2013年09月
2013年09月16日
私の足跡 142 伊勢へのウォーキング
私の足跡 142
式年遷宮の伊勢神宮へのウォーキング
私の所属している橋本観光ガイドては主に橋本市内の名所への案内が主だが 今年の伊勢は遷宮で賑わっている。 この時期に 伊勢南街道を通り、約120kmを徒歩でお参りをしょうという企画をたてた。メンバーで話し合い、メンバーだけでなく知り合いにも声をかけるとマイクロバスの定員(25名)に達したので〆切り、説明会もして、やっと初日を迎えた。
(私は この伊勢街道歩きは 4年前に経験し、私の足跡 39・40・41に掲載しています)
第1回 9月17日
前日の台風一過 天気は快晴に恵まれ 橋本市の東端の駅「隅田駅」に7時10分に25人集合。セレモニーを行い、集合写真を撮り、出発する。本日の目的地 大和上市駅迄の約25kmを歩く。
25名のメンバーは 出発地で遥か伊勢を思いながら写真におさまる。
この後、エイエイ オーの掛け声で気勢を上げ、予定通り 出発。
雲一つない青空のもと、和気あいあいと足を進める。そして、万葉集でも有名な真土山を越えて、大和(奈良県)に入る。
この地蔵さんは 嵯峨天皇が命じて建てたのがはじまりです
正式には生蓮寺と称し、蓮の花がたくさん植えられている。
山号の寄足山から「よらせの地蔵さん」と親しまれ、晴れ乞い・雨乞いと子安安産の祈願所であります。
江戸時代の情緒漂う街並み・新町通り。漆喰造りの壁や虫籠窓、格子の家々の連なる通りを歩いて、江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。近年「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、特に有名なのは 国の重要文化財に指定されている「栗山邸」です。棟札には慶長12年(1607年)の銘があり、建築年代の判っているのでは日本最古の民家。
「まちなみ伝承館」に入り、説明を聞かせて頂く。
この後、天誅組に因縁のある桜井寺 そしてむかしの家並みの残る街道を通り、栄山寺傍で休憩。予定通りの時刻で進行していく。
吉野川の畔で昼食休憩。
吉野川は昨日の18号台風の影響で 水かさが増し、濁流となり流れていた。
途中、トイレ休憩をお願いしていた「神前寺」に寄るとトイレを貸していただくだけてはなく、冷たいお茶を各人に用意をしてくれていた「お・も・て・な・し」には感謝・感謝。 皆が元気を頂き、後半の徒歩に元気が出たのは言うまでもない事です。本当に 有難うございました。
美吉野橋の南にある「柳(六田)の渡し」跡。吉野神宮参拝時 橋のない時代には 3つの渡しがあって、これがその一つ。対岸の北には 柳の木が植えられた「柳(六田)の渡し」跡がある。
本日の到着地 「大和上市駅」には一時間近く早く到着。予定通り16時11分発の列車に乗り 橋本には17時30分頃に到着。何はともあれ 事故もなく、終えられた事に感謝。感謝。
2013年09月01日
私の足跡 141 高野山への七つの登山口 (高野七口 黒河道 2)
私の足跡 141
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅴ
黒 河 口 - Ⅱ
今回の 黒河口-Ⅱの一部は 長い間使用されずに眠っていた道を一昨年ぐらい前から刈り開かれた道もある。そして、今までの地蔵等の石仏が歴史的に貴重な物とわかり、最近 脚光を浴び始めた道である。前回の私の足跡140よりも この黒河道が本当の高野参詣道ではないかと思われます。この道が 世界遺産の「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加されればもう一度詳しく書こうと思っています。
この記録は 一昨年まで世界遺産センターに勤務していた入谷氏に案内を依頼し、2012年11月に この道を案内してもらった記録です。
出発点は前回と同じく、賢堂の定福寺から 出発する。
定福寺については、前回説明済み。
小さなお堂や石仏が祀られている。近在の人々の信仰の深さがわかる。
明神ヶ田和で小休止。今回は是より 最近まで廃道になっていた道を再開発された「わらん谷」を経由して市平に下る。(現在の地図では、わらん谷は消えている。)
ここからしばらくは 埋もれていた道を切り開いたばかりの道を進む。
造られて間もない丸太橋を進む。
平らな道もある。
岩をえぐりとった道もあった。
険しい道を下り切り やっと車道に到着。これから トイレ休憩のできる丹生川キャンプ場迄歩く。
丹生川キャンプ場にやっと到着。各自昼食とする。
昼食後 車道を通って市平への登山口へ。
しばらく前回と同じ道だか、途中で別れて左の道を通り、久保小学校の北側で合流。
当時は倒木もあり、険しい道。
また、細い道もあった。
猪除けのトタン板で囲まれた田んぼの周囲を通る。
やっと 人家が見えてきた。
前回 お世話になった休校中の久保小学校。
久保小学校から今回は道標に従い、右の道を通る。(前回は左の道) しばらくすると、茶堂跡に到着。江戸時代に遡る茶堂が近年まであったが老朽化に伴い解体され、今は縮小された小堂が再建されている。この跡から鉄製の茶釜が発見されいる。ここの弘法大師像は花崗岩製で享和元年(1801年)・・・・の銘がある。また、木製の不動明王も残っている。
昭和の初めごろまで営業していた高野豆腐をつくっていた建物の跡。(コンクリート製の水槽の一部) 他に直径約50cmの石臼も残っている。
この跡地から 室町時代の在銘の五輪塔や無銘の宝筺印塔の一部も残っている。
旧峻な坂道を登って行く。
子継峠の地蔵石仏。
この石仏は 昔から子授けの信仰のあった石仏で 子宝を願う人達の奉納したよだれかけが何枚もかけられていた。峠名の子継から来たのでしょう。
つい最近 詳細な調査の結果 単に子授けの地蔵ではないことがわかった。
緑泥片岩製の一石彫成の地蔵菩薩立像の石仏です。高野周辺では最大級の石仏です。
向かって右側に「十三年 検校重任」 左側には 「香舂峠 永正九 八月廿二日」と明記されている。
前回は三本杉に出たが、今回は一本杉の傍を通り、高野町役場前に出て、帰る。
注 今は子継峠(粉撞峠とも粉突峠とも)が普通だが、室町時代は「香舂峠」と標記されていたことがわかる。