2011年04月
2011年04月15日
私の足跡 82 東海道の完歩 17 戸塚宿 ~ 神奈川宿
東海道を歩く 17
「5」 戸塚宿 → 「4」 保土ヶ谷 → 「3」 神奈川宿
「5」 戸塚宿 「元町別道」 いろんな旅人が宿に到着する夕暮れ時、軒先に「00講中」と書かれた「講中札」がさがっている旅籠「こめや」の前です。「講中札」はそれぞれの講の「常宿」を示すものであり、同時に「安心して泊まれる宿」の印ともなっていたようだ。
「4」 保土ヶ谷 「新町橋」 現在は橋はなく、跡地が公園になっている。
「3」 神奈川宿 「台之景」 神奈川湊の近くの海に沿った細長い宿場町であった神奈川宿。この絵は西の外れの高台の「神奈川台」です。茶屋の客引き女が客を呼び込んでいます。 海を一望できる見事な眺めを売りにして人気を得ていた。
その中でも繁盛店として有名だったのが、絵にも看板が出ている「さくらや」。この店はのちに売りに出されて旅籠「田中屋」となったが、そこでは坂本龍馬の妻・おりょうが龍馬との死別後に仲居として働いていたこともあるという。1863年の開業から150年近くが経つ今も、老舗料亭として営業を続けている。(詳細は下記にも)
本日の日程をハードに組んでいるため、12月28日の冬至にに近い日だったがホテルを6時に出発。
15分ほどで時宗の総本山「遊行寺」に到着。
「庚申」の信仰ば日本各地にあるようで、庚申塚も各地で祀られている。
建物はないが、遺跡あとを説明してくれていた。「見附跡」
出発して約2時間で 「本陣跡」に到着。
江戸から歩きはじめた旅人の多くが、最初の宿泊地に選んだのが戸塚宿である。旅籠の数も、江戸~箱根間では小田原に次いで第2位。日本橋からの距離は40km以上あるが、朝4時に江戸を発てば、夕刻には戸塚宿には入れる。
ここは、鎌倉への追分であったので余計賑わったとある。
「お軽勘平 戸塚山中道行の場」の碑が建っている。
昔の面影を残す建物もあった。
「もちの木」
雌雄異株の常緑広葉樹 普通の木は7~8m。
この木は、国道1号に沿ってあり、樹高は20m近くもあり珍しいということで県指定天然記念物になっている。
この木の樹皮より、鳥もちをつくるからこの木の名の由来になっている。
9時ごろやや赤く染まった富士山が見える所にきた。
「焼餅坂」 武蔵の国と相模の国との国境にある「権太坂」や「焼餅坂」は昔の旅人にとっては日本橋を発てば最初の難関であった。
この坂の辺りで一服する旅人を目当てに焼餅を売っていたことからこの坂の名の由来だといわれています。
この坂は正月の箱根駅伝でよく言われている「権太坂」です。この道は旧東海道です。
昔は、もっと傾斜のある急坂だったのをこのように改修したという記念碑があった。
「権太坂」という難所らしからぬのんびりした名前は、旅人が地元の老人に坂の名を尋ねたところ、耳の遠かった老人が自分の名を尋ねられたと勘違いし、「権太」と答えたことに由来するという。
権太坂は指折りの難所で、坂を越え切れずに力から尽き、命を落とす旅人も少なくなかった。そうした行き倒れの死者がまとめて葬られたのが、頂上の少し手前にあった「投込塚」である。
1961年に付近の宅地開発の際に塚跡と思しき場所から多くの遺骨が発見され、供養塔が建てられた。その供養塔の前で冥福を祈った。
保土ヶ谷宿は 今は近代的な街になり昔の面影はなく、上のようなに史跡の碑のみとなっている。
神奈川宿は高台にあり、今は立派な住宅地となっている。
上の写真の家は、前にも記したが、現在は「田中屋」です。
この前身「さくらや」で明治7年に勝海舟の紹介で 坂本龍馬の妻・おりょうが龍馬との死別後に仲居として働いていたこともあるという。英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は外国人の接待に重宝されたらしい。
1863年の開業から150年近くが経つ今も、老舗料亭として営業を続けている。
諸外国は神奈川湊の開港を強く要求した。しかし、外国人との接触を避けたい幕府は、対岸の横浜を開港した。
横浜には多くの人材が集まって急速に発展する一方、神奈川宿は静かになってしまった。
外国人と日本人の間のトラブルをなくすための工夫があった。
「豆知識」 旅人はどこへ行ったのか?
