2011年01月
2011年01月21日
私の足跡 75 東海道の完歩 10 掛川宿 ~ 金谷宿
東海道の完歩 10
26掛川宿→ 25日坂宿→ 24金谷宿
(新坂)
「26」 掛川宿 「秋葉山遠望」 巡礼の老夫婦が腰をかがめて僧侶に挨拶している。画面右奥の山が秋葉山。
「25」 日坂 「佐夜の中山」 物珍しそうに夜泣き石を眺める旅人たち。
「24」 金谷 「大井川遠岸」 大名行列の川越だろうか。列の最後尾では、大名の駕籠を乗せた大蓮台を20人以上の人足が運ぶ。
東海道の京都と江戸の「ど真ん中」にあたる袋井の茶店で 休憩をする。
袋井宿の東本陣跡に別れをして、東海道の残り半分を歩くため、次の宿場に進む。
富士浅間神社の赤鳥居 この奥に社殿があったので、見事な参道があったという。
町の銀行の壁に山内一豊の一枚の絵がある。
千代が蓄えていた黄金で馬を買い与えたという物語です
山内一豊の居城・掛川城 1590年から10年過ごしたが家康に城を明け渡し、後に土佐20万石を手にした「出世城」。
浜松城の復元大手門
「十九首塚」とある。平安時代の平将門の乱の後、将門を含む19名の首を川の水で洗い、橋に掛けて首実験した土地であることから「掛川」になったとの説もある。
ここより東海道の山の中に入っていく。
西行法師の 「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」で有名。
高札場跡
「萬屋」 当時の旅籠屋。庶民の宿 安宿
日坂本陣跡
「夜泣き石」は広重の絵にもある。これは、旅の途中に山賊に襲われ、この地で息絶えた妊婦の霊が乗り移り、夜な夜な泣き声をあげたという「夜泣き石」。
この話を聞いて同情した弘法大師が「南無阿弥陀仏」の文字を刻んで、念仏を唱えたところようやく泣き声は止んだが、祟りを恐れてなのか、明治時代になるまでこの場所から動かされることはなかったという。
明治時代まで このように道の傍に置かれていた。
現在は 久遠寺の境内に祀られている。
高い台地の上だから天気が良ければ、景色がよく、富士山も見えるし、広大な茶畑の景色も見事らしいが今回は駄目だった。
そして、珍しく道に迷ったりで時間のロス等もあり、歌碑、句碑も多くあったが暗闇に包まれ残念だった。
遠州最後の宿場 大井川を控えた「金谷宿」に到着。
次の日、 天気は回復し、見えなかった「雪を被った富士山」がよく見える。
榎の植えていた一里塚の跡がある。
川止めのよくある宿場だったが、3軒とも佐塚屋のように当時の面影がない。
川越えの両岸(大井川渡船場)には、茶屋があり、渡る順番を待っている。
女性は蓮台にのり、後ろの男性は肩車で渡っている。
この蓮台は一般的な人の物
この蓮台は殿様のような人が乗り約20人程の人が担ぐ。
川越え
川は東海道の旅にとって、最大の難所であった。今は川には橋が架っているのが普通だが当時は殆ど橋はなかった。旅人は橋のない川を、船渡しを使ったり、徒歩で渡らなければならなかった。
とうしてか、
Ⅰ 幕府は諸国の反乱を恐れて橋を架けることや船場を設けることを制限した。
2 流れが急で危険だったから
3 旅人がすんなり川を渡ってしまうと地元の宿場の経済が停滞するから
と考えられる。
西から順に書くと
七里の渡し → 帆船
今切の渡し → 帆船
天竜川 → 川船と徒歩
大井川 → 徒歩
安部川 → 徒歩
興津川 → 徒歩
富士川 → 川船と徒歩
酒匂川 → 徒歩
馬入川 → 川船と徒歩
六郷川 → 川船と徒歩
川渡りの値段等は 次回に
2011年01月11日
私の足跡 74 東海道の完歩 9 浜松宿 ~ 袋井宿
東海道を歩く 9
29 浜松宿 → 28 見付宿(見附) → 27 袋井宿
29」 濱松宿 「冬枯ノ図」
杉の大木の根元で暖をとる男たち。手前に松林、遠くに浜松城を望む。
28」 見附宿 「天竜川図」
霧にむせぶ天竜川。手前の人間は川の深さを測っているのだろうか。
27」 袋井宿 「出茶屋ノ図」
簡素な出店の茶屋で火をおこす女中と人夫。
ここで一言
東海道を歩く「Ⅰ」より 歌川広重の「東海道五十三次」の絵を順次載せてきて、 東海道を歩く「4」「5」「6」では 歌川(安藤)広重について記しました。
