2013年07月
2013年07月15日
私の足跡 138 高野山への七つの登山口(高野七口 三谷坂)
私の足跡 138
世界遺産 高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳー2
三谷坂
今回は 前回の町石道と繋がりがある三谷坂を 公表します。
この道は 正式には高野七口ではないが、古い石仏が見つかり、世界遺産への追加に向けて進んでいます。
この道を有名にしたのは「高野参籠日記」という詳しい記録である。これは 仁和寺の第4代門跡「覚法法親王」(白河上皇の第4皇子)と第5代門跡「覚性入道親王」(鳥羽上皇の第5皇子)の高野参籠日記の記録である。
この日記から、覚法法親王は 1147年から4年間に5度の参籠日記がある。当時の高野参籠は町石道を使い、徒歩での参籠が普通だが、覚法法親王は1回目の往以外は、この三谷坂を利用している。そして、輿を使っての参籠である。
日記の一部を抜粋
1日目 仁和寺を暁に出発。船を乗り継ぎ、後 輿に乗り「住吉の浜」で宿泊。
2日目 午前6時出発 船で「日根の湊」へ。下船後、輿で「新家の庄」で宿泊。
3日目 雨の中 雄ノ山峠を越え 紀の川をさかのぼり、「名手の庄」で宿泊。
4日目 三谷津で下船 三谷坂を登り、天野の里を通り、途中町石道に合流し高野山へ。
覚法法親王は町石道でなく、三谷坂をどうして利用したかを「高野参籠日記」に「三谷坂は、木陰にして深き泥なし。道ほど近し。かたがた神妙の由、上下よろこびをなす。」と書いている。
確かに道は近い。道は 険しいが水はけが良い。それに、「涙岩」といわれる水場等があって、人間だけでなく牛馬にも水飲場として都合が良い。
それ以外に、慈尊院は東寺の支配下だが、三谷や天野は仁和寺の支配下で何かにつけ都合が良かったのではないかと考えられる。
現在の三谷坂を実際に何度も登っていますが、5年前の記録を書きます。この記録は平成20年の高野山学体験講座の記録です。
JRの妙寺駅に降りる。
対岸の三谷へ橋を渡る。
今回の講師 村上保壽先生より 当時「三谷津」の跡にある神社の説明。
丹生酒殿神社の一ノ鳥居をくぐる。
丹生酒殿神社に到着。(丹生都比売神(天照大神の妹)が初めこの地に降臨された所。そして、ここで酒造りをしていた。今も、竃戸家があり、竃戸神社もある。) 降臨された後、巡行して各地で農耕や織物などを教え、最後に現在の天野に鎮座した。
鳥居の奥に見えるイチョウの大木はシーズンにはライトアップされて見事である。この大イチョウの幹周は5.26m 樹高25mの大木で 葉っぱが紅葉すると見事である。
丹生酒殿神社の御由緒。主神は丹生都比売命で高野御子(丹生都比売命の御子)と建御名方命(大国主命の御子)と 誉田別大神(熊手八幡)が祀られている。
神木であるいちいの木に鎌を打ちこみ願いを祈った鎌八幡宮が1942年より兄井より合祀されている。
世界で初めて麻酔による手術に成功した華岡青洲が寄進した石灯篭がある。天保5年(1834年) 青洲 74歳の時である。
この後、ミカンや柿畑のある急坂を登って行く。
畑の傍に笠石がある。
更に進むと鉾立て岩 と 経文岩がある。
畑が終わり森林の中に入ると、旅人の喉を潤していた湧水・「涙岩と拝水」。
坂道も本格的な登り坂にかかる。今から60年ほど前・私の子どもの頃 一軒の農家があり、米作りをしていた。今 棚田の跡としての石垣が残っているだけである。
この近くに、頬切地蔵がある。ごく最近まで江戸時代に造られたものでわと思われていたが、調べると鎌倉時代のものとわかり、世界遺産に追加申請をしている。
三谷地区の人達がこの石仏の世話をしている。私も小さい頃よくお祭りの日に参ったのを覚えている。
この頬切地蔵は 地表に出ている巾60㎝ 長さ2m 高さ70㎝位の自然岩の3面に三体の仏が彫ってある。
北に大日如来 東に釈迦如来 西に阿弥陀如来の坐像である。上には宝珠のついた屋根がのっているが宝珠を除いて一つの岩からなっている。
更に険しい山道を右手に「まといわ」を見ながら登る。
しばなくすると自動車道に合流。ここから、少し右に行くと笠松峠に到着。
この笠松峠から左の小道に入り 137町近くの六本松で町石道に合流するか 右の小道に入り天野の里に行き111町近くの神田地蔵堂で町石道に合流するとかの方法がある。
今回は右の小道に入り、標高450m天野盆地の史跡をめぐることにする。
