2014年09月
2014年09月15日
私の足跡 163 高野街道を歩く Ⅱ
私の足跡 163 高野街道を歩く Ⅱ
今回(9月13日)は 前回の続き 御幸辻から学文路まで歩く。 今回は 200余名の参加があり、7班のグループで御幸辻駅を10分間隔に出発。
高野街道から御幸駅への分岐点に 道標がある。
易産山 地蔵寺(日本最初帯解寺 子安地蔵寺)へのであるが、左端に「高野道 かぶろ村へ出る近道あり」と書かれている。この道は平安時代から室町時代の末までの高野山への往来道であると『紀伊続風土記』 や 『紀伊名所図絵』 に書かれている。上皇や貴族達が通った道だから『御幸道(ごこうみち)』といわれている。
はっきり 日記などとして記録に残っているのは 覚法法親王 藤原頼長 後宇多上皇達だけだが 『紀伊続風土記』に 「神野々に『御幸道』と言えるもあれり 宇多上皇も此の道より御幸ありし・・・・」と 書かれていたりしている。
高野街道に沿って南下するとすぐに牛頭天王社に到着する。
牛頭天王は インドの祇園精舎の守り神だったが日本でも疫病から守ってくれると信仰され 日本各地に祀られている。京都の八坂神社の祭神でもある。
明治24年に購入した 木製のポンプ小屋がある。当時は めずらしくて(県下で2番目に購入)大活躍をしたので、県知事よりの感謝状や菊花御紋章入りの褒章ももらっている。
ここ小原田地区の宝として保存されている。
大和街道と高野街道が交わっている所に大きな道標がある。
東面 「右 京大阪道」
西面 「右 こうや 左 京 大阪道」
南面 「南無大師遍照金剛 阿州 一楽村・・・
北面 右 わかやま こかわ 左 い勢 なら はせ よしの 追分
橋本川が紀の川への合流地点に常夜燈が一基たっている。(一基は 流失)
昔の「渡し場」で 高野参詣者で賑わった所です。高さ4.8m。京・大坂の人や遠くは徳島の人たちの寄進で 文化8(1814)年建立とある。
常夜燈の反対側に 今シリーズの「里石を辿って西高野街道」の四里石がある。
安政4年建立の道標です。
「応其寺」に到着。天誅組との戦いで弾痕の残る山門。
昼食場所に借りる。
昼食後 本堂に参拝。本尊 救世観世音菩薩 脇仏に弘法大師と応其上人
応其上人は 秀吉の高野攻めの時 高野代表の一人として秀吉と会い、焼き討ちを免れた。
橋本の紀の川に 125mの橋をつくり、[橋本]の地名を残した。また、多くの池を作ったり、改修したりして、農民に喜ばれた。これ等はほんの一部で 高野山・橋本に多大な業績を残した。
昼食後、紀の川を橋本橋で渡る。この紀の川で泳ぎ、練習をしてオリンピックで金メダルをとった水泳平泳ぎの選手が二人います。
一人は 11回ベルリン大会。 ラジオ放送で 河西アナの「前畑ガンバレ」を何度も絶叫したのは有名です。
もう一人は 16回メルボルン大会。 今の平泳ぎは 水中で水をかくのは限られているが この頃は自由で殆ど潜って泳げた潜水泳法が主流。その後 すぐにこの泳法が禁止となる。
天気は朝から良かったので 関西のマッターホルンと言われる「高見山」が小さいがくっきり。
(普段は 見る事が少ないのでラッキーだった)
宝暦2(1752)年作 (先ほどの川北の常夜燈より、634年古い)の常夜燈のある「三軒茶家」に到着。 今は小さい集落をなしているが、最初 三軒の茶店だけがあったから「三軒茶家」といわれた。
ここには二基の常夜燈が並んでいる。どちらの常夜燈にも興山寺領の名があるので 高野参詣の旅人もやっと高野の弘法大師の膝元に到着した。 念願の高野参りであったが 途中の苦労もあつたので涙を流した人もあったらしい。
最近 再建された西行堂に到着。普段は戸が閉められていて中を見せていただくのは初めてである。感謝。感謝。 意外にも 多くの仏さんでビックリした。(写真は普段の西行堂)
西行さんは 平安末期の歌人。若かりし頃 佐藤義清といい北面の武士であったが、23歳の時 仏の世界へ入いられ 31才の時高野山に入る。
諸国を行脚し、自然を素朴に詠い生涯を旅に終わった。この人生に憧れ 後世には芭蕉等のように旅に出た歌人が多い。
