2011年12月
2011年12月20日
私の足跡 100 頑張れ 東北 2
私の足跡 100 頑張れ 東北 2
第4日 2011.8.13
ランプの宿を早朝に出発し、新青森駅へ車を走らせる。
駅に到着後、レンターカーを返却し、朝食をとる。
駅構内には、弘前のユースホステルで出会った高校生達の高校総体の看板や青森ねぶたの飾りも残っていた。
新設なので、スッキリした感じの駅であった。
そして、新設なった東北新幹線に乗り、一路一関駅へ。
一の関駅に到着後、レンターカーを借りて一路栗駒山へ。
途中、山肌には2008年6月の岩手・宮城内陸地震の傷跡が残っていた。
そして、当時、被害が大きく、気になっていた駒の湯温泉等はいまだ復活なっていないという。この地区のランプの宿が早く回復できたらもう一度来てみたい所です。
でも、一部う回路を通ったがやっと「いわかがみ平」へは通じたお陰で この地に来れたことを感謝している。
駐車場を後にして、栗駒山(1627m)の頂上を目指す。
40分足らず登ると栗駒山(1627m)の頂上が見えてきた。この頃より一昨日の臀部の痛みが強くなり、このままだと頂上を極めるのが難しいと感じて来た
しばらくして、「初日にバスの遅れで中尊寺を行っていない。このままだと栗駒山登山も中尊寺も両方行けなくなる。」いろいろ考えながら歩いた結果、M氏に相談してみた。
私の為に、ここで登山を中止してしまうが、急ぐと初日に行けなかった中尊寺へ行けるのではと提案し、M氏に了承してもらう。
早速下山し、車を中尊寺へ向けて走らせる。
初めは、毛越寺へ。寺伝によると ・・・850年 慈覚大師がこの地を訪ねると白髪の老人が現われ、この地に堂宇を建てて霊場にせよと告げました。大師は、老人は薬師如来の化身と感じ,一宇を建立したのが始まりとされている。
本堂 本尊薬師如来(平安時代作) 脇仏 日光・月光菩薩
毛越寺の正門南大門。礎石12個が完存している。
この池には二つの橋があったという。
大泉が池の中心とする壮大な浄土庭園が配されていた。
残り時間が気になって来たので、中尊寺は私が以前行ったことがあるので、M氏は中尊寺に一番近い所の路上で降り見学に行く。私が車に残り、駐車場ではなく、路上で待っていたので短い時間で見学をすませることができた。そのため、予定の時間に駅に着くことができた。
本年 登録されたばかりなので 喜びがよくわかる。
一の関駅から仙台へ。在来線で
仙台着 7時前。
本日の宿舎に7時20分着。ユースホステルと言うが旅館であった。値段はユースホステルなみ。この旅館も東北大震災の被害が建物の一部にみられた。
夕食は近くの食堂で済ませて、ゆっくり、寝る。
5日目
早朝6時過ぎに宿を出て、駅前で朝食。
仙台駅からJR仙石線に乗り、塩釜へ。
石森章太郎の出身地ということで彼の作品が描かれた列車
本塩釜駅に到着。塩釜神社にお参りにいく。途中倒壊したり、半壊の家も見えた。
8時に到着。まだ早く境内には参拝者がまばらだった。
境内も広く、厳粛な感じのする神社である。
中に入っていくと より厳粛な感じのする雰囲気がある。
境内から海の方を見ると町の向こうに海が見えた。津波の被害を受けなかったのは高台にあったからだ
駅のホームの自動販売機には『節電にて販売中」とある。買ってみると少しも冷やされていませんでした。
日本三景の一つ松島へ。この時期観光客はすごく多かった。
松島の駅。
先ず松島瑞巌寺へ行くことにした。観光客も多くいた。
中に入ると、あちこちに洞窟が多くある。
昭和34年国宝 庫裡(庫裏) 禅宗寺院の台所 大屋根の上にさらに煙り出しが載っている。特別公開されていた。(ここでは、写真撮影禁止のため、写真なし)
大書院でも 本来本堂にある御本尊・大位牌等が特別公開されていた。
博物館でも伊達正宗公の遺品や歴代藩主の画像も展示されていた。見学は時間を十分にとってゆっくり見学した、
