2011年02月
2011年02月21日
私の足跡 78 東海道の完歩 13 奥津宿 ~ 蒲原宿
東海道を歩く 13
「17」 奥津宿→ 「16」 由井宿→ 「15」 蒲原宿
(由比)
「17」 奥津宿 興津川を渡る相撲取り。 旅人の乗り物iについてはこのブログの最後の 「豆知識」 に書きます。
「16」 由井(比)宿 薩埵峠の崖の斜面にしがみつくように富士を眺める旅人(左上)。
人の小ささから自然の雄大さを実感させる。
「15」 蒲原宿 広重の傑作中の傑作と言われる「夜乃雪」。
山も木々も、そして宿場町も街道も、すべてがしんしんと降り積もる雪に覆われ、静寂だけが伝わる。
しかし、この絵は画家が生み出したフィクションだと言われている。実際の蒲原宿は太平洋の駿河湾に面した海岸沿いで温暖な土地であり、雪が降り積もるようなことは数十年に一度あるかないかだという。(歩いている時に60年この土地で生活しているという人も雪を見たことがないと言っていた。)
なぜ、雪景色にしたかは謎のまま。全ては空想の賜だとも。新潟県の蒲原にイメージを重ねたのではないかとも。
暑い7月の末の良い天気で、昼近くになり、皆はバテ気味になったが老体に鞭を打ちながら興津宿へ向かった。
日影があれば、立ち止まり休憩しながら歩いていると、 「座漁荘」という建物があった。
説明によると西園寺公望公が70歳になって老後の静養に建てたものとある。
しかし、実物は昭和45年に愛知県の明治村に移築してしまったが、地元の人が中心になり、元の「座漁荘」を復元したとある。
休憩を兼ねて、30分ほど見学することにした。
しばらく歩くと、清見寺が見えた。禅寺で足利尊氏や今川義元等から篤い帰依を受けていたらしい。徳川家康も人質の時代はここで学問をしたとある。階段を登ってお参りをと思ったが身体が動かず石段下から参拝する。
東海道「興津宿」に入る。この宿の説明板は工夫されていた。
往時を偲ぶ建物は少なく、大部分は碑が残るのみであった。
厳しい道だが峠から見る富士山は最高だという薩埵(さった)峠へと急ぐ。
由比宿へは右へという看板を見て、念願の薩埵峠への道だと思い指示通りに進む。
暑い日中に、国道1号線とJR東海道線を左に そしてセメントの防波堤を右にして歩いて行く。ふと気がつくと左手の山が薩埵峠だと気づく。どこで間違ったかわからないがもう前進するのみ。
ここは写真のように、山が海にせまり平地がないので狭い処に国道1号線・JR東海道線・東名高速が重なるように連なっているのが良くわかる。(江戸時代の初期までは、山を越えるのではなく、峠下の波打ち際を打ち寄せる波の間を縫って抜ける危険な「下道」しかなく、親も子もなく、さきを争って渡ることから「親知らず 子知らず」と言われ旅人を悩ましたのである。)のちに道を山の上の薩埵峠を通るようにした。でも、決して楽と言えるルートではなかったが、眼下に紺碧の海・見上げれば富士山という見事な眺望は、苦しい道中を行く旅人たちへの「ご褒美」だった。
疲れた身体に鞭を打ち、ガンバル。途中、やっと見つけた店で冷たいものを身体に入れ、やっと息をつく。
やっと、 国道1号線とJR東海道線を横断する所に到着。
念願の薩埵峠越えが出来なかったこの悔しい思いを晴らすため、東海道完歩の途中のすっきりした気候のある半日を費やし、薩埵峠へ行って来た。(天気予報を調べ、土地の人の意見も聞いた。)
詳しいことは、後日の「東海道を歩く19」をご覧下さい。
ここは 間の宿・倉沢宿の 「藤屋」。ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称し、文人・墨客が好んで休憩したと言われる。山岡鉄舟も利用したとある。
室内には 主人が描いたといわれる絵があり、当時の様子がうかがうことができる。
倉沢宿の町中。 当時の面影が良く残っている。
本陣跡。 大名も休憩した所。
「小池邸」 此の建物は、明治期になってからの建物。
