2010年11月
2010年11月15日
私の足跡 70 東海道の完歩 5 宮宿(熱田) ~岡崎宿
東海道を歩く 5
41宮宿→ 40鳴海→ 39池鯉鮒→ 38岡崎宿
「41」 宮宿 「熱田神事」 赤と青の絞りの半てんを着た男たちが二組に分かれて、馬を追う神事。遠くから宿場町の旅人が見守っている。
「40」 鳴海宿 「名物有松絞」 駕籠に乗った女性と馬に乗った女性が供を連れて街道を行く。絞りを買いに来たのだろう。
「39」 地鯉鮒宿 「首夏馬市」 毎年四月末頃開かれた馬市の光景だ。数ある馬 市の中でも、ここは街道沿いとあって規模も大きく、遠くは甲斐・信濃から、多い時には500頭もの馬が集まってきた。
歌川広重の続き
この「東海道五十三次」の出版元は二社が争ったが「保永堂」が権利を得た。
この「保永堂版東海道五十三次」の大ヒットによって、広重は一躍売れっ子浮世絵師となり、また、風景画が浮世絵の一ジャンルとしての地位を得た。
葛飾北斎や歌川豊国らも五十三次を手掛けるようになった。広重自身も違う版元から30種に上がる東海道物を刊行したといわれている。
最初の五十三次は広重37歳の作になる。その前年頃丹、幕府が宮中に馬を献上する一行に加わり、京都に上がった時途中でスケッチをしたのが元になっているともいう。
歌川広重の続きは次回に
桑名宿から宮宿の七里の渡し間には、現在渡し船がないのでそこを省略。
宮の渡し場の船着き場跡。桑名の船着き場より面影を多く残していた。
250軒近くの旅籠を抱え、人口は1万人以上。東海道五十三次の中でも最大級の賑わいを誇った宮宿は、佐屋街道や美濃街道への分岐点であるとともに、古くから栄えた熱田神宮の門前町でもあった。
宮宿の渡し場の常夜燈。
近くに熱田神宮があったので、「宮宿」の呼称が一部では「熱田宿」の表記もある。
早速、熱田神宮へお参りする。デッカイ敷地(約六万坪・約十九万平方メートル)の神域を有し、入り口を探すのに時間がかかった。
源頼朝の母は、この宮の大宮司の娘で、頼朝は大宮司館で生まれたともいわれており、室町幕府・江戸幕府の将軍など、時代が変わっても武家の手厚い保護を受ける事が多かったらしい。
さて、境内に入ったが、朝早かったので参拝客も少なかった。荘厳な佇まいをみせている。
熱田神宮は、三種の神器の一つ・草薙の剣を祀ると伝えられ、伊勢神宮に継ぐ権威を持つとされる神社である。
かつてヤマトタケルが、東国平定の帰路に尾張国に滞在し、地元の豪族の娘であったミヤスヒメと結婚した後、草薙の剣を妻のもとにおいたまま、伊吹山へと出立した。しかし、そこでの戦いで傷ついたヤマトタケルは尾張へ戻ることなく命を落としたため、ミヤスヒメが社を建て剣を祀ったのがはじまりらしい。
しばらく、東進して、間もなく尾張四観音の一つ「笠覆寺」に到着。
山門を通り、大勢の人が入っていくので私達も入ると、縁日らしく出店がたくさん出ていた。
私達も出店を覗きながら、本堂へ。
桜の花に囲まれた本堂に、今後の旅の安全を祈願する。
鳴海の宿に入るが、宿関係の遺構は殆ど残されていない。県の有形文化財に指定されている曹洞宗の瑞泉寺の山門は、宇治の黄檗宗万福寺の総門を模した中国風の形式だった。
そこから、間もなくで往時の宿場の雰囲気をよく残している街並みに入る。
鳴海宿と池鯉鮒宿の間が長く、淋しい所だったので「間の宿」としたのが「有松宿」である。
その時、南の知多半島からやってきた移住者たちが、収入を得るため生み出した産業が「有松絞り」であった。
また、名古屋城築城のためにやってきていた九州出身の職人が、持っていた絞り染めの手ぬぐいをヒントにして生み出したともされる。