本堂は 28年3月まで修理のため、非公開。
見事な杉並木が続いている。
多くの洞窟がある洞窟群。
五大堂へ見学に行く。
807年 坂上田村麻呂の創建とされている。後に伊達正宗公が再建し 東北地方最古の桃山建築である。
のれんを見て 東北ガンバレと声援を送る。
列車の中から がれきや打ち上げられた船の残骸が見える。
仙台に12時前に着き、仙台発12:17分の新幹線に乗り、東京で乗り換え、新大阪駅に17:30到着。
次回は 近在の伝統的文化の残る町を訪問します。
2011年12月10日
私の足跡 99 頑張れ 東北 1
私の足跡 99 頑張れ 東北 1
今回の東北旅行の目的
本年の最大事故と言えば何と言っても「東日本大震災」に違いない。それには、私は義援金を出しただけでボランティア活動にも行けずに何かをと思いつつ月日がたってしまった。
ところが、夏頃になると東北の地元から元気になった地区へ来てほしいと言う記事を目にするようになった。
今年の大震災にあった人々に少しでも元気になってほしい。 世界遺産めぐりをしたい。
登山もしてみたい。 2008年6月の岩手・宮城内陸地震での栗駒山周辺の復興はどうなっているかも確かめたい という目的をもってM氏とナンパを夜行バスで出発した。
3週間前に計画をたて、すぐに切符の購入にとりかかったが、東北三大祭と重なり、切符が獲れない。次にと思うと帰省客と重なったので夜行バスの切符も2枚が残っていただけ。現地でのレンターカーを借りるのも5~6軒の店でやっと手に入れたとの事。今回は、やむをえなかったが出発の月日が問題だった。
第一日 2011.8.10 ナンパOCAT発 20:20。OCATを出て10分後の大阪市内。
予定では満員のバスだったが 幸運なことに京都を過ぎても6席ほど空いたままだったので、我々2人は互いに近くの席をとることができ、仙台までユッタリ グッスリ眠れて行くことができた。
第二日 2011.8.11
仙台着 8:27の予定だったが約40分近く遅れたため、一関行きのJRに乗り遅れ、今後の計画(本日中に平泉の見学を終えてしまう)に狂いが生じた。
これから、仙台から青森まで青春切符を使っての旅だから乗り継ぎ乗り継ぎの連続だった。仙台発 9:42.に乗り、小牛田、一関、盛岡、好摩、大館と乗り継ぎ青森着19:58
乗り継ぎ駅で時間があれば、外に出て、駅前の見学をする。
一関駅では、世界遺産に登録されたばかりの平泉を列車の車体に描いて走らせていた。
一昨年も岩手山登山のおり、立ち寄った駅だ。
待ち時間も多くあったので外に出てゆっくり見学。ここは、啄木の故郷・渋民村の近くで岩手山もくっきり。一昨年の岩手山登山の思い出が湧いてきた。
大館は秋田犬の故郷。駅構内には、ハチ公神社もあった。
青森駅に着くなり、レンターカーを借り、一路弘前の町へ。
弘前ユースホステルに到着し、近くの食堂で夕食をとり、帰って2階の6人部屋に3人で宿泊。私達はべットで。
少し古いが、ユースホステルの雰囲気のある宿舎。
この宿舎に、ある高校の剣道部の生徒男女約20人が高校総体に参加するため宿泊していた。感心したのは礼儀のよいこと。そしてそれ以上に感心したのは、食後 食堂で もくもくと各自勉強していたことです。「先生は?」と聞くと」「先生たちは町に出かけている」という。あたかも 当たり前のように。何と近年稀な素晴らしい高校生に出会えて感激。 私達は「頑張れ」と応援して、別れた。
第三日
宿舎を 7時に出発。一路前方に見える岩木山を目指して車を走らせる。この旅行のドライバーはM氏一人にしてもらう。
近づくにつれて、頂上に厚い雲が。 不吉な予感。
到着すると、強風のためロープウエイが休止とのこと。再開時刻は相当遅れるとのこと。
二人で相談して、本日のもう一つの目的地・白神山地を先に見学することにする。
一路車を津軽峠へ。2年前は日本海側の白神岳の途中の「まて山」に行ったが今度は南側の、「アクアグリーンビレッジANMON」を経由して津軽峠からにする。