大戸・くぐり戸・なまこ壁・石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残している。
そして、由比駅に到着したのは、12時。駅のベンチで寝ころび、しばしの休憩をとる。 東海道歩きの中で一番暑くて辛い思い出となっている。
休憩後、特産の「さくらエビ」の看板を見ながら一路由比宿・蒲原宿を目指す。
脇本陣跡の建物 「温飩屋」 他に「羽根の屋」もあった。
馬の水飲み場の跡 この水路状の壕(幅1m 長さ20m 深さ60cm)は、馬の水飲み場として、大名行列の馬に水を飲ませたり,からたを洗ってやったりした所。
他の宿場では、見られない珍しいものである。
この紺屋(染め物屋)は、400年以上前より続いている。慶安事件で有名な由比生雪の生家といわれるところから「生雪紺屋」の屋号がある。
屋内には 土間に埋められた藍瓶等の染め物用具等があり、昔の染め物の様子を偲ぶことができる。
由比宿の本陣は 広大な土地で(約1300坪)であったが、今は「由比本陣公園」として解放されている。
公園の中には、安藤広重の美術館があったが、時間の都合で見学はできなかった。
蒲原宿までは、昔の面影を残す家が残っていた。
大正時代の洋風建築。 国指定登録文化財
大正3年から3回にわたり、、町家を洋風に増改築した疑洋風建築と呼ばれる建物。外観は洋風 内観は和風と言うユニークな建物。
手作りガラスと総ケヤキの家
明治42年に建築された当家の建材全てが檜材である。
二階の窓ガラスは波うつような面が美しい手作りのガラス。
蒲原宿の本陣跡 これは西本陣跡 東本陣跡は100m東にあった。
下の歌川広重作の東海道五拾参次の名作中の名作 「雪の蒲原宿」を描いたと思われる所。
歌川広重作の東海道五拾参次の最高の傑作といわれる蒲原宿の雪景色。
(但し この暖かい蒲原宿にこんなに雪がふったのかと疑問視する方もおられる。この初めにも記す)
この蒲原宿を過ぎると小高い峠のような所を越えて、富士川まで高度を下げる。
ここ岩淵宿は、蒲原宿と吉原宿の間宿で富士川が洪水で渡し船が止まった時の宿場となった。そして、ここに1830年に渡船の安全を祈ってつくられた常夜燈がある。
この橋を渡れば吉原宿が近くなる。
「豆知識」 旅人(庶民)の乗り物について
基本的には、自力歩行だったが時には、また、人によっては馬を利用したらしい。重さによって値段が異なり、安いのでは、人(3人まで)と軽い荷物を乗せて、一里で約150文(現代ではおよそ数千円)だった。馬子が馬と歩き、観光ガイドをしてもらいながらの旅もよかったでしょう。
もう一つの乗り物としては、駕籠がある。庶民は禁止されていたが、享保年間から制限が解け、庶民相手の駕籠屋が登場する。駕籠の種類は宿駕籠と言われる簡易な駕籠に限られていた。値段は、江戸で一里400文(今だと一万円をはるかに超える)
荷物だけを運ぶ場合は宿場人足を雇う。人手が足りないと、近在の農民が助っ人となる(助郷)。それでも、足りない場合は浮浪人を雇う。(雲助) 彼らの中には高額なチップを要求するたちの悪い者もいて、「足下を見る」という言葉は、雲助が草履の切れたお客に高額な料金を吹っ掛けたことに由来するといわれている。
この東海道の完歩ご覧頂ける方は このブログの私の足跡66~84 (2010年10月~2011年5月)をご覧ください
2011年02月11日
私の足跡 77 東海道の完歩 12 鞠子(丸子)~江尻宿
東海道を歩く 12
「20」 鞠子(丸子)→ 「19」 府中→ 「18」 江尻
「20」 鞠子(丸子)宿 「名物茶店」 とろろ飯を食す旅人二人。茶屋の脇の梅の花は満開のよう。梅もここの名所だった。(芭蕉の句碑にもある)
「19」 府中宿 「安部川」 駕籠ごと蓮台に乗る高貴な女性。蓮台の女性や肩車で渡る男もその従者でしょう。
「18」 江尻宿 「三保遠望」 広々とした湊の風景。清水湊の賑わいを感じられる。 三保の松原は停泊しているたくさんの船の向こうに見える松原。
