2014年12月
2014年12月15日
私の足跡 169 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 2
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅱ
Ⅱ 八幡市から交野市へ 12月1日
今回は 京阪の八幡市駅より3dayチケットを使い、ケーブルに乗り八幡さんへ。
そして今回の旅の安全を祈る。
参詣道を登っていき 曲がると 見事な総門が見えた。曲げている理由は 帰りにお尻を向けないようにしたらしい。
総門の向こうに見事な本殿が見える。
貞観元年(859) この地に勧請され、翌2年に創建されました。祭神は応神天皇・神宮皇后・比嘩大神の三神で、全国屈指の神社です。社殿は徳川家光の造栄によるもので、国の重要文化財とされている。
宇佐神宮・鎌倉八幡とともに 日本の三大八幡社と言われています。
この八幡は京都の都の裏鬼門となるように 宇佐神宮より勧請された。そして源氏家の守り神として信仰されていた。そして鎌倉に幕府を開いた時に鎌倉に勧請されたとある。
石灯篭の並んだ参道は見事だった。
帰りは ケーブルのない時代の参詣道を通って帰った。長い石段を通って東高野街道に降りる。
途中、茶店があったが、平日なのか閉まっていた。
放生川に架る安居橋。太鼓橋でぎぼしもついた風情のある橋である。
悲しい話が残る小野頼風の五輪塔があつた。 女性(妻)の五輪塔は松花庭園に。二つの五輪塔が並ぶ時があるのだろうか。
もみじ寺
足利義満の母が紅葉がすきだったので この善法律寺に紅葉を植えた。今では「紅葉寺」と言われています。雨にうたれていて残念だった。
正法寺
徳川家康の側室「お亀」のた方・相応院の菩提寺。家康の8男・9男を出産。9男は尾張藩の藩祖・義直である。
本堂・唐門(写真の正面)や書画など数多くの重要文化財を誇ります。
徳川家が八幡さんにお参りに来ると必ずここを宿泊所にした。
松家堂庭園に到着した。今回は 時間の都合で庭園の中に入らなかった。
上の2枚の写真は 数年前に立ち寄った時に撮影したものです。
京都の八幡市を散策していると、上記のような竹林がよく目にする。どこかの庭園のように綺麗に管理されているのにビックリ。
眺めていると 管理している人が来たので、いろいろ聞いてみた。おいしい筍を作るには世話が必要との事。
先ず、太陽を取り入れるため 竹と竹の間隔をあける為元気な竹のみを残す。 そして無駄な養分を親竹に送らないため 不必要な竹の先を切る。そして、無駄な養分を親竹に送らない。
次に、土に養分を加える。そして、保水のため 藁と土を毎年積み重ねる。除草は勿論大切との事。
その他、いろんな事を教えてもらった。
上の竹林は 私達のよく見る竹林です。これでは 美味しい筍は無理でしょう。
しばらく歩くと 国道1号線にぶつかる。そこには 昔からある「洞が峠の茶屋」がある。
下見の時は 蕎麦とぼたもちを昼食に食す。今回は人数の都合で買い物だけ。
そして、上のような「いなかぼたもち」を土産に買って帰った。本番の時も20人程の人が土産に買って帰った。
この後、国道1号線を南下して 山田池公園に到着し、小休止。
そして、出屋敷の町並みに入る。
出屋敷は 枚方市内で東高野街道が集落内を通過する唯一の集落で、伝統的な外観を持つ民家が点在していた。
そして 南の端に円通寺があった。
その後、国道18号線を南下して 交野駅着。16時
次回の再会を楽しみにして解散。
2014年12月01日
私の足跡 168 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅰ
私の足跡 168
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅰ
今回から 高野山開創1200年を迎えて 平安時代後期に白河上皇等が御幸したと言われる道を 歩くことにしたので、それを報告します。。11月に 京都をスタートして 目的の高野山へは 開創1200年の祭の期間中の4月に到着するするよう 全行程 約120Kmを9回に分けた。
( この企画は 以前 伊勢神宮の遷宮のあった昨年 地元から伊勢神宮まで参詣したウォークの続きである。 )
第一日目(11月17日)
最初は 平安京の羅生門跡より まっすぐ南にのびる「鳥羽作道」を南下して 石清水八幡宮を目指して 約15kmを歩く。
京都迄は 交通費がかさむので 3dayチケットを使用して三回分の交通費とする。
各自の駅から 難波・淀屋橋・丹波橋を経由して 近鉄の東寺駅に到着。 東寺駅発 9:15