車を駐車場へおき、細い道を進む。
ブナの巨木を見る。太古からのブナの木の原生林が世界遺産に認定されている。その中で一番古い木で推定400年と言われているのがこの木である。
白神山地は、1993年に世界遺産に認定された。ブナは1300平方キロメートルに広がる日本固有の広葉樹で7年おきに大量の種を落とし、約300年ほど生きるという。
木に耳をあてると地中から水分を吸い上げる音が聞こえるということで挑戦したがだめだった。
帰路、「アクアグリーンビレッジANMON」に寄り、休憩する。
ここには、過去2回来ている。1度目は紅葉の頃「ブナ林散策道」を約1時間ほど歩き、2度目は暗門の滝歩道コースを約2時間かけて歩き、3つの滝を見て、さわやかなしぶきとマイナスイオンを味わってきた。
第三の滝 落差42m (前回撮影したもの)
楽しみにしていた世界遺産「白神山地」に4回訪れたがまた訪れたい所だ。
白神山地の見学を終え、午前中の岩木山へ。
途中、岩木神社があったので安全を祈願してお参りをする。
正面の岩木山神社の楼門は 1628年建立で重要文化財に指定されている。
本殿も重厚な構えで 昔から地元の神様として信仰されていたのが良くわかる。
この神社で 多分狛犬さんだと思うが変わっていて珍しいので写真におさめた。
駐車場に着くと ロープウエイが動いていたのでホットする。でも、風が強くて頂上は霧で包まれていたので心配だ。
相変わらず がれ場でガスがかかって視界が悪かったがそれよりも頂上に近づくと強風で吹き飛ばされる感じの風だった。その時、強風でバランスを失いスリップしてお尻を地面で強打した。痛かったが我慢をして頂上を目指す。(こんな気象・岩場で転ぶとは後期高齢者の年齢になったからかなと悲しくなった。しかし、この現実を受け入れなければと痛感した。)
やっと、頂上に到着。視界が悪く、残念だった。岩木山奥宮が祀られていた。
帰り道、一瞬ガスも晴れた時の風景。相変わらず片側が断崖で 足場はがれ場の連続が続いた。
「この近くで、学生達が遭難して、多数の犠牲者を出した」とある。後輩たちが寄金を集めて先輩達の冥福と遭難防止のため、建てたとある。私は 犠牲者の冥福を祈り、避難小屋を後にした。
M氏の運転で車を走らせ、今回の旅行の目玉であるランプの宿「青荷温泉」に向かう。
(今回の旅行は4泊だが、1泊は夜行 2泊はユースホステル そしてもう1泊はこのランプの宿「青荷温泉」である。)
ユースホステルは 夜遅く到着して 朝早く出発するので素泊まりにしたが、ここでは旅の中頃になるので身体を休めるためにもゆったりとした時を過ごしたくて私達にとっては早くて4時過ぎに到着した。
駐車場に車をとめ、谷川の近くまで降りて「青荷温泉」に到着する。
建物はいくつもあったが、ここは本館の建物です。
夕食前に4つの温泉のうち2ヶ所の湯につかった。
散策をしながら次の湯へ。ヒバの香りに包まれて、自然と溶け合った温泉であった。
そして、楽しい夕食です。ランプの宿の名の通り、照明器具は全てランプである。
夕食は 近くの山で採れた山菜に近くの谷川で獲った魚など盛り沢山であった。
フロントです。
廊下です。
そして、何よりも素晴らしく楽しかった経験をさせてもらった。それは、滞在中 電気のない生活が送れたということです。(勿論 宿舎には 電気が来てないのではなく、宿として必要なもの(洗濯機・冷蔵庫・電話等)以外の電気製品は意図的に私達には何も目に触れさせないだけです。したがって、部屋にもどっても、テレビもない ラジオもない 電燈もない一夜を過ごした。私達が電気として見えるものは廊下の非常口の青色の電燈だけです。したがって、滞在中は、社会から完全に隔離された状態になったということです。
貴重な体験をさせてもらった。
夕食後、外に出ると静寂な暗闇に谷川の瀬音が聞こえる素晴らしい宿だった。