「ねがわくは 花の下にて春しなん そのきさらぎの 望月のころ」山家集
鎌不動 弘法大師が農家で借りた鎌で彫った不動明王が祀られている。
福成就寺に到着。高野山真言宗のお寺。本堂の露盤宝珠は近在の柏原の鋳物師の作品。
本尊は厄除け観音で1642年ごろの再建。現存の建物は平成9年に改築されたものである。
境内には 戸谷新右衛門を祀った新右衛門堂がある。 その横に船越喜右衛門の顕彰碑が建っている。
高野街道六地蔵の一つ 第二番目の地蔵堂に到着。
堂内には 真ん中は地蔵菩薩 右は観音菩薩 左は不動明王の石体三尊が祀られている。
三里石 この里石は 他の里石とは異なり、両親の菩提のために建てた里石
三方には 伊勢 大阪 堺等迄の各距離が書かれ 旅人への配慮もしている。
文政4(1821)年 建之
三里石 安政時代の里程石 元は 現在地より東方にあった。
境界石 高野山領と紀州藩領との境界 元は東方にあった。
紀の川より南側は高野山領が多いが 学文路は紀州藩の領地。
是ヨリ 北興山寺領
是ヨリ 南御国領
三差路の道標
宝暦8(1758)年 堺材木町 青木氏の銘あり 安政の里程石より100年古い
右 慈尊院みち 是より 一里
左 高野道 女人堂迄三里
次回はここから高野まで 坂道の続くことになる。
2014年09月01日
私の足跡 162 高野街道を歩く
私の足跡 162 高野街道を歩く
「高野街道を歩く」は 何度も書いているが 今回は『黄金の町堺から聖山高野山へ』のテーマをもとに企画した9回シリーズです。
橋本市の観光地は 橋本観光ガイドが案内するということで その一部(6・7・8回)を書きます。
この日 (6月14日)は 天見駅を出発地とする。受付には 電車の到着とともに お客さんが到着する。
この日も 約150人程の参加者で 6つのグループに別れて出発する。
私達は 5班で出発する。天候が良く、気温も上がる。
出合いの辻で 国道371号線に出る。 出合いの辻は 元弘3年(1333年) 河内の楠方と紀州の北條方が当地で「出合い」 戦ったとの意でこう呼ばれている古戦場である。
先ほどの交差点より南に少し行き、国道と別れる。道は緩やかな登り道。
石垣の家や土塀を巡らせた家等 昔の風情や絵になる景観が漂っている。
かつて この付近には茶店があったことから「茶屋出」と呼ばれている。
途中国道を離れ、蟹井神社に寄る。創建は天喜2 (1054)年と伝わる。
参拝後 国道に戻り、ガードレールの内側の歩道を進む。
トンネルの手前で 右側の旧街道に入る。
トンネルが出来るまでは 交通量の多い道だったが 今はひっそりとした道です。
昔の街道跡(御坂・見坂)もうっすらあるが今は通れない。
舗装された道を登りつめると「紀見峠」に到着。ここは 県境で和歌山県に入る。
案内も ここから橋本市のガイドが担当する。
この街道は 8世紀末には 官道としての「南海道」となり そのあと高野参詣の参詣道となり、賑わった峠です。
江戸時代には 紀州藩が伝馬所を置いたり、番所を置いたりした。
高野山迄 6里の里程石がある。
また、世界的に有名な「岡 潔氏」が 祖父の家で 中学卒業まで過ごした所でもある。同氏は橋本市の名誉市民である。
峠の街道筋には 虎屋・丹波屋等6軒の旅籠があり、賑わった所だが今はひっそりとしている。
途中 馬も転がりそうな急坂だから「馬こかし坂」とか言われる急な坂を下ると「沓掛」の集落に入る。
そして、高野街道を少し離れる。
昼食後、「・・・・・この地を愛しここに居とす」と紀伊風土記に記されている「養叟庵」に寄る。当時はもっと山奥だったがここに移築したという。
「養叟」とは どんな人物かというと 「養叟」は「一休」と共に師「華叟」のもとて゛禅の修行をしていた。
「養叟」は 「華叟」の一番弟子 「一休」は 「華叟」の二番弟子。したがって、「養叟」は 「一休」の法兄になる。
「華叟」亡き後、「養叟」は大徳寺の第26代世に 「一休」は第27代世になった。
途中 戎神社にお参りし、城山城の説明を聞く。
国道筋にある「5里石」
交番前に「子安地蔵」への道標がある。
高野街道と別れ 本日のゴール「御幸辻駅」へ。