2010年10月

2010年10月21日

私の足跡 68 東海道の完歩 3 関宿~庄野宿


 東海道を歩く 3

 
 往来する人々
   江戸時代の
東海道は、さまざまな職業・身分の人が行き交っていた。
    たとえば、東海道は信仰の道であると言われるほど巡礼者が多くいた。
    東国の人々にとって、東海道は伊勢神宮や四国札所、西国霊場へのいわば参  
   道だったのだ。特に強烈だったのが、伊勢神宮に集団で参拝する「お蔭参り」と 
   いう一年間に数百万人の人々が参拝した現象が60年周期で4度あったので参拝        
   者の数はすこ゛かったらしい。
    
全国行脚する虚無僧の尺八と深網笠はおなじみだが、健常者ばかりでなく、目
   の不自由な按摩や女旅芸人なども多かった。
    
所要日数は普通14~5日だが、早駕籠では5日 大名行列では24~5日かか  
   ったと言われる。
    
   3     47 関宿→ 46 亀山宿→ 45 庄野宿           
        
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       「47」関宿 「本陣早立」  本陣に宿泊した大名行列が、早朝出立する様子が描かれている。手前には 出立する大名の名を描いて青竹に掲げた「関札」、門や玄関には家紋入のまん幕提灯が見える。


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  46」 亀山宿 「雪晴」 一面の雪景色のなかを進む大名行列の行く手に見えるのは、新しい亀山城。丘陵に建つ城を、京口門の側から見上げる構図である。石垣や櫓、番所を備えたこの門は、その豪華で壮麗の姿から「亀山に過ぎたるものなし」と謳われた。現在は その全てが失われ(白壁や櫓や土塀が連なる姿が白い蝶の乱れ飛ぶ姿のようだとして、「粉蝶城」の別名で呼ばれた亀山城。残念ながら、明治の廃城令により、殆どが取り壊された。)、当時の面影を偲ばせてくれるものは何もない。
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     45」 庄野 「白雨」  町外れの街道でしょう。激しく打ちつける雨と風の中、慌てて先を急ぐ人々の光景が描かれています。副題の「白雨」は夕立のこと。風雨に揺れる林の濃淡で表現されたシルエットが印象的で広重の絵の中でも、「名作」の一つらしい。 
         
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 関宿の素晴らしい町並みに別れる。
 
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 亀山への途中、広重の東海道五十三次の絵の一部が描かれていた。 

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 片側しか残っていないが樹齢は300年と言われ、木は幹回り5m、高さ20mの椋の木です。現存する東海道の一里塚の中では、最も見事なものの一つで、国の史跡に指定されている。

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 昔の建物はないが町の努力で屋号をかけて、趣を出している。

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 布気皇館大神社にお参りする。

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 亀山城が見える。黒板張りの多聞櫓と石垣が残っているにすぎない。
 亀山と言えば、ローソクで広告もあちこちに見えた。それに、ビッグなシャープの亀山工場も見えた。 
 

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 境内に見事な木があったので早速撮影した。詳しくは下記を。

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 庄野の町並みはある程度往時の面影を残しており、中ほどに、問屋であった旧小林家の住宅があり、現在は庄野宿資料館となっている。

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庄野宿本陣跡

IMG_4420 庄野宿の街並み

 見事な古い町並みの残る庄野宿。

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 東海道五十三次の中で最も遅く、1624年に宿場町に指定された庄野。それ以前は静かな農村で人口も少なく、周辺の集落を集めて70戸でスタートしたらしい。
 ここはヤマトタケルの伝説が残る。伊吹山で傷つきなんとかここまで来たが、力尽き故郷の大和を見ぬままに息絶えた.近在の人々は墓をつくり悲しんでいたところ、その墓から一羽の白鳥が舞い上がり、大和の方へ飛び去って行ったというのが「古事記」にある。




2010年10月11日

私の足跡 67 東海道の完歩 2 水口宿~関宿


東海道を歩く 2
 
  第2回 50水口宿~49土山~48坂下~47関宿
 
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      「49」 土山宿  「春の雨」  土山宿は 地元に伝わる労働歌の「鈴鹿馬子唄」に「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌われている土地である。「あいの」は「まもなく」という意味(地元の人の話ではいろんな意味があると云う)の方言との説あり、「雨の多い場所」とのイメージが強い。


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        「48」 坂(乃)下  「筆捨山」  ごつごつした奇岩の山は、筆捨山だ。川の対     岸の筆捨茶屋から休憩がてらに眺めている旅人達を描いている。
  筆捨山の名の由来は室町時代の絵師・狩野元信が此の山を描こうとしたが、変化に富んだ景観を描写しきれずに筆を捨てたというエピソードかららしい。
   

