公。南北朝の争乱や戦国期の畠山抗争のあおりで喪失、衰微していった。長い参道が往年の勢いを偲ばせる。
歩いていると 突然前方に堤防が現れ、道がなくなったようだ。
堤防に上り、見てみるとここに橋があったのがわかる。
今は、左の川下に立派な橋を造り、その橋を使っている。(以前 ここを通った時 川床に橋杭の一部が残っていたのを思い出す.)
街道歩きをしていて、一番うれしいのは 上の写真のような古道の雰囲気を醸し出している所を歩くことです。
平野豪の中に入れる出入り口・13口の一つ樋口地蔵。この平野豪の中に悪魔や病気が入らないようにお地蔵さんに見張ってもらっていた。
話が変わるが、大阪冬の陣で真田信繁が徳川軍に向けて地雷を使ったがここの地蔵さんの首が吹っ飛んで行って失敗したらしい。
上記の地蔵の首が飛んできたのはここ「全興寺」だと言われている。
この寺には 弘法大師を祀っていたり・地獄の声が聴けたりとかいろんなものがあった。
今回の最終見学地は、融通念仏宗の総本山「大念仏寺」。
本尊 画像十一尊天得如来(国宝) 勿論 実物は見られない。
現存の本堂は 1938年に建てる。 府内で最大の木造建造物。
JR 平野駅を4時に解散。