庶民が旅に出るようになるのは江戸時代中期以降のこと。多くの人にとって、長旅は一生に一度のイベントである。
人々は何を目的としてそしてどこへ旅に出たのか、そしてどれほどの日数と費用を費やしたのだろうか。
江戸~京都(約495km)を移動手段はもっぱら徒歩であり、この間を男性で約11泊、女性で約16泊程度の旅路だった。その間、寺社・名所を訪れ、名物を楽しみ、旅籠に泊り、時には悪所を訪ね、旅を満喫したのでしょう。
歴史上の有名な人の東海道往来日程(記録に残っているもの)
オランダ商館長 ドイツ人医師
ケッぺル シーボルト 吉田松陰 徳川家茂 勝 海舟
11泊12日 14泊15日 16泊17日 20日21日 6泊7日
図の上部を左から順に
「比丘尼」尼僧。「按摩」宿場で旅人を癒したマッサージ師。「飛脚
」書状や荷物を運ぶ人。「武士」供の者と一緒 煙管をくわえ気ままな旅 「行脚」前後吁を巡り歩いた俳人や墨客
図の下部を左から順に
「田舎同者」田舎では「講」という組織で旅をした 「雲助」人足
ふんどし一つで駕籠かきや荷物運び 等
図の上部を左から順に
「薬売り」大きな薬箱を担いだ行商人 「駕籠」簡素な駕籠 旅人は疲れたら駕籠か馬に乗る。「客引」客を呼び込む人 宿屋は客の奪い合い
図の下部を左から順に
「巡礼者」日本全国の寺社を巡った巡礼者 「抜け参り」子供だけで旅をした 施行をうけながらの伊勢参り 「金比羅参り」白装束で天狗の面を背負っている 「瞽女」三味線と唄で生計をたてている
街道を行き交う多彩な旅人達~歌川広重「東海道風景図会」より
大日本道中行程細見記 たて18×横912cmの大作
天保8年(1837年) 作者 酔 雅子
旅行者向けガイドブックの一つ。この絵図では北は松前より南は九州南端までの地名、街道がコンパクトに纏めている。
絵図には宿場間の距離や諸藩の情報、さらに名所や渡河の賃金まで書かれており、旅人はこれを折りたたんで携帯した。
通行手形には2種類あった。
1 往来手形 旅人の身分証明書で、農民・町人の場合は大家や菩提寺、庄屋等が発行。
2 関所手形 関所通過時に使用。男性は免除されても女性の場合は必須だった。発行も町奉行か各藩の留守居役が発行。
井口屋善助と同徳右衛門がこのたび諸国の神社仏閣へ参詣するため出願した。この者たちは真言宗当寺の旦那に間違いなく、関所を反対なくお通しください。万一。病死致しましてもこちらへのお届けには及ばず、そちらの作法にてなされるようお願いいたします。よって証文くだんのごとし 途中略
費用などについては次回に
2011年04月01日
私の足跡 81 東海道の完歩 16 大磯宿 ~ 藤沢宿
東海道を歩く 16
「6」 大磯宿 → 「5」 平塚宿 → 「4」 藤沢宿
「6」 大磯宿 「虎ヶ雨」 と゜んより曇った空から落ちてくる大粒の雨。旅人たちは笠や合羽で雨をよけながら先を急ぐ。
「5」 平塚宿 「縄手道」 平塚を抜け、大磯へ向かう街道を描く。「縄手道」とは田のあぜ道のこと。
「4」 藤沢宿 「遊行寺」 手前には江の島弁財天一の鳥居、遠景は「遊行寺」。
駅構内の天井に名物の提灯がぶら下がった小田原駅から今回は東に向けて出発。
小田原宿を守る江戸口側の見附跡と一里塚跡
新田義貞公の首塚
朝日が輝く酒匂川を渡る。
街道から離れた所に大磯プリンスホテルが見えた。
以前若者に人気あり、TVでもよく出ているロングビーチが見たくなり、より道をするか迷った。しかし、時間の浪費と疲労を費やす。でも、この区間は一人歩きだったので疲れて悔んでも自己責任でということで行ってきた。
ホテルの傍から撮影した。
充分でないので、建物の中に入らせてもらって、撮影した。
手前では 若者や子供達が泳ぎ、賑やかだった。
向こうは、広々とした湘南海岸です。
一段と高い所に行かせてもらい違った角度から撮影。凄い施設と人出。