岡部宿を出て、丸子宿に向かう。
途中、厄介な宇津の谷峠を越えなければならない。今では、明治・昭和・平成の各時代に造った3本のトンネルがあるが、我々は勿論、江戸時代の旧東海道を歩く。
こんな雰囲気の東海道を歩いたのは久しぶりだ。車の音は勿論、鳥の鳴き声以外何の音もない静かなひと時をすごせた。
峠には、当時は大きな建物のお寺の廃寺跡があった。当時は多くの旅人が安全を祈ったり、また、旅人の安全を守ってきた事でしょう。
険しい峠を喘ぎながら越え、しばらく下ると眼下に「宇津の谷」の集落が見えた。一つの目標が見え、ほっとする。
しばらくは険しい下り坂を歩いていくと、馬頭観音が祀っていて婦人が花を供えていた。聞くと、この付近の仏さんに定期的なおまいりを続けているとの事。優しい人に出会えて心が温まる。
この宇津の谷は、宿場ではなく岡部宿と鞠子宿の間宿なので、本陣などはない。食事処があり、今もいろんな食事ができる。
ある家の前にくると、年配の婦人がいたので、声をかけて話をしていると「家の中には珍しいものがあるから見るかね」と聞くので峠越えで疲れていたので休憩をかねて見せてもらうことにした。(有料)
裏に回り、座敷にあがり、いろんな貴重品をみせてもらった。その中に豊臣秀吉から頂いたという陣羽織がかけてあった。
少し時間を取りすぎたので急いで「鞠子宿」へ向かう。
一度国道に出たが、離れて旧東海道に入る。
やっと、「鞠子宿」の西の高札場跡に到着。
もうすぐ、上の写真のような有名な「丁子茶屋」が見えてくるはずだった。
ところが、我々の見た「丁子屋」は上の写真のようであった。
店の人に聞くと、年に一度の休店日にして、大掃除をしているとのこと。「とろろ汁」を御馳走になろうと思っていたが残念。天井には、札がたくさん貼っていて、歴史の重みを感じた。
忙しくしているが話を聞くと
創業は1189年だが、後に東海道の今の所に引っ越しして今に至っているとのこと。
現在の店主は 13代目だそうです。
屋敷内に芭蕉の句碑「うめわかな 丸子の宿のとろろ汁」があった。
少し行くと、東見付付近だが 往時を偲ばせるような大きな建物は残っていないが、本陣跡・脇本陣跡の碑や格子戸の残る家・間口が狭く奥行きの深い家並が往年をわずかに偲ぶことができる。
鞠子宿を別れ、府中宿へ。
安部川の長い長い橋を渡る。
食欲をそそる美味しそうな「安部川もち」屋さんが何軒か並んでいた。
静岡の中心地で 昔の面影は殆ど残っていないが、所々に上の写真のような碑が残っている。
「西郷・山岡会見の史跡碑」
勝海舟の書状を持った山岡鉄舟が西郷隆盛と会見した処。
その4日後、江戸薩摩邸で 西郷隆盛と勝海舟の会見で江戸城無血引き渡しが決まり、江戸100万人の命が救われた。
旧東海道は 国道1号線や東海道本線の開発により、無くなったが昔はここを通っていたことを記念して造られていた。
道もなくなったためか昔を偲ぶものが少なかった。
近代化された街に変身していて、上記のような碑や説明板が残るのみだった。
清水次郎長で有名な清水の港へは、時間の都合で立ち寄れずに残念だった。
「豆知識」 東海道中の名物&土産
丁字屋のとろろ汁
特産の自然薯をすりおろし、白みその汁で溶いて麦飯にかけて食べるというもの。 その美味は各地に広がっていた。 丁字屋のとろろ汁は400年以上変わらぬ味もさることながら、茅葺きの外観も人気を呼んで、週末などは行列もできるほどの人気ぶりらしい。
安部川餅
餅にきな粉をまぶした名物「安倍川餅」の名付け親は、家康という。
彼がとある茶屋に裁ち寄ったとき、そこの店主がきな粉を安倍川で採れる金に見立て「安倍川の金な粉餅」の名で献上し、それを喜んだ家康が「安倍川餅」の名をあたえたといわれている。
その他 草津の「姥が餅」 石部の「田楽」 桑名の「焼き蛤」 池鯉附の「きしめん」 白須賀の「柏餅」 舞阪の「浜名湖の海産物」 蒲原の「栗粉餅」 原の「うなぎ」 小田原の「ういろう」 川崎の「奈良茶飯」 品川の「のり」等