丹生都比売神社に参拝し、丹生宮司に説明してもらう。
丹生都比売神(天照大神の妹)が応神天皇により1370年前に祀られた。
境内左横の石造卒塔婆群の見学・山蔭加春夫先生の説明を聞く。
修験道の高野先達の碑伝。
奥の院灯篭堂の貧女の一灯(祈親燈)で有名な「お照の墓」
西行の後を追ってきて天野に住んだ西行の妻と娘の墓碑。
西行堂
有王丸の墓。 平清盛を倒そうとして捕えられた僧俊寛を有王丸が鬼界ヶ島を訪ねて遺骨を高野山に納め、天野に住んだ。(1179年頃)
外に 曽我兄弟の遺骨を高野山に納め、天野に住んだといわれる鬼王・団三郎の墓もある。
その他 院の墓・横笛の恋塚等 旧跡がたくさんある。
世界遺産 高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳー2
三谷坂
今回は 前回の町石道と繋がりがある三谷坂を 公表します。
この道は 正式には高野七口ではないが、古い石仏が見つかり、世界遺産への追加に向けて進んでいます。
この道を有名にしたのは「高野参籠日記」という詳しい記録である。これは 仁和寺の第4代門跡「覚法法親王」(白河上皇の第4皇子)と第5代門跡「覚性入道親王」(鳥羽上皇の第5皇子)の高野参籠日記の記録である。
この日記から、覚法法親王は 1147年から4年間に5度の参籠日記がある。当時の高野参籠は町石道を使い、徒歩での参籠が普通だが、覚法法親王は1回目の往以外は、この三谷坂を利用している。そして、輿を使っての参籠である。
日記の一部を抜粋
1日目 仁和寺を暁に出発。船を乗り継ぎ、後 輿に乗り「住吉の浜」で宿泊。
2日目 午前6時出発 船で「日根の湊」へ。下船後、輿で「新家の庄」で宿泊。
3日目 雨の中 雄ノ山峠を越え 紀の川をさかのぼり、「名手の庄」で宿泊。
4日目 三谷津で下船 三谷坂を登り、天野の里を通り、途中町石道に合流し高野山へ。
覚法法親王は町石道でなく、三谷坂をどうして利用したかを「高野参籠日記」に「三谷坂は、木陰にして深き泥なし。道ほど近し。かたがた神妙の由、上下よろこびをなす。」と書いている。
確かに道は近い。道は 険しいが水はけが良い。それに、「涙岩」といわれる水場等があって、人間だけでなく牛馬にも水飲場として都合が良い。
それ以外に、慈尊院は東寺の支配下だが、三谷や天野は仁和寺の支配下で何かにつけ都合が良かったのではないかと考えられる。
現在の三谷坂を実際に何度も登っていますが、5年前の記録を書きます。この記録は平成20年の高野山学体験講座の記録です。
JRの妙寺駅に降りる。
対岸の三谷へ橋を渡る。
今回の講師 村上保壽先生より 当時「三谷津」の跡にある神社の説明。
丹生酒殿神社の一ノ鳥居をくぐる。
丹生酒殿神社に到着。(丹生都比売神(天照大神の妹)が初めこの地に降臨された所。そして、ここで酒造りをしていた。今も、竃戸家があり、竃戸神社もある。) 降臨された後、巡行して各地で農耕や織物などを教え、最後に現在の天野に鎮座した。
鳥居の奥に見えるイチョウの大木はシーズンにはライトアップされて見事である。この大イチョウの幹周は5.26m 樹高25mの大木で 葉っぱが紅葉すると見事である。
丹生酒殿神社の御由緒。主神は丹生都比売命で高野御子(丹生都比売命の御子)と建御名方命(大国主命の御子)と 誉田別大神(熊手八幡)が祀られている。
神木であるいちいの木に鎌を打ちこみ願いを祈った鎌八幡宮が1942年より兄井より合祀されている。
世界で初めて麻酔による手術に成功した華岡青洲が寄進した石灯篭がある。天保5年(1834年) 青洲 74歳の時である。
この後、ミカンや柿畑のある急坂を登って行く。
畑の傍に笠石がある。
更に進むと鉾立て岩 と 経文岩がある。
畑が終わり森林の中に入ると、旅人の喉を潤していた湧水・「涙岩と拝水」。
坂道も本格的な登り坂にかかる。今から60年ほど前・私の子どもの頃 一軒の農家があり、米作りをしていた。今 棚田の跡としての石垣が残っているだけである。
この近くに、頬切地蔵がある。ごく最近まで江戸時代に造られたものでわと思われていたが、調べると鎌倉時代のものとわかり、世界遺産に追加申請をしている。
三谷地区の人達がこの石仏の世話をしている。私も小さい頃よくお祭りの日に参ったのを覚えている。
この頬切地蔵は 地表に出ている巾60㎝ 長さ2m 高さ70㎝位の自然岩の3面に三体の仏が彫ってある。