今は夏だが 紅葉の秋、すべてが雪に覆われた冬、新緑の木々の下に群生するカタクリの花。それぞれの季節を思い浮かべて一人で楽しいひとときを過ごした。
2011年12月01日
私の足跡 98 熊野古道の伊勢路を歩く 11 栃原・女鬼峠・田丸
大辺路・伊勢路を歩く
伊勢路 11 栃原から女鬼峠を越え田丸まで 2011.10.27
今日は18kmの道のりを出来るだけ早く歩き終えたいから、朝5時に起き、三瀬谷駅を5時57分の始発列車で栃原駅へ。
5時40分の三瀬谷駅
6時15分の栃原駅
駅から伊勢路への道がわからなくて人に尋ねようにも早朝だったので人に会えずに約20分ほど時間を浪費した。
中国から伝わり、日本各地にひろがっている信仰の庚申さん等がある。
柳原観音千福寺。本尊は聖徳太子の作といわれる観世音菩薩。手引観音ともよばれる今も人気があり、参詣者の多い古刹です。大祭日には、臨時バスが伊勢・松阪等から往復するという。
まんじゅうや跡・寺小屋跡等とある。
ここは、寺小屋跡で建物が残っている。
左手の上に小堂がある。浄保法師は この地の伝染病の広がりを防ぐため127cmの像をつくったとある。1684年の銘がある。
やっと、女鬼峠の標識が見え始めた。
よく手入れされた銘産の茶畑を見ながら、しばらく歩くと、女鬼峠まであと1.5kmの標識になってきた。
神宮寺相鹿瀬寺跡 奈良時代に仏教が広まり、各地に大寺院が建てられた。その一つに称徳天皇が766年に建立されたとある。七堂伽藍の華麗な寺院であったと伝えられるが、775年に廃止された。 奈良時代の軒丸瓦などが出土している。
女鬼峠まで400m標識が見えた。ほっとする。
右側の石は 高さ145cmの「南無阿弥陀仏」の名号碑である。
中央の赤い前掛けの53cmの如意輪観音はかなり古い。
小祠の中には 140cmの如意輪観音は1738年と刻まれている。
急坂を登り切ると やっと女鬼峠(120m)に到着。伊勢路には16個の峠があったが、最後は一番低くて良かった。 千枚岩の岩盤を切りとおした昼でもほの暗い道です。
昔 荷車の通ったと思われる轍(わだち)跡。くつきりと二本の轍の跡が残っている。
坂道を下りきった所から振り返ると女鬼峠が見える。
背の高い道標(天保4年)がある。ここが和歌山別街道と熊野街道との分岐点である。
3年前 和歌山市から奈良・高見山を通って伊勢までの街道を歩いた時 この道を通って田丸から伊勢まで歩いている。ここからは2度目の道である。
永昌寺に立ち寄る。曹洞宗の寺院で 千手観音菩薩(室町時代作)が祀られている。隣には大日堂がある。
旧道では 軒を連ねた街並みに、築百年を越えた蔵持ちの家もあって、往時が偲ばれる。
巡礼道引観世音を祀る石仏庵の向かいには 観音堂かあり、西国三十三カ所霊場の観音石像が三十三体並ぶ。台座の施主名には周辺の国だけでなく、江戸・知多等広範にわたっている。
前方に見える小高い山は 田丸城址である。江戸時代はこの付近は紀州藩の領地であった。
田丸駅は 小山から右へ行ったところにある。
田丸駅前の広場には、昔の旅人の像があった。
田丸駅構内の写真。11時50分に着き、12時12分の列車に乗ることができた。今日は、18kmの道を約5時間少しで歩けた。これは、女鬼峠は 高い峠ではなかったからです。これで 19時頃には家に着けて、明日の語り部の仕事の準備も余裕ができた。予定では、14時頃に到着すると思ったが1時間早く出発したのと急いだので計約2時間早く到着することが出来た。
ここは伊勢路ですから 本来は伊勢まで行くべきと思うが、和歌山から奈良の高見山を越えての伊勢街道を通った時 今回の永昌寺の所から伊勢までは同じ道になる。それと伊勢参りの人は ここで西国巡礼の服装で熊野詣でをして、熊野詣の伊勢路は熊野から田丸までとなっているらしい。
これで、大辺路 4回と伊勢路11回 通算計15回の大辺路・伊勢路を終え 次回からは東北地方の旅を書きます。