しかし、今年の元日の夕方のBSTVで、天才画家・歌川広重の「東海道五十三次」は司馬江漢の作品の盗作だった?の放送があったのを見た人もいるでしょう。
私はびっくりしています。
舞阪宿より、松並木の道を通り、一路東へ。
途中、熊野神社・諏訪神社・愛宕神社・稲荷神社等の前を通り、浜松宿へ。
ここ浜松は かつては、6軒もの本陣を抱える東海道の中でも箱根と並んで最大規模の宿場町であった。旅籠の数も100軒近くと、その繁栄ぶりがうかがえる。
しかし、広重の絵は、その賑わいでなく、街道から外れた冬の枯野の光景である。
でも、今は浜松とその周辺の中心街となり、昔の面影は全くない。
本陣跡等の碑のみである。
見付宿が近づく。見付宿の名の由来は、京都から下ってここまで来ると初めて富士さんを「見付ける」場所だからこの地名「見付」がついたという。近くに「富士見台」の地名もあるのも納得する。
街道沿いには、今も国府の護りとして建てられた府八幡宮、聖武天皇の命で建てられた国分寺の跡等が点在し、この地方の歴史の中心だったことが分かる。
金原明善翁生家
日本で有数の暴れ川で有名な天竜川を渡ることにする。
手前の橋は歴史が古く、歩道もなく、危険で渡れそうでないので左手に見える新しい橋へ行く。
この橋は新天竜川橋で広い歩道もあり、安心して渡れた。
見付宿の本陣跡
ここ見付宿付近には 一里塚跡が多く残っており、それを保存している
宮の一色一里塚では 木はないが、小山の塚を残していた。
この付近で 東海道を歩く 7 にも記した姫街道も東海道に合流する。
東海道を歩いているので、姫街道も一度歩いて多くの遺跡を訪ねたいものです。
見附と言えば磐田。磐田と云えばジュピロ磐田。一時は全盛の時代があった。
当時の名選手の中山雅史選手等の足跡が今も残していた。(今年は 復活の兆候がある)
応援していたチームだ。ガンバレ。
洋風の小学校跡が残されている。
松並木を越えて 見付宿を後にした。
そして、ド真ん中で有名な袋井宿に入る。
どうして、ド真ん中かというと五十三次のうち、東からも西からも27番目。「東海道のど真ん中」にあたる「袋井宿」。やっと半分かと言って良いか、もう半分かとも思う。
もう一つの特徴は 東海道で一番「短い宿場町」である。入り口から出口までが約570mだったらしい。今は宿場町の雰囲気は殆ど感じられない。
現在 町のあちこちに掲げられているキャッチフレーズは「東海道のど真ん中」だ。
その他、お菓子・饅頭等にも命名されていた。
「凧」について
「遠州の空っ風」といわれる強い風の吹く遠州地方は「凧上げ」が盛んだった。その起源は殿様に男の子が生まれたのが始まりと言われる。
今も一部の地域で受け継がれている風習が「初凧」だ。端午の節句に、初節句を迎えた子どもの名前と家紋を入れた凧を揚げるというのだ。かつては、長男だけの行事だったが、時代とともに次男以降や女の子にも行われるようになった。
江戸時代の凧上げ
上の三点の作品は二川宿の歴史資料館に展示されている凧。
女性の旅 (前号の続き)
前号でも記しましたが、出女を取り締まるため、江戸時代の女性の旅行は厳しいチェックで大変だった。関所では、人見女という女検査官が通過する女性の旅人を詳細に調べていた。
怪我の傷跡やホクロの位置までこと細かく調べ、少しでも不審な点があれば厳しい詮議が行われていた。勿論、手形や証文に不備があれば、どんな仔細なことでも頑として通過を許さなかった。
こうした厳しいチェックを嫌う女性は 夜中に関所を通ったり、案内人を雇って裏道を通り関所破りをする者がいたという。
新居関所は特に検査が荒々しく厳しいので 高貴な子女達は姫街道をよく利用したという。
厳しい検査があったが、江戸時代の後半には緩やかになり100日以上の旅行をした女性もいた。
でも、女性の一人旅は少なかったとある。当時は追剥ぎ暴漢に襲われる危険が今よりずっと多かったからでしょう。
29 浜松宿 → 28 見付宿(見附) → 27 袋井宿
29」 濱松宿 「冬枯ノ図」
杉の大木の根元で暖をとる男たち。手前に松林、遠くに浜松城を望む。
28」 見附宿 「天竜川図」
霧にむせぶ天竜川。手前の人間は川の深さを測っているのだろうか。
27」 袋井宿 「出茶屋ノ図」
簡素な出店の茶屋で火をおこす女中と人夫。
ここで一言