「20」 鞠子(丸子)→ 「19」 府中→ 「18」 江尻
「20」 鞠子(丸子)宿 「名物茶店」 とろろ飯を食す旅人二人。茶屋の脇の梅の花は満開のよう。梅もここの名所だった。(芭蕉の句碑にもある)
「19」 府中宿 「安部川」 駕籠ごと蓮台に乗る高貴な女性。蓮台の女性や肩車で渡る男もその従者でしょう。
「18」 江尻宿 「三保遠望」 広々とした湊の風景。清水湊の賑わいを感じられる。 三保の松原は停泊しているたくさんの船の向こうに見える松原。
岡部宿を出て、丸子宿に向かう。
途中、厄介な宇津の谷峠を越えなければならない。今では、明治・昭和・平成の各時代に造った3本のトンネルがあるが、我々は勿論、江戸時代の旧東海道を歩く。
こんな雰囲気の東海道を歩いたのは久しぶりだ。車の音は勿論、鳥の鳴き声以外何の音もない静かなひと時をすごせた。
峠には、当時は大きな建物のお寺の廃寺跡があった。当時は多くの旅人が安全を祈ったり、また、旅人の安全を守ってきた事でしょう。
険しい峠を喘ぎながら越え、しばらく下ると眼下に「宇津の谷」の集落が見えた。一つの目標が見え、ほっとする。
しばらくは険しい下り坂を歩いていくと、馬頭観音が祀っていて婦人が花を供えていた。聞くと、この付近の仏さんに定期的なおまいりを続けているとの事。優しい人に出会えて心が温まる。
この宇津の谷は、宿場ではなく岡部宿と鞠子宿の間宿なので、本陣などはない。食事処があり、今もいろんな食事ができる。
ある家の前にくると、年配の婦人がいたので、声をかけて話をしていると「家の中には珍しいものがあるから見るかね」と聞くので峠越えで疲れていたので休憩をかねて見せてもらうことにした。(有料)
裏に回り、座敷にあがり、いろんな貴重品をみせてもらった。その中に豊臣秀吉から頂いたという陣羽織がかけてあった。
少し時間を取りすぎたので急いで「鞠子宿」へ向かう。
一度国道に出たが、離れて旧東海道に入る。
やっと、「鞠子宿」の西の高札場跡に到着。
もうすぐ、上の写真のような有名な「丁子茶屋」が見えてくるはずだった。
ところが、我々の見た「丁子屋」は上の写真のようであった。
店の人に聞くと、年に一度の休店日にして、大掃除をしているとのこと。「とろろ汁」を御馳走になろうと思っていたが残念。天井には、札がたくさん貼っていて、歴史の重みを感じた。
忙しくしているが話を聞くと
創業は1189年だが、後に東海道の今の所に引っ越しして今に至っているとのこと。
現在の店主は 13代目だそうです。
屋敷内に芭蕉の句碑「うめわかな 丸子の宿のとろろ汁」があった。
少し行くと、東見付付近だが 往時を偲ばせるような大きな建物は残っていないが、本陣跡・脇本陣跡の碑や格子戸の残る家・間口が狭く奥行きの深い家並が往年をわずかに偲ぶことができる。
鞠子宿を別れ、府中宿へ。
安部川の長い長い橋を渡る。
食欲をそそる美味しそうな「安部川もち」屋さんが何軒か並んでいた。
静岡の中心地で 昔の面影は殆ど残っていないが、所々に上の写真のような碑が残っている。
「西郷・山岡会見の史跡碑」
勝海舟の書状を持った山岡鉄舟が西郷隆盛と会見した処。
その4日後、江戸薩摩邸で 西郷隆盛と勝海舟の会見で江戸城無血引き渡しが決まり、江戸100万人の命が救われた。
旧東海道は 国道1号線や東海道本線の開発により、無くなったが昔はここを通っていたことを記念して造られていた。
道もなくなったためか昔を偲ぶものが少なかった。
近代化された街に変身していて、上記のような碑や説明板が残るのみだった。
清水次郎長で有名な清水の港へは、時間の都合で立ち寄れずに残念だった。
「豆知識」 東海道中の名物&土産
丁字屋のとろろ汁
特産の自然薯をすりおろし、白みその汁で溶いて麦飯にかけて食べるというもの。 その美味は各地に広がっていた。 丁字屋のとろろ汁は400年以上変わらぬ味もさることながら、茅葺きの外観も人気を呼んで、週末などは行列もできるほどの人気ぶりらしい。
