2010年12月
2010年12月15日
私の足跡 72 東海道の完歩 7 御油宿 ~ 二川宿
東海道を歩く 7
35御油宿→ 34吉田→ 33二川宿
「35」 御油宿 「旅人留女」
強引な客引きを旅籠の女中が退屈しのぎで見ている。
吉田 「豊川の橋」
左側の橋は 長さ200m以上の吉田大橋(東海道で三大橋の一つ)です。
右側は普請中の吉田城です。
二川 「猿ヶ馬場」
名物「かしわ餅」の看板を出す茶店。その店に向かっているのは盲目の旅芸 人 と仲間たち。
御油宿の中心より、東進すると追分がある。
これは、浜松宿や見付宿に通じる本坂通(通称 姫街道)と豊橋を通る東海道との追分です。
本坂通は東海道の脇街道として重要な役割を果たしていた。(一説には 新居の関所の厳しい取り調べを避けるため 女性たちが多かった)
とりわけ、宝永4年(1707年)の東海大地震によって「今切渡」が中断したさいは、大名はじめ通行人が本坂通に殺到したという。
今回は 本坂通ではなく、東海道を行くことにした。
東進して、しばらくすると大社神社が見えてきた。
名前の通り、大きな境内を持った大きな神社でした。
豊川橋(旧吉田大橋)が見える。広重もここに200m以上の大橋を描いている。
豊橋は、中世では今橋とよばれたが、戦国期に吉田と改められ、明治になって豊橋になった。
戦国期以降、東三河の要衝の地となり、三河をほぼ統一した徳川家康は吉田城に重臣酒井氏を入れ、東三河の旗頭とした。その後池田氏・小笠原氏等がお城の整備や町の整備をした。
吉田城の一部で、桜に包まれ見事であった。
ある家の軒をみると、何と手筒花火が飾っていた。さすが手筒花火の町だと思った。
歩いていると提灯屋があった。立ち止まると声をかけてくれたので話を聞くことにする。
骨の組み立てから紙の貼り方まで細かいところまで教えてくれた。とても良い人に出会えて、感謝・感謝。
街道の上に小さな門がある。これは惣門です。この門の傍らには、十二畳の上屋敷、八畳の下屋敷、勝手があり門外の西側に駒寄せ場十一間がありました。
惣門は 朝六つ(午前六時)から夜四つ(午後十時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。
この門は 宿場の東の端と西の端にあり、上は東の惣門 下は西の惣門です。
二軒の本陣は 二軒とも本陣跡の標柱があるのみである。
脇本陣も 問屋場も脇本陣跡 問屋場跡の石柱のみである。
ここ吉田宿は、城下町・宿場町として栄えたが、1945年6月の大空襲で灰燼に帰してしまった。そのため、旧東海道筋を示す標識等は整備されているが、昔の面影を偲ぶことはできない。
次の宿場・二川宿はそれほど規模は大きくなかったが、明治に入った後も、鉄道駅が宿場町の中心から離れた所に建設されたことなどから、大きな開発の波が及ばなかった。それに、戦災による焼失もなく、かつての宿場町の雰囲気を色濃く残る宿場町である。
古い民家もあちこちに残り、昔の雰囲気を味わうことができた。
高札場跡や問屋場跡なども残っていた。
手前は「旅籠屋 清明屋」 その向こうが1849年に築造された表門。
滋賀県の草津宿と並び、東海道でただ二つ現存する本陣の一つ。
1988年に往時の姿を取り戻すために修理・復元が行われ、現在では建物の中の様子を見学することができる。
玄関を入るといくつもの部屋が奥に続いている。
いくつもの部屋の奥が殿さまの部屋。この部屋の隣には、見事な庭がある。
また、本陣の隣には、当時の旅籠の一部を復元した「旅籠屋 清明屋」も。武士の宿泊場と一般庶民の宿泊場。双方の違いが見比べられて興味深かった。
また、豊橋市二川宿本陣資料館も併設されていたので時間をとり、見学した。
ここからは、一路「白須賀宿」へ
参勤交代について。
参勤交代の制度ができ、東海道も整備され、宿場町も発展したが、各藩の財政を苦しめた。