 
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 水口宿を出発する前に、今回の街道歩きの安全を祈るため、大きな藤榮神社に寄りお願いする。

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 ここ水口宿には「曳山まつり」というこの地方では有名な祭が保存されている

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 最盛期は三十基あまりの曳山できっと豪華だったでしょう。今でも十六基の曳山が出ているので是非一度は見たいものだ

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 見事なのは曳山ばかりでなく、街道に「からくり時計」もあった。

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 日本各地の町の商店街も同じだが、ここの商店街もひっそりとしていた。

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 道端に司馬遼太郎の「街道をゆく」の一文が石に刻まれていた。

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 町の遺跡は、少なくなっていたが町の人々の努力で昔の屋号(油屋のほかに、加佐屋、ぬし屋、ひょうたん屋等)を入り口にかけてくれていて、旅人を楽しませてくれている。


 土山宿には、土山本陣・大黒屋本陣・土山宿本陣等があったが、今は○○跡の標柱のみが残るのみである。
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  坂上田村麻呂を祀る「田村神社」にも寄り、お祈りする。

東海道  049

  地元に伝わる労働歌の「鈴鹿馬子唄」に坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌われている場所である。「あいの」は「まもなく」という意味の方言との説もあり、「雨の多い場所」とのイメージが強い。「あいの」の意味には幾通りの説あり。

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 ここは昔の宿場町であったということを知ってもらうために何かをと考えて日本一のモニュメントを造った

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 この万人灯は平成3年に造ったので、「平成万人灯」と言い,高さ9.33m 重さ156.8tです。
 夜になると火袋に火が入り、ライトアップされるという。一度見たいものです。
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 これが、「平成万人灯」のモデルになった万人講です。江戸時代中期に旅の往来の安全を祈願し、国道から離れ鈴鹿峠に向かう所にある「万人講常夜灯」です。高さ5m、重さ38tです。



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 鈴鹿峠に向かう途中にはお茶畑が続いていたが、国境の標識がある。ここからは、伊勢の国に入る。

 IMG_4979 鈴鹿峠の説明板

 江戸時代の街道を一部石畳もあり、楽しく峠に向かうと、鈴鹿峠に到着。それほど、厳しい峠(標高289m)とは思わなかったが、当時は盗賊等が出て、旅人にとっては大変だったという。

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 峠から見下ろすと、土山に向かうくねくねと曲がった国道が見える。

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 峠から坂下宿へはアップダウンの激しい道で私達を悩ました

IMG_4943 坂下宿大竹屋本陣跡

 坂下宿は 江戸からの人はこれから厳しい峠を越える宿場なので、本陣3 脇本陣1 旅籠が48軒あったとある。残念だが、今は殆ど現存していない。

 さらに東進すると、関宿に近づく。
 中山道の不破関、北陸道の愛発関と並ぶ「古代三関」の一つ。鈴鹿関に置かれていた関宿。
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 江戸時代に宿場町となってからも、大和街道や伊勢別街道への分岐点となる交通の要所として、多くの人で賑わった。

IMG_4895 関の地蔵院と鈴鹿の山々

IMG_4890 関宿中町あたり

IMG_4896 関宿伊藤本陣跡

 現在の関宿は、東海道で唯一、国が定める「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。町の中心部では、電柱や電線が地中下され、近代的な造りの建物もほとんど見当たらないなど、まさに町全体が博物館。

 格子窓や虫籠窓を備えた軒の低い民家が連なる通りを歩いているとタイムスプリットした気分になる素晴らしい町である。
 
IMG_4899 玉屋内部 店の間

 代表的な旅籠の一つ「玉屋」も往時の姿に復元されている。  

 関宿には 本陣2 脇本陣2 旅籠42軒あり、賑わったとある。


2010年10月01日

私の足跡 66 東海道の完歩 1 草津宿~水口宿

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  東海道を歩く 1

 2007年は皇女「和宮」が降嫁した中山道の69宿に足跡を残してきた。
 2008年は「篤姫」が将軍家に嫁ぐ道の東海道53次宿場を完歩することにした。
 今回も中山道と同様 京都から順に歩いたのでなく、季節に応じて(雪を被った富士と桜の花を見た) 又各地の祭(豊橋での手筒花火大会)や行事に合わせて歩いた。


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 京  三条大橋   500kmの東海道のゴールでもあり、出発点でもある三条大橋。

 橋の上には、 実にさまざまな人達が描かれている。それぞれの理由で都に到着した人と出て行く人。都の出入り口となる大橋は、今も昔も多くの人の出会いと別れを見つめてきたことでしょう。

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 「53」 大津宿  「走井茶屋」


 
第 Ⅰ 回   52草津宿 → 51石部宿 →  50水口宿 

                         
         