そして 東寺駅から西へ徒歩15分程で「東寺」に到着。
見事な大門を通り、まず東寺の五重の塔を背に 参加者23人で写真撮影。
(実の写真には、美女・美男が写っていますが意図的にぼかしました。)
その後、各自で食堂や御影堂を見学した。
平安初期に 空海は 嵯峨天皇から真言密教を広めるために高野山を つづいて「東寺」も下賜された。 その後 両寺発展のため、高野山とここ「東寺」を何回となく往復しました。
今回は 「平安京から 高野山へ歩く」という企画だが もう一つ「空海が歩いた高野山と東寺の道を歩く」とも重ねている。
「東寺」発 10;05 東寺からさらに西へ10分程歩くと 児童公園の入り口に平安京への主要入り口・羅城門跡に到着
羅城門は平安京の表玄関として朱雀大路の南端に建てられた二重の楼門だった。
816年に暴風雨で倒壊したので再建したが 2度目の倒壊(980年)以後、再建されていない。
ここから南へ行くと淀川の畔に出るか、この辺りは西国からの玄関口であったので、車馬の通れる広い道が必要だった。この道が「鳥羽作道」と呼ばれていた。
この羅生門遺蹟を後にして 鳥羽作道を一路南下して 高野山へ向け出発の一歩を踏み出す。
「羅生門跡」から30分程歩き、街道から 少し入った所にある日蓮宗の実相寺です。10:50
境内には 江戸時代 ぬかるむ街道に原板石を敷き並べ、通りやすくした車道を移設保存してある。
この道は 低地にあるためか、旧家は石垣の上に建てられていた。特に 蔵は一段と高い石垣の上だった。
その後、有名な石堂丸の父「刈萱道心」が開祖したと言われる「誓祐寺」に11時頃到着。
「羅城門跡」から約1時間程歩くと、街道筋に恋塚 淨禅寺がある。文覚上人が開祖したと言われる浄土宗の寺である。 11:15
北面の武士であった遠藤盛遠は 源渡の妻である袈裟御前に横恋慕し、遠藤盛遠を殺そうと企てるが、袈裟御前は夫をかばうため、自分が夫の身代りになって遠藤盛遠に殺されてしまう。
遠藤盛遠はそれを悔み、出家して「文覚」と名乗り、この寺を建て、恋塚は自分の刀ではねた袈裟御前の首を埋めた塚とされている。
その後、日本全国を荒行して廻った。神護寺の改修をしたりとか 源頼朝に平家討伐の助言をしたりとかしたと言われている。
そして、かつらぎ町でも滞在し人々の役になることをしたともある。
境内の地蔵堂に祀られている地蔵尊は、いわゆる「京都六地蔵」の一つ「鳥羽地蔵」である。平安京の入り口にあたる六ヶ所にそれぞれ六角堂を建立して六地蔵を分置した。当地に「鳥羽地蔵」が安置されたのは、大阪から京都へ上る鳥羽街道に面していたからである。
その後 南下を続けけていると、石柱があった。この付近で、明治になって 旧幕府軍と薩長連合軍との鳥羽伏見の戦いの勃発地で多くの犠牲者を出した所です。その後、戊辰戦争へと続き、日本各地へと戦いの広まった。
予定通り 12時に昼食場所の鳥羽離宮に到着。
予定通り 12時に昼食場所の鳥羽離宮に到着。11:55
鳥羽離宮は平安後期に院政時代をつくった白河上皇や鳥羽上皇に縁のある土地である。今は建物の跡は何もないが近くに城南宮や白河上皇や鳥羽上皇の御陵がある。
昼食後 また南へ南へと歩き始める。
しばらく歩くと、各地蔵に化粧した六地蔵があった。
お酒と言えば伏見だか鳥羽にも造り酒屋があった。この店の自慢の酒は「にごり酒」とある。
この付近より 自動車との共用道路から離れ、サイクリング道路を長い間 歩くことになる。堤防の上を 車への注意から解放され 淀川に戯れる小鳥たちを眺め、友との会話を楽しみながら歩けた。
鳥羽の大石の説明板がある。
川原に上の大石が並べられている。
日本最古の魚市場跡の記念碑。大阪湾から淀川を船でここまで運び ここの魚市場で売れた魚は 京に運ばれた。また、近くに「鳥羽の湊の跡」の碑もあった。
「納所」の交差点の手前に 妙教寺がある。14:10
この寺の有名な理由の一つは 淀城ではなく淀古城と言われ、「淀君」が一時ここに住み、第一子を生み、3歳まで育てたと言われる城の一部に建てられた寺である。
もう一つ 有名にしているのは 鳥羽・伏見の戦いの戦場になり 当時の傷跡があちこちに残っていることです。
上の写真は、本堂の壁際に位牌を並べた所に 穴があいている。これは 大砲の弾が壁を突き破ってあけた穴です。そして、下の写真は 壁を突き破った大砲の弾が 今度は柱の真ん中を突き破った跡です。当日 その不発弾を見せてもらい持つと重かった感触が今でも手に残っている。
桂川 木津川を渡る「御幸橋」(ごこう橋)を渡る。向こうに 本日のゴールである八幡の男山が見えた。
京阪 八幡駅着 15:50