北に大日如来 東に釈迦如来 西に阿弥陀如来の坐像である。上には宝珠のついた屋根がのっているが宝珠を除いて一つの岩からなっている。
更に険しい山道を右手に「まといわ」を見ながら登る。
しばなくすると自動車道に合流。ここから、少し右に行くと笠松峠に到着。
この笠松峠から左の小道に入り 137町近くの六本松で町石道に合流するか 右の小道に入り天野の里に行き111町近くの神田地蔵堂で町石道に合流するとかの方法がある。
今回は右の小道に入り、標高450m天野盆地の史跡をめぐることにする。
丹生都比売神社に参拝し、丹生宮司に説明してもらう。
丹生都比売神(天照大神の妹)が応神天皇により1370年前に祀られた。
境内左横の石造卒塔婆群の見学・山蔭加春夫先生の説明を聞く。
修験道の高野先達の碑伝。
奥の院灯篭堂の貧女の一灯(祈親燈)で有名な「お照の墓」
西行の後を追ってきて天野に住んだ西行の妻と娘の墓碑。
西行堂
有王丸の墓。 平清盛を倒そうとして捕えられた僧俊寛を有王丸が鬼界ヶ島を訪ねて遺骨を高野山に納め、天野に住んだ。(1179年頃)
外に 曽我兄弟の遺骨を高野山に納め、天野に住んだといわれる鬼王・団三郎の墓もある。
その他 院の墓・横笛の恋塚等 旧跡がたくさんある。
2013年07月01日
私の足跡 137 高野山への七つの登山口(高野町石道)
私の足跡 137
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳ-Ⅰ
(高野町石道)
今回は 弘法太師が開いたと言われ、表参詣道として栄えた高野町石道を書きます。
この高野山町石道は 世界遺産である三重・奈良・和歌山の三県の霊場を結んでいる「紀伊山地の霊場とその参詣道」の一つである。
空海が高野山を開いて(816年)以来 史料によると多くの天皇家・摂関家等の著名人が通っています。先ず藤原道長が1023年に 続いて藤原頼道が1048年に登っている。続いて白河上皇が1088年に上皇の参詣登山としては最初で前代未聞と騒がれた。 その後 鳥羽上皇をはじめ後白河上皇等も登っています。
特に、有名なのは後宇多法皇の高野登山(1313年)です。約20kmで標高差約800メートルの登山ですから、普通に歩いて7~8時間を要する。
この道を後宇多法皇は輿に乗らず、草履で足をかため 徒歩で しかも1町毎に立ち止まり町卒塔婆の一本一本に念誦しながら登ったと「後宇多法皇高野御幸記」にある。記録では 午前2時に慈尊院の御所を出発したが、雨もふり、花坂あたりで夜になり、法皇も気を失った。付け人は輿に乗っての登山をと願ったが「たとえ幾日かかろうとも この行を止めるつもりはない」と言い、御幸を続けられ、24時間後の午前2時頃山上に到着した。「高野への道」村上・山蔭共著(高野出版社)を参考にした。
世界遺産では、参詣道としては世界で2番目に指定されている町石道を歩くことにします。
玄関口は 九度山町の慈尊院・丹生官省符神社(共に世界遺産)です。高野山の政所であった所です。
石段を登れば 慈尊院です。
登って左側に弥勒堂(重文)があり、その中に弥勒菩薩(国宝)が安置されている。
大日如来が安置されている多宝塔です。そして、その奥には長い石段がある。
そして、石段の途中に 180町石(これより 高野山の壇上まで1町(109m)毎に この町石が建てられている。)がある。
この町石は、今まで木製であったのを鎌倉時代に安達泰盛が20年間かけて造りあげた。
丹生官省符神社 丹生官省荘の総神社
丹生官省符神社を過ぎると、右手に厄除観音の勝利寺がある。
是より 町石に沿って標高を上げていく。
竹藪の中等を通って、柿畑の険しい坂道を登る。
高度があがると紀の川が見えて来た。朝日・夕日の見事な所。 これから目指す高野山も見えて来た。
町石が2本建っているが、左側は鎌倉時代の町石。不完全のためか、大正時代に造り変えた。
途中 弘法大師の坐像がある。
六本杉という広場があり、小休止に適している。
町石が2本建っている。一つは通常の町石。もう一つは 36町で1里なので 慈尊院から一里歩いたという一里石。
天野の里が一望できる展望台がある。
展望台から 丹生津比売神社のあり 白州正子の愛した天野の里がある。
展望台の傍に 丹生都比売神社を遥拝する二つ鳥居がある。
神田地区の地蔵堂。集落と田園の風景は見事。恋人「滝口入道」が通るのを待っていた「横笛」の話で有名。