「52」 草津宿 「名物立場」 次の大津宿に向かう途中の「矢倉の立場」にある名物「姥が餅」を売る茶屋である。大きな荷物を担いだ人足と早駕籠がすれ違う。
 由来は 佐々木義賢が織田信長に滅ぼされた際、義賢の血を引く子を託された乳母が、郷里の草津に戻り、養育費のために餅をつくって街道筋で売ったのが始まりとされる。
 一説には徳川家康や松尾芭蕉も食したとされ、与謝野蕪村は俳句に詠んで褒め称えたという。
   
                                       
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                       「 51」 石部宿  「目川の里」  この目川の名物は、地元の食材を使った菜飯。そして、豆腐に味噌を塗って焼いた「田楽」。此の絵は 元伊勢屋だといわれる。 
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                 「50」 水口宿  「名物干瓢」   1682年の加藤秋友より特産品として、干瓢を進めた。夕顔を栽培し、それを薄い干瓢にすることに成功し、今も水口の有力な特産物の一つである。
                            
                                                   

 本来なら京都の三条から記すのが当然だが、前回の中山道とは草津宿まで同じ道なので割愛します
。(詳細は 私の足跡 54  中山道をゆく 1) 



 草津宿と言えば、当時の京・大坂と江戸を結ぶ二つの(東海道・中山道)大動脈の追分(草津追分)なので人通りも多く、大変賑わったと記されている。

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京・大坂と江戸を結ぶ二つの(東海道・中山道)大動脈の追分道しるべ等も見事な物が残っている。

 宿場町としての最大のシンボルともいえる本陣が2軒あったが、現存するその一つ1200坪の広大な敷地を誇る田中七左衛門本陣に寄る。 

 宿泊者名簿には、吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮,シーボルト、土方歳三などそうそうたる名前がある。勿論、参勤交代時に各国の大名行列で賑わったとある。

IMG_5909 草津本陣跡
現存している本陣では最大級の建物だそうです1998年より一般公開している。

IMG_5913 表玄関から上段の間まで続く畳廊下
 長い畳み廊下が幾つもの部屋を通り越し、上段の間まで続いている。
IMG_5927 天井川トンネル
 草津宿に別れを告げ、東進すると草津川が天井川となり、道路の上を流れている。

 
街道筋は、所々に当時の面影を残すものがある。

IMG_5946 菜飯と田楽は東海道中の名物
 田楽の発祥の地は ここ栗東市ですとある。

IMG_5943 古じま屋(寺田家)
 当時旅人は 名物の田楽と菜飯を食べるのを楽しみに旅をしたのでしょう。
 上の写真のような名物食堂が3軒あったというが今は碑があるのみである。

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 今は当時の面影はないが、広重の絵の舞台である。

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 善性寺の門前に こんな説明板もあった

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 応仁の乱後、衰えた幕府の力を強めるため、当時の将軍・足利義尚は2年間当地で頑張るも、病のため当地で無念の死を遂げたとある。後に、この地にたくさんの句碑が建てられている。

  更に進むと、徳川家康が名付け親となったと伝わる道中薬・「和中散」を製造・販売していた「和中散本舗」ある。

IMG_6031 旧和中散本舗
 現在の建物は1624~43年に建てられたものである。 

IMG_6037 旧和中散本舗
 重厚な建物であることが良く分かる。お陰で筑後400年近く経過してもびくともしていない。
 店舗の他、大名や公家の休憩用本陣として使われた座敷などがそのまま残されている。 

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 「京立ち石部泊り」の言葉があるように、京から東海道を下る旅人の多くが最初の宿をとった石部宿。
 ここも、伊勢神宮参詣の道への分岐点だったから尚一層賑わったところだが、現在はその面影が殆どない。


IMG_6106 水口宿三里半 草津宿三里
 でも、町の人々が創意工夫をしてくれて私達を楽しませてくれているのがうれしい。




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  通りには 昔からの造り酒屋「御代榮」が営業していた。

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 小さな公園の中に碑があるので近づき下の写真の記事を見てみると百姓一揆があり、沢山の犠牲者が出たと書いてある。
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  日本各地に弘法大師にまつわる話が何百とあるが、ここにも大師が地元の人にもらった箸を土にさしておいたのが、杉の大木になった・・・・・・・・と書いてある。

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  現在は大きな川には今ではりっぱな橋が架っているが、江戸時代には幕府の都合で渡し船が長い間活躍していた。その時の旅人の便利を考え大きな常夜灯を造った。それが今も残っている。私も川の常夜灯がこんなに大きく立派なのでビックリした。 

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 水口には、小さいが城郭がある。これは徳川家光が京都に用がある時に宿泊するために造ったが一度も使用しなかったらしい。