そのことについて記すことにする。
鳥取藩(池田氏)の参勤交代の資料をもとにする。江戸迄の距離720kmを21泊22日で一日平均32.8kmである。総費用の43%の847両が人足費。25%の492両が駄賃。残りは備品購入費・修理代・船賃・宿泊費等です。
大藩だった加賀前田家の従者の数は 約4000人もの大行列だった。その費用は今の貨幣価値では 7億円近くもかかったという推計もある。全て藩持ちなので藩の財政は大変だった。
一方 街道の経済発展に大きく寄与した面もあった。道路は整備され、大勢が宿泊する宿場町が潤ったのだ。また、飛脚などの通信網の発達にも貢献した。
2010年12月01日
私の足跡 71 東海道の完歩 6 岡崎宿 ~ 御油宿
東海道を歩く 6
38 岡崎宿→ 37藤川宿→ 36赤坂宿→ 35御油宿
「38」 岡崎宿 「矢矧乃橋」 この矢作橋は 全長370mあまり、東海道最長の橋であった。橋の向こうには家康の生誕地・岡崎城が見える。
また、士豪の蜂須賀小六が豊臣秀吉に出会った地という伝説が残る矢作橋である。
「37」 藤川宿 「藤川棒鼻ノ図」
町のシンボル的存在となっている町の両側の入り口の二か所に境界を示す「棒鼻」である。
この行列をよく見ると、黒色と茶色の二頭の馬姿が見える。そしてその背には御幣をたてている。
これは、天皇家へ謙譲する儀式(八朔御馬進献の儀)に広重はお伴をしていった。
「38」 赤坂宿 「赤坂旅舎娼婦の図」
化粧をする女たち、風呂から上がってきた客、室内で横になってくつろぐ人、膳を運ぶ女性のあわただし人々の様子がユーモラスに描かれています。
当時の生活用具も丹念に描かれ、風俗的にも興味が多い。
前回の続き(広重の東海道五十三次について)
広重は 「東海道五十三次」の資料を得るため、棒鼻ノ図」の行列に加わったというがそうではないという意見もある。
その理由は
火消同心の身分でこのような行列に参加できない。(だから「伝手(つて)」を頼んだという説もある)
参加していないもうひとつの理由として当時の景色と違った絵が描かれている。
例
蒲原 池鯉鮒 宮 三条大橋 石部 等 宿の絵
新星出版社「東海道五十三次」を参考にする。
江戸幕府の開祖・徳川家康の生誕地である岡崎。この地に藩庁を置く岡崎藩はわずか5万石ながら、代々家康とゆかりの深い譜代大名が藩主を務めるなど、幕府からは常に重要視された藩であった。岡崎宿もまた、城下町として、そして宿場町として、大変な賑わいを見せていた。
八丁蔵通りの名の通り、大きな蔵が連なっている。
岡崎と言えば、「八丁味噌」。歴史は室町時代にさかのぼり、岡崎城から西へ八丁(約870m)の八丁村(現在の岡崎市八帖町)で盛んに造られていたのでこの名がついた。
工場見学ができると聞いていたので、八丁味噌の匂いに誘われて30分待って見学。
大豆と食塩のみを原料に、二夏・二冬をかけてつくられる。
この地方は良質な大豆が収穫され、矢作川の水運によって塩も入手しやすく、さらに天然水が湧き出ており、味噌作りに適した土地であった。
固く日持ちがするため、戦国時代には武士の兵糧として用いられたともいわれる。
現在は、味噌汁の他、名物の味噌カツにも欠かせない。
現在はカクキューとまるや八丁味噌の2社のみで製造されている。
この町で最も特徴的なのは、岡崎城の三方を囲むように複雑に曲がりくねりながらすすんでいく東海道、通称「二十七曲」でしょう。
とにかく、この宿を出るまで何度曲がったことでしょう。
初代本多康重が整備したもので、街道を引き入れることによる城下町の発展と敵を城によせつけない防犯体制を両立させるねらいがあったと言われる。
現在都市化によって宿場関係の遺構は殆ど残っていないが標識は整備されている。
本陣跡も問屋場跡も標柱のみである。