「袈裟掛石」「鞍掛石」「くぐり石」とも言われる岩がある。
岩を押し上げ豪雨から母をまもった「押し上げ石」等がある。
厳しい厳しい坂道を登りつめると突然眼前に姿を現す巨大な大門。標高880m。
苦しい坂道を登って来た登山者は しばし、足を止めて眺める。
この大門をくぐれば ゴールはあと少し。
高野山の中心 伽藍の根本大塔に到着。
20kmの町石の道端には登山者を癒してくれる草花がある。(但し 時期により咲く花が異なる。)
うつぎの花
ふたりしずか
ひとりしずか
ササユリ
シダ
はないかだ
からすうり
しらいと草
次回は 高野七口ではないが、この町石道と関係深い「三谷坂」を書きます。
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳ-Ⅰ
(高野町石道)
今回は 弘法太師が開いたと言われ、表参詣道として栄えた高野町石道を書きます。
この高野山町石道は 世界遺産である三重・奈良・和歌山の三県の霊場を結んでいる「紀伊山地の霊場とその参詣道」の一つである。
空海が高野山を開いて(816年)以来 史料によると多くの天皇家・摂関家等の著名人が通っています。先ず藤原道長が1023年に 続いて藤原頼道が1048年に登っている。続いて白河上皇が1088年に上皇の参詣登山としては最初で前代未聞と騒がれた。 その後 鳥羽上皇をはじめ後白河上皇等も登っています。
特に、有名なのは後宇多法皇の高野登山(1313年)です。約20kmで標高差約800メートルの登山ですから、普通に歩いて7~8時間を要する。
この道を後宇多法皇は輿に乗らず、草履で足をかため 徒歩で しかも1町毎に立ち止まり町卒塔婆の一本一本に念誦しながら登ったと「後宇多法皇高野御幸記」にある。記録では 午前2時に慈尊院の御所を出発したが、雨もふり、花坂あたりで夜になり、法皇も気を失った。付け人は輿に乗っての登山をと願ったが「たとえ幾日かかろうとも この行を止めるつもりはない」と言い、御幸を続けられ、24時間後の午前2時頃山上に到着した。「高野への道」村上・山蔭共著(高野出版社)を参考にした。
世界遺産では、参詣道としては世界で2番目に指定されている町石道を歩くことにします。
玄関口は 九度山町の慈尊院・丹生官省符神社(共に世界遺産)です。高野山の政所であった所です。
石段を登れば 慈尊院です。
登って左側に弥勒堂(重文)があり、その中に弥勒菩薩(国宝)が安置されている。
大日如来が安置されている多宝塔です。そして、その奥には長い石段がある。
そして、石段の途中に 180町石(これより 高野山の壇上まで1町(109m)毎に この町石が建てられている。)がある。
この町石は、今まで木製であったのを鎌倉時代に安達泰盛が20年間かけて造りあげた。
丹生官省符神社 丹生官省荘の総神社
丹生官省符神社を過ぎると、右手に厄除観音の勝利寺がある。
是より 町石に沿って標高を上げていく。
竹藪の中等を通って、柿畑の険しい坂道を登る。
高度があがると紀の川が見えて来た。朝日・夕日の見事な所。 これから目指す高野山も見えて来た。
町石が2本建っているが、左側は鎌倉時代の町石。不完全のためか、大正時代に造り変えた。
途中 弘法大師の坐像がある。
六本杉という広場があり、小休止に適している。
町石が2本建っている。一つは通常の町石。もう一つは 36町で1里なので 慈尊院から一里歩いたという一里石。
天野の里が一望できる展望台がある。
展望台から 丹生津比売神社のあり 白州正子の愛した天野の里がある。
展望台の傍に 丹生都比売神社を遥拝する二つ鳥居がある。
神田地区の地蔵堂。集落と田園の風景は見事。恋人「滝口入道」が通るのを待っていた「横笛」の話で有名。
「袈裟掛石」「鞍掛石」「くぐり石」とも言われる岩がある。
岩を押し上げ豪雨から母をまもった「押し上げ石」等がある。
厳しい厳しい坂道を登りつめると突然眼前に姿を現す巨大な大門。標高880m。
苦しい坂道を登って来た登山者は しばし、足を止めて眺める。
この大門をくぐれば ゴールはあと少し。
高野山の中心 伽藍の根本大塔に到着。
20kmの町石の道端には登山者を癒してくれる草花がある。(但し 時期により咲く花が異なる。)
うつぎの花
ふたりしずか
ひとりしずか
ササユリ
シダ
はないかだ
からすうり
しらいと草
次回は 高野七口ではないが、この町石道と関係深い「三谷坂」を書きます。