安部川餅
餅にきな粉をまぶした名物「安倍川餅」の名付け親は、家康という。
彼がとある茶屋に裁ち寄ったとき、そこの店主がきな粉を安倍川で採れる金に見立て「安倍川の金な粉餅」の名で献上し、それを喜んだ家康が「安倍川餅」の名をあたえたといわれている。
その他 草津の「姥が餅」 石部の「田楽」 桑名の「焼き蛤」 池鯉附の「きしめん」 白須賀の「柏餅」 舞阪の「浜名湖の海産物」 蒲原の「栗粉餅」 原の「うなぎ」 小田原の「ういろう」 川崎の「奈良茶飯」 品川の「のり」等
2011年02月01日
私の足跡 76 東海道の完歩 11 島田宿 ~ 岡部宿
東海道を歩く 11
23 嶋田宿→ 22 藤枝宿→ 21 岡部宿
「23」 島田宿 「大井川駿岸」
はるか高所から俯瞰したようなパノラマ画。中州では多くの人が休んでいる。
「22」 藤枝宿 「人馬継立」
煙管で一服する者。背中の汗を拭者。鉢巻を締め直し気合いを入れる者・・・・・・・人足のさまざまな表情
「21」 岡部宿 「宇津之山」
道の両側には急斜面が迫り、人物からも厳しい坂道を思わる。
遠江国とも別れ、駿府の国へ。その国境に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の歌が知られる東海道一の大河がある。当時の旅人にとってはなんとも厄介な難所であったであろう。
現在の大井川
大井川鉄橋のお陰で 今は「川留め」もなく、何の不安もなく渡れるのは有り難いことだ。
大井川の金谷宿側にある川会所の中の施設の一部です。
旅人は 先ず役人にどんな方法で渡るかを申し出て、お金を払い、券をもらい待つ。
待機している人夫に川を渡してもらう。
本陣は2軒あったが、その一つ上本陣跡です。残り一つの本陣も本陣跡でした。
問屋場跡として残っている。
大井神社にお参りして東進する。
途中、甘露の井戸水を頂き、元気をもらう。
大井川の氾濫には 昔からこの地域の人々は苦しんだ。
1635年に水野氏が一千貫もの労銀を使い、領民のため約400mの堤防を築いたの「千貫堤」と名付け、今も一部が残っている。
また、山内一豊も堤防をつくったので、「一豊堤」も残っている。多くの人が氾濫のため、苦労していた。
昭和になり、水力発電用のダムがいくつも建設され、平成2002年には多目的のダムが完成した。
島田宿で多くの事を学んで 松並木の一部が残る道を通り、次の藤枝宿へ
藤枝宿は 東西に2kmにも延びる大規模な宿場まちであった藤枝宿。
その細長い藤枝宿は、現在も藤枝駅前の商店街となり、近代的な建物となってる。
推定樹齢500年と書かれている巨大なクスノキ
大きな藩の領地の中に東巌村領というようにあちこちに入り混じっている。
岡部宿本陣跡
岡部宿大旅籠を歴史博物館にしている。
川越えについて(前号の続き)
川を渡るには、旅人は渡し賃を払わなくてはいけない。勝手に渡るのはご法度。川は見た目以上に深い所があり危険。というのは表向きの理由だが、通行料が藩や宿場の大きな収入源であったのも事実だった。
渡し船の乗船料は一人10文ほどで、武士や僧侶等は無料。朝6時から夕6時ぐらいまで運行したらしい。
渡し船のない所では川越え人足を雇って徒歩渡しをするしかなかった。旅人は肩車か蓮台に乗るかを決め、川合所で料金を払い川札という切符を購入をして順番を待つ。
川越え人足の仕事が重労働だったのは、想像に難くないだろう。その分 料金も高く、水高によって下記のようになっていたらしい。
黄色は現在の金額に換算したらしい(小さくて見えづらいので拡大して見てください)
そして、150cm程度を越えると川留を余儀なくされた。川留は数日間におよぶこともしばしばあり、最大で28日間という記録が残されている。
また、時には 一部の悪い人夫により余計なお金を要求されることもあったという。