この絞り染めは、浴衣用などとして全国的に人気を得て、現在ではその生産量は、日本で生産される「絞りの」布の9割以上である。
ここは、有松絞りで有名な有松町で、絞り問屋の井桁屋をはじめ、武田・岡・小塚などの風格のある家並みが続いている。
近くの絞りの資料館では、展示や製品の販売 それに実演も見れる。
多種多様な技法と模様が魅力的。
よくある「一里塚」だが、今は殆ど残ってなく、有っても石柱の「一里塚跡」となったり、また、片方だけ残ったりだが、ここの「一里塚」は、道の両側に残っていた。
東進していると、高徳院の名と桶狭間の古戦場跡の印があり、見学する。
今川義元は 1560年5月に織田信長の襲撃を受け、討死した所である。
高徳院にも義元本陣跡などの石碑があった。
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今川義元の墓がある
知立古城跡とあるが、今は何も残っていない。現在は平地の公園になっている。
やっと「知鯉鮒宿」に到着。知立の名の方が先にあったが、知立神社に「殺生禁断の池」とされる池があり、ここに鯉や鮒が多く住んでいたことから「知鯉鮒」の表記が定着した。
家康の側室で、結城秀康の生母であるお万の方ゆかりの総持寺である。
さらに東進すると、並木八丁と呼ばれる松並木に入る。旅人の風除け・日よけのため幕府の命により植えられた。
知立の松並木として、約500mにわたり凡そ170本の松の木が残っている貴重な物です。特に松の木を枯らさず残してくれているのは長年の地道な努力があったと思う。
松並木とともに、旅人に有りがたかったものは一里塚です。
この来迎寺一里塚も道の両側にそろって残っているのが貴重だということで県指定の史跡になっている。
岡崎宿の手前に、矢作川があり当時も橋があった。近世初めは土橋であったが、1634年将軍家光の上洛時に本格的な板橋になったと言われている。長さは374mで、東海道随一の橋と言われた。
現在の矢作橋
そして、八丁味噌で有名な岡崎宿に入る。
2010年11月01日
私の足跡 69 東海道の完歩 4 庄野宿~桑名宿
東海道を歩く 4
4 45庄野→44石薬師→43四日市→42桑名宿
「44」 石薬師宿 「石薬師寺」 宿場町の裏に広がる田んぼでは、収穫を終えた農民が田の整備をしている。
「43」 四日市宿 「三重川」 現在「笹井屋」がある場所の近くにあった三重川(三滝川)にかかる三重橋とされる。
「42」 桑名 「七里渡口」 二隻の船が丁度渡し口に到着したところ。
各回の初めに「東海道中五十三次」の浮世絵をいれてきていますが、「東海道中五十三次」について触れておきます。
「東海道中五十三次」と聞くと、現在の風景より先に、歌川広重による浮世絵を思い浮かべる人も多いだろう。この作品が出版されたのは、1833年(天保4)。その約30年前に十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が刊行されており、全国的の旅ブームの中で大ヒットしたらしい。
広重は江戸の火消の同心・安藤源右衛門の子として生まれる。そのため、「安藤広重」とも言われた。15歳にして浮世絵師・歌川豊広に入門、20代後半にして家業の火消同心を譲り、画業に専念した。
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この続きは、次回に
ここ石薬師寺は、庄野宿とともに遅くに宿場町に指定された。(亀山宿と四日市宿の間が長すぎたから)
この石薬師寺は真言宗の古刹である。(726年)。嵯峨天皇の勅願所で、元は大伽藍であったというが戦国期に兵火に罹り、現在の堂宇は近世のはじめに再建されたものである。