満足して、街道歩きにもどる。
新島襄先生の終焉の地 新島先生は明治の教育者。アメリカでキリスト教をもとにした教育を学び、それを取り入れ京都に同志社大学を設立したが志半ばにしてここに眠る。
見事な松並木が続いていた。この近くに 吉田茂の別荘もあったが開館の時間が過ぎていたので素通りした。後に火事で燃えてしまったという出来事があったので寄っておけばと後悔した。
古風で趣のある鴫立庵が道の右側にあった。
大磯の本陣跡の立て札がたっていた。
大磯宿をぬけると見事な松並木が続いていた。
化粧(けわい)坂の一里塚
日陰で風よけなど小休止の処。
高さ3mの所に海側には「榎」 山側には「せんだん」の木が植えられていた。
近くに、化粧井戸があった。
この化粧の由来は 一説には、鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近だった。
当時の大磯の代表的美人「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なに井戸水を汲んで化粧していたので化粧井戸の名がついたとある。
やっと平塚宿に到着
平塚の塚 平塚の塚の由来 言い伝えによると「桓武天皇の子孫の高見王の娘が東国に行く途中、この地で逝去した。
ここに埋葬して墓として塚を築いたがその塚の上が平らになったので里人はそれを「ひらつか」と呼んだことからとある。
平塚宿は近代的な街になり、昔を偲ぶ建物はなかったが碑が建てられていた。
上記の本陣跡の外、問屋場跡・高札場跡・脇本陣跡・見附跡等があった。
番町皿屋敷で有名な「お菊の墓」があった。
文字が小さく読みづらいので、拡大してして下さい。
相模川に架る長い橋を渡る。
茅ヶ崎市に入り、しばらくすると「旧寛永寺石灯篭」が三基たっていた。
これは、徳川将軍家の菩提所である寛永寺の石灯篭の一部がここに移動したものです。各地の大名は、将軍の供養のため寄付したものです。
中央は4代将軍・家綱の供養のため、左右の灯篭は10代将軍・家冶の供養のためのものです
茅ヶ崎の一里塚跡
車の排気ガスにもめげず元気な姿を見せている松並木。
源 義経の首洗い井戸
「おしゃれ地蔵」
「女性の願うことなら何でも叶えてくれ、満願のあかつきには、白粉(おしろい)を塗って、お礼をする。」と伝えられていて、今でも白粉が絶えず塗られている。だから、 「おしゃれ地蔵」という。
昔の面影を残す建物があったが、史跡が殆どなかった。
町中に入り、しばらく商店街を歩くと藤沢駅に到着。
「豆知識」 飛脚について
江戸時代、手紙や荷物の輸送を担っていたのが「飛脚」といわれる人足だった。初めは、幕府が作って宿場から宿場へ交代で書状や物資を運ばせる「継飛脚」だったが、各藩の大名も飛脚を使い、大名飛脚となった。
「継飛脚」も「大名飛脚」も公務にのみ使用され、一般の武士や庶民は利用できなかった。
やがて、飛脚問屋や飛脚屋という民営の飛脚ができ、「街飛脚」が普及する。
次は速さと値段について
飛脚が出発する日は定まっており、例えば江戸~京都間を往復する問屋は10日ごとに出発した。月に3度往復することから三度飛脚と呼ばれ、三度笠の語源となったという。
最も速い便で 江戸~京都まで3日、発送した翌々日というから今とたいして変わらない。ちなみに、忠臣蔵の刃傷沙汰の際は、事件を国元にしらせるため、飛脚が江戸~赤穂までわずか4日半で駆け抜けた。その距離、600km強。単純に計算すると時速6km程度だが、川渡し峠越えなどの難所、さらに休憩時間や疲労度などを踏まえるとかなりの特急便だっのがわかる。
料金だが、江戸~大阪間で一週間かかる普通便で銀2匁、書状1通の速達専用便で金7両2分(時価 約20万円)以上という高額だった。
急がなければ「並便」(最も安い。便に空きがあるか 飛脚が暇な時)もある。