2015年01月
2015年01月26日
私の足跡 171 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 4
私の足跡 171
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅳ
Ⅳ 新石切駅から道明寺駅へ 1月19日
朝 家を出る時 雨が降っていたが 出発地の石切駅に着くと 晴れ間ものぞく天気だった。
早速、駅前の石切藤地蔵にお参りし、「今日の旅の無事」をお願いして出発。
東高野街道を通って 一路南下していくと大きな四差路に通りかかる。
この辻は 東高野街道と攝津から暗峠越えの大和街道の交差点
次に 左手に 大きな鳥居が見える。途中で 接いでいる。これは、20年前の神戸・淡路大震災の被害の跡らしい。
途中に 弘法大師堂があり、高野への参詣の道中、旅の安全を祈った事でしょう。
瓢箪山近くで 珍しくアーケイのついた商店街の参詣道を通った。近頃では こんなに賑わっている商店街は珍しいと思う。
瓢箪山駅を越え 商店街を過ぎるころの左に上の鳥居が見える。瓢箪山稲荷神社です。
この神社は秀吉が 大阪城の巽の方向の守り神として勧請したので 鳥居の下の小さな橋は 太閤橋と言うらしい。
この鳥居の辻は、古来から俗称「みこの辻」と言われ、神霊の降る所として辻占い「占場」になつており、往来者の言動、外見などから占われていた。このことから「辻占総本社」と言われている。
瓢箪の形をしていた六世紀に造られた古墳の西斜面に稲荷神を祀り築造したので「瓢箪山稲荷神社」と言うらしい。
京都と高野山を結ぶ東高野街道は平安時代から鎌倉時代に上皇や公家たちが往来した重要な道筋でしたので 一里塚が整備されました。正保元年(1644)の「河内の国絵図」には11ヶ所の一里塚が描かれています。現在 残っているのは これを入れて2ヶ所だけである。
恩智駅の近くに 標記の石碑が残っていた。
大和川を越え 藤井寺市に入る。ここが「河内の国」の国府(奈良・平安時代の中央政府の出先機関である河内国府が設置され河内の国の政治的中心)の有った場所。
国府跡遺跡の近くに 旧石器時代の人骨等を含む遺跡が発掘されている。
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅳ
Ⅳ 新石切駅から道明寺駅へ 1月19日
朝 家を出る時 雨が降っていたが 出発地の石切駅に着くと 晴れ間ものぞく天気だった。
早速、駅前の石切藤地蔵にお参りし、「今日の旅の無事」をお願いして出発。
東高野街道を通って 一路南下していくと大きな四差路に通りかかる。
この辻は 東高野街道と攝津から暗峠越えの大和街道の交差点
次に 左手に 大きな鳥居が見える。途中で 接いでいる。これは、20年前の神戸・淡路大震災の被害の跡らしい。
途中に 弘法大師堂があり、高野への参詣の道中、旅の安全を祈った事でしょう。
瓢箪山近くで 珍しくアーケイのついた商店街の参詣道を通った。近頃では こんなに賑わっている商店街は珍しいと思う。
瓢箪山駅を越え 商店街を過ぎるころの左に上の鳥居が見える。瓢箪山稲荷神社です。
この神社は秀吉が 大阪城の巽の方向の守り神として勧請したので 鳥居の下の小さな橋は 太閤橋と言うらしい。
この鳥居の辻は、古来から俗称「みこの辻」と言われ、神霊の降る所として辻占い「占場」になつており、往来者の言動、外見などから占われていた。このことから「辻占総本社」と言われている。
瓢箪の形をしていた六世紀に造られた古墳の西斜面に稲荷神を祀り築造したので「瓢箪山稲荷神社」と言うらしい。
京都と高野山を結ぶ東高野街道は平安時代から鎌倉時代に上皇や公家たちが往来した重要な道筋でしたので 一里塚が整備されました。正保元年(1644)の「河内の国絵図」には11ヶ所の一里塚が描かれています。現在 残っているのは これを入れて2ヶ所だけである。
恩智駅の近くに 標記の石碑が残っていた。
大和川を越え 藤井寺市に入る。ここが「河内の国」の国府(奈良・平安時代の中央政府の出先機関である河内国府が設置され河内の国の政治的中心)の有った場所。
国府跡遺跡の近くに 旧石器時代の人骨等を含む遺跡が発掘されている。
2015年01月15日
私の足跡 170 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 3
私の足跡 170
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅲ
Ⅲ 交野市から石切神社まで 12月 8日
3day切符の3回目を使い、前回 歩き終えた交野市駅に着き、 9時40分に出発。
交野市は「星」や「川」に関する地名等が多い。
ホタルの時期には ここ「天の川」も賑わうらしい。
しばらく歩くと、「本尊掛松遺跡」に到着。大念仏宗の明上上人が 会得した本尊を松の木に掛けて そのまわりを踊り回ったことから 融通念仏宗の念仏踊り発祥の地と言われている。
昔の高野街道が偲ばれる風情の残る街並みを進む。
田んぼの端に「一里塚跡」の石碑が建っている。
街道沿いに小さな井戸があり、その傍に「弘法観念水」と刻まれた石碑が建っている。
この井戸は、いくら日照りが続いても涸れる事は無かったと言われています・
高野山への往復に 通った人々の喉を渇きを癒したことでしょう。
「歴史民俗資料館」 日本最古の下駄の化石が見つかった箇所。
この付近には 古くから多くの古墳が存在していました。
四条畷神社への参道にある鳥居。本殿まで 遠いので失礼して ここから参拝する。
野崎観音さまも お参りはしなかった。
メノコ橋の欄干石 弘法大師がこの地に10日程滞在時に 橋の欄干を枕にして寝床にしたと言われている。「ねどこ」が訛って「メノコ」になったと言われている。
石切剱箭神社に到着。
石切剱箭神社は 地元では「石切さん」と呼ばれ、腫れものを治す神様として知られている。
今回は ここで解散し 次回での再会を約して解散する。
2015年01月01日
170 謹賀新年
170 謹賀新年
今年も 子どもや孫たちと金剛山で元旦を過ごしました。
昨年は 「私の足跡」にたくさんの人達のアクセクを頂き有難う御座いました。
今年は 高野参詣の記事が多くなると思います。(昨年も 高野参詣の記事が多く、一番の人気記事は 高野七口の「黒河道」でした。 cf 私の足跡140 と 私の足跡141です。
2015年は 高野山開創1200年記念祭の年です。高野山参詣道の案内に関わっている者としては ガンバル年です。
「紀伊山地の霊場とその参詣道」が世界遺産に登録されて 11年目を迎えます。
また、2015年は 和歌山県は 国体開催県となりますので、広報の手助けをします。