2013年08月

2013年08月15日

私の足跡 140 高野山への七つの登山口 (高野七口 黒河道1)


私の足跡  140



  高野山への
     七つの登り口 (高野七口) Ⅴ

          黒  河  口 - Ⅰ

     今回 世界遺産に追加されるのは 私の足跡  141   黒  河  口 - 2 の方です。

    世界遺産に正式に決定されれば 改めて 私の足跡 189・190・191で再掲します。

    ご期待 ください。
 


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   高野七口の中ではあまり知られていない黒河口を書きます。この道は、奈良の人には近いから大和口とも言われている。しかし、不動坂口に比べて険しくて人気のない道でしたが、最近 古い石造物が見つかり、脚光を浴び、世界遺産への追加も検討されている道です。
 また、豊臣秀吉が高野山での母堂の法事後、当時 高野山内では禁止されている音の出る楽器を使って能狂言をした為、スゴイ雷雨が降ってきた。これは 仏の祟りと思い、急遽 この道を駈け下り橋本市の利生護国寺にやっと辿り着いたと言われている道です。(あくまでも言い伝えの話  高野山の禁制を破るとそれによる報いは 当時の権力者をも恐れさせるものであったという事でしょう。)

 この黒河道は 何度も通っているが 各集落を結ぶ生活道が中心の黒河道と参詣道中心の黒河道があるので 今回は生活道が中心の黒河道を書きます。
        
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 これは、2008年と2009年に振興局主催の「山の日」のハイキングに2度参加した記録です。

            

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 黒河道のスタート地点  定福寺 本堂の阿弥陀如来座像は平安期の11~12世紀の作

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九重の塔は鎌倉時代のもの

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道中 上の写真のような祠がたくさんある。旅人や近在の人達の健康と幸せを祈ったものでしょう。

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しばらくして 振り返るとこの地方の特産品・柿畑の向こうに橋本橋も下方に見えてくる。

 
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明星ヶ田和の辻で 道が分岐している。間違えないように。今回は一番左の道を行き、青淵の集落を目指す。

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初めは平らな道だったが急坂となり、青淵の集落を過ぎ民家の庭先を通った頃より急な下り坂。


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下ると 吊橋を渡って 市平の集落へ。(この橋 その後使用禁止になり、現在下流の方へ迂回する)

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 市平集落の「桂の大木」 シーズンにはピンクの花が咲き、対岸の青淵からは見事らしい。

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その後、細い山道を登って行く。

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道が林道と交差する。そして、久保小学校跡地に到着。真新しい校舎だが現在休校中とか。

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昼食場所に借りる。地元の人達の心のこもった汁物を頂き、古老から昔の生活の様子を聞かせてもらう。

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 しばらく歩くと 道もほそくなり、昭和34年を最後に地図上から3つの集落名が消えた所に到着。
 この仏谷 黒河 平の三地区の歴史は、9世紀末からで高野山建設に従事した人達が住み着いたといわれている集落である。したがって、高野山との関係は密接であり、高野圏の集落であった。  
 上記の三地区は 江戸時代の文書では戸数11~13戸  人口50人前後が生活をしていた。店もないので花や炭を町に売りに行き、帰りに日用品を買って帰るという生活。水田跡もあり、米をつくっていたが、収穫も少なかった。

 最後まで残ったのは仏谷。(標高504m) 昭和22年に電気が来たが、34年 最後に転居。
 次は 黒河 。(標高610m) 大正11年 最後に転居  八幡宮 お寺跡が残る。
 最初は 平  (標高750m) 大正 7年 最後に転居

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石垣を積んだ屋敷・水田跡が今も残る。少し前までは 集落があり、子どもの遊び声もあっただろうと思うと寂しい思いで通過した。

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 人は 生活をしている人がいないが、綺麗な花が供えられている。平の字も見える。

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やっと黒河峠に到着。以前、高野山の女人道を通った時の峠 「黒河峠」

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峠から 激しい下り坂を降りて行くとトロッコ道の線路が残る道を歩く。昭和の初めごろまで高野山のあちこちから、大木をトロッコにのせて九度山まで運んだ面影が残っている。

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道も大きく 平らになり、三本杉の所まできた。ゴールはもうすぐ。

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奥の院の裏を通り、やっと奥の院の正面に到着。


次回は 黒河口Ⅱです。(私の足跡 141)  参詣道としての黒河道


2013年08月01日

私の足跡 139 高野山への七つの登山口(高野七口 麻生津坂)

私の足跡 138 


世界遺産   高野山への
 七つの登り口 (高野七口)   Ⅳー3

             麻生津坂

 この麻生津坂も高野七口ではないが、最後は 矢立の町石道の60町石に到着し、以後高野山までは町石道を通るのでここで紹介することにする


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JR名手駅を降りる。

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大和街道筋にある国の史跡「名手宿本陣跡」
麻酔医 華岡青洲氏の奥さん 「加恵」さんの実家

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建物内部の様子。

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名手より麻生津橋を渡り、麻生津へ。


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街道には 旅人の安全を守る六地蔵がある。京・大坂道の清水にある第一の六地蔵から桜茶屋の第六の六地蔵があるように この麻生津道にもある。多くの参詣者が一つ一つのお地蔵さんにお参りして通ったことでしょう

 この麻生津道の賑わったのは、西国三番札所「粉河寺」のお参りを済ませ、次の四番札所「槇尾山」への途中 高野山詣でをした道でもあったのです。

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将棋の形の石・「将棋石」

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六地蔵の第二番目です。

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水の不自由の村民の為に、大師が掘ったという「大師の井戸」

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昔から人々を悩ましていた歯痛を治すハイタ地蔵。

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堂前の地蔵。休憩に良い所。

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第三の六地蔵。

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標高もあがり、紀の川も遥か下方に見える。

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第四の六地蔵

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梨の木峠を越えて、第五の地蔵を見たかったが今回はトンネルを越えた。

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トンネルを越えると 花坂地区の集落へ。

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最後の舗装された自動車道を登ると矢立の町石道の60町石に到着し、以後高野山までは町石道を通る。

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そして、最後の第六の六地蔵にお参りして、今回の無事の歩行を感謝する。
この地蔵は 「砂捏地蔵」といい、大師が砂をこねてつくったといわれている。

約一時間をかけて、紀伊細川駅まで歩いた。


 もう一つ、この麻生津坂とほぼ平行に通っている安楽川道(根来から矢立まで)もあるが詳細は略す。
 この安楽川道は 鳥羽上皇の最愛の美福門院 得子のお骨を高野山に納める時に通った道です。