東海道を歩く「Ⅰ」より 歌川広重の「東海道五十三次」の絵を順次載せてきて、 東海道を歩く「4」「5」「6」では 歌川(安藤)広重について記しました。
しかし、今年の元日の夕方のBSTVで、天才画家・歌川広重の「東海道五十三次」は司馬江漢の作品の盗作だった?の放送があったのを見た人もいるでしょう。
私はびっくりしています。
舞阪宿より、松並木の道を通り、一路東へ。
途中、熊野神社・諏訪神社・愛宕神社・稲荷神社等の前を通り、浜松宿へ。
ここ浜松は かつては、6軒もの本陣を抱える東海道の中でも箱根と並んで最大規模の宿場町であった。旅籠の数も100軒近くと、その繁栄ぶりがうかがえる。
しかし、広重の絵は、その賑わいでなく、街道から外れた冬の枯野の光景である。
でも、今は浜松とその周辺の中心街となり、昔の面影は全くない。
本陣跡等の碑のみである。
見付宿が近づく。見付宿の名の由来は、京都から下ってここまで来ると初めて富士さんを「見付ける」場所だからこの地名「見付」がついたという。近くに「富士見台」の地名もあるのも納得する。
街道沿いには、今も国府の護りとして建てられた府八幡宮、聖武天皇の命で建てられた国分寺の跡等が点在し、この地方の歴史の中心だったことが分かる。
金原明善翁生家
日本で有数の暴れ川で有名な天竜川を渡ることにする。
手前の橋は歴史が古く、歩道もなく、危険で渡れそうでないので左手に見える新しい橋へ行く。
この橋は新天竜川橋で広い歩道もあり、安心して渡れた。
見付宿の本陣跡
ここ見付宿付近には 一里塚跡が多く残っており、それを保存している
宮の一色一里塚では 木はないが、小山の塚を残していた。
この付近で 東海道を歩く 7 にも記した姫街道も東海道に合流する。
東海道を歩いているので、姫街道も一度歩いて多くの遺跡を訪ねたいものです。
見附と言えば磐田。磐田と云えばジュピロ磐田。一時は全盛の時代があった。
当時の名選手の中山雅史選手等の足跡が今も残していた。(今年は 復活の兆候がある)
応援していたチームだ。ガンバレ。
洋風の小学校跡が残されている。
松並木を越えて 見付宿を後にした。
そして、ド真ん中で有名な袋井宿に入る。
どうして、ド真ん中かというと五十三次のうち、東からも西からも27番目。「東海道のど真ん中」にあたる「袋井宿」。やっと半分かと言って良いか、もう半分かとも思う。
もう一つの特徴は 東海道で一番「短い宿場町」である。入り口から出口までが約570mだったらしい。今は宿場町の雰囲気は殆ど感じられない。
現在 町のあちこちに掲げられているキャッチフレーズは「東海道のど真ん中」だ。
その他、お菓子・饅頭等にも命名されていた。
「凧」について
「遠州の空っ風」といわれる強い風の吹く遠州地方は「凧上げ」が盛んだった。その起源は殿様に男の子が生まれたのが始まりと言われる。
今も一部の地域で受け継がれている風習が「初凧」だ。端午の節句に、初節句を迎えた子どもの名前と家紋を入れた凧を揚げるというのだ。かつては、長男だけの行事だったが、時代とともに次男以降や女の子にも行われるようになった。
江戸時代の凧上げ
上の三点の作品は二川宿の歴史資料館に展示されている凧。
女性の旅 (前号の続き)
前号でも記しましたが、出女を取り締まるため、江戸時代の女性の旅行は厳しいチェックで大変だった。関所では、人見女という女検査官が通過する女性の旅人を詳細に調べていた。
怪我の傷跡やホクロの位置までこと細かく調べ、少しでも不審な点があれば厳しい詮議が行われていた。勿論、手形や証文に不備があれば、どんな仔細なことでも頑として通過を許さなかった。
こうした厳しいチェックを嫌う女性は 夜中に関所を通ったり、案内人を雇って裏道を通り関所破りをする者がいたという。
新居関所は特に検査が荒々しく厳しいので 高貴な子女達は姫街道をよく利用したという。
厳しい検査があったが、江戸時代の後半には緩やかになり100日以上の旅行をした女性もいた。
でも、女性の一人旅は少なかったとある。当時は追剥ぎ暴漢に襲われる危険が今よりずっと多かったからでしょう。
2011年01月01日
私の足跡 73 東海道の完歩 8 白須賀宿 ~ 舞阪宿
旧年中は 多くの人にアクセスして頂き ありがとうございました。
一時 ブログ会社の変更時のトラブルで一定期間記事を書けなくなりご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。