本尊の石造薬師如来は有名で、弘法大師が巨石に爪で薬師如来の姿を彫りこみ、それが今に伝わる秘仏の本尊だと伝わる。厄除けの神として信仰を集め、有名な寺なので地名の由来ともなっている。
宿内には、歌人で国文学者の佐々木信綱の生家があり、その隣には資料館が建てられている。
信綱は短歌雑誌「心の花」を主宰し、和歌革新運動の中心となり、昭和12年に第一回文化勲章を受章した。
宿内の町並みは比較的風情をとどめ、小澤本陣跡などが残されている。
この坂道は、「杖衝坂」と呼ばれる急こう配の坂がある。これは、かつて東国平定ののちに伊吹山に向かったヤマトタケルが、山の神との戦いに敗れて傷つき、大和への帰還を目指してここまでたどり着いたものの、弱り切った身体では剣を杖代わりに衝いて上がるのがやっとだった・・・・・・という故事にちなんだ名称だという。
坂を上り切ったところには、その時ヤマトタケルが流れ出た血を洗い流したと伝わる「血塚社」も。
往時の東海道を偲ぶことのできる松並木の名残りの一本松
ここは東海道と伊勢街道の分岐点で有名な「日永の追分」である。石製の常夜灯、標柱や鳥居が見える。
詳細は下記の「立て札」を見てください。
私の好きな作家の一人 「丹羽文雄」 生誕の地とある。
日本各地の街道には、江戸時代は一里塚が完備されていたが今やほんの一部しか残ってなくて、このように一里塚跡とあるのみだ。
約1300年前、当地に疫病が流行し、人々が苦しんでいた。弘法大師は、東国からの帰りに此の事を知り、薬師如来を彫り、開眼し祈願した。すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。
諸人は弘法大師に感謝をするとともに、お堂を建てて、薬師如来を祀ったのが始まりとある。
壬申の乱のおり、後の天武天皇がここに滞在したことから天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。
桑名はまた、城下町でもあった。本格的な城下町の町割は、1601年に桑名藩主となつた本多忠勝のもとで始まった。本格的な城郭だったが、二度の戦災、伊勢湾台風の被害などにより、今ではおうじの面影は残されていません。
渡し場近くには常夜灯や鳥居がたっている。常夜灯の役目はわかるが、鳥居がたっているのは、まさに「伊勢参り」の出発点ということで、伊勢国に入ったという実感させる。
七里の渡しの跡の説明を読むと良く分かった。本陣2 脇本陣1 旅籠248もあり、当時の人口は1万人越の人が住み、賑わっていたと想像できる。
この桑名宿より、宮宿まで海上渡しで東海道上で唯一の海上路。所要時間は約4時間ほど。
海難事故も多かったので渡しを回避して脇街道を徒歩で往来する人もいたらしい。
それに、「七里の渡し」とは言いながら干潮時には沖合を通らねばならず、航海が10里近くになることもあったという。
賑わった桑名宿だが、悲しい話もある。それは、18世紀半ばの「宝暦治水」に殉じた薩摩藩士たちである。木曽・長良・揖斐の大河の下流に位置するこの地域は、古くから洪水に苦しめられていた。そして、1753年の大洪水後、幕府は薩摩藩に河川改修工事を命ずる。
工事は一年あまりで完了したが、そのあまりに過酷な状況に、病死者や切腹自害者が相次いだ。総奉行・平田ゆきえも、その責任を取って工事終了後に自害している。
平田はじめ薩摩藩士24名の墓は、近くの海蔵寺につくられている。
桑名といえば蛤の焼いた「焼き蛤」が有名で、現在も看板を掲げている店が多い。
それと変わらぬぐらい多いのは佃煮の「時雨蛤」の看板。当時の資料によると「焼き蛤」は その場で楽しんだメニュー。「時雨蛤」のほうは土産物として売られたらしい。