2017年01月
2017年01月30日
私の足跡 198 中・下高野街道を歩く 2
私の足跡 198 中・下高野街道を歩く
第2回 美加の台駅から狭山駅迄
美加の台駅を8時半に出発。ここから 高野街道を通る。
江戸時代から栄えた「三日市宿跡」に入る。当時の面影が残る建物などが残る。
烏帽子形八幡神社の建立は、室町時代の文明12年(1480)で、重要文化財の指定を受け ている。なお、烏帽子形山頂には、楠木七城のひとつと伝えられる烏帽子形城跡があり、土塁や空濠が残されている。
河内長野に入り 駅前を通り、しばらくすると「九里石」がある。高野山迄あと「九里」の標識である。この付近で東高野街道と西高野街道の分岐点だったらしい。今回 西高野街道を往く。
晴明塚がある。平安時代の陰陽師・安倍晴明の塚。天文学の書を埋めてあるという。
西高野街道と中高野街道との分岐点。ここに地蔵菩薩がまつられ、天保7年の標識もある。今回は右側の中高野街道を往く。
大阪狭山市に入ると 風輪寺(融通念仏宗)がある.第八河泉地蔵の標識あり。本尊地蔵菩薩。
最近 「絹本著色釈迦如来及び四菩薩」という掛軸が見つかり それが国の重要文化財(平安時代作)であると知り、お寺にお邪魔して住職さんに写真を見せてもらい、お話も聞かせてもらった。(実物は 博物館に管理されている)
狭山藩陣屋跡の標識がある。小田原 北條氏の末裔の陣屋跡。陣屋内には 藩主の御殿などが あった。
狭山藩陣屋は元和2年(1616年)第2代藩主、北条氏信の時に陣屋を狭山池の北東に構築したのが始まりとされています。三代目北条氏宗の時に陣屋上屋敷が完成し、明治2年(1869年)第12代藩主の北条氏恭まで、狭山藩は約1万石の大名として約250年続きました。
表門は 堺市の西本願寺別院に移築されている。
本日のゴール・狭山駅に到着。3時半ごろ到着。
2017年01月17日
私の足跡 197 中・下高野街道を歩く
私の足跡 197
中・下高野街道を歩く
この「街道歩き」の目的は 1つは 「 中・下高野街道を歩く」 と 2つ目は 「昨年の大河ドラマ「真田丸」で九度山に蟄居されていた「信繁一行」が大阪城まで歩いたと思われる道を歩いてみる」 ことです。
でも 「信繁一行」が 和泉山脈を越えて 大阪城に参戦したのは この二つの道だけではないのはわかっている。一行には 女 子供を連れた一行 また 武装した集団や山伏の姿での集団などいくつにも分かれての移動だったと思われる。
紀見の集落から紀見峠ではなく、和泉山脈に登り、河内長野市の神納に降りる計画で 岩湧山のススキの穂が満開の時期とした。
紀見峠駅を8時に出発。
最初は 根古川に沿った道で傾斜も大したことがなかった。
途中より 急に高度を上げる坂道となり、約400mを登り、三合目に到着。
三合目からは 尾根伝いの道で先ほどの険しい道は少なくなる。
途中、ダイトレと加太までの修験道との分岐がある。岩湧山は右に行く。
岩湧寺へ下る道との分岐点の近くに到着。
何度かアップダウンを繰り返すとトイレがある。
最後の登り坂を登ると頂上(897.7m)だ。
各自 素晴らしい展望を眺め、ススキに囲まれ、昼食。
帰りは、先ほどの五つ辻迄戻り 下山。
古刹の岩湧寺。大阪府の文化財。
伝 大江時親邸跡
南北朝時代の名将「楠 正成」が 兵法の指南役として この大江時親の家へ毎日のように通ったと伝わる大江時親邸跡。「真田信繁」もここを通ったかもしれない。
「神納」から バスで三日市駅へ。4時過ぎ 解散。