町のあちこちに上のような石の彫刻がある。当時の建物のあった跡につくられている。 これは、助郷で人馬の世話をする所。
ここは御馳走屋敷があった所。等たくさんある。
1601年から続いた本多氏四代の間に天守閣をはじめとする整備が進み、1645年の水野氏の代に完成した。
( 一度桜の季節に行ったが、桜と天守閣が綺麗で今も脳裏に刻まれている)
岡崎を離れ、藤川宿に向かう。
突然現れた大きな屋敷。かの有名な大岡越前守の陣屋跡です。
大岡忠相は旗本でした。1748年・72歳の時将軍吉宗の口添えで加増され、一万石の大名になる。廃藩置県まで7代続いた。
大岡家は 江戸に常駐する定府大名で参勤交代はなかった。家臣団の大部分は江戸に住み、この陣屋詰めの家臣団は 多い時で郡代1 郡奉行1 代官2 その他10人前後だった。
大岡越前守忠相の人柄について有名なのは「大岡裁き」・「享保の改革」・火消の「いろは四十八組」「小石川養生所」など幕藩体制の建てなおしと江戸の町人のために尽力した。
藤川の松並木も保存されており、見事である。
大川脇本陣跡の標識。今は藤川宿資料館になっている。本陣跡も近くにある。
その他 国指定の一里塚や宿場の境界を表す棒鼻跡もある。
芭蕉が「ここも三河むらさき麦のかきつばた」と詠んだ「むらさき麦」です。
これは、その名のとおり、茎や穂が紫色に染まる珍しい麦。かつては薬用や染め物用に広く栽培されたが、いつしか途絶えてしまっていた。しかし、1990年代に復活し、再び藤川名物として訪れる人の目を楽しませている。
この法蔵寺の七世教翁は、家康が幼少時の師であったといい、近世を通じて下馬の寺として、往来する諸大名や旅人の参詣が絶えなかったという。
この寺の奥に新撰組隊長近藤 勇 の首塚があった。以前 中山道を歩いた時に近藤勇の墓があったので関心があり、お参りし調べた。
勇は、慶応4年 35歳で板橋の刑場で露と消えた。死後、勇の死体を近親者が人夫に頼み夜中に掘り起こし、竜源寺に埋葬した。
勇の首は、処刑後京都に送られたのを同士が持ち出し、この寺の和尚に頼み、裏の山の中に石碑とともに埋めていた。その後、それを掘り起こし、胸像とともに供養している。
今回の街道歩きの日程を、この近くで行われる祭(手筒花火大会と仮装花魁道中)日程を合わせて来た。
手筒花火は以前豊橋で見たことがあったが、もう一度見たくて企画をした。花火は夜なので昼は街道歩きをし、夜は手筒花火の見学をした。そして、宿泊(この街道歩きで初めての宿泊)所を街道歩きの支障にならない場所にした。
大きな手筒花火を一人の人があげている。圧巻であった。
これは、大勢の人が同時にあげている。火の粉が飛び散り豪快そのものだった。
あくる日の午前中は、街道歩きをして、午後花魁道中の見学をした
この花魁は、女性でなく店の主人だそうだ。両脇の男性は花魁の左の人は傘を持ち、右の人は肩を貸し、花魁が歩きやすくしている。
前の男性は 夏の昼間なので花魁の汗の処理と化粧直しをしつつ、歩いていた。
花魁が歩きにくいのは、履いている下駄の高さを見てください。補助なしではとても歩けない。
宿の中ほどの本陣跡と問屋場跡を過ぎると、右手に「大橋屋」 左手に「尾崎屋」がある。
大橋屋は旅籠屋であったが、現在も旅館 食事処をしている。
尾崎屋は曲輪などの民芸品を販売している。
そして、東進すると御油の松並木に入る。
家康が三河黒松を植樹させたといわれる。旅人の日除けや風雪除けとして作られている。
約400m続いていて、今でも340本ほど残っている。樹齢100年を越える古木が約90本もあり、1944年に国の天然記念物に指定されており、そのため戦時中の供出も免れている。
松林を通り過ぎると、御油の宿場内に入ると町並みは落ち着いた佇まいを示しており、宿場の面影を残している。高札場跡や本陣跡等は、標柱や説明板のみなのは残念だった。