やっと軌道にのりアクセスの数も昨年の7割近くになり、本年の最高の月はこの12月で200を越え、順調に回復していますのでよろしくお願いします。
東海道の完歩 8
32白須賀宿→ 31新居宿→ 30舞阪宿
「32」 白須賀 「汐見阪図」 遠州灘や海岸沿いの松林を一望できる塩見坂。
しかし、大名行列の一行は脇目もふらずに進む。
31」 新居(荒井)宿 「渡舟の図」
新居関の船着き場。乗客がしばしのうたた寝から目をさます。
30」 舞阪 「今切真景」
前面に波除け杭と松が配され、右奥にはかすかに富士が見える。 色彩豊かな作品。
二川宿から南進して行くとキャベツ畑が広がり、広大な土地を歩く。
この白須賀は 古くから景勝地として名高い「塩見坂」の上にある宿場町である。
もともとは、坂の下に置かれていたものが、1707年の大地震と津波で、大半の家屋が流されてしまうなどの大きな被害を出し、坂の上に移された。
したがって、高台にあるため、風が強く、火事が大敵だった。そこで、空き地をつくりそこに緑樹で火に強い槇等を植えて火防とした。
火防のための槇の木の一部が残っている。
この高台の白須賀からは太平洋が一望できる。「塩見坂公園跡」は1582年武田勝頼を滅ぼした織田信長をもてなすために、茶室をつくった所と伝えられる。
道路にも いろんな工夫があると感心した。
この坂の下は 昔の白須賀宿があった。
坂の下の宿場は、大きな建物は残っていないが、面影の残る建物もある。
そして、海からの風を防ぐための松並木も残っていた。
そして、東海道五十三次での関所・新居宿に到着。
各地に設けられた関所の内、唯一当時の建築がそのまま残っている。
但し、此の建物は1855年建築のものである。
建物の中には、蝋人形の取り調べの役人も配され、当時の雰囲気がよくわかった。
関所は 男性より女性の方が厳しかった。いわゆる「入り鉄砲に出女」だが、箱根の関所が本来の意味の出女 いわゆる幕府の人質として江戸に住む大名の妻子の逃亡を防ぐため、東から西へ向かう女性だけに手形を求めたのに対し、ここではその逆の場合も手形が必要だった。
この手形には、旅の目的や行き先、人相や特徴などが事細かに(髪形・背丈・手足の特徴等)記され、すこしでもそれと違いがあれば通行を止められた。その「改め」のために「人見女」と呼ばれる専門監視員がいた。
また、この厳しさを逃れるために御油宿から東海道を分かれ、浜名湖の北を通って見附宿に至る脇街道が発達した。女性の旅人が多かったので「姫街道」の別名で呼ばれている。
(私の足跡 72 に前記)
新居宿と別れて、今は徒歩で立派な橋を渡り、舞阪宿へ行くが、当時は舟で行った。
その理由は もともと浜名湖は海とは切り離された完全な淡水湖であった。それが、1498年の大地震で海岸に切れ目ができ、湖は遠州灘と繋がってしまった。いらい、それまで徒歩で行けた新居宿と舞阪宿の間は渡し船に頼らなければならなくなった。この「切れ目」の部分は今では「今切口」の名で呼ばれている。
今切口から遠州灘の荒波がひっきりなしに打ち寄せてきたため、渡し船の航路に沿って「波除け杭」と呼ばれる杭が立てられた。広重絵のてまえに描かれているのはそれである。現在海水浴等で賑わう弁天島は、此の杭に砂が堆積してできた島だとも言われている。ここには、海上の安全を祈願して建てられた弁天神社がある。
舞阪宿に入るとすぐに昔の船着き場跡があり、常夜燈も残っている。
その近くに、本陣は本陣跡の碑のみだが、脇本陣が復元されて残っていて、公開している。
脇本陣の遺構としては、東海道中唯一の物です。
玄関の入り口から二部屋の次に庭があり更にその奥に二部屋があり、その奥の上段の間までの見通しである。
上段の間です。
お風呂
トイレ
舞阪宿を出て、松並木を通り、浜松宿に向かった。
通行手形について
上の通行手形(往来手形)は、男性の一般的なものである。発行した人は、名主・住職等身近な人でよかった。行き倒れの場合は知らせてもらわなくても結構です。その土地の習わしで処理してくださいと書いている。(昨年 四国遍路でたくさんの無縁仏を見た)
当時の社会を考えると庶民では止むをえないと思う。
でも、女性は大変だったという。次号で